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荒城の夜半に龍が啼く

さよならキメラ

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 一夜明け、ゼータは魔法研究所を訪れていた。研究棟に隣接する、木柵で囲われた広大な放牧地。暖かな日射しの元を大小様々なキメラが駆け回り、豊かな芝生をそよ風が揺らす。視界の片隅には真新しい厩舎、放牧地を囲む山林、羊雲を浮かべる青空。見渡す限りに長閑な光景が広がっている。その長閑な光景の片隅に、無表情のゼータが座り込んでいた。厩舎が作る日陰に佇むゼータは、何をするでもなくただそこにいる。愛撫を望む小型のキメラが、毛糸玉が転がるようにしてゼータの膝元に纏わり付いている。

「ゼータさん。何をしているんですか?暇なら手伝ってくださいよ」

 頭長に降り注ぐ声に、ゼータは顔を上げる。厩舎の出入り口付近、日陰と日向の端境にビットが立っている。右手には真新しい掃除ブラシ、左手にはブリキバケツ。お掃除真っただ中という様子のビットは、キメラに埋もれるゼータに不審な眼差しを向けている。

「暇じゃないですよ…この子達との別れを惜しんでいるところです」
「王宮で何かあったんですか?」
「バルトリア王国に行かなきゃならないんです。明後日から」
「バルトリア王国?何で?書物読み漁り罪で追放されるの?」
「書物読み漁り罪って何?女王が立ったんですよ。レイが即位式に参列するので、お供するんです」

 そういうことね、呟くビットはゼータの真横に座り込んだ。掃除ブラシとブリキバケツを背側に押しやり、空いた膝上に兎型のキメラをのせる。きゅるりと愛くるしい鳴き声を零すそのキメラは魔法研究所の稼ぎ頭、手乗り兎のウーちゃんだ。

「僕バルトリア王国のことは全然知らないですけれど。長く王様が不在だったんですよね?」
「1200年前に前王が崩御され、以来王が立つのは初めてのことだそうです」
「それはおめでたいですねぇ。でも即位式に参列するだけなのに、なぜキメラとの別れを惜しむ必要が?」
「陰謀が渦巻いているんです」
「陰謀?」
「詳しい事は言えないんです。でも私はバルトリア王国で朽ち果てる可能性が高いんですよ」
「全然わかんない」

 ゼータの話に適当な相槌を打ちながら、ビットはウーちゃんの顎下を撫でる。真っ白な毛並みに太陽光を反射させるウーちゃんは、目を細めて主の愛撫を受け入れている。ビットに倣い手近なキメラの毛並みを撫でながら、ゼータは数時間前の出来事を思い出していた。

 ゼータがメリオンから黒の城滞在に係る心構えを伝授されたのは、昨日の夕方のこと。「不参列の選択は利口とは言えぬ」とのメリオンの言葉を一度は腹に収めたゼータであるが、一晩経てば人の気持ちは変わるもの。例え理想郷の名を返上してでも、まずは身の安全を確保すべきである。そう確信したゼータは、朝一番でレイバックの元へと向かったのである。目的は説得。黒の城訪問の危険性を切々と訴え、レイバックの口から「即位式参列は取りやめる」との言葉を引き出すためである。しかし訪問当初から不機嫌寄りのレイバックはゼータの説得にはそう簡単には応じない。不貞腐れた唇から飛び出すは「サキュバスが悪とは酷い偏見である」「俺が2か国対談の成功を以てサキュバスの善性を証明する」とそればかりだ。それでも辛抱強く説得を続けていたゼータであるが、「お前は俺よりメリオンの言葉を信じるのか」と妄言を吐きかけられたところで遂に説得を諦めた。拗ねた子供相手に正論は無意味。失意に暮れるゼータはせめて最後の時を慣れた場所で過ごそうと、一人馬に跨り魔法研究所を訪れたのである。そうして芝生の上でキメラと戯れ、今に至る。

「話は変わりますけどね。最近クリスさんが研究棟に来ていますよ。それも結構頻繁に」

 そう言うビットの右手は、相変わらずウーちゃんの身体を撫でている。ウーちゃんは芝生の上に手足を投げ出し絶対服従状態だ。どうぞもっと私を撫でて遊ばせ。心の声が耳に届くようである。

「クリスが研究棟に?何の目的で?」
「そりゃ研究をしに来ているんじゃないの。職人街の工房で実験器具を買い込んでいたという目撃証言も上がっていますよ」

 へぇ、とゼータは呟く。クリスが祖国ロシャ王国を出て、ドラキス王国の地へとやって来たのはもう8か月も前のこと。ゼータの勧めで魔法研究所の研究員となったクリスは、今日に至るまで長く専門研究を決められずにいたのだ。そうなるに至った要因の一つは、言うまでもなくゼータとレイバックが人間族長の地位を押し付けたことである。慣れない公務に忙殺されるクリスは、研究に打ち込むどころかまともに魔法研究所を訪れることすら叶わなかったのである。とはいえクリスが人間族長の地位に就いてから、もうじき4か月の時が経つ。仕事にも慣れ、大好きな研究に打ち込む心と身体の余裕ができたというところか。

「きっとやりたい研究が見つかったんですね。良いことです」
「良いことと言えば良いことですけどね。小間使いをなくした僕は大変です。ただでさえクリスさんが王宮に迎え入れられてから、雑務担当者不在でてんやわんやしていたのに。ああ…クリスさん、キメラ棟に戻ってきてくれないかなぁ」

 そう言うビットは悲痛の面持ちである。多数の生物を飼育するキメラ棟は、年中いつでも人手不足だ。人間族長として王宮に迎えられる以前、クリスは毎日のようにキメラ棟の雑務を引き受けていたのである。キメラの餌やり、数十に及ぶ檻の掃除、ごみ捨て、実験器具の洗浄、その他諸々。その献身ぶりたるや、魔法研究所内に「魔法研究所の王子様はビットの策略によりキメラ棟に引き抜かれたのだ」との噂が流布するほどである。
 決して否とは言わない忠実な小間使いをなくしてしまえば、確かに現在のキメラ棟はてんやわんやの有様であろう。無事バルトリア王国から帰国した暁には、暇を見て極力キメラ棟に脚を運ぶことにしよう。そんなことを考えながら、ゼータは立ち上がる。膝の上から数匹の小型キメラが転がり落ちる。

「では、私は帰ります」
「え、もう?」
「出発日が迫っているんです。そろそろ旅の荷物も詰めなきゃならないですし。新王へのご祝辞を考えたり、参列者の名前を暗記したり、結構忙しいんですよ」
「ふぅん…王妃様も大変ですね。まぁ頑張ってください。無事は祈っておきますんで」

 ひらひらと手を振るビットを芝生に残し、ゼータは魔法研究所を後にした。

***

 同日の夜分、時計の針が20時を回った頃。王宮の6階端に位置する王妃の間にて、ゼータはベッドの上を転がっていた。ふわふわと柔らかな枕を両腕に抱きかかえ、ベッドの右端から左端へ。左端から右端へ。また左端へ。まるでウインナーがフライパンの中を転がるようである。奇行を繰り返すゼータの近くでは、専属侍女のカミラが荷造りの真っ最中。ベッドの端にのせた旅行カバンの中に下着やタオル、洗面用具、化粧品といった日用品を詰め込んでゆく。往路復路共に空の旅となる今回の旅路、飛行の精度を考え手荷物は最低限に留めよとのメリオンの指示である。即位式の参列に必要なドレス、靴、宝飾品の類は全て、黒の城から貸し出しを受けるということで事前に調整が済んでいるのだ。ゼータもレイバックも、共に城に持ち込む手荷物は大きめの旅行カバンが一つだけ。国賓として他国に招かれているというのに、何とも手軽な旅路である。

「ゼータ様。クリス様がいらっしゃっておりますよ。明後日からの旅路のことで、お話があるそうです」

 少し離れたところからカミラの声。奇行を止め声のした方を見れば、荷造りをしていたはずのカミラは今部屋の扉の傍に立っている。そして薄く開かれた扉の向こうでは、見知った顔が手を振っている。

「夜遅くにごめんね。少し時間を貰える?」
「構いませんよ。荷詰めも粗方終わったことですし」

 正確に言えば荷詰めが終わったのではなく、「うだうだとベッドに転がり一向に荷詰めを行わないゼータを見かね、カミラが代わりに荷詰めを終わらせてくれた」である。しかし誰しも己の怠慢は隠したいものだ。ゼータはベッドから下り、扉の傍へと歩み寄る。手荷物の最終確認に戻らんとするカミラに代わり、半開きの扉に右手を添える。敷居の向こう側に立つクリスは、藍色の夜着に薄手の上着を羽織っただけという軽装だ。対するゼータもすでに湯あみを終え、レイバックと揃いの薄紅色の夜着に着替えている。夜着をまとう王妃の私室を訪れる、その行いが許される者は王宮内にも多くはいない。

「話って何ですか?」
「ここじゃ話しにくい内容なんだ。外に出ても良い?」
「良いですけど…外って本当に外ですか?」

 ゼータは王妃の間の内部を振り返り、カーテンに覆われた窓の外を指さした。そうそう、とクリスは笑う。

「今日は夜温が高いから、その格好でも寒くはないよ。話自体はすぐ終わるから、散歩がてらちょっと付き合ってよ」
「はぁ…良いですけれど」

 ゼータはカミラに外出を告げ、王妃の間を出た。まだ灯りのともる6階の廊下を歩き、中腹地点にある階段を下りる。5階、4階、3階、2階、1階。クリスの背に続き長い階段を下り、やがて辿り着いた王玄関口から屋外に出る。
 生暖かな風の吹く夜だ。クリスの言った通り、夜着一枚でも寒さを感じることはない。ポトス城の正門へと続くだだ広い広場に人の姿はなく、月明かりに照らされた石畳を木の葉が滑る。その月明かりに照らされた広場の真ん中を、クリスとゼータは当てもなく歩く。

「メリオンさんに聞いたよ。大変なことになっているんだってね」

 歩みを止めぬままクリスは言う。

「大変なんてものじゃないですよ…。私は黒の城から生きては帰れないかもしれません。今日、魔法研究所のキメラ達に別れを告げて来たところです」
「あ、そうなの?僕も今日、一日魔法研究所に行っていたんだよ。会わなかったね」
「放牧地でキメラと戯れて、すぐに帰って来ましたから。ビットとは少し話をしましたけれど」
「ふぅん…そう」

 そう相槌を打ったきり、クリスは黙り込んだ。ゼータはそろりと隣を歩くクリスの顔を見上げる。夜風に靡く金の髪の向こうには、同じく金色の三日月が浮かんでいる。今は晴れているが、紺碧の空に雲は多い。ほんの少し風向きが変われば、灰色の雲はあっという間に三日月を覆い隠すことであろう。
 それから先のクリスはと言えば、彼にしては珍しく話題を決めあぐねている様子であった。形の良い唇が開かれては、言葉を発することなく閉じられる。そうした動作が何度か繰り返される。それも仕方のないことだ、クリスの口元を見やりゼータは思う。今のゼータは、言わば出陣を目前にした戦士。陰謀渦巻く黒の城に果て、生きては戻らないやもしれぬ。話術に富んだクリスとて、掛ける言葉に困るのは当然だ。呼び出しの本題に触れる様子もなし。致し方なしとゼータは自ずから口を開く。

「そういえばクリス、最近魔法研究所に通っているんですね。頻繁に姿を見掛けるとビットが言っていました。やりたい研究を見つけたんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど…研究所に通っているのは少し理由があってね」

 そうしてまたクリスは黙り込む。悩ましげな表情で風景のあちこちを見やり、徐に立ち止まる。横を歩くゼータも、つられるようにして歩みを止める。

「まぁいいか。本題を先に済ませちゃおうかな。ゼータ、手を出してよ」
「手?」
「手。渡したい物があるんだ」

 何気なく提供した魔法研究所の話題は、どうやらクリスの本題に触れたようである。言われるがままにゼータは右手を差し出す。物を頂くのだから、当然手のひらが上だ。いくらか間をおいて、クリスの指先がゼータの右手のひらに触れた。握手をするようにして手首を返される。ゼータの心臓はどきりと高鳴る。その光景はまるで御伽話の一コマだ。戦場に向かう騎士が愛しの姫君に愛を誓う。悲しみに暮れる姫君の御手を掲げ、滑らかな手の甲に口付けを落とすのだ。これから起こる出来事に恐れ慄き、ゼータは思わず一歩後退る。しかしクリスは口元に笑みを浮かべたまま、ゼータの手のひらを離さない。
 右手の中指に冷たい感触。何、と呟きゼータは自身の手のひらに視線を落とす。そこにある物は銀色の輪だ。大粒のエメラルドを携えた、美しい銀の指輪。これがクリスの贈り物なのか。しかしそれは、ある意味では口付けよりも解釈に困る贈り物だ。

「…クリス。これは?」
「愛を誓う指輪」
「…えっと」
「というのは冗談でね」

 狼狽えるゼータの耳元に、クリスは唇を寄せる。
 この指輪、実はね…
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