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3章 ドS男と相棒業
24話 お仕事開始!
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「お嬢さん。さっきからうろうろと、誰かをお探しですか?」
背後から聞こえた耳に心地よいアルトボイス。振り返って見れば、人混みを背に長身の男性が立っていた。歳はアンよりも少し上、20代後半というところだろうか。くせのない赤茶色の髪が、襟足付近で1つに結わえられている。
探るような眼差しを向けられて、アンはもごもごと口ごもった。
「えっと……特別誰かを探しているというわけでは……」
「では落とし物ですか? それなら会場スタッフに声をかけてみるといいですよ。遺失物は、会場のどこかで一括管理されているはずですから」
赤茶髪の男性は、アンが探し物をしていると勘違いしているようだ。それも仕方のないことだ。なぜなら先ほどまでのアンは、ダンスをするでもなく、酒を楽しむでもなく、ただ黙々と会場内を練り歩くだけの変人だったから。見知らぬ男性から「そこのお前、何うろうろしてんだよ」と声をかけられても文句は言えないのである。
さぁどうしようか、とアンは迷った。まさか馬鹿正直に「はい! あたしはこの地下クラブが怪しい場所ではないかどうかを調査していました!」などとは言えるはずもない。
脳味噌をフル回転させて、どうにかこうにかそれらしい理由をひねり出した。
「ええっとぉ……強いて言うなら椅子を探していたかな。足が疲れたから、のんびり座って休めそうな椅子を……」
「椅子、ですか。それなら休憩所のソファを使用すればいいでしょう。この時間ならまだ空いていますよ」
「え、会場に休憩所があるの?」
アンが声を大きくして問い返せば、赤茶髪の男性は驚いたように目を丸くした。
「お嬢さん。ひょっとして地下クラブを訪れるのは今日が初めてですか?」
「そうだよ、初めて。それもさっき来たばかり」
「ああ、そうでしたか。お連れ様はどちらに?」
アンはきょろきょろと辺りを見回した。
「どこ……かなぁ。用事が済んだら合流する予定なんだ」
「ではなおさら休憩所に滞在されては? この会場で用を足すとなれば、まず間違いなく立ち寄る場所ですから」
「はぁ……?」
男性の物言いに、アンは少しだけ違和感を覚えた。
しかしアンがその違和感を口にするよりも早く、男性はアンにくるりと背を向けた。アンとの会話は終わりにして、ダンスの輪へと戻るつもりなのだ。
遠ざかっていく男性の背中を見つめていたアンは、ふいに既視感を覚えた。1つにくくられた赤茶色の髪に、ひょろりと縦長の背中。それと似た後ろ姿をどこかで見た気がするのだ。
間もなくアンは気が付いた。彼は、本日のターゲットであるイェレナ・ハンスと行動をともにしていたのだ。男性とイェレナが肩を並べて地下クラブの扉をくぐるところを、アンは酒場の中から眺めていた。
「ちょ、ちょっと待ったぁぁ!」
アンが大声で叫ぶと、男性は驚いた顔で振り返った。
「どうされました、お嬢さん。まだ私に何か用事が?」
「用事というか……ええと。お兄さん、30分くらい前にこの会場へやって来たでしょ。藍色の髪の、綺麗な女の人と一緒にさ」
「そうですが……なぜそれを?」
男性は、今度はアンのことを疑うような顔つきとなった。
好意的とはいえない視線を向けられながらも、アンとて簡単に引き下がるわけにはいかなかった。赤茶髪が男性はイェレナの知り合いであるとなれば、素性調査を進めるにあたりこの出会いを逃す手はない。
アンは必死に会話を続けようとした。
「あたしたち、ここの入り口のすぐそばにある酒場にいたんだよ。そうしたらお兄さんが女の人と一緒に扉に入っていくのが見えてさ。あの扉は何なんだろうねって話になって、興味本位で入ってみたの」
「はぁ……そうでしたか」
男性はそれきり黙りこんでしまった。アンもそれ以上会話を続けることができず、2人に間には居心地の悪い沈黙が落ちた。
沈黙の時間が長引くにつれ、アンは背中にはだらだらと冷や汗を流れ始めた。今のアンは特別な理由もなく男性を呼び止めた変質者。いや、ナンパ者とでも言うべきか。
そのときアンは気付いた。
そう、これはナンパなのだ。今、アンがすべきことは、男性の機嫌をとりながら会話の場を作り出すこと。それはアンの分身――アンドレの十八番である。
――ええい、もうどうにでもなれ
アンは半ば投げやりで、顔面にかわいらしい笑顔を貼りつけた。
「あのね、あたし1人ぼっちで寂しかったんだ。こうして話しかけてもらったのも何かの縁だし、あたしと少しお話ししない? お兄さんが教えてくれた休憩所でさ」
蜜柑色の目をまたたかせながら、アンはにっこにっこと必死で笑った。
普段、身なりにはあまり気をつかわないアンであるが、幸いにも今日はそれなりに着飾っている。バーバラの指導のもとで化粧をし、ワンピースはアンの体格に合う物を見立ててもらった。
美女クロエほどの魅力はなくとも、「声をかけられたら悪い気はしない」程度の容姿には仕上がっているはずなのだ。
赤茶髪の男性は、しばらくアンに疑いの眼差しを向けていたが、ある瞬間にふっと表情を緩ませた。
「女性からここまで熱烈な誘いを受けては断れませんね。いいでしょう、お付き合いいたしますよ」
***
赤茶髪の男性はブルーノと名乗った。王都の一角で服飾店を営んでおり、週に数回は繁華街を訪れるのだという。趣味は読書、妻子はなし。
アンがそこまでの情報を得たところで、2人は地下クラブ内の休憩所へとたどり着いた。
地下クラブの休憩所は、アンが想像していた場所とは少し違っていた。壁のない空間にはたくさんのソファが並べられていて、それぞれのソファの間には間仕切り代わりの衝立が置かれている。ソファが置かれただけの簡易的な半個室、とでも言えばいいのだろうか。
ブルーノが語り場として選んだのは、その半個室のうちの1つだった。衝立で囲まれた空間には、薄水色のソファがぽつりと置かれている。飲物を置くためのテーブルや、心を和ませる植物の類は置かれていない。
ブルーノはソファの片端に腰を下ろし、アンに質問を向けた。
「お連れの男性には、断りを入れずとも問題ありませんか?」
アンはソファで尻を弾ませながら答えた。
「問題ないよ。あっちはあっちで好きにやってるだろうしさ」
「そうですか、それなら安心です」
「ブルーノの方は大丈夫なの? 一緒に来た女の人、怒らない?」
探るような質問に、ブルーノは軽い笑い声を返した。
「彼女とは単なる知り合いに過ぎません。私があなたにナンパされたのだと知っても、怒りはしませんよ」
「あ、そうなの。付き合っているわけじゃないんだ」
「男女の付き合いはありませんよ。彼女とは同じ酒場の常連仲間です。もう2か月ほど前になりますが、酒場の店主がたまたま地下クラブのことを話題に出しておりましてね。その話に興味を持ったレナに、たまたまそばにいた私が付き添ったのが始まりです。――おっと、失礼。レナとは私の連れの名前ですよ」
レナ――イェレナ。どうやらブルーノの相方である藍髪の女性は、イェレナ・ハンスで間違いはなさそうだ。
アンは内心ほくそ笑みながら、表面上は純朴な笑みを作った。
「レナって変わった名前だねぇ。ひょっとして外国から来た人?」
「いえ、そのような事はないと思いますよ。名前が風変わりなのは本名ではないからでしょう。確か初めて会ったときには、違う名を名乗っていたはずです」
「そっかぁ。ということは、ひょっとしてレナは貴族のお嬢様なのかな? あたしの働く酒場にも、時々貴族のお嬢様やお坊ちゃまがやってくるよ。堂々と本名を名乗る人がほとんどなんだけど、たまに名前を教えてくれない人がいるんだよね。名前を言えば家柄が割れてしまうような高貴な貴族の人なんだろうな、って勝手に納得しているけどさ」
「確かにレナは高貴な家柄の出自ですね。繁華街を訪れるのも、窮屈な生活から逃れるためだと話していました」
日々厳しい規律に縛られる貴族の子息子女は、解放を求めて繁華街を訪れる。酔いを回すためだけの安酒を呑み、そこで行き逢った人々と他愛のない話をして、そして日常へと帰っていく。
彼らにとって繁華街を訪れることは一種の通過儀礼なのだ。
ブルーノの話を聞く限りでは、イェレナが地下クラブを訪れているのも、その通過儀礼の域を出ないのだろうと推測された。
ぷらぷらと足を揺らしながら、アンは質問を続けた。
「窮屈な生活から逃れるために、繁華街を訪れる貴族は多いみたいだよね。でもあたし、裏繁華街に立ち入る人は初めて見たな。結構勇気がいるよね。怖くはないの?」
「怖くないと言えば噓になります。しかしレナがすっかりここの虜でしてね。『入場料は私が出すから』と言いくるめられて、結局はお供してしまうのです。ほら、地下クラブに入るためには異性の相方が必要ですから」
どこか引っかかる物言いだ。アンは眉根をよせて聞き返した。
「ブルーノ。レナが何の虜になっているって――」
「あなたは先ほどからレナの話ばかりですね。私の相方に特別な興味がおありですか?」
強い口調で問いただされて、アンは口をつぐんだ。
「……そんなんじゃないよ。ただブルーノと話がしたかっただけだよ。話に付き合ってくれるのなら、どんな話題でもいいよ」
アンはブルーノの肩に身を寄せて、にっこりと微笑んでみせた。こうしてさりげなく他人のプライベートゾーンに入り込むこともまた、アンの分身であるアンドレの十八番なのだ。
そのとき、くすくすと楽しげな笑い声がアンの耳に届いた。声のする方を見てみれば、1組の男女が休憩所へとやって来たところだ。
男性の右手は女性の腰回りを抱いていて、女性は男性の肩に頭をのせている。見ている方が恥ずかしくなるくらい甘い雰囲気だ。
思わず顔に熱がのぼるアンの耳に、今度はブルーノの声が流れこんできた。
「ではお嬢さん、そろそろ会話以外のことにもお付き合いいただけますか?」
アンの頬に人のぬくもりが触れた。
背後から聞こえた耳に心地よいアルトボイス。振り返って見れば、人混みを背に長身の男性が立っていた。歳はアンよりも少し上、20代後半というところだろうか。くせのない赤茶色の髪が、襟足付近で1つに結わえられている。
探るような眼差しを向けられて、アンはもごもごと口ごもった。
「えっと……特別誰かを探しているというわけでは……」
「では落とし物ですか? それなら会場スタッフに声をかけてみるといいですよ。遺失物は、会場のどこかで一括管理されているはずですから」
赤茶髪の男性は、アンが探し物をしていると勘違いしているようだ。それも仕方のないことだ。なぜなら先ほどまでのアンは、ダンスをするでもなく、酒を楽しむでもなく、ただ黙々と会場内を練り歩くだけの変人だったから。見知らぬ男性から「そこのお前、何うろうろしてんだよ」と声をかけられても文句は言えないのである。
さぁどうしようか、とアンは迷った。まさか馬鹿正直に「はい! あたしはこの地下クラブが怪しい場所ではないかどうかを調査していました!」などとは言えるはずもない。
脳味噌をフル回転させて、どうにかこうにかそれらしい理由をひねり出した。
「ええっとぉ……強いて言うなら椅子を探していたかな。足が疲れたから、のんびり座って休めそうな椅子を……」
「椅子、ですか。それなら休憩所のソファを使用すればいいでしょう。この時間ならまだ空いていますよ」
「え、会場に休憩所があるの?」
アンが声を大きくして問い返せば、赤茶髪の男性は驚いたように目を丸くした。
「お嬢さん。ひょっとして地下クラブを訪れるのは今日が初めてですか?」
「そうだよ、初めて。それもさっき来たばかり」
「ああ、そうでしたか。お連れ様はどちらに?」
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「どこ……かなぁ。用事が済んだら合流する予定なんだ」
「ではなおさら休憩所に滞在されては? この会場で用を足すとなれば、まず間違いなく立ち寄る場所ですから」
「はぁ……?」
男性の物言いに、アンは少しだけ違和感を覚えた。
しかしアンがその違和感を口にするよりも早く、男性はアンにくるりと背を向けた。アンとの会話は終わりにして、ダンスの輪へと戻るつもりなのだ。
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間もなくアンは気が付いた。彼は、本日のターゲットであるイェレナ・ハンスと行動をともにしていたのだ。男性とイェレナが肩を並べて地下クラブの扉をくぐるところを、アンは酒場の中から眺めていた。
「ちょ、ちょっと待ったぁぁ!」
アンが大声で叫ぶと、男性は驚いた顔で振り返った。
「どうされました、お嬢さん。まだ私に何か用事が?」
「用事というか……ええと。お兄さん、30分くらい前にこの会場へやって来たでしょ。藍色の髪の、綺麗な女の人と一緒にさ」
「そうですが……なぜそれを?」
男性は、今度はアンのことを疑うような顔つきとなった。
好意的とはいえない視線を向けられながらも、アンとて簡単に引き下がるわけにはいかなかった。赤茶髪が男性はイェレナの知り合いであるとなれば、素性調査を進めるにあたりこの出会いを逃す手はない。
アンは必死に会話を続けようとした。
「あたしたち、ここの入り口のすぐそばにある酒場にいたんだよ。そうしたらお兄さんが女の人と一緒に扉に入っていくのが見えてさ。あの扉は何なんだろうねって話になって、興味本位で入ってみたの」
「はぁ……そうでしたか」
男性はそれきり黙りこんでしまった。アンもそれ以上会話を続けることができず、2人に間には居心地の悪い沈黙が落ちた。
沈黙の時間が長引くにつれ、アンは背中にはだらだらと冷や汗を流れ始めた。今のアンは特別な理由もなく男性を呼び止めた変質者。いや、ナンパ者とでも言うべきか。
そのときアンは気付いた。
そう、これはナンパなのだ。今、アンがすべきことは、男性の機嫌をとりながら会話の場を作り出すこと。それはアンの分身――アンドレの十八番である。
――ええい、もうどうにでもなれ
アンは半ば投げやりで、顔面にかわいらしい笑顔を貼りつけた。
「あのね、あたし1人ぼっちで寂しかったんだ。こうして話しかけてもらったのも何かの縁だし、あたしと少しお話ししない? お兄さんが教えてくれた休憩所でさ」
蜜柑色の目をまたたかせながら、アンはにっこにっこと必死で笑った。
普段、身なりにはあまり気をつかわないアンであるが、幸いにも今日はそれなりに着飾っている。バーバラの指導のもとで化粧をし、ワンピースはアンの体格に合う物を見立ててもらった。
美女クロエほどの魅力はなくとも、「声をかけられたら悪い気はしない」程度の容姿には仕上がっているはずなのだ。
赤茶髪の男性は、しばらくアンに疑いの眼差しを向けていたが、ある瞬間にふっと表情を緩ませた。
「女性からここまで熱烈な誘いを受けては断れませんね。いいでしょう、お付き合いいたしますよ」
***
赤茶髪の男性はブルーノと名乗った。王都の一角で服飾店を営んでおり、週に数回は繁華街を訪れるのだという。趣味は読書、妻子はなし。
アンがそこまでの情報を得たところで、2人は地下クラブ内の休憩所へとたどり着いた。
地下クラブの休憩所は、アンが想像していた場所とは少し違っていた。壁のない空間にはたくさんのソファが並べられていて、それぞれのソファの間には間仕切り代わりの衝立が置かれている。ソファが置かれただけの簡易的な半個室、とでも言えばいいのだろうか。
ブルーノが語り場として選んだのは、その半個室のうちの1つだった。衝立で囲まれた空間には、薄水色のソファがぽつりと置かれている。飲物を置くためのテーブルや、心を和ませる植物の類は置かれていない。
ブルーノはソファの片端に腰を下ろし、アンに質問を向けた。
「お連れの男性には、断りを入れずとも問題ありませんか?」
アンはソファで尻を弾ませながら答えた。
「問題ないよ。あっちはあっちで好きにやってるだろうしさ」
「そうですか、それなら安心です」
「ブルーノの方は大丈夫なの? 一緒に来た女の人、怒らない?」
探るような質問に、ブルーノは軽い笑い声を返した。
「彼女とは単なる知り合いに過ぎません。私があなたにナンパされたのだと知っても、怒りはしませんよ」
「あ、そうなの。付き合っているわけじゃないんだ」
「男女の付き合いはありませんよ。彼女とは同じ酒場の常連仲間です。もう2か月ほど前になりますが、酒場の店主がたまたま地下クラブのことを話題に出しておりましてね。その話に興味を持ったレナに、たまたまそばにいた私が付き添ったのが始まりです。――おっと、失礼。レナとは私の連れの名前ですよ」
レナ――イェレナ。どうやらブルーノの相方である藍髪の女性は、イェレナ・ハンスで間違いはなさそうだ。
アンは内心ほくそ笑みながら、表面上は純朴な笑みを作った。
「レナって変わった名前だねぇ。ひょっとして外国から来た人?」
「いえ、そのような事はないと思いますよ。名前が風変わりなのは本名ではないからでしょう。確か初めて会ったときには、違う名を名乗っていたはずです」
「そっかぁ。ということは、ひょっとしてレナは貴族のお嬢様なのかな? あたしの働く酒場にも、時々貴族のお嬢様やお坊ちゃまがやってくるよ。堂々と本名を名乗る人がほとんどなんだけど、たまに名前を教えてくれない人がいるんだよね。名前を言えば家柄が割れてしまうような高貴な貴族の人なんだろうな、って勝手に納得しているけどさ」
「確かにレナは高貴な家柄の出自ですね。繁華街を訪れるのも、窮屈な生活から逃れるためだと話していました」
日々厳しい規律に縛られる貴族の子息子女は、解放を求めて繁華街を訪れる。酔いを回すためだけの安酒を呑み、そこで行き逢った人々と他愛のない話をして、そして日常へと帰っていく。
彼らにとって繁華街を訪れることは一種の通過儀礼なのだ。
ブルーノの話を聞く限りでは、イェレナが地下クラブを訪れているのも、その通過儀礼の域を出ないのだろうと推測された。
ぷらぷらと足を揺らしながら、アンは質問を続けた。
「窮屈な生活から逃れるために、繁華街を訪れる貴族は多いみたいだよね。でもあたし、裏繁華街に立ち入る人は初めて見たな。結構勇気がいるよね。怖くはないの?」
「怖くないと言えば噓になります。しかしレナがすっかりここの虜でしてね。『入場料は私が出すから』と言いくるめられて、結局はお供してしまうのです。ほら、地下クラブに入るためには異性の相方が必要ですから」
どこか引っかかる物言いだ。アンは眉根をよせて聞き返した。
「ブルーノ。レナが何の虜になっているって――」
「あなたは先ほどからレナの話ばかりですね。私の相方に特別な興味がおありですか?」
強い口調で問いただされて、アンは口をつぐんだ。
「……そんなんじゃないよ。ただブルーノと話がしたかっただけだよ。話に付き合ってくれるのなら、どんな話題でもいいよ」
アンはブルーノの肩に身を寄せて、にっこりと微笑んでみせた。こうしてさりげなく他人のプライベートゾーンに入り込むこともまた、アンの分身であるアンドレの十八番なのだ。
そのとき、くすくすと楽しげな笑い声がアンの耳に届いた。声のする方を見てみれば、1組の男女が休憩所へとやって来たところだ。
男性の右手は女性の腰回りを抱いていて、女性は男性の肩に頭をのせている。見ている方が恥ずかしくなるくらい甘い雰囲気だ。
思わず顔に熱がのぼるアンの耳に、今度はブルーノの声が流れこんできた。
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