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十字架、銀弾、濡羽のはおり

悪魔の宴-1

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 ポトス城の紳士、メリオン。彼は最近些細な悩みを抱えている。

「急ぎの決裁書類です。早急に目通しをお願いします」

 執務机の前に仁王立ちし一息にそう告げる人物こそが、メリオンの悩みの種だ。短く切り揃えられた黒髪に、髪と揃いの黒の瞳。王宮内では有り触れた官吏服にくるぶし丈の革靴を合わせた青年は、ドラキス王国王妃の地位に就くゼータその人である。
 「急ぎの書類です」そう伝えるゼータの右手には、なぜか菜箸が握られている。そしてその菜箸の先に掴み上げられるは食肉でも野菜でもなく、10枚に及ぶ決裁書類を挟み込んだ決裁板だ。重さのある決裁板を菜箸で掴み上げることは容易ではないらしく、菜箸を持つゼータの右腕はぷるぷると震えている。しかしゼータは頑なに菜箸を離さない。メリオンの座る執務机から最大限の距離を取り、菜箸を持つ手をタコのように引き延ばしては、決裁書類を手渡そうと試みるのである。執務室の中心で菜箸を掲げる姿は、言わずもがな滑稽だ。

「お前、そんな阿呆な姿を晒してまで俺に近付きたくないのか」
「近付きたくないです。部屋にも入りたくないし会話もしたくない。お世話になっている魔法管理部上級官吏直々の要望でなければ、誰が淫猥物の縄張りになど立ち入るものですか」

 精霊族祭における蛮行が災いし、ゼータの心の扉は完全に閉ざされたようだ。首筋に口付けたくらいで何を大袈裟な。そう心中で呟きながらも、メリオンは菜箸の先にある決裁書類を大人しく受け取るのだ。

 互いに無言のまま、執務室の中には書類を捲る音だけが響く。丁寧に書き連ねられた文字列に目線を走らせる間に、メリオンはちらと視線を上げる。垣間見る先は、執務机から遠く離れた場所に仁王立ちするゼータだ。立ち姿こそまともであるが、その表情は漁網に掛かったイワシのごとし。両目は白目を剥き、口は半開き。王妃たる者の表情がそれで良いのかと、一言物申したくもなる面持ちである。

「誤字脱字が多い。お前は文字もまともに書けんのか」
「…この書類を作ったのは私じゃないですよ」
「そうか。しかしお前が決裁印を集めて回るということは、この書類の責任者はお前であるも同然だ。十二種族長の執務室に書類を持ち込む前に、誤字脱字程度は精査しろ」

 そう言い放つと、メリオンは執務机の端に決裁板を叩きつけた。大音に身を竦ませながらも、ゼータはそろそろと執務机に歩み寄る。メリオンの教示が尤もであると悟ったためか、その表情からは1割程の不機嫌さが消失している。ゼータの指先が決裁板の端に触れたとき、メリオンはおもむろに口を開く。

「ザトが、前回の飲み会で残した葡萄酒を大層気にしている。わかるか?王から賜りし高級酒だ。近々宴を開かんと目論んでいたから、今日明日中には声が掛かるだろう。俺は当然参加する。お前はどうするつもりだ?」

 王から賜りし高級酒。それは過去9度の繁殖期への協力謝礼として、レイバックからザトに送られた物だ。ポトスの街では有り触れた酒であるが、熟成が進めばその価値は跳ね上がる。ザトが賜った24本の酒瓶の中で最も熟成が進んだ一瓶は、現在より500年も前に製造された代物であった。価値も味も破格の逸品。人生で2度はお目に掛かれぬ高級酒を、飲み会の終盤に開けるのは勿体ない。破格の高級酒は皆の合意の元、次回持ち越しが決定していたのである。その高級酒を開けるために、近々ザトの企画の元宴が開催される。酒好きのメリオンは当然参加するつもりであるし、同じく酒好きのゼータも何にも増して参加したい宴のはずだ。
 メリオンの予想や正しく、ゼータの瞳は困惑に揺れる。淫猥物と宴を共にするなど是が非でも御免。しかしメリオンとの同席を避けるために、みすみす高級酒の試飲を諦めることが出来ようか。貞操か試飲か。操か酒か。唇を噛み締めるゼータは、やがて低い声を絞り出す。

「…クリスを誘っても良いでしょうか」
「クリスを?なぜ」
「彼、流行り物の菓子や酒を買うことが趣味なんですよ。でも一人では買い込んだ分を消費しきれないみたいで、私室にたっぷりと貯め込んでいるんです。貯蔵品消費の場があると喜びます。人間の割には飲める質ですし、飲み仲間に引き入れると面白いと思いますよ」

 語るうちに、これは良い提案であるとの確証を得たようである。途切れ途切れであった主張は次第に滑らかな語りとなる。

「私はクリスと打ち解けた関係を築いています。メリオンも、クリスとは仲が良いでしょう」
「教育係を請け負っているだけだ」
「まぁまぁ。気心の知れた関係であることに違いはないじゃないですか。私とメリオンが参加する今回の飲み会は、クリスにとって絶好のザトとの交流機会です。国家のナンバー2と私的な関係を築くことは、王宮での生活において不利とはなりません。前任の人間族長はザトと対立したのでしょう。新人間族長クリスと私的な関係を構築できれば、ザトも安心すると思うんですよ。今度の人間族長とは上手くやれそうだって。ね、そうは思いませんか?」

 新人間族長クリス。彼はおよそ1か月前に国家の重鎮たる人間族長の地位に任命され、現在メリオンが教育係を請け負っている。美麗の容姿に穏やかな性格を併せ持ち、王宮内侍女官吏の人気は高いが、とんだ狸野郎だとメリオンは踏んでいる。書類上の経歴は嘘に塗れ、経歴の詐称には恐らく王と王妃が絡んでいる。経歴の詐称自体を咎めるつもりはない。メリオンとて自身の経歴は他の十二種族長にすら明かしていない。しかしこの度問題視されるべきは、クリスが経歴の詐称を非とも感じていないところだ。「お前は過去を秘匿する狼藉者」と暴言を吐き掛ければ、クリスは「僕は嘘などついていません」と言って笑う。鼠も殺せぬ顔の王子様は、まるで息を吐くように嘘を吐く。
 嘘吐き者と国家のナンバー2であるザトを引き合わせることに不安はある。しかしゼータが乗り気である以上、ここでクリスの参加を不可としてもいずれ私的な面会の場は設けられる。知らぬところでクリスとザトを引き合わされるくらいならば、己の参加が許された今回の飲み会を交流の場とした方が不安は少ない。そこまでのことを数秒の内に考えて、メリオンは口を開く。

「宴の企画者はザトなのだから、参加者についてはザトに相談しろ。奴の許可したことならば俺は文句を言わん」
「わかりました。折角4階まで脚を運んだことですし、この後ザトの執務室に寄っていきます」

 そう言うゼータの顔には、僅かながら笑みが見え隠れする。王子クリスは必ずや、メリオンの淫猥な言動の防波堤となってくれる。そう呑気に考えているようだ。死んだイワシから平常状態に戻りつつある表情を眺め、さぁもう一押しとメリオンは意気込む。

「クリスが酒と菓子を溜め込んでいることは、ザトにも一言言っておけ。宴の開催に際し、近々買い物に赴くのだと張り切っていた。消費すべき貯蔵品が多量にあるのならば、買い出しの内容も変わってくるだろう」
「そうですね。わかりました」
「ついでにこうも伝えておけ。俺のコレクションからも何本か卸す予定であるから、酒の購入は程々にしておけ、とな」
「コレクションって、まさかお酒の?」

 案の定の食いつきだ。メリオンは無言のまま、部屋の隅を指さす。その場所にあるは、人の背丈を少し超す高さの飾り棚だ。両開きのガラス戸が取り付けられた飾り棚は全体が黒塗りで、ガラス戸の上部と4つ脚には繊細な模様が彫り込まれている。年季を感じさせるガラス戸の内部に、ずらりと並ぶは様々な見た目の酒瓶だ。細い瓶、丸っこい瓶、ひしゃげた瓶。赤い瓶、黒い瓶、透明な瓶。全部で3枚ある飾り棚の横板は、その全てが隙間なく酒瓶で埋まっている。よくもまぁこれだけ多量の酒瓶を集めたと、称賛すら送りたくなる光景だ。
 ゼータはいそいそと飾り棚に寄り、ガラス戸に鼻先を付けて中を覗き込む。ははぁ、と感嘆の声が上がる。

「これがメリオンのコレクション…。見たことのない酒瓶が多いですけれど、かなり古い物ですか?」
「古い物もある。しかしラベルの貼られていない酒瓶の多くは、バルトリア王国の酒造で造られた物であるはずだ」
「バルトリア王国産のお酒?なぜそんな貴重な物が、メリオンの手元にあるんですか?」
「ドラキス王国内に住まう吸血族から貰い受けた物だ。国内に住まう吸血族は現在50名強、その大半はバルトリア王国の出身者である。彼らが里帰りと称しバルトリア王国へ赴く際に、土産物として酒の購入を依頼しているんだ。仲介業の報酬として金銭を受け取れば、毎年の収支報告が面倒だ。しかし里帰りの土産として酒を貰い受ける分には、報告は不要であろう」
「…よく考えていますねぇ」

 メリオンは席を立ち、ゼータの背後へと歩み寄った。先ほどまで死魚の表情を浮かべていた男は、今やメリオンの接近に文句一つ言わない。大好物の酒を目前にし、ゼータの機嫌は急速に回復しつつあるのだ。単純な奴。内心笑みを零しながら、メリオンはガラス戸を左右に引き開ける。首を伸ばし、最上部の棚から1本の酒瓶を卸す。

「これなど相当貴重な物だ。バルトリア王国北西部に位置する小規模集落特産の酒。その集落は住人の半数ほどが悪魔族で、世にも珍しく悪魔族の蔵元が酒蔵を運営している。知っているか。一口に魔族言っても、種族により味覚は異なる。普段の食事程度で味覚の違いを感じることはないが、繊細な味わいを愉しむ酒ともなれば話は別。真に美味いと感じる酒は、自らの属する種族の蔵元が造った酒である」

 メリオンの指先は、抱え込んだ酒瓶の蓋を撫でる。未だ未開封のその酒は、先日馴染みの吸血族から貰い受けた物。日頃の仲介の礼だと言って、世にも貴重な酒瓶を丸々贈呈してくれたのだ。バルトリア王国北西部に位置する悪魔族と吸血族の集落。小規模な集落ながらも酒蔵は健在で、その酒蔵では悪魔族と吸血族の両種族が好む酒を醸造している。魔族は元来酒好きだ。荒廃したバルトリア王国の国土でも、至るところに酒蔵が存在する。しかし悪魔族と吸血族はバルトリア王国国土内においても個体数が少なく、両種族の蔵元が運営する酒蔵というのは極めて希少だ。現に仲介業の謝礼として過去多くの酒瓶を貰い受けているメリオンであっても、「悪魔族の酒」に出会ったのは初めての経験である。今メリオンの掲げる真新しい酒瓶は、今を逃せば2度と飲むことは叶わぬ代物やもしれぬ。金剛石の如き貴重な酒を目の前にし、ゼータの瞳は燦然と輝く。

「種族により味覚が異なるという話は耳にしたことがあります。私はその、悪魔族の酒を口にした経験はないのですけれど…そんなに美味しいものですか?己の舌に合う酒というのは」
「美味い」

 ごくりと生唾を飲み込む音が、メリオンの耳に届く。「部屋にも入りたくないし会話もしたくない」そう声高に述べていた男は、今や陥落寸前だ。次はいつ手に入るともわからぬ貴重な酒。それは当初の予定では盟友であるザトに贈呈する予定であった。しかし最近見つけたお気に入りの玩具の機嫌を取るために、その酒を利用するというのも悪くない。
 メリオンは紳士の笑みを顔面に称え、金剛石のごとき酒瓶を恭しく掲げる。

「では、こちらの悪魔族の酒は麗しき王妃殿に贈呈致しましょう。部屋で一人楽しむもよし、週末の飲み会を待つもよし。どうぞお好きになさいませ」

 ゼータははっと表情を引き締め、それから差し出された酒瓶を両手を以て頂戴した。メリオンの手のひらが酒瓶を離れるや否や、厳かな表情はみるみる満面の笑みとなる。そうして宝物の酒瓶を腕の中に抱き込んだゼータは、足取り軽くメリオンの執務室を後にした。

 執務室に一人残されたメリオンは、片手を口元にあて盛大に噴き出した。執務机の片隅には、ゼータが持ち込んだ決裁板が取り残されている。宝物の取得に浮かれた彼の男は、執務室に立ち入った当初の目的などすっかり忘れているのだ。置き去りにされた決裁板は、メリオンの手で魔法管理部まで返却せねばならない。しかし面倒な仕事を残されたにも関わらず、メリオンの顔に浮かぶはご機嫌な笑みだ。脳裏を巡るは、足取り軽く執務室を立ち去ったゼータの顔。

「単純な奴」

 久方振りに見つけたお気に入りの玩具。あの調子であれば、もうしばらくは遊べそうだ。
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