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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
後日談:リジンの仕事
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帰国から1か月が経った頃。日常生活に落ち着きを取り戻したゼータは、その日一人ポトスの街へと下りた。服装はいつもと同じ飾り気のないシャツとズボン、肩には財布とハンカチを入れただけの小さな鞄。よく使い込まれた革靴を履いたゼータは、ふんふんと鼻歌交じりにポトスの街中を歩く。
十数分大通りを歩き、辿り着いた先は小ぢんまりとした飲食店だ。最大収容人数は15人程度と小さな店ではあるが、提供される料理の質が良いという理由から、観光雑誌で頻繁に名前を見かける。ゼータも魔法研究所の面々と、買い物のついでに何度か立ち寄った経験のある店だ。その通いなれた店内で、ゼータはすぐに目的の人物を見つけた。
「リジン、こんにちは。お久しぶりです」
ゼータがそう声をかけると、一足先に席に腰かけていたリジンは振り返る。1か月ぶりにその姿を見るリジンは、記憶の中の様子と相違ない。跳ね回る赤銅色の髪も、ほんのりと日に焼けた健康的な肌も、力強い光を秘めた赤銅色の瞳も、全てが記憶の中のままだ。
「ん、あんたか。早かったじゃないか」
「本屋に寄っていたんです。帰国後何かと忙しくて、街に下りるのは久々なものですから。5か月間買い逃していた新書をまとめ買いせねばならないと思いまして」
「…その割には身軽じゃないか」
リジンはゼータの全身をじろじろと眺め回す。今のゼータの手荷物は、財布とハンカチを入れた小さな肩掛け鞄一つ。大好きな本屋に立ち寄った後だというのに、書物を入れた紙袋は所持していない。というのにも、しっかりと理由があるわけであるが。
「それが5か月振りの本屋に気分が盛り上がってしまって、買いすぎてしまったんですよ。紙袋の収容量を遥かに超えていたので、宅配を依頼したんです。予想外の出費ですが致し方ありません。まさか数十冊に及ぶ書物を抱えて、街中を練り歩くわけにもいきませんし」
「…数十冊?あんた、そんなに本が好きだったのか」
「好きですよ。専属の侍女には月に数度『これ以上王宮に書物を運び込むな』と苦言を呈される身です」
「そうかよ…」
力のない笑いを零すと、リジンはゼータからふいと視線を逸らす。そしてテーブルに置かれた陶磁器のティーカップに指先をかけると、まだ湯気の立つ紅茶をちびりと啜る。ティーカップの中身はまだ満杯に近いから、リジンがこの場所に滞在する時間はまだあまり長くはない。長く人を待たせるというのは心痛むものだから、早めに書物漁りを切り上げて正解であった。
ゼータは待ち合わせ時刻を目前にした壁掛け時計を一瞥すると、リジンの対面に据えられた椅子に腰を下ろす。小さな手荷物は膝の上だ。
「リジン。もう料理の注文は済ませました?」
「まだだ。あんたが選んで適当に頼んでくれ。この国の料理はまだよく分からない」
「そうですか?じゃあ店のお勧めを何品か…あ、リジンリジン。今月のお勧めはキノコのパスタですって。これ、頼みます?」
「俺のキノコ嫌いを覚えていての発言か?この不躾な奴隷めが」
「もう奴隷じゃありません」
傍を通りかかった店員に注文を済ませた後は、互いに近況報告の時間だ。ゼータからは、レイバックがつい先日治癒魔法の施術を受けた旨。丸一日手合わせに付き合わされ今も筋肉痛が抜けない旨。旅の道中で立ち寄った数々の地点について、詳細な報告を求められ辟易している旨。そしてリジンの側からは、一時的に滞在している借家の話や、家主である人間の話。日雇いで働いている職人街の工房の話。2人が顔を合わせるのは帰国後初めてのことであるから、自然と話は弾む。リジンにすればドラキス王国は夢にも見なかった異国の地。常に口数の多い部類であるリジンであるが、今日は殊更饒舌だ。
「それで、今日は何の用だったんだ。まさか雑談をするために俺を呼び出したわけではないだろう」
リジンがゼータにそう問いかけたのは、テーブルの上に2人分の料理が運ばれてきた頃だ。ゼータの前にはキノコがたっぷりと絡められたパスタ、リジンの前には店定番のクリームパスタ。それぞれのパスタには、サラダとデザートが付いているという充実ぶりである。フォークに茹でたてパスタを絡めながら、ゼータは答える。
「そうそう。実はリジンに改めて王宮を訪れて欲しいんですよ。十二種族長の皆様が、一度きちんとお礼と言いたいからって」
「俺は、面倒事は御免だと言っただろうが」
「面倒な気持ちは察します。けれど面倒なりに得る物はありそうですよ。かなりの額の謝礼を用意しているとザト――国家のナンバー2が言っていましたから」
「謝礼ねぇ…」
フォークにクリームパスタを巻き取りながら、リジンは溜息を吐く。着の身着のままドラキス王国へとやって来たリジンにとって、高額の謝礼はかなり魅力的であるはずだ。だがそれ以上に、国家の要人としてもてなされることが面倒で仕方ないといった様子だ。湯気立つクリームパスタがフォークにくるくると絡められ、しかしいつまで経ってもリジンの口元に運ばれることはない。
「魅力的な話ではあるが…やはり積極的に足を運びたくはないな。あんたが金だけ持っては来られないのか?」
「お金だけ…というのは難しいでしょうねぇ。皆様、何がなんでもリジンに会いたがっておりますし」
「…それは何故」
「そりゃあリジンを王宮に雇用したいからですよ。レイを乗せられる騎獣など滅多にはいません。謝礼を餌にリジンをおびき寄せ、そのまま言葉巧みに王宮へと雇用してしまえば、未来永劫レイの足の心配をしなくて良くなるんです。移動速度が速くなれば、国内視察や国外訪問の日程をかなり短縮することが可能ですからね。こんなに魅力的なことはありません」
ゼータの言葉に、リジンは苦虫を嚙み潰したような表情となる。
「…あんた、それを俺に言っちゃ駄目だろう。謝礼を餌に俺を王宮におびき寄せろ、との任務を与えられて今日ここに来たんだろう?」
「リジンを呼び出したきっかけは確かに王宮からの要請です。でもこの件に関して言えば、私は100%リジンの味方ですからね。リジンが新天地で自由気ままに暮らしたいというのなら、その意向を無視するような真似は絶対にしません。今日は純粋に、近況報告をしながら一緒にご飯を食べようと思っただけですよ。謝礼の件はついでです」
ゼータははっきりとした口調でそう言い切ると、フォークに巻き付けたパスタを口元に運ぶ。リジンはふんと鼻を鳴らすと、ゼータに倣いパスタを一口口に運んだ。「100%リジンの味方です」との堂々たる宣言が満更でもないという様子だ。
「そういう事情なら謝礼は辞退させてもらう。幸い金には困っていないしな。多額の謝礼金に目が眩んで、自由気ままな生活を失ったんじゃ話にならない」
リジンが謝礼を辞退すると言うのなら、本件はこれにて終了。後はゼータが帰宅後に、レイバックとザトに事の次第を伝えればよい。彼らがリジンの雇用を望んでいることは確かだが、本人の意向を無視した強引な行動は起こすまい。
本題が済んだところで、場の話題はまた雑談に戻る。話題の提供者は小さなキノコをちまちまとフォークに突き刺すゼータだ。
「リジンは今、職人街で働いているんでしたっけ?」
「そうだ。いくつかの工房に掛け持ちで雇われている。朝起きて、気の向いた工房に顔を出す生活だ」
「本当に自由気ままな生活ですねぇ。お仕事は具体的に何を?」
「色々だな。革で財布やベルトを作ることもあるし、商品の陳列を請け負うこともある。混雑時には接客だってするし、遠方への商品配達だってお手の物さ。何せ俺は大地の覇者だからな」
「ふーん…この先もずっと職人街で働く予定ですか?」
「さぁ、それは分からない。今の仕事に不満もないが、やはり貸衣装店の経営が長いからな。希望を言えば衣服に関わる仕事に就きたいという気持ちはある」
リジンはハクジャの街で、数百年に渡り貸衣装店を営んできた。髪結いや化粧を一緒くたに請け負う器用さが幸いし、顧客からの評価は高く、数十年来の常連も多かったと聞く。しかしリジンはレイバックとゼータを送り届けるために、数百年の生業を捨ててしまった。愛着のある店も手放してしまった。リジンは気にするなと言うけれど、ゼータはずっとそのことが気に掛かっていたのだ。
銀色のフォークを右手に握りしめたまま、ゼータは意を決して口を開く。
「リジン…私、ずーっと考えていたんですけれどね。ポトスの街に貸衣装店を開くつもりはありませんか?」
「…はぁ?何で」
いきなり何を言い出すんだ。胡乱気に眉を顰めるリジンに、ゼータは真面目な表情で顔を寄せる。神妙な声音で語るは、現在のドラキス王国が抱える問題だ。
まずドラキス王国において貸衣装店という存在は一般的ではない。衣服や靴、宝飾品の類は、各個人が資産として所有する物であるという認識が根付いているためだ。その認識が出来上がった背景には、「堅苦しい催しを嫌う」という魔族の性がある。古い時代には、王宮関係者を除く一般市民がドレスや燕尾服をまとう機会など存在しなかったのだ。高額な衣服を買う機会がないのだから、人々は日々必要な衣服をそこそこの価格で購入すればよかった。
しかし近年、魔族の間の常識が変わりつつある。ドラキス王国に住まう人間に影響を受け、結婚式を含む催し事を企画する魔族が増えたのだ。自らが結婚式を企画すれば、友人や職場仲間の結婚式に呼ばれる機会も増える。催し事への参加が増えれば、当然高額な衣服や宝飾品の購入頻度も増える。元々被服に高額を費やすことに慣れていない種族であるだけに、それらの負担が生活に重くのしかかるのだ。結婚式の主役となる側の負担はさらに重い。豪華の代名詞であるウェディングドレスの値段は、安い物でも金貨数十枚、高い物では金貨百枚を優に超える。そこに靴や宝飾品一式の値段が加わるのだから、花嫁の被服費だけでも相当なものだ。中にはウェディングドレスの着用を諦め、純白のワンピースで事を済ませる花嫁も多いと聞く。
日常を男性の姿で過ごすゼータは、結婚式へのお呼ばれに備えて紺色の燕尾服を1着所有している。ドラキス王国の王妃としてドレスを着用する必要があるときは、基本的に全ての被服費は国庫で賄われる。ゼータ個人として、貸衣装店の必要性を強く感じる瞬間があるわけではない。しかし王宮の侍女や女性官吏と話をすれば、彼らの悩みは否応にも伝わってくる。「来月友人の結婚式に呼ばれているの。ドレスを新調したいとは思うのだけれど、中々踏ん切りがつかなくて」ドレスを変えれば、それに合わせて髪飾りや靴も新調する必要がある。王宮関係者の給与は決して安くはないが、身の回りの品を一新するとなれば金銭的な負担は大きい。王宮関係者は他国の国賓が来客した折にも正装を着用するから、被服の更新頻度も高くなりがちだ。金銭の出費だけではなく、ドレスの洗濯や保管、処分も負担である。
「もしもポトスの街中に、安価でウェディングドレスや結婚式参列衣装の貸し出しを行う貸衣装店があれば、民の負担はかなり軽減されるはずです。私の見立てでは、王宮関係者だけでもかなりの利用が期待できるかと」
ドラキス王国の抱える問題を一通り語り終えたゼータは、すっかり冷めたキノコパスタをつるつると啜る。ゼータの話に耳を澄ませながらもパスタの皿を大方空にしたリジンは、デザートをつつきながら悩ましげな表情だ。
「確かに商機はありそうだ。だが一つの店を立ち上げるとなれば多額の資金が必要だ。工房で働きながら気ままに資金を貯めていたのでは、開店は10年も先になるぞ」
「出資者を募るというのはどうでしょう。ハクジャの貸衣装店に並べられていた商品は、どれも独創的で魅力的な物ばかりでした。人形サイズでも良いのでサンプル服があれば、王宮関係者だけでもかなりの額の資金を集めることが可能だと思います。ドレスや燕尾服の購入・保管については、王宮関係者であれば誰しもが頭を悩ませる問題ですからね」
「…俺が貸衣装店を開くと言えば、あんたは協力してくれるのか?」
「全力で協力させていただきますよ。王宮関係者からの資金集めは勿論のこと、私にできることならなんでもやります。頻繁にお店に顔を出すことはできませんけれど、例えばお店の宣伝とか、チラシ作りとか、空き時間で良ければ試着係だって引き受けますし…」
リジンに貸衣装店の開店を提案したことは、ゼータなりの罪滅ぼしだ。リジンに故郷を捨てさせてしまったことへの罪悪感。自身はハクジャでリジンの援助を受けたというのに、ドラキス王国を訪れたリジンの生活を支えることができないもどかしさ。そういった思いを抱えているからこそ、リジンが貸衣装店の再建を望むのなら全力で協力したいと思う。例え大好きな研究に費やす時間や、書物を読み漁る時間が減ったとしてもだ。
リジンはデザートの林檎をちびちびと齧りながら、随分と長いこと黙り込んでいた。そしてあるとき、ふっと表情を緩める。
「前向きに検討しておく」
リジンはそれだけしか言わなかったが、その表情は心なしか嬉しそうだ。
それから数か月後。ポトスの街に「貸衣装店ハクジャ」が新規開店し、一世を風靡するのはまた少し別のお話。
十数分大通りを歩き、辿り着いた先は小ぢんまりとした飲食店だ。最大収容人数は15人程度と小さな店ではあるが、提供される料理の質が良いという理由から、観光雑誌で頻繁に名前を見かける。ゼータも魔法研究所の面々と、買い物のついでに何度か立ち寄った経験のある店だ。その通いなれた店内で、ゼータはすぐに目的の人物を見つけた。
「リジン、こんにちは。お久しぶりです」
ゼータがそう声をかけると、一足先に席に腰かけていたリジンは振り返る。1か月ぶりにその姿を見るリジンは、記憶の中の様子と相違ない。跳ね回る赤銅色の髪も、ほんのりと日に焼けた健康的な肌も、力強い光を秘めた赤銅色の瞳も、全てが記憶の中のままだ。
「ん、あんたか。早かったじゃないか」
「本屋に寄っていたんです。帰国後何かと忙しくて、街に下りるのは久々なものですから。5か月間買い逃していた新書をまとめ買いせねばならないと思いまして」
「…その割には身軽じゃないか」
リジンはゼータの全身をじろじろと眺め回す。今のゼータの手荷物は、財布とハンカチを入れた小さな肩掛け鞄一つ。大好きな本屋に立ち寄った後だというのに、書物を入れた紙袋は所持していない。というのにも、しっかりと理由があるわけであるが。
「それが5か月振りの本屋に気分が盛り上がってしまって、買いすぎてしまったんですよ。紙袋の収容量を遥かに超えていたので、宅配を依頼したんです。予想外の出費ですが致し方ありません。まさか数十冊に及ぶ書物を抱えて、街中を練り歩くわけにもいきませんし」
「…数十冊?あんた、そんなに本が好きだったのか」
「好きですよ。専属の侍女には月に数度『これ以上王宮に書物を運び込むな』と苦言を呈される身です」
「そうかよ…」
力のない笑いを零すと、リジンはゼータからふいと視線を逸らす。そしてテーブルに置かれた陶磁器のティーカップに指先をかけると、まだ湯気の立つ紅茶をちびりと啜る。ティーカップの中身はまだ満杯に近いから、リジンがこの場所に滞在する時間はまだあまり長くはない。長く人を待たせるというのは心痛むものだから、早めに書物漁りを切り上げて正解であった。
ゼータは待ち合わせ時刻を目前にした壁掛け時計を一瞥すると、リジンの対面に据えられた椅子に腰を下ろす。小さな手荷物は膝の上だ。
「リジン。もう料理の注文は済ませました?」
「まだだ。あんたが選んで適当に頼んでくれ。この国の料理はまだよく分からない」
「そうですか?じゃあ店のお勧めを何品か…あ、リジンリジン。今月のお勧めはキノコのパスタですって。これ、頼みます?」
「俺のキノコ嫌いを覚えていての発言か?この不躾な奴隷めが」
「もう奴隷じゃありません」
傍を通りかかった店員に注文を済ませた後は、互いに近況報告の時間だ。ゼータからは、レイバックがつい先日治癒魔法の施術を受けた旨。丸一日手合わせに付き合わされ今も筋肉痛が抜けない旨。旅の道中で立ち寄った数々の地点について、詳細な報告を求められ辟易している旨。そしてリジンの側からは、一時的に滞在している借家の話や、家主である人間の話。日雇いで働いている職人街の工房の話。2人が顔を合わせるのは帰国後初めてのことであるから、自然と話は弾む。リジンにすればドラキス王国は夢にも見なかった異国の地。常に口数の多い部類であるリジンであるが、今日は殊更饒舌だ。
「それで、今日は何の用だったんだ。まさか雑談をするために俺を呼び出したわけではないだろう」
リジンがゼータにそう問いかけたのは、テーブルの上に2人分の料理が運ばれてきた頃だ。ゼータの前にはキノコがたっぷりと絡められたパスタ、リジンの前には店定番のクリームパスタ。それぞれのパスタには、サラダとデザートが付いているという充実ぶりである。フォークに茹でたてパスタを絡めながら、ゼータは答える。
「そうそう。実はリジンに改めて王宮を訪れて欲しいんですよ。十二種族長の皆様が、一度きちんとお礼と言いたいからって」
「俺は、面倒事は御免だと言っただろうが」
「面倒な気持ちは察します。けれど面倒なりに得る物はありそうですよ。かなりの額の謝礼を用意しているとザト――国家のナンバー2が言っていましたから」
「謝礼ねぇ…」
フォークにクリームパスタを巻き取りながら、リジンは溜息を吐く。着の身着のままドラキス王国へとやって来たリジンにとって、高額の謝礼はかなり魅力的であるはずだ。だがそれ以上に、国家の要人としてもてなされることが面倒で仕方ないといった様子だ。湯気立つクリームパスタがフォークにくるくると絡められ、しかしいつまで経ってもリジンの口元に運ばれることはない。
「魅力的な話ではあるが…やはり積極的に足を運びたくはないな。あんたが金だけ持っては来られないのか?」
「お金だけ…というのは難しいでしょうねぇ。皆様、何がなんでもリジンに会いたがっておりますし」
「…それは何故」
「そりゃあリジンを王宮に雇用したいからですよ。レイを乗せられる騎獣など滅多にはいません。謝礼を餌にリジンをおびき寄せ、そのまま言葉巧みに王宮へと雇用してしまえば、未来永劫レイの足の心配をしなくて良くなるんです。移動速度が速くなれば、国内視察や国外訪問の日程をかなり短縮することが可能ですからね。こんなに魅力的なことはありません」
ゼータの言葉に、リジンは苦虫を嚙み潰したような表情となる。
「…あんた、それを俺に言っちゃ駄目だろう。謝礼を餌に俺を王宮におびき寄せろ、との任務を与えられて今日ここに来たんだろう?」
「リジンを呼び出したきっかけは確かに王宮からの要請です。でもこの件に関して言えば、私は100%リジンの味方ですからね。リジンが新天地で自由気ままに暮らしたいというのなら、その意向を無視するような真似は絶対にしません。今日は純粋に、近況報告をしながら一緒にご飯を食べようと思っただけですよ。謝礼の件はついでです」
ゼータははっきりとした口調でそう言い切ると、フォークに巻き付けたパスタを口元に運ぶ。リジンはふんと鼻を鳴らすと、ゼータに倣いパスタを一口口に運んだ。「100%リジンの味方です」との堂々たる宣言が満更でもないという様子だ。
「そういう事情なら謝礼は辞退させてもらう。幸い金には困っていないしな。多額の謝礼金に目が眩んで、自由気ままな生活を失ったんじゃ話にならない」
リジンが謝礼を辞退すると言うのなら、本件はこれにて終了。後はゼータが帰宅後に、レイバックとザトに事の次第を伝えればよい。彼らがリジンの雇用を望んでいることは確かだが、本人の意向を無視した強引な行動は起こすまい。
本題が済んだところで、場の話題はまた雑談に戻る。話題の提供者は小さなキノコをちまちまとフォークに突き刺すゼータだ。
「リジンは今、職人街で働いているんでしたっけ?」
「そうだ。いくつかの工房に掛け持ちで雇われている。朝起きて、気の向いた工房に顔を出す生活だ」
「本当に自由気ままな生活ですねぇ。お仕事は具体的に何を?」
「色々だな。革で財布やベルトを作ることもあるし、商品の陳列を請け負うこともある。混雑時には接客だってするし、遠方への商品配達だってお手の物さ。何せ俺は大地の覇者だからな」
「ふーん…この先もずっと職人街で働く予定ですか?」
「さぁ、それは分からない。今の仕事に不満もないが、やはり貸衣装店の経営が長いからな。希望を言えば衣服に関わる仕事に就きたいという気持ちはある」
リジンはハクジャの街で、数百年に渡り貸衣装店を営んできた。髪結いや化粧を一緒くたに請け負う器用さが幸いし、顧客からの評価は高く、数十年来の常連も多かったと聞く。しかしリジンはレイバックとゼータを送り届けるために、数百年の生業を捨ててしまった。愛着のある店も手放してしまった。リジンは気にするなと言うけれど、ゼータはずっとそのことが気に掛かっていたのだ。
銀色のフォークを右手に握りしめたまま、ゼータは意を決して口を開く。
「リジン…私、ずーっと考えていたんですけれどね。ポトスの街に貸衣装店を開くつもりはありませんか?」
「…はぁ?何で」
いきなり何を言い出すんだ。胡乱気に眉を顰めるリジンに、ゼータは真面目な表情で顔を寄せる。神妙な声音で語るは、現在のドラキス王国が抱える問題だ。
まずドラキス王国において貸衣装店という存在は一般的ではない。衣服や靴、宝飾品の類は、各個人が資産として所有する物であるという認識が根付いているためだ。その認識が出来上がった背景には、「堅苦しい催しを嫌う」という魔族の性がある。古い時代には、王宮関係者を除く一般市民がドレスや燕尾服をまとう機会など存在しなかったのだ。高額な衣服を買う機会がないのだから、人々は日々必要な衣服をそこそこの価格で購入すればよかった。
しかし近年、魔族の間の常識が変わりつつある。ドラキス王国に住まう人間に影響を受け、結婚式を含む催し事を企画する魔族が増えたのだ。自らが結婚式を企画すれば、友人や職場仲間の結婚式に呼ばれる機会も増える。催し事への参加が増えれば、当然高額な衣服や宝飾品の購入頻度も増える。元々被服に高額を費やすことに慣れていない種族であるだけに、それらの負担が生活に重くのしかかるのだ。結婚式の主役となる側の負担はさらに重い。豪華の代名詞であるウェディングドレスの値段は、安い物でも金貨数十枚、高い物では金貨百枚を優に超える。そこに靴や宝飾品一式の値段が加わるのだから、花嫁の被服費だけでも相当なものだ。中にはウェディングドレスの着用を諦め、純白のワンピースで事を済ませる花嫁も多いと聞く。
日常を男性の姿で過ごすゼータは、結婚式へのお呼ばれに備えて紺色の燕尾服を1着所有している。ドラキス王国の王妃としてドレスを着用する必要があるときは、基本的に全ての被服費は国庫で賄われる。ゼータ個人として、貸衣装店の必要性を強く感じる瞬間があるわけではない。しかし王宮の侍女や女性官吏と話をすれば、彼らの悩みは否応にも伝わってくる。「来月友人の結婚式に呼ばれているの。ドレスを新調したいとは思うのだけれど、中々踏ん切りがつかなくて」ドレスを変えれば、それに合わせて髪飾りや靴も新調する必要がある。王宮関係者の給与は決して安くはないが、身の回りの品を一新するとなれば金銭的な負担は大きい。王宮関係者は他国の国賓が来客した折にも正装を着用するから、被服の更新頻度も高くなりがちだ。金銭の出費だけではなく、ドレスの洗濯や保管、処分も負担である。
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「確かに商機はありそうだ。だが一つの店を立ち上げるとなれば多額の資金が必要だ。工房で働きながら気ままに資金を貯めていたのでは、開店は10年も先になるぞ」
「出資者を募るというのはどうでしょう。ハクジャの貸衣装店に並べられていた商品は、どれも独創的で魅力的な物ばかりでした。人形サイズでも良いのでサンプル服があれば、王宮関係者だけでもかなりの額の資金を集めることが可能だと思います。ドレスや燕尾服の購入・保管については、王宮関係者であれば誰しもが頭を悩ませる問題ですからね」
「…俺が貸衣装店を開くと言えば、あんたは協力してくれるのか?」
「全力で協力させていただきますよ。王宮関係者からの資金集めは勿論のこと、私にできることならなんでもやります。頻繁にお店に顔を出すことはできませんけれど、例えばお店の宣伝とか、チラシ作りとか、空き時間で良ければ試着係だって引き受けますし…」
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リジンはデザートの林檎をちびちびと齧りながら、随分と長いこと黙り込んでいた。そしてあるとき、ふっと表情を緩める。
「前向きに検討しておく」
リジンはそれだけしか言わなかったが、その表情は心なしか嬉しそうだ。
それから数か月後。ポトスの街に「貸衣装店ハクジャ」が新規開店し、一世を風靡するのはまた少し別のお話。
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