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無垢と笑えよサイコパス

後日談:男たちの戦い

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 早朝キメラ棟の飼育室に足を踏み入れたビットは、室内に立ち込める鉄の臭いに顔をしかめた。

「うわぁ…。やっちゃったか…」

 答える者のいない呟きとともに、ビットは臭いの元に寄る。そこにあるのは腰の高さほどの檻だ。中には小さな虎の風貌をしたキメラが入れられており、毛布の上に丸まって寝息を立てている。それだけならば非常に微笑ましい光景なのだが、虎型キメラの横には、同じ風貌をしたもう1体のキメラが血にまみれて息絶えていた。鋭い爪で喉元と腹を切り裂かれ、檻の内部に飛び散った血は凄惨な殺人現場のごとしだ。

 ビットは檻の上に両手を置いて溜息をついた。同じ檻に入れた2頭のキメラが喧嘩をしたのだ。こういうことは時々ある。キメラ棟の研究員が、檻の掃除や餌やりの手間を考え同種のキメラや魔獣を同じ檻の中に入れる。ほとんどの場合それで問題もないのだが、餌の取り合いや寝床の取り合いでひっかき合いや噛みつき合いの喧嘩をしてしまうことがあるのだ。誰が悪いというわけではない。ただキメラの虫の居所が悪かったという話だ。

 血と臓物にまみれた檻の掃除を掃除せねばならぬと、ビットが掃除道具を持ち出してきたところであった。飼育室の扉が開き、研究員が入室してくる。ビットが振り返ると、それは白衣を着たゼータであった。

「おはようございます、ビット…臭っ」

 やった、とビットは顔を輝かせた。ゼータはキメラ棟の飼育担当者ではない。だがこうして週に1,2度不定期にキメラ棟の手伝いに訪れるのだ。王宮に住み研究員の任と王妃の任を兼任するゼータは、週に3度研究所を訪れるものの、自身の専門研究は中断している。王妃の任で数週間にわたり研究所に来られなくなることもあり、以前のように昼夜問わず研究に没頭することができなくなったためだ。ゼータが飼育室にやってきた。すなわち血まみれの檻の掃除と陰鬱な仕事を、ゼータに押し付けることが可能になったわけだ。ビットは内心ほくそ笑みながらも、顔には悲しげな表情を張り付ける。

「ゼータさぁん…。トラとシマが喧嘩しました」
「え。2匹とも無事ですか?」
「無事じゃないです。シマがスプラッターです」

 ゼータは手のひらで鼻を覆いながら、虎型キメラの檻に近づいた。檻の中では相変わらずトラが安らかな寝息を立て、シマは血まみれで猟奇殺人現場に横たわっている。

「うわぁ…派手にやりましたね。掃除が大変そう…」

 鉄格子にこびり付いた血跡を指で擦りながら、ゼータは呟いた。その足元に、ビットはそっと掃除道具を置く。

「じゃあ、僕他の飼育室で餌やりしてきますんで。後はよろしく頼みます!」
「え?嘘。待って待って、ビット!」

 立ち去ろうとするビットの手首を、驚愕の表情のゼータが掴む。ビットはゼータの手を振りほどいて逃げようとするものの、そこはゼータも譲らない。
 血と臓物の飛び散った檻の掃除など積極的にやりたいはずがない。さらに掃除を引き受けるということは、冷たくなったシマの死体を研究所周りの森まで運び埋葬せねばならぬという事だ。シマは研究所での飼育歴は短いが、別れの瞬間となれば悲しみに涙が零れるに決まっている。今日という一日を陰鬱な気分で過ごすことになるのだ。絶対にやりたくない、ビットとゼータの思いは同じである。

「たまにしか来られない私に、殺人現場の掃除を押し付けるつもりですか?嫌ですよ。飼育担当者が責任を持ってやってください」
「僕、やらなきゃいけない仕事がたくさんあるんですよね。他の子達がお腹を空かせていますし。病気の子の面倒も見ないといけないし」
「では私が他の子の飼育を担当しましょう。大丈夫、キメラ棟には週一で来ていますから、大概の事は出来ますよ」
「マッドサイエンティストのゼータさんは、臓物の処理も死体の始末も慣れたものじゃないですか。慣れた人がやる方が効率的です」

 つんとすましたビットの指摘に、ゼータは言葉に詰まる。ゼータは研究に没頭していた頃、捕らえた魔獣を相手に人道外れた実験を繰り返していたのだ。ゼータの異常な研究熱は数十年前を境に落ち着いたため、研究所の中でも当時の様子を記憶している者は多くはない。しかしビットは一度猟奇殺人現場と言うに相応しいゼータの研究室に足を踏み入れており、あまりの衝撃に当時の光景が記憶に焼き付いているのだ。ビットがゼータのことをマッドサイエンティストと呼ぶ所以である。

「確かにそうかもしれないですけど、私は嫌ですよ」
「僕だって嫌です」

 ゼータはビットの手首を離さない。2人はじりじりと睨み合う。

「…勝負ですね」
「そのようです」

 勝負。それは面倒な仕事が発生したときにゼータとビットの間で繰り広げられる、男同士の戦いのことである。嫌な仕事とは、例えば冷えた朝の水仕事、重たい荷物の運搬、今のような死骸の処理などだ。この勝負は月に1、2度は開催される恒例行事のようなものである。

「どんな勝負にしますか?腕相撲?手押し相撲?」

 ゼータの言葉をきっかけに、2人は同時に考え込む。荷物の運搬程度ならば気軽な勝負で構わないのだが、今回は仕事が仕事だ。血と死体の後始末だけならばさほど苦ではないのだが、シマの死体からは内臓が出てしまっている。床に落ちた内臓を拾い集めるという作業は、なかなか神経が磨り減ることだろう。腕相撲程度の勝負で大人しく負けを認めることはできない。
 よし、とゼータは手を叩く。

「10秒組手でどうですか?3本勝負。先に2本取った方が勝ち」

 10秒組手。それは数ある2人の勝負の中で、最も激しいものと言っても過言ではない。ルールは普通の組手とあまり変わりはない。互いに組み合って、相手を床に倒した方が勝ち。ただし相手の背か腹を床についたまま、10秒が経過せねば勝ちと認められぬというルールが追加されている。つまり相手を床に倒した後に、その身体を床に組み伏せ続けなければならないのだ。体格差のある者同士で行えばそれほど激しい戦いとはならないのであるが、ゼータとビットは体格も腕力もほぼ等しい。勝負はいつもかなり長引く。それが今日は3本である。戦いは熾烈を極めることだろう。
 ちなみに10秒のカウントは組み伏せた方が行うのだが、あまりにカウントが速すぎるとそれは勝ちとは認められない。
 10秒組手の言葉を聞き、ビットは不敵に笑った。

「ゼータさん、僕と組手で闘り合うんですかぁ?最近放牧地の開墾により、良い体つきになってきたと評判のビットさんですよ?」

 ビットはメレンに横流ししてもらった魔獣学部特産の薬品を活用すべく、キメラ棟の研究員とともに放牧地の開墾に精を出しているのだ。自慢げに晒されたビットの腕は、たしかにこんがりと焼けていた。太さは以前と変わらない。

「私だってね。王様直伝の筋肉トレーニングにより、腹筋が今にも割れようとしているんですよ」

 そう言ってゼータが叩く自身の腹からは、ぺちんと頼りない音がした。

 床に散らばった掃除道具や工具の類を机にのせ、多数の檻は部屋の端によける。組み手に十分な広さを確保したゼータとビットは、腰を落として向かい合う。観客は10頭の小型のキメラ。2人の苛烈な戦いが幕を開けた。

***

「ふ、ううう…」
「んあああ…」

 キメラ棟の飼育室に足を踏み入れたクリスは、部屋に響く奇妙な声に身体を強張らせた。キメラが喉に餌を詰まらせ苦しむ声かと、あちこちに置かれた檻の中を覗き込む。そしてそのうちに檻のよけられた部屋の一角で、重なり合って呻く男達の姿を見つけたのだ。見てはいけないものを見てしまったかと、クリスは息を呑む。しかし重なり合う男達がともに正しく衣服を身に着けていることを確認し、安堵。謎の行動をしている彼らに向けて、言葉を放ったのであった。

「ビット、ゼータ。何しているの?」

 頭上から降ってきた声に、ビットとゼータは縺れ合いを止めた。ビットの身体に馬乗りになり、暴れる両腕を床に押さえつけていたゼータは、荒い息を繰り返しながら顔を上げる。そしてクリスの顔を確認すると、組み敷いたままのビットと顔を見合わせた。一時休戦。ゼータはのろのろとビットの身体から下りる。

「喧嘩?」

 首を傾げるクリスに向けては、息も絶え絶えのビットが説明をする。喧嘩をしたのはキメラのトラとシマで、猟奇殺人現場となった檻の掃除を押し付け合うための勝負をしていた。勝負の内容は10秒組手、3本勝負で現在互いに1本ずつを取り合い、勝負は最終試合にもつれ込んでいたところだ、と。座り込んで話すビットの衣類は胸元が乱れ、額には汗の粒が浮かんでいる。ビットの横に腰を下ろすゼータも、黒髪を乱し荒い呼吸を繰り返していた。

「というわけで、真剣勝負の最中でした。クリスさん、時間があるならぜひ審判を…」
「檻の掃除なら、僕がしようか?」

 事も無げに伝えられる言葉に、ビットとゼータは同時にクリスの顔を凝視した。
 研究所に来てまだ日の浅いクリスは、日替わりで研究室を巡っている。研究の手伝いをしながら、自身の専門となる研究を決めるためだ。その中でもキメラの育成には興味があるらしく、週に2度はキメラ棟を訪れ雑用をこなす。今日も同様の目的で飼育室にやってきたのであろう。

「え、いいんですか?猟奇殺人現場になっていますよ?」
「魔導大学にいた頃は、人の形の死体の処理もしていたしね。あまり抵抗はないけど」

 思わぬ提案に、ビットとゼータの顔には笑顔が浮かぶ。しかし「お願いします」と2人が声を上げるよりも早く、クリスは顔の前に一本指を立てた。

「ただし、2人が10秒組手で僕に勝ったらね」
「…ん?」

 不可解な提案に、ビットとゼータは同時に首を傾げた。

「どういう事ですか?掃除をしたくないのなら、そもそも勝負に参加しなければ良いのに」
「人と取っ組み合いなんてしたことないからさ。面白そうだなと思って」

 クリスは腕を捲り、すっかりやる気モードだ。つられるように、ビットとゼータは立ち上がる。クリスの目的が何であれ、掃除を押し付けられる可能性が減ったことに違いはない。2人がクリスを打ち負かせば、彼は快く殺人現場の掃除を引き受けてくれるというのだ。勝負に巻き込まない選択肢はない。

 ビットとゼータの3本勝負は最終戦を残して一時中断。先に挑戦者クリスとの勝負が行われることとなった。まずはゼータとクリスの勝負、その次にビットとクリスの勝負だ。ビットとゼータのどちらかがクリスに勝てば、クリスは檻の掃除を引き受けてくれると言う。そしてクリスが両名に勝利することとなれば、中断していた3本勝負の最後の1本を行うということで話がついた。

 10のキメラの瞳とビットの瞳が見つめる中、クリスとゼータは向かい合う。試合開始の合図を掛けるべく、向かい合った両名を交互に見やったビットは思う。
―これ、勝てないっしょ

 クリスは決して筋肉質というわけではない。研究職ということもあり、どちらかというと細身の部類だ。しかしクリスの背丈は、どんぐりの背比べであるビットとゼータよりも遥かに高い。口元に笑みを浮かべながら試合開始の合図を待つクリスの頭は、ゼータの頭頂を悠に15㎝は超えている。

 初戦はビットの予想通りクリスの圧勝。自身よりも遥かに大柄の男に無残に押し潰されたゼータは、床の上で蛙の死骸同様の姿となっていた。試合終了と同時にビットは脱兎する。押し潰したゼータの顔を至近距離で眺めながら、笑い声交じりに10秒のカウントを行っていたクリスの顔が脳裏から離れない。あれは勝負ではない、一方的な殺戮である。
 足をもつれさせ飼育室を飛び出したビットの背後に、柔和な笑みを浮かべたクリスの影がせまる。
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