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序章 家出令嬢は清くたくましく生存中

7話 魔法が解けて

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 ――アン・ドレスフィード

 クロエがその名前を呼んだ瞬間、アンドレの身体は飴細工のように溶け始めた。精悍な輪郭も、ごつごつと骨ばった手足も、たくましい二の腕も、アンドレの全身はものの数秒の間に溶け消えてしまう。
 
 切り札の変貌魔法をすっかり解かれたアンは、震える両手で顔をおおい隠した。『繁華街の貴公子』とは似ても似つかない、本当の自分を見られることが嫌だったからだ。
 それでもクロエに押し倒された体勢のままでは、刺さるような視線から逃げることはできず、震える声で質問した。

「どうしてわかったの……あたしがドレスフィード家の人間だって……」

 クロエはアンから視線を外すことなく答えた。
 
「あなたが住む家の近くで、アリス・モーガンの目撃情報があったのよ。モーガン家は王国で5本の指に入る大貴族の家。侯爵の顔も、夫人であるアリスの顔も、それなりに広く知られているわ。そんな有名人が顔も隠さず下町を歩いていたとすれば、噂になるに決まっているじゃない」

 ――繁華街の東端にある『デイジー』という名前の酒場。僕んちの傍なんだ
 それは1週間前、イザベラに関する情報を提供するときに、何となしに伝えた言葉だ。
 
 確かにその情報を元にすれば、アンドレの自宅の大体の位置は特定することができるだろう。アリスは数か月に1度アンの自宅に出入りしているのだから、地道に聞き込みを行えば目撃情報にも行き合うはずだ。
 
 しかしそうだとしても、クロエの推理には疑問が残る。

「それだけのことで、なぜアンドレとあたしを結びつけたの? なぜアンドレが架空の存在であると気が付いたの? あたしが変貌魔法を使えるということは誰も知らないはずなのに」

 アンの質問に、クロエはふっと視線を落とした。

「初めはただ、アンドレ様ともう1度話がしたかっただけなの。素性調査への協力を依頼するためにね。だけど毎晩のように酒場に通ってもアンドレ様には出会えない。だから自宅を探そうと思ったのよ。あんなに綺麗な蜜柑色の髪は中々見かけないから、少し聞き込みを行えばすぐにわかると思ってね」
「そう……」
「残念なことに、アンドレ様の自宅の正確な位置を特定することはできなかった。でも有益な情報は得たわ。不思議なことに、あの住宅街には3人もの蜜柑色の髪の人物が出入りしているというのよ。1人はアンドレ様、1人はアリス・モーガン、そしてもう1人は素性のわからない小柄な少女。滅多に見かけない蜜柑色の髪の人物が、3人も同じ住宅街に出入りしているだなんて、偶然というには奇妙よね」

 アンは唇を噛んだ。
 
 アンドレの姿でいるとき、アンは自宅の出入りには気をつかっていた。熱狂的なファンに自宅を特定されると面倒なことになるからだ。
 しかし気をつかっていたといっても、せいぜい『扉の開閉時、周囲に人影がないか確認していた』程度のもので、自宅を離れたあとは周囲を気にすることもなく住宅街を歩いていた。
 
 そしてただの来訪者であるアリスが、必要以上に周囲の視線を気にかけていたとは思えない。クロエの得た目撃情報は集まるべくして集まったということだ。

 しかし、やはりクロエの推理には疑問が残る。なぜ数ある選択肢の中から『アンドレとアンが同一人物である』というたった1つの正解にたどり着いたのかということだ。
 
 変貌魔法は数ある魔法の中できわめて希少な物。まさかアンがその希少な変貌魔法の使い手であるなどと、一体誰が想像するというのだろう。

 変貌魔法の使い手以外、一体誰が。

「――あれ?」

 ある可能性が頭をよぎり、アンはクロエの顔をあおぎ見た。
 
 まっすぐに伸びた黒髪に、形のいい目眉。通った鼻筋とさくらんぼのような唇。クロエの顔立ちはまるで精巧に作られた人形のようだ。そしてほくろ1つない柔肌にメリハリのある肢体。まるで男性の理想を忠実に体現したような姿ではないか。

 女性の理想を体現したアンドレとは似て対となる存在、クロエ。

 アンは震える唇を開いた。

「クロエ。まさかあなたも変貌魔法が使えるの?」

 それがアンの出した答えだ。
 クロエがアンと同じ変貌魔法の使い手だとすれば全ての説明がつく。クロエの姿が憎らしいほど理想的である理由も、数ある選択肢の中から変貌魔法を選び抜いた理由も、そして変貌魔法の解除方法を知っていた理由も。

 クロエは驚いたように目を見開いたが、その表情はすぐに満面の笑みへと変わった。

「ご名答。よく気が付いたな」

 紅い唇が言葉を紡いだ、次の瞬間。

 クロエの全身がばらばらと崩れ落ちた。まるで浜辺に作った砂の城が崩れ行くようだ。クロエを形作っていた小さなたくさんの小さな粒は、生き物のようにさらさらと宙を舞って、そしてまた徐々に人の形となる。
 
 飴細工のような自身の変身を見慣れているアンにとって、それはとても不可思議な光景であり、まばたきすら忘れてクロエの姿かたちが変わる様子を眺めていた。

 宙を舞う砂粒の最後の1粒があるべき場所に収まったとき、そこにはもうクロエの姿はなかった。
 クロエの代わりにアンを組み敷く者は、年齢が20代前半頃の健康的な青年だ。少し長めの黒髪に、きりりと力強い目元。整ってはいるがどこかとっつきにくさを感じさせる顔立ちだ。
 
 青年はクロエと同じ碧色の目を細めて笑った。

「よぉ、アン。俺はグレンだ。同じ魔法の使い手同士、仲良くしようぜ」
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