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荒城の夜半に龍が啼く
ミーシャの教え
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「レイ、無事ですか?サキュバスの魔法には掛けられていない?」
「どうだろう。俺は無事か?変なところはないか?」
連れ立って儀式棟の外に出たレイバックとゼータは、草むらに座り込んで魔法の恐怖に打ち震えていた。ダンスパーティーの開宴に合わせて儀式棟に立ち入ったとき、空はまだ夕焼け模様であった。「しかしダンスに興じるうちに太陽はその姿を隠し、拓けた儀式棟の周囲にはひやりとした風が吹き抜ける。風の音にのって、どこか遠く魔獣の遠吠えが聴こえる。空気は澄み、雲がなければさぞかし綺麗な星空を臨むことができただろうが、厚雲に覆われた夜空には一粒の星さえも見つけることは叶わない。
儀式棟の門灯りに照らされる草むらで、ゼータはレイバックの胸元にぺたぺたと手を這わす。
「見たところ異常はなさそうですけれど…ダンスに不必要な接触はされていないですか?」
「されていないと思うが…。会話は最低限に抑えたし、極力目も合わさなかったし」
人目も憚らず、レイバックのシャツの裾を捲り上げるゼータ。2人の背後で、不意に慎ましやかな笑い声がした。振り返れば儀式棟の入り口に2人の女性が立っている。橙色のドレスは竜族国家リンロンの女王ミーシャ、白のドレスは幻獣族国家の女王リリアナだ。寄り添う2人は笑い声を零しながら、草むらに座り込むレイバックとゼータの元へと歩いてくる。
「ドラゴンの王でもサキュバスの魔法は怖いのですね。即位式で見事な宣戦布告をなさっていましたから、てっきり歯牙にも掛けておられないのかと」
「怖いに決まっているだろう。発動条件のわからない魔法だ」
ゼータに服の裾をまくられたまま、レイバックは眉根を寄せる。ミーシャとリリアナはレイバックを囲うようにして草むらに座り込み、門灯りの下に橙色と白色のドレスがふわりと広がる。
「レイバック様は、惑わしの術に掛けられてはおりませんよ」
ドレスと同じく、花を咲かせたようなミーシャの笑み。レイバックは上ずった声を上げる。
「そうなのか?なぜわかる」
「私は惑わしの術の発動条件を心得ております。同盟国の国王方の要望もあり、ダンスパーティーの最中はフィビアス女王の一挙一動を観察しておりました。しかしフィビアス女王は開宴から現在に至るまで、どなたにも惑わしの術を掛けてはおりません。レイバック様、貴方にも」
「…待て。ミーシャ殿、貴女は惑わしの術の発動条件を知っている?」
レイバックは唇を震わせる。レイバックの衣服から手指を離したゼータも、驚きの表情でミーシャを見つめる。
「存じておりますとも。我が国に住まうサキュバスから聞き及んだ情報ですから、まず間違いはありません」
「サキュバス本人が、貴女に技の発動条件を教えたのか」
「そう、強引に聞き出したわけではございませんよ。その者は王宮に仕える下女の一人で、私が黒の城へ滞在せねばならぬことを知り、こっそりと教えてくれたのです」
「竜族国家リンロンの王宮では、サキュバスの下女を受け入れているのか」
竜族国家リンロンでは、悪魔族と吸血族の難民を受け入れていると昨日アメシスが言った。難民として保護するだけではなく、まさか王宮での働き口まで紹介しているのかと、レイバックは驚愕の面持ちだ。しかしミーシャはふるふると首を横に振る。
「全てのサキュバスを等しく受け入れているわけではございません。サキュバスは狡猾的で、他種族を使役することを悪とも思わない。安易に王宮に受け入れれば国家が傾きかねません。ただその下女は幼少時に難民としてリンロンで保護されたため、サキュバスの技を使った経験がないのです。知識として発動条件を知っていても、実際に他者を使役した経験はない。そうした特異な経歴の持ち主であるからこそ、知者として王宮で保護しているのです。彼女がサキュバスであるという事実を知る者は、私を含め王宮に数名しかおりません」
穏やかに語るリーシャは、橙色のスカートが草露に濡れることを気にも留めていないようだ。ミーシャの横には、にこやかに笑うリリアナがいる。2人の女王の顔を何度か見やり、レイバックはまたミーシャに視線を向ける。
「リーシャ殿。どうか俺の頼みを聞き入れてはもらえぬか。惑わしの術の発動条件を教えてほしい」
突然の願いに、ミーシャは虚を突かれたような表情だ。
「惑わしの術の発動条件を?申し訳ありませんが、それはできません。惑わしの術は、サキュバスにとって己の命を守る技。発動条件を多種族に知られたとなっては、生きていくことすら困難になってしまいます。ただでさえサキュバスは、多種族から酷く嫌われているのに」
「ミーシャ殿から聞いた内容は、この旅路を終えれば綺麗さっぱり忘れると誓う。決して他者には漏らさない。そういう約束で、どうか頼む」
必死の表情のレイバックは、ミーシャに自らの置かれた状況を事細かに説明する。出発の直前にフィビアス女王から対談の申し出があったこと、あまりにも突然の申し出に行程の変更が不可能であったこと、対談の裏に悪意が潜む可能性を捨てきれないこと。レイバックが説明を終えたとき、ミーシャの表情には迷いが生まれる。
「そう…そんな事情がございましたか…」
ミーシャはそれきり黙り込んだ。レイバックとゼータは、祈るような気持ちでミーシャの答えを待つ。リリアナも今ばかりは真面目な表情で、じっと事の成り行きを見守っていた。何度目かのそよ風が芝生を撫でたとき、ミーシャはふ、と表情を緩める。
「そういう事情でしたら、致し方ありませんね。ドラゴンの王がサキュバスの下僕となっては、私たちは不安で夜も寝られません。レイバック様、ゼータ様。あなた方にサキュバスの技が何たるかをお伝えいたしましょう」
「そうか。ありがたい」
「ただし一つだけ約束なさいませ。これから私が話す内容は、無事ドラキス王国に帰り着いた暁には全て忘れてしまうこと。誰にも伝えてはなりません。秘伝の技を多種族に暴かれては、サキュバスは生きることすらままなりません」
「…わかった。ドラキス王国国王の名に誓おう」
厳粛と頷くレイバックの横で、ゼータも静かに「わかりました」と答えた。
ミーシャの指示を受けて、リリアナは会話の場を退席した。どうやらリリアナはミーシャの傍にいたものの、サキュバスの技の発動条件については知らされていないらしい。一国の女王が単身ダンスパーティーの会場にいれば、ダンスの誘いを受けることは避けられない。ダンスをしながらでは、フィビアスの挙動を見守ることは難しくなる。リリアナは人払い担当、というところだろうか。
リリアナが会話の届かない場所まで離れたことを確認し、ミーシャは声を潜めて語り出す。
「まず端的に申し上げましょう。惑わしの発動条件は『体液の交換』。即ちサキュバスは己の体液を他者に与え、そして奪うことで、その者を完全な魔法の支配下におきます。一口に体液と言っても、体内からの分泌物であればなんでも良い、というわけではございません。惑わしの術の発動に必要な体液は、『唾液』と『精液』」
そこで言葉を切ると、ミーシャは薄紅の唇の間からぺろりと舌を出した。唾液に濡れた真っ赤な舌が、門灯りの下に晒される。ゼータはじっとミーシャの口元を見つめるが、レイバックはやや気まずそうに身動ぎをする。
「サキュバスはまず対象者に『唾液』を与える―つまりは口付けをすることで、その者を一時的な支配下におきます。この段階での支配は非常に不安定なもので、複雑な命令を与えることはできません。また時間が経てば、何もせずとも支配は解けてしまいます。だからサキュバスは、この一時的な支配が解ける前に対象者を完全な支配下に置こうとする。それが『精液』の接種―つまり性行為を行うということ。口付けで相手を一時的な支配下におき、性行為により完全な服従下におく。これが惑わしの術と呼ばれる技の全貌です」
「…ということは、惑わしの術は男性にしかかけることができない?」
そう尋ねた者はゼータである。長い睫毛に縁どられたミーシャの瞳が、ゼータを見る。
「その通り。惑わしの術は行使対象者が限られた限定魔法です。魔法の行使に精液が必要となるのだから、当然女性相手に魔法をかけることはできません。一時的な支配下におくことも不可能です。私とリリアナがフィビアス女王の監視にあたっていたのは、そういう事です。女である私とリリアナは、惑わしの術を恐れる必要がない。ゼータ様、貴女も」
「では私が対談に同席することが、フィビアス女王に対する牽制になる?」
「十分な牽制です。サキュバスは元来高い戦闘力を持つ種族ではありません。他者から魔力を奪うことにより、ある程度力を蓄えることは可能ですけれど。ですがフィビアス女王がどのような稀有な力を持っていたとしても、ドラゴンの王とその妃を同時に敵に回そうとは思わないはず。逆を言えば、ゼータ様を対談の席から締め出そうとしたり、対談の場に多数の家臣を引き連れるようであれば、それは危険信号です。対談の席には悪意が潜んでいると判断し、即刻黒の城を立ち去ることをお勧めします」
レイバックとゼータはどちらともなく顔を見合わせる。黒の城滞在にあたり、メリオンから伝授された心構えは3つ。1つ目に黒の城内部で単身にならないこと。2つ目に食事への薬の混入を疑うこと。3つ目にフィビアスとの肉体的接触を控えること。惑わしの術の発動条件を知らないはずのメリオンの助言は、非常に的を射たものであったのだ。一度メリオンと仲違いをしているだけに、レイバックは決まりが悪そうだ。しかし事情を知らないミーシャが、レイバックの表情の変化に気が付くことはない。
「ミーシャ殿、貴女の教えに感謝する。この恩にはいつか必ず報いよう」
レイバックが右手を差し出せば、ミーシャは迷うことなくその手を取った。
「いいえ、恩を返さなければならないのは私の方。レイバック様、貴方がここにいなければ、私たち小国の主は誰一人として黒の城に足を踏み入れられなかった。見知らぬ客室で安らかに眠れるのも、対談の場で自由な発言ができたのも、今こうしてパーティーを楽しんでいられるのも、全てはレイバック様の庇護があるおかげ。本当に、感謝しております。少しでも恩に報いることができたのなら良かった。どうぞ最後まで警戒を怠らないで。惑わしの術は恐ろしい魔法です。一度完全な服従下に置かれてしまえば、レイバック様のお力を以てしても魔法を解くことは不可能。ドラゴンの王は、永劫サキュバスの奴隷となってしまう」
ミーシャの言葉は、レイバックとゼータの脳裏にきんと響き渡る。
-ドラゴンの王は、永劫サキュバスの奴隷となってしまう
レイバックとの握手を終えたミーシャは立ち上がり、ドレスについた枝葉を払い落とした。「リリアナ、行きましょう」星空を眺めていたリリアナに声を掛け、2人並んで儀式棟の内部へと戻っていく。新王即位を祝うダンスパーティーは夜通し続く。儀式棟にともる灯りは消えることなく、鳴り響く音楽が止むことはない。そうして長い長い宴を楽しんだ人々は、明日の朝一番で城を発つ。対談に臨むレイバックとゼータだけが、黒の城に残される。
ミーシャとリリアナの背が門扉の向こうに消えたとき、ゼータがぽつりと呟いた。
「ミーシャに、痣のことを聞けばよかったかな。ほら、ロコとマギの首筋にある百合の痣」
悪魔族と吸血族の民を受け入れる竜族国家の女王なら、あの痣の持つ意味も知っていただろうか。ゼータの呟きに、レイバックは「ああ」と声を上げた。
「百合の痣の意味についてはフィビアス女王に聞いた。ダンスをしている最中に、それとなくな」
「…フィビアス女王と話をしたんですか? 手を取り合って? 結果的に何もなかったから良いですけれど、不用心過ぎませんか」
「黙りこくっているのも気まずいだろう。ダンスをすることが避けられないのなら、いっそ開き直って情報収集をした方が得かと思ってな。聞いてみたんだ。『侍女や家臣の首にある百合の痣は、呪いの模様か?』とな」
「ド、ド直球ですね。それで、フィビアス女王は何と?」
「追悼の意を込めた痣だと言っていた。ブルタス前国王が百合の花を好んだそうだ。彼を偲ぶ者たちが、揃いの百合の花を魔法で焼き付けているんだとさ」
「…その言葉を、丸々信じるんですか?」
身体に特定の模様を入れる、というのは魔族の中では珍しい風習ではない。例えばドラキス王国内のとある集落では、住人全員が手の甲に揃いの入れ墨を入れている。とある幻獣族の集落では、その者の強さに応じて顔に数本の線を書き入れる。生まれたばかりの子どもの額に、魔獣除けの呪文を刻むこともある。その例に倣えば、ブルタス前国王を偲ぶ城の者が、首筋に揃いの模様を刻んでいるということも不自然ではない。しかしまだ敵味方の判断がつかないフィビアスの言葉を、鵜呑みにするのも気が引ける。もしかしたら百合の痣は呪いの刻印で、その痣を持つ者は得体のしれない魔法に命を蝕まれているかもしれないのだ。安直な判断は危険。
「丸々信じているわけではないさ。ただ痣を持つ者をやたらと警戒する必要もないだろう。惑わしの術を女性にかけることはできない。つまりあの痣は、サキュバスの技には何の関係もないものだ」
「それは…確かにその通りですけれど…」
「今は痣よりも対談だ。ダンスの途中、ゼータを対談に同席させたい旨を伝えたんだが、明確な答えはもらえなくてな。もし対談の直前になって同席を拒まれるようなら、その場で城を発つ。バルトリア王国との友好関係は破棄するに等しいが、俺だって貞操は惜しい。精液を吸い取られサキュバスの下僕になるなど、死んでも御免だ。…勘違いしないでくれ。ゼータのことを蔑む意図はない。俺はゼータの下僕にならなっても良い」
話す途中に失言に気が付いたようだ。レイバックはきゅうと眉毛を下げ、ゼータのことを抱きしめる。ゼータは突然の抱擁に肺を潰されながらも、「マッドサイエンティストの下僕はお勧めしませんよ」と警告するのである。
それから少し時が経ち、ゼータとレイバックは南棟の客室に戻ることにした。ダンスパーティーはまだまだ続くけれど、フィビアスとのダンスが済んだ今、会場に長居をする意味もない。小腹が空けば、ロコとマギに客室に料理を運んでもらうことにしよう。そういう結論に至ったのである。
南棟を目指し星空の下を歩く最中、ゼータはダンスパーティーでの出来事を思い出す。強引なダンスの誘いをしてきた白髪の男、突然の口付け、意図の分からない誘い。あの不可解な出来事をレイバックに話すべきだろうか。「レイ」そう名前を呼び掛けて、しかし何も言わずに口を閉じる。
「会場で出会った見知らぬ男にキスをされ、挙句ちょっと舌を入れられました」などと馬鹿正直に伝えれば、レイバックは烈火のごとく怒り狂うだろう。治世に関しては寛大だが、ゼータが絡むと途端に心の狭い男である。例の白髪の男を探し出し、片腕を切り落とすくらいのことはやってのけるかもしれない。もしもたくさんの人が集まるダンスパーティーの会場で私刑を執行すれば、ドラキス王国の国王はとんでもない暴虐者との噂が広まってしまう。末永い2国の関係を考えれば、それは望ましくない。
ゼータが先ほどまで一番恐れていたこと。それは白髪の男がフィビアスと同じサキュバスであるという可能性だ。サキュバスの女王は己と同種族であるサキュバスを家臣に置き、惑わしの術を用いて黒の城の内部を支配している。そんな可能性が頭を過ったのだ。サキュバスは惑わしの術の他に、外見の性別を変えるという特技を持つ。例の白髪の男がサキュバスであったとしても、何ら不自然はない。
しかし幸いにもミーシャの教えで、その可能性は消えた。何故ならサキュバスの技を女性に掛けることはできないから。もし白髪の男がサキュバスだとすれば、女性の姿であるゼータに惑わしの術を掛けようとするはずはない。
ならばあの白髪の男はただのナンパ者。突然の口付けと強引な床への誘いは、ダンスの誘いを断ろうとしてゼータへの嫌がらせ。あの奇妙な男の不可解な接触をレイバックに伝えないことが、後の不利益に繋がる可能性は低い。そう自身に言い聞かせながらも、背筋に絡みつく薄気味悪さが消えることはない。
「どうだろう。俺は無事か?変なところはないか?」
連れ立って儀式棟の外に出たレイバックとゼータは、草むらに座り込んで魔法の恐怖に打ち震えていた。ダンスパーティーの開宴に合わせて儀式棟に立ち入ったとき、空はまだ夕焼け模様であった。「しかしダンスに興じるうちに太陽はその姿を隠し、拓けた儀式棟の周囲にはひやりとした風が吹き抜ける。風の音にのって、どこか遠く魔獣の遠吠えが聴こえる。空気は澄み、雲がなければさぞかし綺麗な星空を臨むことができただろうが、厚雲に覆われた夜空には一粒の星さえも見つけることは叶わない。
儀式棟の門灯りに照らされる草むらで、ゼータはレイバックの胸元にぺたぺたと手を這わす。
「見たところ異常はなさそうですけれど…ダンスに不必要な接触はされていないですか?」
「されていないと思うが…。会話は最低限に抑えたし、極力目も合わさなかったし」
人目も憚らず、レイバックのシャツの裾を捲り上げるゼータ。2人の背後で、不意に慎ましやかな笑い声がした。振り返れば儀式棟の入り口に2人の女性が立っている。橙色のドレスは竜族国家リンロンの女王ミーシャ、白のドレスは幻獣族国家の女王リリアナだ。寄り添う2人は笑い声を零しながら、草むらに座り込むレイバックとゼータの元へと歩いてくる。
「ドラゴンの王でもサキュバスの魔法は怖いのですね。即位式で見事な宣戦布告をなさっていましたから、てっきり歯牙にも掛けておられないのかと」
「怖いに決まっているだろう。発動条件のわからない魔法だ」
ゼータに服の裾をまくられたまま、レイバックは眉根を寄せる。ミーシャとリリアナはレイバックを囲うようにして草むらに座り込み、門灯りの下に橙色と白色のドレスがふわりと広がる。
「レイバック様は、惑わしの術に掛けられてはおりませんよ」
ドレスと同じく、花を咲かせたようなミーシャの笑み。レイバックは上ずった声を上げる。
「そうなのか?なぜわかる」
「私は惑わしの術の発動条件を心得ております。同盟国の国王方の要望もあり、ダンスパーティーの最中はフィビアス女王の一挙一動を観察しておりました。しかしフィビアス女王は開宴から現在に至るまで、どなたにも惑わしの術を掛けてはおりません。レイバック様、貴方にも」
「…待て。ミーシャ殿、貴女は惑わしの術の発動条件を知っている?」
レイバックは唇を震わせる。レイバックの衣服から手指を離したゼータも、驚きの表情でミーシャを見つめる。
「存じておりますとも。我が国に住まうサキュバスから聞き及んだ情報ですから、まず間違いはありません」
「サキュバス本人が、貴女に技の発動条件を教えたのか」
「そう、強引に聞き出したわけではございませんよ。その者は王宮に仕える下女の一人で、私が黒の城へ滞在せねばならぬことを知り、こっそりと教えてくれたのです」
「竜族国家リンロンの王宮では、サキュバスの下女を受け入れているのか」
竜族国家リンロンでは、悪魔族と吸血族の難民を受け入れていると昨日アメシスが言った。難民として保護するだけではなく、まさか王宮での働き口まで紹介しているのかと、レイバックは驚愕の面持ちだ。しかしミーシャはふるふると首を横に振る。
「全てのサキュバスを等しく受け入れているわけではございません。サキュバスは狡猾的で、他種族を使役することを悪とも思わない。安易に王宮に受け入れれば国家が傾きかねません。ただその下女は幼少時に難民としてリンロンで保護されたため、サキュバスの技を使った経験がないのです。知識として発動条件を知っていても、実際に他者を使役した経験はない。そうした特異な経歴の持ち主であるからこそ、知者として王宮で保護しているのです。彼女がサキュバスであるという事実を知る者は、私を含め王宮に数名しかおりません」
穏やかに語るリーシャは、橙色のスカートが草露に濡れることを気にも留めていないようだ。ミーシャの横には、にこやかに笑うリリアナがいる。2人の女王の顔を何度か見やり、レイバックはまたミーシャに視線を向ける。
「リーシャ殿。どうか俺の頼みを聞き入れてはもらえぬか。惑わしの術の発動条件を教えてほしい」
突然の願いに、ミーシャは虚を突かれたような表情だ。
「惑わしの術の発動条件を?申し訳ありませんが、それはできません。惑わしの術は、サキュバスにとって己の命を守る技。発動条件を多種族に知られたとなっては、生きていくことすら困難になってしまいます。ただでさえサキュバスは、多種族から酷く嫌われているのに」
「ミーシャ殿から聞いた内容は、この旅路を終えれば綺麗さっぱり忘れると誓う。決して他者には漏らさない。そういう約束で、どうか頼む」
必死の表情のレイバックは、ミーシャに自らの置かれた状況を事細かに説明する。出発の直前にフィビアス女王から対談の申し出があったこと、あまりにも突然の申し出に行程の変更が不可能であったこと、対談の裏に悪意が潜む可能性を捨てきれないこと。レイバックが説明を終えたとき、ミーシャの表情には迷いが生まれる。
「そう…そんな事情がございましたか…」
ミーシャはそれきり黙り込んだ。レイバックとゼータは、祈るような気持ちでミーシャの答えを待つ。リリアナも今ばかりは真面目な表情で、じっと事の成り行きを見守っていた。何度目かのそよ風が芝生を撫でたとき、ミーシャはふ、と表情を緩める。
「そういう事情でしたら、致し方ありませんね。ドラゴンの王がサキュバスの下僕となっては、私たちは不安で夜も寝られません。レイバック様、ゼータ様。あなた方にサキュバスの技が何たるかをお伝えいたしましょう」
「そうか。ありがたい」
「ただし一つだけ約束なさいませ。これから私が話す内容は、無事ドラキス王国に帰り着いた暁には全て忘れてしまうこと。誰にも伝えてはなりません。秘伝の技を多種族に暴かれては、サキュバスは生きることすらままなりません」
「…わかった。ドラキス王国国王の名に誓おう」
厳粛と頷くレイバックの横で、ゼータも静かに「わかりました」と答えた。
ミーシャの指示を受けて、リリアナは会話の場を退席した。どうやらリリアナはミーシャの傍にいたものの、サキュバスの技の発動条件については知らされていないらしい。一国の女王が単身ダンスパーティーの会場にいれば、ダンスの誘いを受けることは避けられない。ダンスをしながらでは、フィビアスの挙動を見守ることは難しくなる。リリアナは人払い担当、というところだろうか。
リリアナが会話の届かない場所まで離れたことを確認し、ミーシャは声を潜めて語り出す。
「まず端的に申し上げましょう。惑わしの発動条件は『体液の交換』。即ちサキュバスは己の体液を他者に与え、そして奪うことで、その者を完全な魔法の支配下におきます。一口に体液と言っても、体内からの分泌物であればなんでも良い、というわけではございません。惑わしの術の発動に必要な体液は、『唾液』と『精液』」
そこで言葉を切ると、ミーシャは薄紅の唇の間からぺろりと舌を出した。唾液に濡れた真っ赤な舌が、門灯りの下に晒される。ゼータはじっとミーシャの口元を見つめるが、レイバックはやや気まずそうに身動ぎをする。
「サキュバスはまず対象者に『唾液』を与える―つまりは口付けをすることで、その者を一時的な支配下におきます。この段階での支配は非常に不安定なもので、複雑な命令を与えることはできません。また時間が経てば、何もせずとも支配は解けてしまいます。だからサキュバスは、この一時的な支配が解ける前に対象者を完全な支配下に置こうとする。それが『精液』の接種―つまり性行為を行うということ。口付けで相手を一時的な支配下におき、性行為により完全な服従下におく。これが惑わしの術と呼ばれる技の全貌です」
「…ということは、惑わしの術は男性にしかかけることができない?」
そう尋ねた者はゼータである。長い睫毛に縁どられたミーシャの瞳が、ゼータを見る。
「その通り。惑わしの術は行使対象者が限られた限定魔法です。魔法の行使に精液が必要となるのだから、当然女性相手に魔法をかけることはできません。一時的な支配下におくことも不可能です。私とリリアナがフィビアス女王の監視にあたっていたのは、そういう事です。女である私とリリアナは、惑わしの術を恐れる必要がない。ゼータ様、貴女も」
「では私が対談に同席することが、フィビアス女王に対する牽制になる?」
「十分な牽制です。サキュバスは元来高い戦闘力を持つ種族ではありません。他者から魔力を奪うことにより、ある程度力を蓄えることは可能ですけれど。ですがフィビアス女王がどのような稀有な力を持っていたとしても、ドラゴンの王とその妃を同時に敵に回そうとは思わないはず。逆を言えば、ゼータ様を対談の席から締め出そうとしたり、対談の場に多数の家臣を引き連れるようであれば、それは危険信号です。対談の席には悪意が潜んでいると判断し、即刻黒の城を立ち去ることをお勧めします」
レイバックとゼータはどちらともなく顔を見合わせる。黒の城滞在にあたり、メリオンから伝授された心構えは3つ。1つ目に黒の城内部で単身にならないこと。2つ目に食事への薬の混入を疑うこと。3つ目にフィビアスとの肉体的接触を控えること。惑わしの術の発動条件を知らないはずのメリオンの助言は、非常に的を射たものであったのだ。一度メリオンと仲違いをしているだけに、レイバックは決まりが悪そうだ。しかし事情を知らないミーシャが、レイバックの表情の変化に気が付くことはない。
「ミーシャ殿、貴女の教えに感謝する。この恩にはいつか必ず報いよう」
レイバックが右手を差し出せば、ミーシャは迷うことなくその手を取った。
「いいえ、恩を返さなければならないのは私の方。レイバック様、貴方がここにいなければ、私たち小国の主は誰一人として黒の城に足を踏み入れられなかった。見知らぬ客室で安らかに眠れるのも、対談の場で自由な発言ができたのも、今こうしてパーティーを楽しんでいられるのも、全てはレイバック様の庇護があるおかげ。本当に、感謝しております。少しでも恩に報いることができたのなら良かった。どうぞ最後まで警戒を怠らないで。惑わしの術は恐ろしい魔法です。一度完全な服従下に置かれてしまえば、レイバック様のお力を以てしても魔法を解くことは不可能。ドラゴンの王は、永劫サキュバスの奴隷となってしまう」
ミーシャの言葉は、レイバックとゼータの脳裏にきんと響き渡る。
-ドラゴンの王は、永劫サキュバスの奴隷となってしまう
レイバックとの握手を終えたミーシャは立ち上がり、ドレスについた枝葉を払い落とした。「リリアナ、行きましょう」星空を眺めていたリリアナに声を掛け、2人並んで儀式棟の内部へと戻っていく。新王即位を祝うダンスパーティーは夜通し続く。儀式棟にともる灯りは消えることなく、鳴り響く音楽が止むことはない。そうして長い長い宴を楽しんだ人々は、明日の朝一番で城を発つ。対談に臨むレイバックとゼータだけが、黒の城に残される。
ミーシャとリリアナの背が門扉の向こうに消えたとき、ゼータがぽつりと呟いた。
「ミーシャに、痣のことを聞けばよかったかな。ほら、ロコとマギの首筋にある百合の痣」
悪魔族と吸血族の民を受け入れる竜族国家の女王なら、あの痣の持つ意味も知っていただろうか。ゼータの呟きに、レイバックは「ああ」と声を上げた。
「百合の痣の意味についてはフィビアス女王に聞いた。ダンスをしている最中に、それとなくな」
「…フィビアス女王と話をしたんですか? 手を取り合って? 結果的に何もなかったから良いですけれど、不用心過ぎませんか」
「黙りこくっているのも気まずいだろう。ダンスをすることが避けられないのなら、いっそ開き直って情報収集をした方が得かと思ってな。聞いてみたんだ。『侍女や家臣の首にある百合の痣は、呪いの模様か?』とな」
「ド、ド直球ですね。それで、フィビアス女王は何と?」
「追悼の意を込めた痣だと言っていた。ブルタス前国王が百合の花を好んだそうだ。彼を偲ぶ者たちが、揃いの百合の花を魔法で焼き付けているんだとさ」
「…その言葉を、丸々信じるんですか?」
身体に特定の模様を入れる、というのは魔族の中では珍しい風習ではない。例えばドラキス王国内のとある集落では、住人全員が手の甲に揃いの入れ墨を入れている。とある幻獣族の集落では、その者の強さに応じて顔に数本の線を書き入れる。生まれたばかりの子どもの額に、魔獣除けの呪文を刻むこともある。その例に倣えば、ブルタス前国王を偲ぶ城の者が、首筋に揃いの模様を刻んでいるということも不自然ではない。しかしまだ敵味方の判断がつかないフィビアスの言葉を、鵜呑みにするのも気が引ける。もしかしたら百合の痣は呪いの刻印で、その痣を持つ者は得体のしれない魔法に命を蝕まれているかもしれないのだ。安直な判断は危険。
「丸々信じているわけではないさ。ただ痣を持つ者をやたらと警戒する必要もないだろう。惑わしの術を女性にかけることはできない。つまりあの痣は、サキュバスの技には何の関係もないものだ」
「それは…確かにその通りですけれど…」
「今は痣よりも対談だ。ダンスの途中、ゼータを対談に同席させたい旨を伝えたんだが、明確な答えはもらえなくてな。もし対談の直前になって同席を拒まれるようなら、その場で城を発つ。バルトリア王国との友好関係は破棄するに等しいが、俺だって貞操は惜しい。精液を吸い取られサキュバスの下僕になるなど、死んでも御免だ。…勘違いしないでくれ。ゼータのことを蔑む意図はない。俺はゼータの下僕にならなっても良い」
話す途中に失言に気が付いたようだ。レイバックはきゅうと眉毛を下げ、ゼータのことを抱きしめる。ゼータは突然の抱擁に肺を潰されながらも、「マッドサイエンティストの下僕はお勧めしませんよ」と警告するのである。
それから少し時が経ち、ゼータとレイバックは南棟の客室に戻ることにした。ダンスパーティーはまだまだ続くけれど、フィビアスとのダンスが済んだ今、会場に長居をする意味もない。小腹が空けば、ロコとマギに客室に料理を運んでもらうことにしよう。そういう結論に至ったのである。
南棟を目指し星空の下を歩く最中、ゼータはダンスパーティーでの出来事を思い出す。強引なダンスの誘いをしてきた白髪の男、突然の口付け、意図の分からない誘い。あの不可解な出来事をレイバックに話すべきだろうか。「レイ」そう名前を呼び掛けて、しかし何も言わずに口を閉じる。
「会場で出会った見知らぬ男にキスをされ、挙句ちょっと舌を入れられました」などと馬鹿正直に伝えれば、レイバックは烈火のごとく怒り狂うだろう。治世に関しては寛大だが、ゼータが絡むと途端に心の狭い男である。例の白髪の男を探し出し、片腕を切り落とすくらいのことはやってのけるかもしれない。もしもたくさんの人が集まるダンスパーティーの会場で私刑を執行すれば、ドラキス王国の国王はとんでもない暴虐者との噂が広まってしまう。末永い2国の関係を考えれば、それは望ましくない。
ゼータが先ほどまで一番恐れていたこと。それは白髪の男がフィビアスと同じサキュバスであるという可能性だ。サキュバスの女王は己と同種族であるサキュバスを家臣に置き、惑わしの術を用いて黒の城の内部を支配している。そんな可能性が頭を過ったのだ。サキュバスは惑わしの術の他に、外見の性別を変えるという特技を持つ。例の白髪の男がサキュバスであったとしても、何ら不自然はない。
しかし幸いにもミーシャの教えで、その可能性は消えた。何故ならサキュバスの技を女性に掛けることはできないから。もし白髪の男がサキュバスだとすれば、女性の姿であるゼータに惑わしの術を掛けようとするはずはない。
ならばあの白髪の男はただのナンパ者。突然の口付けと強引な床への誘いは、ダンスの誘いを断ろうとしてゼータへの嫌がらせ。あの奇妙な男の不可解な接触をレイバックに伝えないことが、後の不利益に繋がる可能性は低い。そう自身に言い聞かせながらも、背筋に絡みつく薄気味悪さが消えることはない。
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