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緋糸たぐる御伽姫

36.想い満つるパンドラ

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 山道を登る二頭の馬を、レイバックは駆け足で追った。幸いにも暗闇を走る馬の速度は遅い。付かず離れずの距離を保ったまま目的地へと辿り着いた。
 着いた場所は森の中にある小さな小屋だ。辺りは拓けているが、雑草が生い茂り小屋の外装も手入れがされているとは言い難い。もう長いこと人の立ち入らぬ小屋だ。馬を降りたダグと兵士の装いの男は、近くの木に手綱を繋いだ。兵士の先導で小屋の中へと入って行く。レイバックはそろそろと小屋に近づき、太い木の幹の陰に身を隠す。

 獣の鼻息が聞こえた。振り返れば近くの木に3頭の馬が繋がれている。黒革の馬具を付けた馬だ。馬の一頭は後ろ脚に荷物をぶら下げている。薄汚れた布袋の口から覗く物は、剣の柄だ。レイバックは剣の柄を握り、布袋の中から引っ張り出す。王宮軍の持つ長剣によく似た剣だ。ならばダグを案内した兵士と彼の仲間は、王宮に縁のある者達か。
 馴染みの武器を手にしたレイバックは、小屋の扉に歩み寄る。内部の様子はいか様であると恐れを抱きながら、万一に備え剣を抜く。

 次の瞬間、レイバックの目の前で小屋の扉が勢いよく開いた。すぐに一人の男が飛び出してくる。ダグを案内した、兵士の格好をした男だ。男は力任せに扉を閉め、脚を縺れさせながら馬の方へと向かって行く。そして木に結び付けた手綱を解き、馬に跨ると驚くほどの速さで走り去って行った。鞭打たれた馬の嘶きが遠く聞こえる。動転した兵士は最後までレイバックの存在に気が付かなかった。
 次いで聞こえた物は小屋を震わすような叫び声だ。まるで理解の及ばぬ化け物を目前にした時のような、恐怖に満ちた悲鳴。小屋の内側で物のぶつかり合う物音がして、軋む扉が開く。中から出てきた者はダグであった。言葉にならぬ呻き声を漏らし、土の地面に倒れ込む。ダグの身体には両腕がなかった。

「あれ、レイ。何しているんですか。散歩?」

 呑気な声と共に、開け放たれた小屋の扉からはゼータが顔を出した。血の飛んだ顔に、だぼついた衣服。足元で悶えるダグなど気にも留めない。

「こんな所まで散歩など来るか。ダグを追って来たんだ」
「あ、そう。よく分かりましたね。この男が黒幕だと」
「…たまたまだ」

 不愛想に返しながらも、レイバックはようやく人心地が付いた。生きていた良かった、と胸が熱くなる。しかし心を安らげたのも束の間で、レイバックの足元に擦り寄る物体がある。

「助けてくれ…」

 芋虫のようにレイバックの足元に寄る者は、腕をなくしたダグだ。ルナを害そうとした愚行など忘れ、助けを求めて嗚咽を漏らす。ゼータの瞳が無感情にダグに向く。

「失礼。早急に始末します」
「いや、俺の家臣だ。俺が責任を持とう」

 涙に濡れたダグの瞳は希望に満ち、レイバックを見上げる。しかし責任を持つと言った主の手に、抜き身の長剣が握られていることに気付き、希望の光は一瞬にして掻き消えた。
 辞世の句など聞く間もなく、振り下ろされた長刀はいとも容易くダグの首を落とした。恐怖に満ちた眼は光を失い、鮮血を噴き上げた身体はやがて動かなくなる。主の命に背くだけでは飽き足らず、あろうことか心を通わせた大切な友を奪い去ろうとした。愚か者に相応しい末路だ。

***

「別に来なくても良かったのに」
「事が済んだだの4人掛かりだのと聞いて、来ずにいられるか」
「あ、そんなことを言っていましたか。私の前では産まれたての小鹿みたいに震えていたのに、役者ですねぇ。あの兵士」
「ダグを小屋に呼ぶように言ったのか」
「そうですよ。私の方から遥々赴いても良かったんですけれど、精霊族祭の会場で騒ぎを起こすのは申しわけないじゃないですか。お客様には勿論ですけれど、レイにも」
「俺?」
「記念すべき夜でしょう。水を差すような真似をしてすみませんね。早く会いに行った方が良いんじゃないですか」
「待て。何の話だ」
「メアリ姫ですよ。告白されませんでした? あ、まだだった?」
「告白は、されたが」
「…ほら。記念すべき王妃誕生の夜だ。おめでとうございます」

 そう言ってゼータが拍手などしようとするものだから、レイバックは慌ててその両手首を掴む。

「待て待て。早とちるな。俺はメアリ姫を妃にするつもりはない」
「…そうなんですか? では告白には何と返事を?」
「返事を返していない。会話の途中でクリスがやって来たんだ。ルナを見なかったか、と言って。…返事は全てが片付いたらきちんとするさ。申し訳ないが想いに応えることはできない、と」
「…そう。そうですか。何だ。心配して損した」

 ゼータの顔に微笑みが浮かぶ。暗闇の中では見落としてしまいそうな、微かな微笑みだ。

「でも何で? メアリ姫じゃ駄目でした?」
「さぁ…何でだろうな」

 レイバックは掴んだままの手首を引き寄せて、幾分か低いゼータの肩に顎を載せる。血の匂いの中に嗅ぎなれた香りがある。落ち着く。レイバックはゼータの背に腕を回し、強く抱き竦める。二度とその身体が離れていかないようにと。

***

 心の奥底に古びた箱があった。その存在を認識しながらも、頑なに開けることを拒んできた箱だ。錆びて、軋み、埃にまみれ、それでも大事に守り抜いてきた。
 その箱に詰まる物の正体には薄々気が付いていた。しかしその箱を開けてはならぬと自らに言い聞かせ、蓋を閉ざしてきた。いつしか箱の中身は膨れ上がり、朽ちた蓋の隙間から中に詰まる物が溢れ出してきた。それでも零れ落ちた物には目を向けぬようにして、頑なに蓋を開けずにいた。鍵も蝶番ちょうつがいもとうに壊れ、底も壁も朽ち、中身が溢れ出るまでにもう幾分と持たぬことは知っていた。

 そして今ついに箱は壊れ、中の物体が滾々こんこんと溢れ出す。隠し続けていた想いが身体の隅々を満たす。足先から頭頂まで行き渡り、行き場をなくした想いは口から零れて落ちる。

「愛している」

 止めどなく溢れ、何度も零れ落ちる言葉を、ゼータはレイバックの腕の中で聞いた。
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