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無垢と笑えよサイコパス

交渉

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 クリスが地下研究室の扉を開けると、部屋の奥側にゼータが立っていた。右手には鉄鍋、左手にはお玉、そして頭には料理用のボウルを被っている。笑いを誘っているとしか思えない珍妙な格好であるが、ゼータの表情は真剣そのものである。

「ゼータ、あの」
「それ以上近づかないでください」

 ゼータは鉄鍋とお玉を掲げてクリスを威嚇した。大きなボウルが頭の上で揺れる。

「ゼータ、落ち着いて。別に僕、ゼータと喧嘩をするつもりはないんだけど」
「じゃあこの首輪はどういうつもりですか」

 お玉を持つ手が触れるのは、鈍く輝く銀の首輪。クリスははてと首を傾げる。

「気に入らなかった?友好の贈り物なんだけど」
「冗談は止めてください。魔力を封じるための首輪でしょう」
「…んん、正解。魔力を封じられているってやっぱり感覚的にわかるもの?」
「魔力を封じられているという状態に特有の感覚があるわけではないですけれど、身体は不調ばかりです。やたらと眠いし身体はだるいし、もう最悪」
「へぇ、そうなんだ。貴重な情報をありがとう。牢の中にいる相手じゃ、正確な情報を聞き出せないんだよね」

 有益な情報を得たと微笑むクリス。ゼータは眉を吊り上げた。宿敵を前にした小動物さながらの威嚇であるが、頭にボウルを被った状態では相手に然したる恐怖は与えられない。しかし「質問に答えよ」との圧力は無事クリスに伝わったようだ。

「ああ、ごめんね。何で首輪を付けたかという話だ。腰を据えて話をしたかったからだよ。言わずとも理解はしてもらえると思うけど、ゼータに地下室を見られた今の状況は非常に不味いんだ。見られたというだけでも不味いのに、よりにもよってゼータはレイさんの友達でしょ。魔導大学では地下牢に魔族を幽閉している。そんな事実を魔族の王様に伝えられたら友好関係破棄の大事じゃない。例え彼らが罪人であったとしてもさ。大国との友好破棄のきっかけを作っただなんて、僕の方が牢屋に入れられる一大事だよ。絶対御免。だから落ち着いて話をする前に、ゼータに逃げられるわけにはいかなかったんだ。首輪を付けたのはそういう理由だよ」
「話をしたいなら、そう書き置きを残せば良かったじゃないですか」
「今、ゼータは僕のことを信用していないでしょう。『話がしたいから地下室から出るな』と書き置きを残したところで大人しく従ったの?」
「それは…」

 ゼータは言い淀む。確かにゼータがクリスに心を許していたのは昨日の正午までのこと。偶然見つけた隠し扉、そこで見た魔族の幽閉現場、真意の読めないクリスの顔。昨日地下室で見た全ての光景が、ゼータに不信感を募らせた。地下室から出るなとの書き置きが残されていたとしても、扉に鍵が掛かっていたとしても、魔法が使えたのなら間違いなくゼータは地下室を脱出していただろう。そして痛む脚を引き摺りながらレイバックの元へと戻り、地下室で見た全てを包み隠さず伝えるのだ。その先にあるものは何だ。大国間の友好関係の破棄か。

「ゼータが僕を信用していないのと一緒で、僕もゼータを信用できないんだよ。本棚に触るなと言ったのに、忠告を無視して地下室への扉を見つけちゃうんだもん。見つけたとしても扉を眺めるだけで思い留まってよね。僕、今極秘研究を任されているって言ったでしょ。隠し扉に立ち入れば不味いことになるとは考えなかったの?」

 捲し立てるような口調に、ゼータは思わず首をすぼめた。今回の事件の発端はゼータの迂闊な好奇心だ。偶然地下室へと続く扉を見つけ、その先が極秘研究の舞台である想像をしながらも湧き上がる好奇心を抑えられなかった。その結果がこれだ。魔獣用の鉄杭を受け、魔力を喰われ、甲斐甲斐しいクリスの看護を受けてここにいる。あまつさえ命を救ってくれた恩人に武器を向けて籠城を図っているのだ。その武器が、鉄鍋にお玉という何とも情けない代物であるにしろだ。

「…すみません」

 自らの非を認めゼータはしおしおと項垂れる。そしてここにきてようやく、鉄鍋とお玉を持った手を身体の横に下ろした。しょぼくれるゼータを見て、クリスはにっこりと笑う。

「過ぎたことをどうこう言っても仕方がない。だから仲直りしてさ、建設的な話をしようよ。お互いこの先何の憂いもなく笑って過ごすためには、どうすれば良いのかってことを」
「はい…」

 ゼータは頷き、部屋の中央に置かれたソファへと歩み寄った。右脚を引き摺るゼータがようやくソファの背に辿り着いたとき、クリスの指先がゼータの頭頂を指した。

「話し合いの前に頭の防具を取ってほしいな。さっきから笑いを堪えるの、結構大変なんだ」

 ゼータは思い出したように両手を頭部に当て、そこにある料理用のボウルを恥ずかしげに取り去った。

***

 クリスは壁際の調理台で茶の給仕にあたっていた。コンロの上のやかんはしゅうしゅうと湯気を噴き上げ、室内には熱気が充満する。コンロの火を止めて、調理台横のガラス棚からクリスが取り出したのは揃いの茶器だ。青を基調とした陶磁器の茶器には、白い小さな花の模様が描かれている。どこかで見た花だ、とゼータは思う。三角の形状に近い三枚の白い花弁は、魔導大学の象徴である延齢草えんれいそうだ。ガラス棚の中には同様の模様の茶器がいくつも揃えられているのは、単にクリスの趣味というわけではなさそうだ。

「その茶器、私物ですか?お洒落ですね」
「私物だけど僕が買った物ではないよ。貰い物。気に入ったのならカフェぽぷらの売店に同じ物が売っているよ。目玉が飛び出るほど高価だけどね」
「茶器が揃っているということは、この地下研究室にはお客様が来るということですか?」
「そうだね、結構来るかな」
「…何をしに?」

 遠慮がちなゼータの問いに、クリスは黙り込んだ。茶筒の蓋を開ける音と、茶葉を掬い上げる音。そして茶器に湯を注ぎ淹れる音。てきぱきと茶の給仕作業を続けながら、適切な答えを探しているようにも見える。そうしていくらかの時が経ち、クリスは2つのティーカップを手にゼータの元へと戻ってきた。目玉が飛び出るほど高価との評価を受けたティーカップには紅茶が注ぎ淹れられていて、揺れる水面からは湯気が立ち昇っている。程良い色合いの紅茶は香しさを放つ。クリスは2つのティーカップをテーブルの上に置き、ソファの一席に腰を下ろした。

「何をしに来ると思う?」

 穏やかな笑みを顔に張り付け、クリスは問う。紅茶の水面に見入っていたゼータは、一瞬クリスの問いの意味を掴みあぐねた。「何の話でしたっけ」と目を瞬かせるゼータを見て、クリスは質問を繰り返す。

「お客様は、この地下研究室に何をしにやって来ると思う?」
「…魔導具の実験のため?」

 自身なさげなゼータの答えに、クリスは「その通り」と笑う。

「ここは魔導大学の地下治験場だ。僕は治験場の管理人兼被験者の食事配膳係というところかな。ここにやって来るお客様は、魔導具の研究開発を指揮するお偉い様方ばかり。所属や役職は、僕は知らない。知らされていないから」
「セージ学長も来ます?」
「学長は来ないよ。彼は魔導大学の責任者というだけで、実際に魔導具制作に携わっているわけではない。でも治験に無関係ではない。地下治験室使用の連絡は、学長を通して僕に下りてくるんだ。昨日僕が学長に呼ばれたのは、次回の治験日程の調整のためだよ」

 ゼータは魔導大学到着翌日に面会したセージの風貌を思い出す。50代前半と見える容姿に整えられた黒髪、上背があり体格の良い男であった。魔導具の共同制作に意欲的であるとされたセージが、魔族相手の治験を容認していると思えば複雑な気持ちになる。しかし被験者となる魔族が罪人であるという事実を考慮すれば、治験場の存在が善であるか悪であるかの判断は今のゼータにはできなかった。

「魔導大学に在籍する研究員は、皆地下治験場の存在を知っているんですか?」
「いや、知らされていない。ロシャ王国内には私設公設含めいくつかの治験場があるけれど、所属は公安省になるんだ。魔導大学を含む研究機関は教育省所属。この地下治験場は魔導大学の敷地を借り受けて運営される公設の治験場だよ。土地を借り受けているだけだから、魔導大学の研究員に告知される義務ない」
「えっと…すみませんがコウアンショウとは?」
「公安省はロシャ王国の治安維持を担当する組織の総称だね。例えば各集落に在中する衛兵部隊、首都リモラの巡回員、刑務施設に配属された官吏も公安省の所属になる。ロシャ王国では治験の依頼は刑務施設に出されることが多いんだ。だから受刑者の情報管理の観点から、治験場も公安省の所属になっている」

 小難しい説明を、ゼータは首を傾げながら聞いた。ドラキス王国の政務体制ですらまともに把握していないゼータにとっては、クリスの語るロシャ王国の政務情報などまるで摩訶不思議な呪文のようだ。辛うじてすんなり頭に入る情報と言えば「ロシャ王国では犯罪者を対象に治験の募集がかけられる」という一点のみだ。

「ロシャ王国では、犯罪者に治験を依頼することは一般的?」
「一般的だよ。治験内容に応じた減刑の日数も法に定められている」
「地下治験場に魔族を幽閉することは違法ではない?」
「元々刑務施設に収容されていた人々だからね。地上の施設に比べて多少悪環境ではあるかもしれないけれど、違法ではない」
「地下治験場の存在を他の研究員に隠しているのは、後ろめたいからじゃなくて…」
「治験場が魔導大学の所轄ではないから伝えていないというだけ。大型の魔獣を飼育しているから、無暗矢鱈と他言できないという一面もあるね」
「そうですか…」

 ゼータは全身の力が抜けていく心地だ。地下治験室の存在が違法でないというのなら、その存在を知り得てしまったゼータが必要以上に怯える必要はない。例え今首輪を外され教養棟へ帰されたとしても、ロシャ王国の秘密を知ってしまったと後ろめたさを感じる必要もないのだ。ただ一点恐れるべきは、ここで知り得た事実をうっかりレイバックに漏らしてしまうこと。ロシャ王国の法に認められているとはいえ、地下牢に魔族を幽閉しているという事実は、2国の友好にとって利とは成り得ない。しかしそれだってゼータが余計なことを言わなければ済む話なのだ。それで全てが丸く収まる。簡単なことだ。

「誤解は解けたみたいだね。僕、悪人じゃなかったでしょ」
「そうみたいです。本当にすみません…疑うような真似をして」
「状況が悪かったからね、仕方ないよ」
「地下治験場の存在は他言しません。ここで見た物は綺麗さっぱり忘れます。そう約束すれば首輪を取ってもらえますか?」
「んー…」

 すんなり帰宅の許可が下りるかと思いきや、意外にもクリスは考え込んだ。澄んだ瞳はゼータの顔をじっと見て、それから首元で輝く銀の首輪へと下りた。その首輪がある限り、ゼータはクリスの許可なく地下研究室を出ることはできない。現にクリスが訪れるまでの間に、ゼータは幾度となく地下研究室の扉を開けようと試みたのだ。しかし分厚い金属の扉は固く閉ざされて、鉄鍋で叩いてもびくともしない。取っ手に傷一つ付けることすら叶わなかった。魔力を封じられているのだから当然魔法も使えない。
 ゼータが地下研究室を出てゆくためには、何としてもクリスの許可が必要になる。しかしクリスはゼータの望む答えを返さない。

「ゼータさ、魔導大学に来ない?」

 沈黙の末の問いかけに、ゼータはその言葉の意味がわからないと目を瞬かせた。

「来るも何も、現在魔導大学に滞在中ですよ」
「そういう意味じゃなくてさ。魔導大学所属の研究員にならないかってこと」
「…どういう意味ですか?」
「そのまんまの意味だよ。魔法研究所から魔導大学に移籍してくるんだ。研究所の移籍はドラキス王国では一般的ではない?」
「いえ、そんなこともないですけれど…」

 会話の流れに頭が追い付かず、ゼータはしどろもどろに答えを返す。対するクリスは、見る者の目を潰しそうなほどの満面の笑みだ。

「なら決まり。それが解放の条件だ。ゼータが魔導大学に移籍して、僕と同じ研究室に在籍する。そうすれば僕達は協力者だ。ゼータの口から国家機密が漏れるかもしれないと心配する必要もない。魔導大学に移籍すると宣言すれば、すぐに首輪を外して扉を開けてあげるよ」
「いやいや…不可能じゃないですか。確かに人間寄りの見た目ではありますけれど、私はれっきとした魔族ですよ。魔族はロシャ王国に住めません」
「実はそうでもないんだよ。お堅い印象のロシャ王国だけど、人の出入りに厳格な都市は首都リモラだけなんだ。周辺の集落では魔族の商人を頻繁に見かけるし、数か月単位で滞在する魔族の旅人も珍しくはないんだよね」
「それにしたって、首都リモラに立ち入れないんじゃ意味はないでしょう」
「ところがどっこい。実は首都リモラにも魔族は住んでいる。こちらはリモラ外部の不法侵入者とは違って、国に滞在が認められた者ばかりだ。ロシャ王国にとって有益な存在と認められれば、国王の名で滞在許可が下りるんだよ。人間と偽って違和感のない容姿であることが滞在の条件にはなるけどね。その点ゼータは問題ないでしょ」
「そう…かもしれませんけど、魔導大学の入試は難関でしょう。突破できる自信なんてないですよ」
「それも心配御無用。魔導大学には特別推薦枠というものがあってね。在籍する研究員3名の推薦状があれば入学試験が免除されるんだ。ゼータの魔導具に対する熱意は皆が認めるところだし、3人どころか5人分の推薦状が集まるよ。推薦状提出の他に簡単な面接試験はあるけれど、千年分の研究成果の蓄積があれば語るに困らないでしょ」

 怒涛の勢いで返される答えに、ゼータはついに言葉をなくした。良い案を思い付いたと一人お祭り状態のクリスは、ソファを離れ作業机を漁り始める。机の引出しを開け、「不要」と朱書きがされた段ボール箱を漁り、作業机の上には分厚い冊子本が積み上がって行く。
 間もなくクリスは、鼻歌交じりにゼータの元へと戻ってきた。目の前のテーブルに大量の冊子本が下ろされる。

「これ、僕が入学したときの物。大分古いけど、内容はあまり変わっていないと思うよ」

 ゼータは生唾を飲み込み、目の前に積み上がる冊子本の背表紙を読んだ。「魔導大学受験要綱」、「入学のしおり」、「研究員の福利厚生一覧」およそ不吉としか思えぬ背表紙の数々に、ゼータは短い悲鳴を漏らす。

「クリス、待ってください。私結婚したばかりなんですよ。新婚のお相手を放ってロシャ王国に移住するなんて不可能です」
「大丈夫。家族の居住申請も同時に行えるから。子どもが生まれれば、その子にだって居住権が認められる。ああ、でも家族連れということになれば研究員寮に住むわけにはいかないよね。家族向けの物件を紹介してもらえるかなぁ」
「住む場所以前に、移住の説得が不可能です。私のお相手は、わけあってドラキス王国を離れることができないんですよ」
「なら残念だけど別居だね。国外に家族を持つ研究員は、1年に2回まで帰国にかかる交通費の補助が出るはずだよ。養うべき家族がいると認められれば、給料にも扶養費が上乗せされる。国外出身の研究員に関しては福利厚生がかなり充実されているから、冊子本を見てみると良いよ」

 クリスの人差し指は、冊子本の1冊を指さした。「研究員の福利厚生一覧」と表題が書かれた冊子本は、まともに読み込めば一日を潰しそうなほどの厚みがある。反論の言葉をなくし黙りこくるゼータ。対するクリスはにこにことご機嫌だ。

「今日中に学生窓口に行ってくるよ。首都リモラの魔族受入条件と、特別推薦に関する一通りの書類を貰ってくる。書類が揃ったらもう一度話し合いをしよう。首輪を外すのは全ての話が済んでからだ。ゼータにとっても悪い話にはならないはずだから、体調不良はどうにか耐え忍んで。欲しい物は何でも運んでくるからさ」

 悪びれることなくそう告げられてしまえば、ゼータは黙り込む他にない。
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