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荒城の夜半に龍が啼く
白髪のユダ-2
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ユダは元々遥か遠い異国の生まれだ。その土地には数多くのインキュバスがいたが、他者を隷属するという特殊な性質から淫魔と呼ばれ忌み嫌われていた。サキュバスという種族はその土地には居なかった。ユダは不条理な迫害から逃げ、あてのない旅をした。どれ程の時間か、どれ程の距離か最早想像も付かぬ。幾多の山を越え、川を渡り、町と集落を通り過ぎ、数か月の後に現在のバルトリア王国地帯に辿り着いた。当時この土地は現在の巨大な国家ではなく、数多の小国が乱立する混沌とした土地であった。幸いな事にこの土地にインキュバスはいなかった。文献には載るが、その存在は伝説上の生き物と言う位置付けで、ユダを淫魔と称し厭う者は存在しなかった。若かりしユダは本性を隠し、この地への定住を決める。人目に付く事を恐れ、目立つ白髪は黒く染めた。他者と身体を繋げる性は抑え、人を隷属させることもなく、小さな集落の片隅でひっそりと暮らしていた。
日々食うだけの生活を送っていたユダに目を留めたのは、当時ただの軍人であったブルタスであった。ブルタスはユダの翡翠色の瞳を見て、その色がこの土地に無い色である事に気が付いた。「どこか遠い地の生まれか」とブルタスはユダに問うた。幾度となく話す内にユダはブルタスに心を許し、やがて自らの本性を明かす。インキュバスと呼ばれる忌むべき存在である事を。
ブルタスは言う。
「俺と共に国を興すか」
数年後、ブルタスは言葉の通り国を興した。それが現在も残るバルトリア王国である。ブルタスは建国に協力した有力者の内7人を「七指」と命名し、配下として傍らに置いた。ユダもその内の一人である。ユダはブルタスを心から敬愛していた。忌むべき存在であるユダを必要としてくれた人、本性を知りながらも生を認めてくれたただ一人の人。父母のごとく彼を敬い、恋人のごとく彼に依存し、神のごとく彼を崇めた。ブルタスに向けられる反意の声は、たとえ冗談であっても許す事はなかった。黒の城の内部に反意の存在を知れば、ユダは独断でその者を罰した。隷属の魔法に掛け、人気のない部屋に誘き出し、首を狩り取った。いつしか黒の城には魔獣の存在が囁かれるようになる。ブルタスは目に見えぬ魔獣を狩っている。その魔獣は恐ろしいほど主に忠実で、逆らう者の首をことごとく狩り取るのだと。ブルタスはユダの強行に気付きながらも、表立って咎める事はしなかった。
「お前の思うままにやれば良い。俺はお前を見捨てはしない」
そしておよそ500年の治世の末に、ブルタスは斃れる事となる。ブルタスを思う七指はすぐさま新王を立て国を動かそうと試みるが、ユダはそれを許さなかった。6人の七指を隷属下に置き、城の時を止めた。その期間は現在に至るまでのおよそ1200年。国家の中枢である七指を支配したユダは、1200年もの間城が時を刻む事を許さなかった。
ユダは話し終えると、ゼータの脇腹に載せた脚を優雅に組み替えた。魔法で焼かれた傷跡に靴の踵が当たり、ゼータは痛みに身体を捩る。苦しげな呻き声と共にゼータは問う。
「なぜ城の時を止めたのですか」
「なぜ?敬愛する主の作った国を動かそうとするからだ。この国は1200年も前に完成されていた。最も良き時代で時を止めたんだ。感謝はされても責められる筋合いはない」
「ではフィビアスの即位を許した理由は?」
「フィビアスを王と認めたわけではない。ただあの女の掲げる理想郷が、滑稽で堪らなかっただけだ。100年の間国を貸してやると言った。100年の間にフィビアスが理想郷を成せばそのまま国をくれてやる。成せねば俺はフィビアスを王座から下ろし、主の在りし日に城を巻き戻す。そういう契約で俺は一時的にフィビアスに力を貸している」
退屈だったのだ、ユダは呟く。城の時を止めたところで、敬愛する主が戻る事はない。主の統治を懐かしみ、ただ目まぐるしく過ぎるだけの時を過ごす事は充実でもあり、虚しくもあった。しかし「国を変える」との名言の元、王座に居座ろうとする愚か者を王と認める気にもなれなかった。
そんな中に、フィビアスがやってきた。侍女として黒の城に潜り込んだ女は王座を狙っていた。ユダは雑談交じりにフィビアスの思う理想郷を聞き、腹を抱えるほどに笑った。国土を壁で覆って情報を遮断し、自らを神と崇め奉る民を育成する。なんと滑稽な、民を人とも思わぬ統治だ。久方ぶりの笑いの礼にユダは提案する。「100年の間お前に国を貸してやる」と。そうしてユダはフィビアスの協力者となる。
「質問は終わりか?まだ夜は長いぞ」
「ブルタス前国王は、自らの飼う魔獣に食われたと聞きました。彼を殺したのは貴方か」
「そうだ。俺が主を討った」
「なぜ」
「魔法が、解けなかったからだ」
滑らかな口調とは打って変わって、ユダはぽつりぽつりと語り始める。
ブルタスの統治が四百と九十年を超えた頃の事であった。月に一度ブルタスは城を空けるようになる。外出の理由を知る者はいなかった。最も近しい配下であるユダにさえ、行き先は告げられなかった。訝しんだユダは密かにブルタスの後を追う。辿り着いた先は、深い森の奥にひっそりと佇む集落であった。暮らす者が50にも満たない小さな集落。そこでブルタスは年若き女と逢瀬を重ねていた。
一つ木の幹に背を預け、和やかに語らうブルタスと女。ユダは驚愕する。そこにいるのはユダの知る厳格な王の顔ではない。寄り添う女を想うただ一人の男の顔だ。忌避感を抱きながらも、ユダは黙ってその場を後にした。恋心はいつか途絶える。心を和ませるための一時の逢瀬を咎める筋もない。しかしユダの予想に反して、ブルタスが外出の機会を途絶えさせることはない。それどころか月に一度の逢瀬は2週に1度となり、多い月には3度ブルタスは城を空けるようになる。
そうした月日が5年を超えた頃に、ユダは再びブルタスをつける。逢瀬の相手が変わっているやもしれぬという期待もあった。しかしブルタスの向かう先は5年前と同様の集落で、逢瀬の相手も同じ女。そして青々と茂った木の麓で語らう2人の間には、ブルタスによく似た男児の姿があった。
子を儲けたとしても人の想いは尽きる。ユダの期待も虚しく、それからさらに5年の月日が過ぎる。女の素性を探るために密かに集落を訪れていたユダは、偶然女の秘密を耳にする。女はバルトリア王国内で嫌忌の対象であるサキュバスだったのだ。女は自らの素性を隠し、小さな集落でひっそりと暮らしていた。かつてのユダがそうしていたかのように。女の秘密を知ったユダは怒り狂った。狡猾で卑しいサキュバスの女は、ブルタスに惑わしの術を掛けた。月に数度ブルタスを誘い出し子まで儲け、魔法による使役をさも真実の愛のように偽っている。城に戻ったユダはブルタスに全てを告げる。後をつけた非を謝罪し、女の素性を告げ、女とは2度と会わぬよう烈火のごとく捲し立てる。ユダの激情にブルタスは冷めた言葉を返す。
「俺は魔法に掛けられてはいない。真実彼女を愛している」
それから少しばかり後の事であった。ブルタスが妃を迎え入れる、という噂がユダの耳に飛び込んでくる。縋るような思いで、ユダは妃となる女性の到着に立ち会う。白百合の紋様を掲げた馬車から降りて来た女性は、ユダの知る卑しきサキュバスの女であった。
女と御子はあくまで客人という振る舞いで黒の城に滞在した。民や官吏へのお披露目は1月先、女と御子が城での暮らしに慣れた頃だとブルタスは言った。暇さえあればブルタスは女の元へと向かう。ユダの知らぬ柔和な笑みで女と語らい、ユダの知らぬ幸福に満ち足りた顔で御子を抱く。魔法を行使し妃に成り上がる下劣なサキュバスが。ユダの怒りは留まるところを知らぬ。
妃と御子のお披露目を翌日に控えた夜、ユダは女を空き部屋に呼び出す。ブルタスに掛けた惑わしの術を解き、今すぐ城を去れ。ユダの言葉に女は凛と返す。
「私は魔法を掛けてはいない。真実彼を愛している」
自らの悪を頑なに認めぬ浅ましい女、下賤で卑劣なサキュバス。ユダは怒りに任せ女の首を討ち取る。石床に転がる女の首を踏み付け笑う。これで主は解放される。嬉々として王座の間へ向かう途中で、ユダはブルタスと鉢合う。夜分に部屋を空けた女をブルタスは案じていた。
「アンを見なかったか」
「彼女でしたら下階の部屋に」
ユダはブルタスと共に、女の死体を打ち捨てた部屋に向かった。魔法の効力が途絶えた今、ブルタスにとって女は憎むべき敵。忌まわしき魔法から解放された事を喜ぶはずだ。ユダの予想とは裏腹に部屋に立ち入ったブルタスは精悍な顔を朱に染めた。激高しユダに掴み掛かるブルタスの唇から吐き出される言葉は罵詈雑言。ユダの求めた謝辞と激励ではない。ユダは絶望する。殺してもなお女の魔法は解けない。ユダは懐に隠していた短剣でブルタスの首を討ち取る。女の首を落としたのと同じ剣で。
「使役の魔法は、サキュバスを殺せば解けるはずであった。しかしあの女の魔法は解けなかった。俺の知らぬ技を使ったのだ。死してなお主の御心を縛る下賤なサキュバスの女が」
過去を語るうちに当時の激情を思い出し、ユダは薄暗い部屋の中をうろうろと歩き回っていた。白髪を掻き毟るユダの耳に、震えを帯びたゼータの声が届く。
「ブルタス前国王は魔法の支配下にはなかった」
「お前もそれを言うのか。低俗なサキュバス如きが、魔法無しにいかにして主の御心を射止めたというのだ」
「2人は心から愛し合っていた」
「愛?下らぬ言葉を吐き散らかすな。人を誑かすしか能のないサキュバスを愛する者などいない。お前が魔法を使い神獣の王を唆した事は知っている。残念だったな。フィビアスの僕に下った今、レイバック王の心はお前から離れた。精々喰い殺されないよう祈る事だ」
「私は魔法を使っていない」
ユダは脚を止める。手足を縛られ無様に床に横たわるゼータに歩み寄り、無防備な背中を蹴り上げる。
「あの女も死の間際にそう言った。主に掛けた魔法を解けと何度言っても、頑なに否と言う。私は魔法など使っていないと。偽りの情を真実の愛と誤想し、首を捥がれた愚かな女だ」
「愚かはお前だ。お前はブルタス前国王の情が薄れる事が怖かっただけだ。親の愛情を独り占めしたいだけの餓鬼。自らの思想に冒され、他者の心を顧みぬ愚者。今ここで舌を噛み切り幾多の民に詫びろ」
ゼータの罵倒は一字一句鮮明にユダの耳に届いた。ユダは脚を振り上げ、ゼータの身体を力の限りに蹴り飛ばした。抵抗のできないゼータは数mの距離を転がり、身体をくの時に折り曲げて激しく咳き込む。それだけでは飽き足らず、ユダはゼータに歩み寄り、未だ鮮血の滲み出る腹に馬乗りになった。埃まみれの黒髪を掴み上げその顔面を殴打する。2度、3度。4度、5度。いくら殴ってもユダの心が晴れる事はない。
初めからこの男は嫌いだった。ブルタスと同じ黒髪と黒眼。廊下で一目見た時から、ゼータの容姿はユダの神経を逆撫でた。敬愛するブルタスを思い起こさせるからではない。彼の愛情を受けた憎々しい御子を思い出すからだ。愛情だけに飽き足らず、御子はブルタスの魔法をも受け継いだ。民を震え上がらせた強大な魔法を、ブルタスは密かに御子に教え込んでいた。それゆえユダは御子を殺せなかった。
1200年前。折り重なるようにして事切れたブルタスと女を空き部屋に残し、ユダは御子をも討ち取るべく王の寝室へと向かった。ベッドの上で父母の帰りを待っていた御子に2人の訃報を告げ、その首を落とすべく剣を振り上げた。しかしユダの剣が御子に届くことはない。御子は苛烈な魔法でユダを弾き飛ばし、王座の壁を壊し、夜の闇に消えた。当時7つにも満たぬ子どもが、ブルタスさえも討ち取ったユダの剣から逃げ果せたのだ。
御子を逃したことはユダにとっての汚点。卑しきサキュバスの腹から生まれた子など、死して然るべきであった。年端も行かない餓鬼など、どこかで野垂れ死んだに決まっている。そう自身に言い聞かせながらも、御子の存在はユダの心に一点の影を作った。今ユダが拳を打ち付ける男は、ユダに忌むべき御子を思い起こさせる。この男を殺せば心は晴れるだろうか。伝言役になど据えずに、今ここで殴り殺してしまおうか。
振り下ろす拳が10度目を数えた時に、ゼータの眼部を覆っていた手拭いがはらりと落ちた。漆黒の瞳がユダを見る。その色はユダの敬愛するブルタスと同じ色。そして幾度とない殴打により、血を流し腫れたその顔は、ユダの記憶の中で褪せることのないブルタスの顔によく似ていた。
日々食うだけの生活を送っていたユダに目を留めたのは、当時ただの軍人であったブルタスであった。ブルタスはユダの翡翠色の瞳を見て、その色がこの土地に無い色である事に気が付いた。「どこか遠い地の生まれか」とブルタスはユダに問うた。幾度となく話す内にユダはブルタスに心を許し、やがて自らの本性を明かす。インキュバスと呼ばれる忌むべき存在である事を。
ブルタスは言う。
「俺と共に国を興すか」
数年後、ブルタスは言葉の通り国を興した。それが現在も残るバルトリア王国である。ブルタスは建国に協力した有力者の内7人を「七指」と命名し、配下として傍らに置いた。ユダもその内の一人である。ユダはブルタスを心から敬愛していた。忌むべき存在であるユダを必要としてくれた人、本性を知りながらも生を認めてくれたただ一人の人。父母のごとく彼を敬い、恋人のごとく彼に依存し、神のごとく彼を崇めた。ブルタスに向けられる反意の声は、たとえ冗談であっても許す事はなかった。黒の城の内部に反意の存在を知れば、ユダは独断でその者を罰した。隷属の魔法に掛け、人気のない部屋に誘き出し、首を狩り取った。いつしか黒の城には魔獣の存在が囁かれるようになる。ブルタスは目に見えぬ魔獣を狩っている。その魔獣は恐ろしいほど主に忠実で、逆らう者の首をことごとく狩り取るのだと。ブルタスはユダの強行に気付きながらも、表立って咎める事はしなかった。
「お前の思うままにやれば良い。俺はお前を見捨てはしない」
そしておよそ500年の治世の末に、ブルタスは斃れる事となる。ブルタスを思う七指はすぐさま新王を立て国を動かそうと試みるが、ユダはそれを許さなかった。6人の七指を隷属下に置き、城の時を止めた。その期間は現在に至るまでのおよそ1200年。国家の中枢である七指を支配したユダは、1200年もの間城が時を刻む事を許さなかった。
ユダは話し終えると、ゼータの脇腹に載せた脚を優雅に組み替えた。魔法で焼かれた傷跡に靴の踵が当たり、ゼータは痛みに身体を捩る。苦しげな呻き声と共にゼータは問う。
「なぜ城の時を止めたのですか」
「なぜ?敬愛する主の作った国を動かそうとするからだ。この国は1200年も前に完成されていた。最も良き時代で時を止めたんだ。感謝はされても責められる筋合いはない」
「ではフィビアスの即位を許した理由は?」
「フィビアスを王と認めたわけではない。ただあの女の掲げる理想郷が、滑稽で堪らなかっただけだ。100年の間国を貸してやると言った。100年の間にフィビアスが理想郷を成せばそのまま国をくれてやる。成せねば俺はフィビアスを王座から下ろし、主の在りし日に城を巻き戻す。そういう契約で俺は一時的にフィビアスに力を貸している」
退屈だったのだ、ユダは呟く。城の時を止めたところで、敬愛する主が戻る事はない。主の統治を懐かしみ、ただ目まぐるしく過ぎるだけの時を過ごす事は充実でもあり、虚しくもあった。しかし「国を変える」との名言の元、王座に居座ろうとする愚か者を王と認める気にもなれなかった。
そんな中に、フィビアスがやってきた。侍女として黒の城に潜り込んだ女は王座を狙っていた。ユダは雑談交じりにフィビアスの思う理想郷を聞き、腹を抱えるほどに笑った。国土を壁で覆って情報を遮断し、自らを神と崇め奉る民を育成する。なんと滑稽な、民を人とも思わぬ統治だ。久方ぶりの笑いの礼にユダは提案する。「100年の間お前に国を貸してやる」と。そうしてユダはフィビアスの協力者となる。
「質問は終わりか?まだ夜は長いぞ」
「ブルタス前国王は、自らの飼う魔獣に食われたと聞きました。彼を殺したのは貴方か」
「そうだ。俺が主を討った」
「なぜ」
「魔法が、解けなかったからだ」
滑らかな口調とは打って変わって、ユダはぽつりぽつりと語り始める。
ブルタスの統治が四百と九十年を超えた頃の事であった。月に一度ブルタスは城を空けるようになる。外出の理由を知る者はいなかった。最も近しい配下であるユダにさえ、行き先は告げられなかった。訝しんだユダは密かにブルタスの後を追う。辿り着いた先は、深い森の奥にひっそりと佇む集落であった。暮らす者が50にも満たない小さな集落。そこでブルタスは年若き女と逢瀬を重ねていた。
一つ木の幹に背を預け、和やかに語らうブルタスと女。ユダは驚愕する。そこにいるのはユダの知る厳格な王の顔ではない。寄り添う女を想うただ一人の男の顔だ。忌避感を抱きながらも、ユダは黙ってその場を後にした。恋心はいつか途絶える。心を和ませるための一時の逢瀬を咎める筋もない。しかしユダの予想に反して、ブルタスが外出の機会を途絶えさせることはない。それどころか月に一度の逢瀬は2週に1度となり、多い月には3度ブルタスは城を空けるようになる。
そうした月日が5年を超えた頃に、ユダは再びブルタスをつける。逢瀬の相手が変わっているやもしれぬという期待もあった。しかしブルタスの向かう先は5年前と同様の集落で、逢瀬の相手も同じ女。そして青々と茂った木の麓で語らう2人の間には、ブルタスによく似た男児の姿があった。
子を儲けたとしても人の想いは尽きる。ユダの期待も虚しく、それからさらに5年の月日が過ぎる。女の素性を探るために密かに集落を訪れていたユダは、偶然女の秘密を耳にする。女はバルトリア王国内で嫌忌の対象であるサキュバスだったのだ。女は自らの素性を隠し、小さな集落でひっそりと暮らしていた。かつてのユダがそうしていたかのように。女の秘密を知ったユダは怒り狂った。狡猾で卑しいサキュバスの女は、ブルタスに惑わしの術を掛けた。月に数度ブルタスを誘い出し子まで儲け、魔法による使役をさも真実の愛のように偽っている。城に戻ったユダはブルタスに全てを告げる。後をつけた非を謝罪し、女の素性を告げ、女とは2度と会わぬよう烈火のごとく捲し立てる。ユダの激情にブルタスは冷めた言葉を返す。
「俺は魔法に掛けられてはいない。真実彼女を愛している」
それから少しばかり後の事であった。ブルタスが妃を迎え入れる、という噂がユダの耳に飛び込んでくる。縋るような思いで、ユダは妃となる女性の到着に立ち会う。白百合の紋様を掲げた馬車から降りて来た女性は、ユダの知る卑しきサキュバスの女であった。
女と御子はあくまで客人という振る舞いで黒の城に滞在した。民や官吏へのお披露目は1月先、女と御子が城での暮らしに慣れた頃だとブルタスは言った。暇さえあればブルタスは女の元へと向かう。ユダの知らぬ柔和な笑みで女と語らい、ユダの知らぬ幸福に満ち足りた顔で御子を抱く。魔法を行使し妃に成り上がる下劣なサキュバスが。ユダの怒りは留まるところを知らぬ。
妃と御子のお披露目を翌日に控えた夜、ユダは女を空き部屋に呼び出す。ブルタスに掛けた惑わしの術を解き、今すぐ城を去れ。ユダの言葉に女は凛と返す。
「私は魔法を掛けてはいない。真実彼を愛している」
自らの悪を頑なに認めぬ浅ましい女、下賤で卑劣なサキュバス。ユダは怒りに任せ女の首を討ち取る。石床に転がる女の首を踏み付け笑う。これで主は解放される。嬉々として王座の間へ向かう途中で、ユダはブルタスと鉢合う。夜分に部屋を空けた女をブルタスは案じていた。
「アンを見なかったか」
「彼女でしたら下階の部屋に」
ユダはブルタスと共に、女の死体を打ち捨てた部屋に向かった。魔法の効力が途絶えた今、ブルタスにとって女は憎むべき敵。忌まわしき魔法から解放された事を喜ぶはずだ。ユダの予想とは裏腹に部屋に立ち入ったブルタスは精悍な顔を朱に染めた。激高しユダに掴み掛かるブルタスの唇から吐き出される言葉は罵詈雑言。ユダの求めた謝辞と激励ではない。ユダは絶望する。殺してもなお女の魔法は解けない。ユダは懐に隠していた短剣でブルタスの首を討ち取る。女の首を落としたのと同じ剣で。
「使役の魔法は、サキュバスを殺せば解けるはずであった。しかしあの女の魔法は解けなかった。俺の知らぬ技を使ったのだ。死してなお主の御心を縛る下賤なサキュバスの女が」
過去を語るうちに当時の激情を思い出し、ユダは薄暗い部屋の中をうろうろと歩き回っていた。白髪を掻き毟るユダの耳に、震えを帯びたゼータの声が届く。
「ブルタス前国王は魔法の支配下にはなかった」
「お前もそれを言うのか。低俗なサキュバス如きが、魔法無しにいかにして主の御心を射止めたというのだ」
「2人は心から愛し合っていた」
「愛?下らぬ言葉を吐き散らかすな。人を誑かすしか能のないサキュバスを愛する者などいない。お前が魔法を使い神獣の王を唆した事は知っている。残念だったな。フィビアスの僕に下った今、レイバック王の心はお前から離れた。精々喰い殺されないよう祈る事だ」
「私は魔法を使っていない」
ユダは脚を止める。手足を縛られ無様に床に横たわるゼータに歩み寄り、無防備な背中を蹴り上げる。
「あの女も死の間際にそう言った。主に掛けた魔法を解けと何度言っても、頑なに否と言う。私は魔法など使っていないと。偽りの情を真実の愛と誤想し、首を捥がれた愚かな女だ」
「愚かはお前だ。お前はブルタス前国王の情が薄れる事が怖かっただけだ。親の愛情を独り占めしたいだけの餓鬼。自らの思想に冒され、他者の心を顧みぬ愚者。今ここで舌を噛み切り幾多の民に詫びろ」
ゼータの罵倒は一字一句鮮明にユダの耳に届いた。ユダは脚を振り上げ、ゼータの身体を力の限りに蹴り飛ばした。抵抗のできないゼータは数mの距離を転がり、身体をくの時に折り曲げて激しく咳き込む。それだけでは飽き足らず、ユダはゼータに歩み寄り、未だ鮮血の滲み出る腹に馬乗りになった。埃まみれの黒髪を掴み上げその顔面を殴打する。2度、3度。4度、5度。いくら殴ってもユダの心が晴れる事はない。
初めからこの男は嫌いだった。ブルタスと同じ黒髪と黒眼。廊下で一目見た時から、ゼータの容姿はユダの神経を逆撫でた。敬愛するブルタスを思い起こさせるからではない。彼の愛情を受けた憎々しい御子を思い出すからだ。愛情だけに飽き足らず、御子はブルタスの魔法をも受け継いだ。民を震え上がらせた強大な魔法を、ブルタスは密かに御子に教え込んでいた。それゆえユダは御子を殺せなかった。
1200年前。折り重なるようにして事切れたブルタスと女を空き部屋に残し、ユダは御子をも討ち取るべく王の寝室へと向かった。ベッドの上で父母の帰りを待っていた御子に2人の訃報を告げ、その首を落とすべく剣を振り上げた。しかしユダの剣が御子に届くことはない。御子は苛烈な魔法でユダを弾き飛ばし、王座の壁を壊し、夜の闇に消えた。当時7つにも満たぬ子どもが、ブルタスさえも討ち取ったユダの剣から逃げ果せたのだ。
御子を逃したことはユダにとっての汚点。卑しきサキュバスの腹から生まれた子など、死して然るべきであった。年端も行かない餓鬼など、どこかで野垂れ死んだに決まっている。そう自身に言い聞かせながらも、御子の存在はユダの心に一点の影を作った。今ユダが拳を打ち付ける男は、ユダに忌むべき御子を思い起こさせる。この男を殺せば心は晴れるだろうか。伝言役になど据えずに、今ここで殴り殺してしまおうか。
振り下ろす拳が10度目を数えた時に、ゼータの眼部を覆っていた手拭いがはらりと落ちた。漆黒の瞳がユダを見る。その色はユダの敬愛するブルタスと同じ色。そして幾度とない殴打により、血を流し腫れたその顔は、ユダの記憶の中で褪せることのないブルタスの顔によく似ていた。
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これは隣国の帝国皇太子に嫁いだ小王国の『姫君』のお話。
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