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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
海岸国家ロマ
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石造りの街ポンペイを出発してからきっかり30日後の夕刻のことだ。疲労困憊のゼータとグラニは、夢にまで見た人里へと辿り着いた。右手には果ての見えぬ広大な海洋、打ち寄せる荒波の音に耳を澄ませながら、ゼータは目の前に広がる街並みに眺め入る。
急峻の海岸に面して築かれた美しい土地、冒険者アリデジャはこの土地をそう形容した。確かに目を見張るほどに美しい街並みだ。青々とした海洋と陸地との端境には、真っ白な砂浜が広がっている。砂浜には小舟を漕ぎ出すための桟橋があり、餌を求めて舞い降りる海鳥がおり、貝集めに精を出す数人の人々がいる。山林部の茂みに身を隠したゼータから砂浜までは、まだかなりの距離があるため、人々の容姿がどのようであるかはわからない。
海洋に砂浜。それだけならば然して珍しくもない光景であるが、驚くべきは砂浜の背後に広がる急勾配の山々だ。標高はおよそ300m。山にすれば低山の部類だが、なんとその急勾配の斜面を埋め尽くすようにして建物が建てられているのである。建物の高さは精々3階建て程度、白、黄色、橙、赤、暖色系を中心とした無数の家屋がまるで積み木のように立ち並ぶ。日暮れ時である今家屋の窓には灯りが灯り始め、橙灯りに埋め尽くされてゆく斜面は幻想的だ。目を見張るほどに美しい反面、暮らすには不便な街の構造とも言える。砂浜に面して建てられた家屋や、斜面の下部に位置する家屋に住む者は良い。しかし急勾配の斜面中腹部や、はたまた山頂付近に家屋を構える者は一体どのようにして日常生活を送っているのだろう。街の内部に大通りと形容するような幅広の通りは見当たらないし、たくさんの人々が行き交う巨大階段の類も見当たらない。恐らくは隙間なく詰め込まれた建物と建物の間に、細い小路が通っているのだ。建物の並びが不規則なのだから、街に張り巡らされた小路も恐らくは不規則。迷路のような街並みは、予備知識無く立ち入れば迷子になること間違いなしだ。いや、例え街の地図を持っていたにしても、山頂まで辿り着くことは難しいかもしれない。なぜこんな不自由な場所に街を造ったのか、なぜこのような迷路のような街の構造にしたのか。謎は深まるばかりだ。
宝石箱のような街並みを目前にし、ゼータはしばし思い悩んだ。日のあるうちに街に立ち入るべきか、否か。ここに至るまで1か月野宿が続いている。アリデジャに貰い受けた携帯食と、豊富な植生のお陰で、道中食うに困ることはなかった。しかし人の立ち入らぬ場所であるがゆえに魔獣との遭遇率は高く、夜間に満足に眠れた試しがないのだ。ぼさぼさに乱れた頭髪に、荒れ放題の肌と唇。目の下には濃い色の隈。道中巡り合った河川で数度の水浴びをしたから、身体と衣服は汚れ放題というほどではない。だが今のゼータの姿は大国の王妃というには余りにも粗末で、カミラが目にすれば悲鳴を上げて倒れ伏すことであろう。
「どうしましょうねぇ、グラニ。ふかふかの布団で寝たいところではありますけれど」
ゼータはそう呟いて、グラニの背を叩く。愛獣グラニはゼータの意見に同調するように、ぶるると鼻息を吐き出した。宝石のような街並みを目前にして、ゼータが足踏みをするにはもちろん理由がある。それはアリデジャから聞き及んだこの土地の特徴だ。
―彼らは俺の風貌を恐れていた。魔族と確執のある土地柄なのか、それとも魔族という存在に縁のない土地柄なのか。それはわからない
この土地に住まう者が魔族という存在を恐れるのならば、現段階でゼータが彼らと真正面から顔を合わせるのは不味い。人々の容姿的特徴がまるでわからぬからだ。黒髪黒目のゼータの容姿は、ドラキス王国周辺国においては人間と相違ない。しかし例えばこの土地に住まう者が金髪碧眼の人間に限定されているとなれば、ゼータの黒髪黒目は異端と認定されることであろう。得体の知れぬ侵入者と認定され、街の周囲に警戒網を敷かれてしまえば、以降街に立ち入ることは難しくなる。柔らかな布団で眠ることはおろか、2頭のドラゴンを追うための情報収集すら難しくなるのだ。アリデジャに土地の者の容姿的特徴を聞いておくべきであったと、ゼータは今更ながら後悔する。
悩みに悩んだ末、ゼータは日のあるうちに街に立ち入ることを諦めた。人気のない山林に身を隠し、うとうとと微睡みながら日が暮れるのを待つ。幸いにも土地の気候は温暖で、太陽が山陰に身を隠した後も肌寒さを感じることはない。うずくまるグラニの横腹に背を預け、時折浅い眠りから目覚めては街の様子を伺う。
刻一刻と夜が深まるに合わせ、数を増す人工灯が目に眩しい。色とりどりの建物に埋め尽くされた白昼の斜面も確かに美しかった。しかし夜が訪れ建物の色合いがわからなくなった今、視界を埋め尽くす物は斜面を転がり落ちんばかりの窓灯り。海の水面が窓灯りを映すから、まるで零れ落ちた窓灯りが海底に溜まっているかのような錯覚を起こすのだ。本当に涙が出るほどに美しい。「例えばこの世界のどこかに星を浮かべた湖があり、俺の身体がその星の一つとなるのなら最高だと思わないか」そう言ったアリデジャの気持ちが、今ならよくわかる。歩むことに疲れ生きることに疲れ、辿り着いた場所がここだったのなら。迷わず海原に身を投げ海底に沈む星屑の一つとなる。死に場所を一つ見つけ、少し安堵する。
そうして微睡みながら己の最後に思い馳せ、とっぷりと日が暮れた頃にゼータは活動を再開した。グラニの手綱の先を木の枝に掛け、薄汚れた鞍をとんとんと手のひらで叩く。
「じゃあグラニ、ちょっと行ってきますね。あまり遅くならずに戻る予定ではいますけれど、眠くなったら先に休んでいても良いですから」
上着の襟元を整えるゼータの背後で、うずくまったままのグラニが円らな瞳を瞬かせる。「ではお言葉に甘えて、私は先に休ませていただきます」
寛ぎ状態のグラニに見送られ、ゼータはこの日初めて山林と人里の境界を超えた。とはいえ境界を超えた場所にすぐ人の住む家屋があるわけではなく、さざ波打ち寄せる白浜が延々と続く。日のあるうちこそ散歩を楽しむ人々の姿が見受けられたが、日の暮れた今砂浜はすっかり無人だ。白砂に残された足跡をさざ波が攫う。生ぬるい潮風が頬を撫でる。星空の彼方で海鳥が鳴く。夜の海辺も悪くはない、ゼータは思う。
斜面の街並みを目前にし、ゼータははたと歩みを止めた。肩に掛けた革鞄を漁り、タオルに包み込まれた手のひら大の物体を取り出す。真っ新な布地の中から現れた物は、ダイナより譲り受けた片割れ探しの神具だ。右手のひらに神具をのせ、木船の浮かぶ球体の内部を覗き見る。きつつきを乗せた船の舳先は、ゆらゆらと揺らめきながら東の方角―海原の向こうを指している。溜息を一つ。どうやらゼータの旅路は広大な海原の向こうへと続くようだ。
ゼータが片割れ探しの神具を鞄へと仕舞いこんだ、その時だ。背後で砂を踏み締める足音を聞く。振り返れば輝く街並みを背に、砂浜を歩む2人の人物がいる。気ままな夜分の散歩、というわけではなさそうだ。手に刀と思しき細長い物体を携えた2人組は、迷うことなくゼータの方へと歩いて来る。逃げるべきか、頭を過る考えを抑え込み、ゼータはじっとその場に佇む。
「おい、あんた。そこで何をしている」
警戒心に満ちた男性の声。2人組は刀と思しき物体を身体の前に翳し、ゼータからは少し離れた場所で歩みを止める。暗闇の中では彼らの姿形は不明瞭だ。得も言われぬ緊張感だけが伝わってくる。ゼータはできるだけ平静を装いながら、口を開く、
「海を見ていたんです。街灯りを映して綺麗だなと思って」
「海を?あんた、ロマの住人ではないのか」
「違います。西の方から旅をしてきました。人を探しているんです」
旅をしてきた、ゼータがそう伝えた瞬間に、2人組の身体から力が抜けるのがわかる。掲げていた武器を身体の横へと下ろし、2人組はゼータへと近づいて来る。
「ロマを訪れたのは初めてか」
「初めてです。ここに街があることさえ知りませんでした。この街はロマという名前なんですね」
「街ではない。国だ。付近の小国の間では、海岸国家ロマの名で親しまれている」
「ロマの周囲には、他にも国があるんですか?」
「山の向こうに人口が数千程度の小国が7、海岸線を北に向かえばさらに別の小国地帯がある」
情報収集に勤しみながら、ゼータは目の前の人物の容貌を観察する。2人組の一方は50代前半と思しき男性だ。背丈はゼータよりも高く、軍人宜しくの鍛えられた体躯を有している。半袖シャツから突き出た二の腕は、ゼータも倍もある剛腕だ。会話に参加しないもう一方も同じ年頃の男性で、こちらは背丈がゼータと変わらぬ程度。しかし衣服に覆われた肉体は岩石のごとし、シャツの胸元のぼたんははち切れんばかりだ。あの身体から繰り出される一撃を受けたとなれば、ひょろひょろのゼータなど悶絶必須である。
そして注目すべきは彼らの有する髪目肌の色合いだ。2人の男性は共に黒髪黒目、肌はこんがりと焼けた健康的な薄橙。彼らの容姿的特徴を見る限り、ロマの地でゼータが異端と迫害を受ける可能性はなさそうだ。最低限の滞在は可能と胸を撫で下ろし、ゼータはせっせと情報収集を継続する。
「海の向こうにも国がありますか?」
「…そう言われている。海の向こうに渡り帰って来た者はいないから、詳細なことはわからない」
「海の向こうの国を目指す人はいるんですか?」
それまで淀みない答えを返していた男性が、黙り込む。おや、とゼータは思う。何か良からぬことを聞いただろうか。あれこれと思い巡らせるゼータに、男性は低い声で告げる。
「夜の海での長話は危険だ。あんた、宿のあてはあるのか」
「いえ…さっきロマに着いたばかりで、宿探しはこれからです」
「西の方から旅をしてきたと言ったな。国籍証明は所持しているか」
「国籍証明?それは何ですか?」
「各人の国籍を示す証書のような物だ。仕事や旅行で他国へ立ち入る場合には、自国の役所で国籍証明を取得する必要がある。国籍証明を持たぬ者は、商いや公的施設への立ち入りが認められない。宿屋への宿泊も同様だ。土産店や飲食店を利用する程度なら、さほど問題はないと思われるが…」
「それ、旅人はどうすれば良いんですか?臨時の証書が発行されたりはします?」
「さぁ、どうだろうな。俺はロマに暮らして50年になるが、異国からの旅人になど会った試しがない。あんたが記念すべき第1号だ。見知らぬ土地からやってきた旅人の扱いなど、役所の規律にも定められてはいないんじゃないか」
「そうですか…」
男性はロマの周囲に7つの小国があると言った。さらに少し離れた海沿いには別の小国地帯。それがロマの人々の世界の全てなのだ。遠い遠い世界の果てに、己の世界とは相容れぬ異世界があるとは知っている。しかしそこは言うなれば御伽の世界だ。「世界の果てにはドラゴンの王が治める土地がある」そうゼータが伝えたところで、ロマの人々は信じやしないだろう。「遠い南の地には人魚の暮らす海底都市があり、そこに住まう人魚の涙を飲めば人は海の中で暮らすことができる」アリデジャが語る冒険記を、ゼータが信じきれなかったように。
宿屋を利用できぬとなれば、今夜もグラニの傍らで眠る他無さそうだ。肩を落とすゼータに、男性が救いの手を差し伸べる。
「長期的な滞在を予定しないのなら、ニシキギの宿を利用すると良い。ロマ国内で唯一、国籍証明無くして宿泊が可能な場所だ。素性を問い質されることもないから、あんたのような人物が利用するにはぴったりだ。一般的な宿屋よりも多少値は張るがな」
「ニシキギの宿…ってどの辺りにあるんですか?」
「街の北側だ。ここからだと、海岸線に沿って歩いて行けば直に着く。街路樹に結わえた地名札を見ながら歩くんだ。カツラ、ハナミズキ、その次がニシキギだ。ニシキギと名の付く土地は狭いから、地名札を見逃さないようにな」
「わかりました。ありがとうございます」
野宿は回避。満面の笑みで頭を下げて、ゼータは街の北側へ向かうべく2人の男性に背を向ける。1か月に渡る大冒険を経て、身も心もへとへとだ。海の向こうへ渡る方法は追々考えることにして、今夜はゆっくりと身体を休めたいところである。浮かれ気分で歩み出すゼータを、男性が呼び止める。
「最後に一つ。夜の海には近寄るんじゃあない。ロマに滞在するなら、絶対に忘れてはならない規則だ」
男性の声には物々しい緊張感に満ちている。ゼータは歩みを止め、問う。
「夜の海には何があるんですか?」
「魔族が来る」
男性の声に満つるは、憎悪。
「海の向こうからは魔族がやって来る。闇に紛れて街に入り込んでは、ロマの人々を攫って行くんだ」
急峻の海岸に面して築かれた美しい土地、冒険者アリデジャはこの土地をそう形容した。確かに目を見張るほどに美しい街並みだ。青々とした海洋と陸地との端境には、真っ白な砂浜が広がっている。砂浜には小舟を漕ぎ出すための桟橋があり、餌を求めて舞い降りる海鳥がおり、貝集めに精を出す数人の人々がいる。山林部の茂みに身を隠したゼータから砂浜までは、まだかなりの距離があるため、人々の容姿がどのようであるかはわからない。
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宝石箱のような街並みを目前にし、ゼータはしばし思い悩んだ。日のあるうちに街に立ち入るべきか、否か。ここに至るまで1か月野宿が続いている。アリデジャに貰い受けた携帯食と、豊富な植生のお陰で、道中食うに困ることはなかった。しかし人の立ち入らぬ場所であるがゆえに魔獣との遭遇率は高く、夜間に満足に眠れた試しがないのだ。ぼさぼさに乱れた頭髪に、荒れ放題の肌と唇。目の下には濃い色の隈。道中巡り合った河川で数度の水浴びをしたから、身体と衣服は汚れ放題というほどではない。だが今のゼータの姿は大国の王妃というには余りにも粗末で、カミラが目にすれば悲鳴を上げて倒れ伏すことであろう。
「どうしましょうねぇ、グラニ。ふかふかの布団で寝たいところではありますけれど」
ゼータはそう呟いて、グラニの背を叩く。愛獣グラニはゼータの意見に同調するように、ぶるると鼻息を吐き出した。宝石のような街並みを目前にして、ゼータが足踏みをするにはもちろん理由がある。それはアリデジャから聞き及んだこの土地の特徴だ。
―彼らは俺の風貌を恐れていた。魔族と確執のある土地柄なのか、それとも魔族という存在に縁のない土地柄なのか。それはわからない
この土地に住まう者が魔族という存在を恐れるのならば、現段階でゼータが彼らと真正面から顔を合わせるのは不味い。人々の容姿的特徴がまるでわからぬからだ。黒髪黒目のゼータの容姿は、ドラキス王国周辺国においては人間と相違ない。しかし例えばこの土地に住まう者が金髪碧眼の人間に限定されているとなれば、ゼータの黒髪黒目は異端と認定されることであろう。得体の知れぬ侵入者と認定され、街の周囲に警戒網を敷かれてしまえば、以降街に立ち入ることは難しくなる。柔らかな布団で眠ることはおろか、2頭のドラゴンを追うための情報収集すら難しくなるのだ。アリデジャに土地の者の容姿的特徴を聞いておくべきであったと、ゼータは今更ながら後悔する。
悩みに悩んだ末、ゼータは日のあるうちに街に立ち入ることを諦めた。人気のない山林に身を隠し、うとうとと微睡みながら日が暮れるのを待つ。幸いにも土地の気候は温暖で、太陽が山陰に身を隠した後も肌寒さを感じることはない。うずくまるグラニの横腹に背を預け、時折浅い眠りから目覚めては街の様子を伺う。
刻一刻と夜が深まるに合わせ、数を増す人工灯が目に眩しい。色とりどりの建物に埋め尽くされた白昼の斜面も確かに美しかった。しかし夜が訪れ建物の色合いがわからなくなった今、視界を埋め尽くす物は斜面を転がり落ちんばかりの窓灯り。海の水面が窓灯りを映すから、まるで零れ落ちた窓灯りが海底に溜まっているかのような錯覚を起こすのだ。本当に涙が出るほどに美しい。「例えばこの世界のどこかに星を浮かべた湖があり、俺の身体がその星の一つとなるのなら最高だと思わないか」そう言ったアリデジャの気持ちが、今ならよくわかる。歩むことに疲れ生きることに疲れ、辿り着いた場所がここだったのなら。迷わず海原に身を投げ海底に沈む星屑の一つとなる。死に場所を一つ見つけ、少し安堵する。
そうして微睡みながら己の最後に思い馳せ、とっぷりと日が暮れた頃にゼータは活動を再開した。グラニの手綱の先を木の枝に掛け、薄汚れた鞍をとんとんと手のひらで叩く。
「じゃあグラニ、ちょっと行ってきますね。あまり遅くならずに戻る予定ではいますけれど、眠くなったら先に休んでいても良いですから」
上着の襟元を整えるゼータの背後で、うずくまったままのグラニが円らな瞳を瞬かせる。「ではお言葉に甘えて、私は先に休ませていただきます」
寛ぎ状態のグラニに見送られ、ゼータはこの日初めて山林と人里の境界を超えた。とはいえ境界を超えた場所にすぐ人の住む家屋があるわけではなく、さざ波打ち寄せる白浜が延々と続く。日のあるうちこそ散歩を楽しむ人々の姿が見受けられたが、日の暮れた今砂浜はすっかり無人だ。白砂に残された足跡をさざ波が攫う。生ぬるい潮風が頬を撫でる。星空の彼方で海鳥が鳴く。夜の海辺も悪くはない、ゼータは思う。
斜面の街並みを目前にし、ゼータははたと歩みを止めた。肩に掛けた革鞄を漁り、タオルに包み込まれた手のひら大の物体を取り出す。真っ新な布地の中から現れた物は、ダイナより譲り受けた片割れ探しの神具だ。右手のひらに神具をのせ、木船の浮かぶ球体の内部を覗き見る。きつつきを乗せた船の舳先は、ゆらゆらと揺らめきながら東の方角―海原の向こうを指している。溜息を一つ。どうやらゼータの旅路は広大な海原の向こうへと続くようだ。
ゼータが片割れ探しの神具を鞄へと仕舞いこんだ、その時だ。背後で砂を踏み締める足音を聞く。振り返れば輝く街並みを背に、砂浜を歩む2人の人物がいる。気ままな夜分の散歩、というわけではなさそうだ。手に刀と思しき細長い物体を携えた2人組は、迷うことなくゼータの方へと歩いて来る。逃げるべきか、頭を過る考えを抑え込み、ゼータはじっとその場に佇む。
「おい、あんた。そこで何をしている」
警戒心に満ちた男性の声。2人組は刀と思しき物体を身体の前に翳し、ゼータからは少し離れた場所で歩みを止める。暗闇の中では彼らの姿形は不明瞭だ。得も言われぬ緊張感だけが伝わってくる。ゼータはできるだけ平静を装いながら、口を開く、
「海を見ていたんです。街灯りを映して綺麗だなと思って」
「海を?あんた、ロマの住人ではないのか」
「違います。西の方から旅をしてきました。人を探しているんです」
旅をしてきた、ゼータがそう伝えた瞬間に、2人組の身体から力が抜けるのがわかる。掲げていた武器を身体の横へと下ろし、2人組はゼータへと近づいて来る。
「ロマを訪れたのは初めてか」
「初めてです。ここに街があることさえ知りませんでした。この街はロマという名前なんですね」
「街ではない。国だ。付近の小国の間では、海岸国家ロマの名で親しまれている」
「ロマの周囲には、他にも国があるんですか?」
「山の向こうに人口が数千程度の小国が7、海岸線を北に向かえばさらに別の小国地帯がある」
情報収集に勤しみながら、ゼータは目の前の人物の容貌を観察する。2人組の一方は50代前半と思しき男性だ。背丈はゼータよりも高く、軍人宜しくの鍛えられた体躯を有している。半袖シャツから突き出た二の腕は、ゼータも倍もある剛腕だ。会話に参加しないもう一方も同じ年頃の男性で、こちらは背丈がゼータと変わらぬ程度。しかし衣服に覆われた肉体は岩石のごとし、シャツの胸元のぼたんははち切れんばかりだ。あの身体から繰り出される一撃を受けたとなれば、ひょろひょろのゼータなど悶絶必須である。
そして注目すべきは彼らの有する髪目肌の色合いだ。2人の男性は共に黒髪黒目、肌はこんがりと焼けた健康的な薄橙。彼らの容姿的特徴を見る限り、ロマの地でゼータが異端と迫害を受ける可能性はなさそうだ。最低限の滞在は可能と胸を撫で下ろし、ゼータはせっせと情報収集を継続する。
「海の向こうにも国がありますか?」
「…そう言われている。海の向こうに渡り帰って来た者はいないから、詳細なことはわからない」
「海の向こうの国を目指す人はいるんですか?」
それまで淀みない答えを返していた男性が、黙り込む。おや、とゼータは思う。何か良からぬことを聞いただろうか。あれこれと思い巡らせるゼータに、男性は低い声で告げる。
「夜の海での長話は危険だ。あんた、宿のあてはあるのか」
「いえ…さっきロマに着いたばかりで、宿探しはこれからです」
「西の方から旅をしてきたと言ったな。国籍証明は所持しているか」
「国籍証明?それは何ですか?」
「各人の国籍を示す証書のような物だ。仕事や旅行で他国へ立ち入る場合には、自国の役所で国籍証明を取得する必要がある。国籍証明を持たぬ者は、商いや公的施設への立ち入りが認められない。宿屋への宿泊も同様だ。土産店や飲食店を利用する程度なら、さほど問題はないと思われるが…」
「それ、旅人はどうすれば良いんですか?臨時の証書が発行されたりはします?」
「さぁ、どうだろうな。俺はロマに暮らして50年になるが、異国からの旅人になど会った試しがない。あんたが記念すべき第1号だ。見知らぬ土地からやってきた旅人の扱いなど、役所の規律にも定められてはいないんじゃないか」
「そうですか…」
男性はロマの周囲に7つの小国があると言った。さらに少し離れた海沿いには別の小国地帯。それがロマの人々の世界の全てなのだ。遠い遠い世界の果てに、己の世界とは相容れぬ異世界があるとは知っている。しかしそこは言うなれば御伽の世界だ。「世界の果てにはドラゴンの王が治める土地がある」そうゼータが伝えたところで、ロマの人々は信じやしないだろう。「遠い南の地には人魚の暮らす海底都市があり、そこに住まう人魚の涙を飲めば人は海の中で暮らすことができる」アリデジャが語る冒険記を、ゼータが信じきれなかったように。
宿屋を利用できぬとなれば、今夜もグラニの傍らで眠る他無さそうだ。肩を落とすゼータに、男性が救いの手を差し伸べる。
「長期的な滞在を予定しないのなら、ニシキギの宿を利用すると良い。ロマ国内で唯一、国籍証明無くして宿泊が可能な場所だ。素性を問い質されることもないから、あんたのような人物が利用するにはぴったりだ。一般的な宿屋よりも多少値は張るがな」
「ニシキギの宿…ってどの辺りにあるんですか?」
「街の北側だ。ここからだと、海岸線に沿って歩いて行けば直に着く。街路樹に結わえた地名札を見ながら歩くんだ。カツラ、ハナミズキ、その次がニシキギだ。ニシキギと名の付く土地は狭いから、地名札を見逃さないようにな」
「わかりました。ありがとうございます」
野宿は回避。満面の笑みで頭を下げて、ゼータは街の北側へ向かうべく2人の男性に背を向ける。1か月に渡る大冒険を経て、身も心もへとへとだ。海の向こうへ渡る方法は追々考えることにして、今夜はゆっくりと身体を休めたいところである。浮かれ気分で歩み出すゼータを、男性が呼び止める。
「最後に一つ。夜の海には近寄るんじゃあない。ロマに滞在するなら、絶対に忘れてはならない規則だ」
男性の声には物々しい緊張感に満ちている。ゼータは歩みを止め、問う。
「夜の海には何があるんですか?」
「魔族が来る」
男性の声に満つるは、憎悪。
「海の向こうからは魔族がやって来る。闇に紛れて街に入り込んでは、ロマの人々を攫って行くんだ」
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