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3章 ドS男と相棒業

32話 金髪の客人

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 グレンの寝室を借りて着替えを済ませたアンは、リナの滞在する2階南側の部屋へと向かった。

 グレンが間違えて購入したという衣類は、レモン色の半袖シャツに紺色のスカート、それに上下そろいの蜜柑色の下着だった。
 それらは全てクロエが着用する物としては明らかに小さく、そして不自然にもアンの身体にぴったりと合っていた。
 
 背筋にむず痒さを覚えながらも、アンはこの件に関して余計な詮索はしないと決めた。どうせ何を聞いたところで、正直に答えてもらえるはずもないのだから。

 アンが目的の部屋の立ち入ると、そこにはロッキングチェアに揺られるアーサーの姿があった。枯れ木のように細い手足を投げ出して、こくりこくりと船を漕ぐ。絹糸のような金色の髪が、午後の日射しを浴びてきらきらと輝いている。

「あら、アン様ではありませんか」

 部屋の奥からリナが現れた。手に掃除用のバケツを下げているところを見るに、拭き掃除の真っ最中だったのだろう。
 アンは控えめに挨拶をした。

「リナ、こんにちは。お仕事中にごめんね。グレンに用事があって来たんだけど、来客の予定があると言われちゃってさ。しばらく一緒にいてもいいかな?」
「構いませんよ。ちょうど掃除も終わったところですし――……あら、アン様。それはグレンのスリッパですか?」

 リナはアンの足元へ視線を落とした。
 今、アンが履いているのはグレンから借りた布地のスリッパだ。普段はグレンが寝室で使用している物だというそのスリッパは、アンが履けば見るからに不格好だ。

「そうそう、グレンのを借りたんだ。あたしの靴……えーと、さっきヒールが折れちゃってさ」

 まさか真実を伝えることなどできるはずもなく、アンは適当にお茶を濁した。しかしリナはアンの言葉を疑った様子はなく、少し声を高くして言った。
 
「あら、それは大変。よろしければ私の靴をお貸ししましょうか? 仕事用の平靴が何足かありますから。少し大きいとは思いますけれど、グレンの物よりはマシでしょう」
「え、本当? それは助かるな。実はここに来るまでの間に、廊下で蹴つまづいちゃってさ。あわや床に顔面を打ち付けるところだよ」

 アンの苦労話を聞いて、リナは亜麻色の髪を揺らして笑った。

「すぐに持ってきますね。椅子にかけて待っていてください」
「あたし、ここにいても大丈夫? アーサー王子と2人きりになっちゃうけど」
「構いませんよ。アン様がグレンの協力者であるという話は聞いていますから」

 リナはにこりと微笑んで、バケツを片手に部屋を出ていった。
 
 部屋に残されたアンは、椅子に腰かけることはせず、腰をかがめてアーサーの寝顔をのぞきこんだ。

 思わずうっとりと見惚れてしまうほど整った顔立ちだ。くせのない金色の髪は陽光を浴びてきらきらと輝き、肌は白く澄んでいる。ロッキングチェアから投げ出された手足は長く、かなりの長身であることがうかがえる。
 もしも普通の生活を送れていれば、グレンに負けるとも劣らない立派な身体つきとなっていたことだろう。

 アンは小さな声でその名前を呼んだ。

「……アーサー」

 穏やかな寝顔は揺らがない。肉付きの薄い胸元が、規則正しく上下するだけ。

「あたし、あなたとおしゃべりしてみたかったな」

 それはアンの本心だった。
 もしも10年前に、何者かがアーサーとヘレナを誘拐しなければ、アーサーは心を失うことなく今を生きていた。王位継承候補者の1人として宮殿に住まい、兄弟たちとしのぎを削っていたはずだ。王命の元で、非の打ち所のない妃を迎えていたのかもしれない。
 
 レオナルドも騎士団を除隊になることはなかった。リナやバーバラやジェフにも別の人生があった。
 グレンは――一体どうしていたのだろう。

 もしもアーサーが心を失わなければ、アンはアーサーと出会わなかった。グレンともレオナルドも出会うことはなかっただろう。そう考えれば少し寂しい。
 けれど10年前のアーサーにとって、この未来は正しくなんかなかったと強く思う。彼にはもっとずっと輝かしい未来が待っていたはずなのに。

 アンの視界の端で、部屋の扉が動いた。
 
 リナが戻ってきたのだろうかと思えば違う。扉を押し開け部屋に入ってきた者は、20代なかば頃と見える青年だった。
 美しい金髪を後頭部で1つにくくり、ティルミナ王国の国紋が刻まれたローブを身に着けている。細身で背は高い。整った顔立ちをしているが、どこか冷淡な印象を抱かせる青年だ。

 ――あなたは一体誰?
 そう問いかけるよりも早く、青年のするどい眼差しがアンを射貫いた。

「初めて見る顔だ。新しく使用人を雇ったのか?」

 青年の声は、低い鐘の音のように耳に残った。アンはとっさにアーサーのそばを離れ、その金髪の青年に向けてこうべを垂れた。
 金の髪は王族の証。今アンの目の前にいる人物は、ティルミナ王国の王族の一員だということだ。

 思いもよらない人物の登場に、だらだらと冷や汗を流し始めたアンの視界に、次々と人が映り込んだ。青年の護衛と思われる人物が2人、グレン、そしてレオナルドだ。
 
 アンの姿を目視したグレンが、一瞬戸惑ったような表情を浮かべ、それから緊張した声で説明した。

「彼女は……あー……臨時の使用人です。ご存じのことと思いますが、フィルマン殿下がアーサー王子の結婚を望んでおられます。結婚候補者のご令嬢方が頻繁に挨拶に訪れますから、一時的に使用人を増やして対応にあたっています」

 どうやらグレンは『アンが邸宅の使用人である』と嘘をついてこの場を逃れるつもりらしい。面倒な説明は省くに限る、というグレンらしい判断だ。
 
 青年はアンの顔をじろじろと眺めながら、嫌見たらしく鼻を鳴らした。

「使用人を増やして、か。言葉も話さぬ身体で大層なご身分だな。おいそこの使用人。アーサーの体調に変化はないのか?」

 突然の質問に、アンは心の中で「うぎゃあ」と悲鳴をあげた。
 
 ――あたしは使用人じゃないよ、ただの通りすがりの者だよ
 そのような事を言えるはずもなく、アンは怖々と返事をした。

「……はい。これといった変化はありません」
「簡単な会話すらも困難か?」
「はい……名前を呼べば反応を示すことはありますが、それだけです」

 お願いだからこれ以上の質問は止めておくれ、とアンは懇願した。アンはアーサーの病状や生活に関し、今話した以上の知識は持ち合わせていないのだ。例えば「アーサーの朝ごはんは何時だ」などと質問されたら、答えることはできないのである。

 アンの願いは、無事青年へと通じたようだ。
 青年はアンからふいと視線を逸らし、ロッキングチェアへと歩み寄ると、アーサーの耳元でささやいた。

「おい。アーサー・グランド」

 部屋の中には無限と思われる沈黙が落ちた。誰もが耳をそばだてアーサーの返事を待つが、いつまで経ってもその唇が開かれることはない。
 寝ているのだから当然と言えようか、心を失っているのだから当然と言えようか。
 
 青年はまたふんと鼻を鳴らし、アーサーのそばから離れた。

「鬼才と呼ばれた男が、こうとなっては哀れなものだ。何度もこの邸宅を訪れているというのに、まともに起きている姿を見たことがない。おい使用人……グレンと言ったか。結婚候補者の素性調査は順調か?」

 青年に名を呼ばれ、グレンは色付きサングラスを引き上げた。そのサングラスは、裏繁華街を訪れたときに着用していた物と同じ物だ。

「おおむね順調です。半数ほどの者についてはすでに調査報告書を上げておりますから、フィルマン殿下もお目通しのことと存じます。残り半数についても、2か月以内には調査報告書を提出できるかと」
「現段階で、最有力候補は誰と見る」
「……当件に関する最終的な決定権は、フィルマン殿下にございます。私のような一調査人の見解を鵜呑みにされては――」

 淡々となされるグレンの報告を、青年の低い声がさえぎった。

「一調査人の見解を鵜呑みにするつもりはない。ただの雑談だ」

 グレンは色付きサングラスの内側から青年を見据え、また淡々と報告を再開した。

「ミルヴァ・コリンズ、シャルロット・ハート、ドリー・メイソン。以上3名の令嬢は、現在までのところ目立った問題点は見つかっておりません。『最有力候補は誰か』と問われますと……私には判断致しかねます」

 青年は少し考え込んだ後、興味なさげにきびすを返した。

「誰と結婚したところで私の支持率に影響は及ばんな。引き続き調査に励んでくれ」

 間もなく青年はローブのすそをひるがえし、部屋から出て行った。2人の護衛、レオナルド、グレンがそれに続く。
 
 扉が閉まる寸前、グレンの口元がぱくぱくと動いた。「また後でな」
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