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荒城の夜半に龍が啼く
救いの手は
しおりを挟む「痛ぁ…」
ゼータはしたたかに殴られた右頬を撫で、呟いた。口の中が切れ出血がある。深い傷ではないが、しばらく熱いものを食べるには難儀するだろう。溜息を零しながら、ゼータは絨毯の上からのろのろと身体を起こした。
突然の顔面への殴打に脳が揺れ、意識が飛んでいた。部屋に掛かる時計を見れば、幸いなことに殴られてからまだ数分の時しか経ってはいない。今から急いでレイバックを追えば、まだ十分に間に合う時間だ。間に合う?何に間に合うのか。決まっている。フィビアスがレイバックを完全な服従下に置くまでにだ。恐らくレイバックに掛けられている魔法は一時的なもの。ゼータが石化から目覚めたときに、彼らがまだ応接室にいたことを鑑みれば、あの時レイバックを完全な支配下に置くだけの時間はなかったのだ。サキュバスが多種族を完全な支配下に置くためには、性行為により体内での射精を促す必要がある。どんなに急いだとしても、数十分の時間はかかるはずだ。
ゼータは絨毯の上で膝を抱え思案する。今からレイバックの元へ向かえば、性行為の邪魔立ては十分に可能。しかし城の内部には、ゼータの行動を阻止するための配下が配置されている可能性は高い。フィビアスはレイバックを誘き寄せた今も、ゼータに自由を許している。自らの元へ辿り着かせない自信があるからだ。
「そう簡単には行きませんよ」
萎える身体を奮い立たせるように呟き、ゼータは絨毯の上に落ちた旅行カバンを引き寄せた。
それから数分後、客室の中には1人の男性官吏の姿があった。黒の城内部では珍しくもない黒髪、黒の両眼。顔面にさしたる特徴はなし。服装は麻の白シャツに質素なズボンで、靴は洒落っ気のない運動靴だ。鏡の中の自身の姿を見据え、ゼータは「よし」と腫れた頬を軽く叩いた。ダイナと城の散策をしたときに、黒の城の官吏と顔を合わせて。今のゼータの格好は、彼らと比べ何ら遜色がない。すれ違う程度の接触ならば、城の者を誤魔化すことは十分に可能なはず。
フィビアスの配下が「ゼータの姿を見れば攻撃せよ」との命令の元、城の内部を動き回っている可能性は十分にある。しかし今や一介の官吏となったゼータの姿を見て、ドラキス王国の王妃だと想像に至る者などいないだろう。ゼータは黒の城に到着してから、一度も男性体になっていないのだから。
ゼータは床に落ちたカバンを漁り、荷物の底から数枚重ねの書類を引っ張りだした。即位式に参列する国王方の名前や、黒の城の情報が掛かれたメリオン手製の資料だ。ど忘れに備えカバンの底に忍び込ませて来たのだ。折り目を伸ばした書類を胸の前に抱え、ゼータはもう一度鏡の中を眺め入る。立派な城の官吏だ。伊達に王宮で週に2度、官吏の真似事をしている訳じゃない。口内から流れ出た血を指先で拭い、ゼータは薄く笑う。
客室を出たゼータは、下階へと続く階段を下りた。目指すは王と七指の居住棟である西棟だ。今いる場所は南棟の4階、官吏の政務区域である2階から西棟へと渡る必要がある。ダイナとの散策で誤って足を踏み入れた場所だ。
階段を下り政務区域を歩く間に、ゼータは数度人とすれ違う。すれ違う人は籠を抱えた侍女であったり、ゼータと同様書類を手にした官吏であったりと様々だ。しかしいずれもゼータを疑う素振りはない。まさか大国の王妃が官吏の格好をして城の中を動き回っているなどと、想像する方が難しい。城の中に人通りが多いことも、ゼータにとっては幸いであった。即位式の準備で滞った公務を片づけるためか、21時を回る時間であるにも関わらず政務区域には人の出入りがある。公務を行う官吏がいるのならば、書類を抱えたゼータが王と七指の生活区域である西棟に入り込んでも不自然ではない。
4度目となる官吏との接触をやり過ごし、ゼータは無事西棟に足を踏み入れた。政務区域に比べ灯りの少ない廊下で、ひっそりと息を付く。ブルタス前国王の肖像がある部屋の扉を過ぎれば、間もなくダイナとともに下った階段が見えてくる。あの時は屋外に出るべく階段を下ったが、今目指すべくは上階だ。ゼータは在りし日の記憶を辿る。
「王座の場所は西棟7階白百合の部屋」
東西に長く伸びた南棟は、建物の東側に1階から6階までを貫く階段がある。さらに1階から3階の政務区域にのみ、利便性を考慮し西側にも階段が設けられている。
西棟も南棟と同様、東西に長く伸びた建物だ。7階建ての西棟の内部構造は南棟とさほど変わりがないが、1点だけ大きく違う場所がある。それが階段の配置だ。西棟の1階から2階へ続く階段は棟の中腹辺り、2階から3階へ続く階段は棟の西側、3階から4階へ続く階段は棟の東側と、それぞれの階層で階段の配置が異なるのである。上層階へ上がるためには、長い廊下を歩くことは避けられない。
西棟がこのような面倒な構造になっているのは、最上階である7階に王座の間があるためだ。1階から最上階までを貫く階段があったのでは、万が一敵襲があった場合に安易に王座への到達を許しかねない。場所を違えた階段を設ける事により、敵は5階と6階にある七指の私室の前を否が応でも通らねばならない構造となっている。この敵襲に備えた建物の構造を考案した者はブルタス前国王だ。暴王と名高い男であるだけに城下に敵は多く、500年に及ぶ治世の間に、敵襲を受けた回数は両手の指では足りないほどであった。しかしいずれもこの面倒な西棟の構造が幸いし、敵は王座に辿り着く前に討ち取られることとなったのである。
官吏になりすましたゼータは、西棟の4階まで難なく辿り着いた。西棟に立ち入ってから城の関係者との接触は2度、書類を小脇に抱えた官吏と、ひび割れたランタンの修繕に当たる侍女だ。両名とも歩きながら会釈をするゼータの顔を一瞥するも、見慣れぬ顔だと疑いを抱いた様子はない。日頃王宮の政務区域に出入りするゼータであっても、全ての官吏の顔など覚えていない。黒の城の関係者も同様なのだろう。
ゼータは西棟の中央付近に設けられた上り階段に足を掛ける。煤けたランタンの放つまだらな光が石造りの階段を照らし、得も言われぬ不気味な雰囲気を醸し出している。この階段の先にある5階は、例え城の関係者であっても安易な立ち入りは許されない。七指と王の居住区域だ。侍女の立ち入りですら制限される区域で人に出くわせば、官吏の装いのゼータであっても間違いなく疑いを抱かれる。この先は運との勝負だ。
息を潜め、ゼータは5階へと続く階段を駆け上がった。ひやりと冷たい壁に身を隠し、左右に伸びる廊下の様子を伺い見る。灰色の絨毯が敷かれた廊下に、今人の気配はない。飾り気のない廊下の両脇にはいくつかの扉が設けられているが、どの扉も固く閉ざされている。中から目立った物音も聞こえない。次なる6階へと続く階段は棟の西側、不穏な空気の漂う廊下を歩く事は避けられない。物音を立てぬよう息を潜めて通り抜けるか、それとも脱兎のように走り抜けるか。
迷った挙句、ゼータは不穏な廊下を全力疾走で駆け抜けることを選んだ。どのみち王座に飛び込めば敵との相対は避けられない。1人2人の敵が追っ手に付いたところで、さしたる違いはない。
何よりも恐れるべきは、救出が遅れレイバックが完全な魔法の支配下に置かれることである。惑わしの術の効果は永続的だ。一度魔法を掛けられてしまえば、ゼータがレイバックを助け出すことは不可能に等しくなる。
よし、と腫れた頬を再度叩き、ゼータは屈伸をした。小脇に抱えた紙の資料は四つ折りにし、胸のポケットに仕舞い込む。続いて手の開閉を繰り返し、魔法の発動に支障がないことを確認する。追手が一介の官吏や兵士程度であれば、得意の魔法で吹き飛ばしてやる。
そう意気込んで長い廊下を駆け出したゼータであるが、はやる脚は無残にも途中で止められる事となった。僅か十数m駆けたところで、ゼータの行く先の扉が開いたのである。突然行く手を阻まれ、つんのめるようにして脚を止めたゼータの前に、一人の男が姿を現す。薄明かりに煌めく白髪、透けるような翡翠色の瞳。目の前の扉から悠然と姿を現したその人物は、ゼータがダンスパーティーの夜に出会った男だ。
「ここで何をしている」
開けた扉の縁に手を掛けたまま、男は問う。翡翠の両眼はゼータを見据えるが、内にある感情を読み取ることはできない。男はゼータがドラキス王国の王妃であると気が付いているのか、いないのか。後者の可能性に賭け、ゼータは堂々と声を張る。
「七指の皆様に至急お伝えしたい事項がございます。公務時間外に申し訳ありません」
廊下に響く声音で謝罪を済ませ、ゼータは男の顔を見据えた。ゼータの全身を舐めるように見ていた男は、やがて薄い唇に笑みを形作る。
「成程。では今ここで用を済ませると良い」
男がそう言うと、開け放たれたままの扉の内側から3人の女性が歩み出てくる。姿形の様々な3人は皆ゼータの知らない顔。だがその相貌は特徴的だ。獣を思わせるしなやかな四足に、金色の尾を備えた女性。華奢な下半身に不釣り合いな双腕を持つ女性。身体の至る所に七色の鱗を生やした女性。途端、ゼータの脳裏にメリオンの言葉が蘇る。
-剛腕のシーズイ、鱗人のカデュラ、白髪のユダ。俺が知っている名はそれだけだ。この名をゆめゆめ忘れるな
七指、とゼータは呟く。今ゼータの目の前にいる物たちこそが、ブルタス前国王に仕えた実力者。国王亡き1200年の時を生き、今はサキュバスの下僕となり果てた哀れな者達。恐れるべき敵との遭遇に、ゼータは冷や汗を流しながらじりじりと後ずさる。途端、白髪の男の声が凛と響く。
「まさか官吏に化けて乗り込んで来るとはな。案としては…悪くはない。だが相手が悪かった。お前の姿は、客室を出たときから俺の眼に映っていた。首筋にある黒百合の痣は、俺の所有印だ。気が付かなかったか?」
男は自身のこめかみを指先で叩く。ゼータは全てが繋がった心地だ。目の前の男―白髪のユダは惑わしの術と同系統の魔法を会得している。多種族を己の支配下におき、意のままに操ることができるのだ。さらには支配下に置いた者の視界を借りることもできる―と。日頃魔法書を読み漁るゼータであるが、そのような特異の魔法は聞いたことがない。知らないからこそ、恐ろしい。
ユダはずっとゼータを見ていたのだ。ゼータが石になったときにはマギの眼を通して、そしてゼータがここに辿り着くまでの間はそこかしこにいた侍女や官吏の眼を通して、ずっとゼータを監視していた。何故?そんなことは決まっている。ゼータを足止めするためだ。フィビアスがレイバックを下僕に下すだけの時間を確保するため。初めから全て仕組まれていた。
「愚かな奴だ。愛しい番を寝取られたとめそめそ泣いていれば良かったものを。そうすれば五体満足で国に帰ることができた」
ユダの右手がゆらりと掲げられた。剛腕のシーズイ、鱗人のカデュラ、そしてもう一人ゼータが名を知らない七指の女性は、瞬き一つせずユダの右手を見つめていた。彼らの首筋には黒百合の痣がある。それはユダの所有印。3人の七指が、ユダの支配下にあることを物語っている。
「そいつを捕えろ。殺すなよ」
ユダの言葉を合図に、瞬時に翳された3つの掌が目も眩むような光線を放った。
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