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無垢と笑えよサイコパス

メレンのお話-1

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 カーテンの隙間から差し込む朝日に、レイバックは目を覚ました。柔らかな布団の中で寝返りを打つ。眠気眼が見つめるベッドの片端に、望む人の姿はない。一昨日の夜までは確かにその場所に愛しい温もりがあったはずなのに、今は使う者のいない枕がぽつんと置かれているだけだ。

 レイバックは気分の優れないまま身支度を済ませ、朝食を取り、講義開始の20分前には客室を出た。向かう先は講義室ではなく教養棟の玄関口。ゼータが「クリスの研究室に行く」と言ってレイバックの元を去ってから、もうじき丸2日が経つ。今日こそゼータは教養棟に戻るだろうか。期待と不安の入り混じる面持ちで、レイバックはクリスとゼータの到着を待つ。
 それから10分も経つと、学生達の人波に混じり、教養棟の玄関口にはクリスが現れた。レイバックはクリスの周囲に視線を走らせるも、そこに待ち望んだ人の姿はない。レイバックはぎゅうと拳を握りしめ、それから廊下を歩くクリスへと歩み寄った。

「クリス、おはよう」
「レイさん、おはようございます。こんな場所でどうしましたか?」
「ゼータのことだ。今、少し話せるか」
「良いですよ」

 2人はどちらともなく、昨日言葉を交わした階段下の物置場へと向かう。雑然とした物置場は昨日とおよそ変わりない様子であったが、壁に立て掛けられていたはずの椅子が床に倒れていた。丁度その時一人の学生が階段を駆け上がって行ったところで、物置場の天井と壁が小刻みに揺れる。椅子が倒れてしまったのはそのためだろう。クリスは屈み込み、床に散らばった数脚の椅子を元の場所へと戻す。

「それで、今日は何の用ですか?」

 全ての椅子を綺麗に立て直し、満足げなクリスが聞いた。レイバックはクリスの真正面、物置場の出入り口を塞ぐようにして立つ。

「ゼータはどうした」
「引き続き欠席です」
「なぜ。まさか脚の怪我が悪化したわけではあるまいな」
「いえ、怪我の経過は順調ですよ。化膿はしていませんし発熱もありません。深さのある傷ですけれど、1週間もすれば日常生活に困らない程度には良くなると思いますよ」
「なら教養棟に戻らない理由はなんだ」
「それは…」

 クリスは黙り込む。レイバックは身体を揺らしながら答えを待つが、一方のクリスは一向に口を開こうとしない。階段を上る学生達の雑談が嫌に大きく耳に響く。提出された課題の進捗状況、昨晩開催された飲み会の報告、昼食のお誘い。呑気な会話に耳を澄ませながら、辛抱強くクリスの返事を待っていたレイバックであるが、やがて痺れを切らし声を荒げた。

「昨日、『解放するにあたりゼータには多少の条件を飲んでもらう必要がある』と言ったな。罪悪感に付け込んで、無理難題を押し付けているのなら黙ってはいないぞ」
「そんなことはしませんよ。確かに二つ返事で飲めるような条件ではないかもしれませんが、十分実現可能な条件です」
「どんな条件だ」
「それは内緒。無事ゼータが条件を飲んでくれたら、全てお話しします。ただ、交渉にはもう少し時間が掛かりそうなんですよ」
「ゼータが条件を飲めないと言ったらどうするつもりだ」
「粘り強く説得します。ゼータには一方的に秘密を知られた状態だ、と昨日言ったでしょう。僕の研究員生命が懸かっているんだから、条件を飲めないという意向を受け入れるわけにはいきません」

 そう言うと、クリスはにっこりと微笑んだ。レイバックの元へと歩み寄り、まだ人気の多い階段付近を指さす。

「レイさん、もう講義室に行きましょう。2日連続遅刻ぎりぎりというのも対面が悪いですよ。僕、今日の午前中は講義に参加します。何か聞きたいことがあれば講義終わりに声を掛けてください。交渉内容に関わること以外なら何でも答えますよ。後ろめたいことなんてないですし」

 そうレイバックを誘うクリスの顔は恐ろしいほどに無邪気だ。まるで幼子のように穢れなき笑顔。ぞわり。レイバックの背筋を悪寒が走り抜けた。

***

 時は正午。レイバックとイース、ビットとメレンは揃って中央食堂を訪れていた。広い食堂内には午前中の講義終了を告げる鐘が鳴り響いていて、料理の並べられたカウンター付近には徐々に人が増えつつある。そんな中4人はといえば、すでに昼食を食べ終えコーヒーを片手に歓談に興じていた。午前中の講義が早めに終了したために、食堂が込み合う前に食事を済ますことができたのだ。コーヒーをともに彼らが話す内容と言えば、もっぱら午前中の講義内容に関わることだ。

「特殊丸薬、という薬剤はロシャ王国内では一般的な代物なのか?」
「診療所を受診すれば処方してもらえるわよ。でも個人が気軽に薬局で買うことはできないわね」
「薬剤の扱いが難しいのか」
「「それもあるけど、服用者の体質によっては重篤な副作用が生じる場合があるのよ。処方前にいくつか検査を受ける必要があると聞くわ。私は特殊丸薬の服用経験はないから、詳しいことはわからないけどね」

 イースの説明に、レイバックはなるほどとうなずいた。今日の午前中はルーメン講師の指導により、共同開発品目の一つである丸薬の作成にあたった。丸薬には従来の材料である生薬と蜂蜜に加え、魔獣生薬と呼ばれる魔獣の角や内臓を乾燥させた特殊な粉末を使用する。出来上がった丸薬は特殊丸薬と呼ばれ、従来の薬剤よりも遥かに強い薬効を示す。この特殊丸薬の研究開発が、魔導大学薬学部生命科学院魔獣薬学専攻教授ルーメンの専門研究であり、彼の輝かしい功績の一部でもあるのだ。

「ドラキス王国では薬剤の研究開発があまり盛んではないんだよな。魔族は怪我や病気には強い種族だから。ロシャ王国からの薬剤の輸入も最低限に止めてきたんだが、今回共同開発品目の一つに上がったのはやはり材料調達の関係か?」
「そうでしょうねぇ。ロシャ王国内では魔獣生薬の確保が難しいのよ。例え人々の命を救う薬剤のためであっても、自らの命を危険に晒して魔獣を捕らえようとする勇者はいないわ。王宮軍が魔獣を討伐すれば死骸は魔導大学に輸送される手筈になっているとは聞くけれど、十分な量ではないのよね。新薬の構想はいくつもあるのに、原材料となる魔獣生薬の供給が追い付かないとルーメンさんが零しているのを聞いたことがあるわ」
「勿体ない話だな。ドラキス王国では魔獣の死体など厄介物扱いだというのに。俺も兵士の遠征に同行すれば魔獣を切ることはあるが、死骸など土をかけて終わりだ。角や内臓を貰おうなどと考えたこともない」
「あら、レイさんは官吏なのに兵士のお供もするの?」
「ん、んー…。まぁたまにな」

 国内最高戦力者であるレイバックは、強大な魔獣が出没した暁の臨時要員として王宮軍の隊列に組み込まれている。いざというときの出兵の備え、また日々の息抜きとして執務の合間に訓練場を訪れているレイバックであるが、そのような事情を他国の人間であるイースが知るはずはない。
 呑気と語らうレイバックとイースの横では、揃いのティーカップを手にしたビットとメレンが仲睦まじく会話に興じていた。

「ゼータさん、今日もお休みでしたね。風邪でしょうか」
「そうかもね。あの人、魔導大学に到着してから連日徹夜で書物を読み漁っているから。無理が祟って熱でも出したんじゃない」
「クリスさんが看病にあたっているんですよね。教養棟に戻れないくらい具合が悪いのなら、少し心配ですね」
「うーん…具合が悪くて戻れないというよりは、クリスさんがゼータさんを留め置いているんじゃないかな。ほらゼータさん、多少の体調不良なら無理して講義に出席しようとするでしょ。他の人にうつしても困るし、無茶して体調が悪化する可能性もあるから、軟禁状態にされているんじゃない」

 軟禁状態。ビットは冗談で発した言葉であるが、レイバックはぎくりと肩を強張らせた。イースとの会話を一区切りにし会話に耳を澄ませるレイバックであるが、会話に夢中になるビットとメレンが隣席の沈黙に気がつく様子はない。

「ゼータさん、あんなに熱心に魔導具の講義を受けていたのに。気の毒ですね」
「メレンちゃんは優しいなぁ。大丈夫、魔族は身体が強いから。どんな風邪でも3日も寝てれば治っちゃうよ」
「そうなんですか?」
「そうそう。そもそも風邪を引くこと自体稀なんだけどね。僕だってもうすぐ300歳になるけれど、体調不良で寝込んだ経験なんて1度か2度だよ。薬だって飲んだことないし」
「それは羨ましいです。私、毎年年度初めには必ずと言って良いほど風邪を引くんです。年度末に予定を詰め込んじゃうから、寝不足で身体が弱るんですよ」
「確かに年度末は忙しいよねぇ」

 そう言って笑うと、ビットはコーヒーを一口口にした。つられたようにメレンもカップに指先を添え、程良い温度に冷めたコーヒーを口に含む。
 その後カップをテーブルに置いたメレンは、何かを言いたげに口を開いた。しかし小さな口元から言葉が発せられることはなく、憂いを帯びた眼差しとともに閉じられる。それはほんの一瞬の出来事であったが、メレンの口が意味深に開閉したのをレイバックは見逃さなかった。

「メレン、何かあったか?」

 レイバックの問いにメレンは慌てて首を横に振った。「何でもないです」と呟くものの場、にある3人分の視線はすでにメレンの元に集まっている。メレンは俯き、遠慮がちに話し出す。

「たいしたことじゃないんです。ゼータさんのこと、というよりもクリスさんのことで少し気になることがあったのを思い出して」
「何だ」
「本当にたいしたことじゃないんですよ。私、昨日のお昼休みに教養棟の近くでクリスさんの姿を見掛けたんです。クリスさん、昨日はゼータさんの看病をすると言ってすぐに講義を抜けてしまったじゃないですか。それなのに何で教養棟に戻って来たんだろうって不思議に思ったんです」
「忘れ物でもしたのだろうか」
「初めはそうかなと思ったんです。でも講義室に来る風でもなかったから、何となく行く先を目で追っていたんですよ。そうしたらクリスさん、学生棟に入って行ったんです」
「学生棟?」

 学生棟は教養棟の西側に隣接する2階建ての建物だ。教養棟の1階廊下を歩くうちに、西側の窓から学生棟の風貌を目にすることは度々ある。しかし目につく物といえば出入り口に掛けられた木製の看板くらいのもので、内部に何があるのかは傍目にはわからない。学生棟とは何ぞや?顔を見合わせるレイバックとビットに向けて、イースの口から懇切丁寧な説明がなされる。

「魔導大学に入学後2年間は、研究員ではなく学生という立場で日々勉学に励むことになるのよ。研究員になるために必要な基礎知識を身につけるためね。同時に様々な分野の講義を受講しながら、自身に会った研究分野を探すという目的も兼ねているわ。学生棟には彼らの生活を支えるための学生窓口があるの。例えば授業料の免除申請、取得単位の確認、学生寮の入寮退寮手続きも学生窓口で行えるわ」
「総務係のようなものか。しかしクリスが学生窓口に立ち寄ることが何かおかしいのか?」
「学生窓口はあくまで学生のためのものよ。2年の学生期間を経て研究員になると、それぞれの手続きは各学部の窓口で行うことになるの。例えば私は農学部だから、給与の受け取りや研究成果の報告は農学部棟の窓口で行うのよ。メレンの言う通り、研究員のクリスが学生窓口に赴くというのは奇妙だわ」
「…そうなのか」

 イースが説明を終えたところで、皆の視線は再びメレンへと集まった。学生棟の存在意義を理解したところで、クリスを目撃したとの証言の続きを促すためだ。期待の込められた3人分の視線を受けて、メレンは緊張の面持ちで口を開く。

「私、魔導大学に入学する以前は父の経営する書店に勤めていたんです。魔導大学の正門近くにある書店で、研究員向けの書物も数多く取り扱っているんですけれど…」
「待て待てメレン、その話はクリスが学生棟に立ち入った件と関係があるのか?」
「レイさん。メレンちゃんが話しているんだから余計な口を挟まないでください」

 突如として始まったメレンの身の上話に「待った」をかけるレイバックであるが、疑問の声はビットに一刀両断された。恋するビットにとれば、今この場で重要なのはメレンの過去を知ること。王様の疑問など二の次だ。流石に無礼だろ、口元まで出かけた文句を必死で飲み込んで、レイバックはメレンの語りに耳を澄ます。
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