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緋糸たぐる御伽姫
13.命を刈る剣
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深夜の訓練場は静まり返っていた。それもそのはず。昼間訓練に勤しんでいた兵士は皆、白の街に帰り眠っている時間である。夜風に曝される訓練場の芝生を、満月を目前にした月明かりが照らしていた。
訓練場の中心まで揚々と歩いたゼータは、持っていた真剣の一振りをレイバックの足元へと放った。残す一振りは片手で胸の前に抱き込んでいる。二振りの真剣は兵士が訓練に使用している物ではない。いざ魔獣退治に赴く際に剣隊の兵士が携帯する物で、刃こぼれを起こした訓練用の剣とは違いよく研ぎ澄まされている。武器庫の扉には2つの錠前が付いていたはずだが、一体どうやって盗み出してきたのだと、真剣を拾い上げたレイバックは溜息を零すのである。
「試合の勝利条件は?」
「そうですね…。剣を手放せば負けなんて糞つまらない事言わずに、相手の首を獲った方が勝ちにしましょう。殺し合いです」
「…いいだろう」
今のゼータに説得の言葉は通じない。レイバックは着ていた夜着の袖を捲り上げ、刀を抜いた。鞘は勝負の邪魔にならぬようにと遠くに放る。ゼータも同じように不要の鞘を投げ捨てると、抜き身の刀身を月明かりに翳ししげしげと眺めていた。何度も柄を握り直す様子は、ゼータが剣に不慣れであることを伝えている。
月明かりの下、2人は対峙した。レイバックは両手で剣を持ち隙のない構えを作る。対するゼータは右手で剣を持ち、左手は身体の横に垂らしたままだ。剣を持つ者の構えとしては、あまりにもお粗末。命の懸かった試合をする者の姿には見えない。
先に動いた者はゼータであった。レイバックの間合いへと潜り込んだゼータは、首を狩り取るべく剣を振るう。大きく振りかぶった剣は太刀筋が丸わかりで、陽動も何もあったものではない。レイバックは初めの一太刀を躱し、ぎこちない動きで繰り出された二太刀目を刃で受ける。
「ぐ…」
組み合った剣は想像以上に重たかった。押し負けたレイバックは体勢を崩し、芝生に片膝を付く。ゼータの剣には、およそ素人が片手で打ち出したとは思えぬ威力が込められていた。巨人族である王宮軍隊長デューゴの一撃に匹敵する。
「剣に魔力を込めるなら先に言え」
「殺し合いだと言ったでしょう。律儀に不得手の剣技だけで向かっていく訳ないでしょうが。頭を使わないと死にますよ」
ゼータは鼻で笑って、再び剣を振り上げる。膨大な魔力の込められた剣であれば、まともに受け続けるのはまずい。レイバックは身体を捻ってその切っ先を躱す。
拙い動きの剣は、一瞬でレイバックの命を狩り取る剣へと変貌した。休みなく四方から振り翳される剣に焦りを感じながらも、レイバックの口の端は自然と上がる。愉しい。やはり試合はこうでなくてはいけない。メアリの振るう剣は確かに美しかった。しかしあれは言うなれば硝子で作られた綺麗な置物。美しいと思うことはあれど、目の前にして血肉が騒ぐことなどない。
鮮烈と打ち合う中で、レイバックの剣の峰がゼータの手の甲を打った。刀を取り落としたゼータは、手の甲を押さえながら数歩後ろに下がる。草むらに落ちた自らの剣を一瞥、そしてあろうことか、丸腰のまま再び戦場へと舞い戻ってきた。
「おい、剣を拾え!」
焦ったのはレイバックだ。丸腰の人間に向けて剣を振るえば一瞬で決着はつく。がら空きの首を狩り取ることなど造作もない。敵の奇行に戸惑うレイバックは、剣を振るう手を止める。ゼータは僅かな隙を見逃さない。伸ばされた両手のひらがレイバックの胸倉を掴む。
途端、身体中に電流を流されたような衝撃が走り、レイバックは剣を取り落とした。魔法による攻撃。掴まれたままではまずいと、レイバックはゼータの鳩尾を蹴り飛ばす。
身体中が痺れて指が思うように動かない。方や渾身の力で蹴りつけたはずのゼータはけろりとした顔で立っている。魔法を攻撃だけでなく防御にも充てている。厄介な奴だとレイバックは顔を歪める。魔力を有する以上、レイバックとて魔法が使えないわけではない。しかし使えると言えば生活の中で使うささやかな生活魔法のみで、多種の魔法を戦いの中で繊細に操ることはできない。
「全く茶番も良いところですよ。人形のように飾り立てられた姫君を相手に、お遊びの剣を振るえなど」
冷淡な声が響く。月明かりを背にして夜闇に立つゼータはさしずめ魔王だ。
「あの男、あの場で腹を打ち抜いてやろうかと思いましたけどね。観客のいる場で、隣国の客人を魔法の的にするのはまずいと思って我慢したんですよ。レイが事を荒立てたくないと言うから。気位が高いだの、下等な魔獣程度の魔力などと散々悪し様に言われましたけど、頑張って穏便に収めたんですよ。褒めてくれません?」
「試合が終わったらな」
試合は再開。大股でレイバックとの距離を詰めたゼータは、今度は拳を振りかぶった。刀と同じく魔力を込めた拳だ。まともに食らえば只では済まない。しかし肉弾戦に持ち込まれた以上レイバックとて容赦はしない。構えを組手へと変え応戦、防御を掻い潜った拳がゼータの頬を打つ。
数秒過ぎた時には、2人の顔と身体には多数の殴打痕があった。切れた口内の傷からは血が滲み、口端から流れ落ちる。動くたびに脇腹や太腿の殴打痕がずきずきと痛む。
額から流れてきた汗に、レイバックが僅かに目を細めた瞬間であった。弾丸のように突進したゼータが、渾身の力でレイバックの身体を押し倒す。そのまま腹に馬乗りになり、間髪入れずにレイバックの顔面を殴打する。魔力の籠った拳が頬を打つ。意識を飛ばされては叶わぬと、両腕で拳を凌いでいたレイバックであるが、徐々に重さを増す拳に耐え切れず―
緋の両眼が光り、レイバックは咆哮するように口を開いた。
刹那、目がくらむような光と衝撃が口腔から吐き出される。不意の攻撃に反応が遅れ、咆哮の直撃を食らったゼータの身体は弾き飛ぶ。そしてなす術もなく地面に身体を打ちつけた。
ゼータが身を起こした時には、立ち上る白煙の中にレイバックの姿はない。
「終わりだ」
耳元で囁く声。同時に伸びてきたレイバックの片腕が、ゼータの身体を背後から抱きすくめる。
そして研ぎ澄まされた刀身がゼータの首をす、となぞった。
レイバックは深々と息を吐き、脱力して後ろに倒れこんだ。腕に抱き込まれたままのゼータも共に倒れこむ。寄り添うようにして地面に倒れこんだ2人は共に満身創痍だ。レイバックの顔には数多の殴打痕、右目の瞼は腫れ、切れた口内からは鮮血が零れ落ちている。ゼータは顔面の傷はさほどではないが、手痛い咆哮の直撃を食らったため衣服の一部が焼け焦げていた。
「首は、獲ったことにしてくれ」
レイバックが呟けば、ゼータは首筋の刀痕を指先でなぞった。満足げな笑い声が零れる。
***
2人は寝ころんだまま、長い事夜空浮かぶ薄雲を眺めていた。月にかかる薄雲は風に吹かれて何度も形を変える。レイバックとゼータがこうして手合わせをするのは多々あることだ。例えばレイバックの仕事が詰まった時の憂さ晴らしに、ゼータが新しく覚えた魔法の試し打ちをしたい時に。一方が誘えばもう一方は快く応じる。そうした喧嘩友達と言うべき関係は、もう長いこと続いている。
煌々と輝く月輪が薄雲に隠れたときに、レイバックは口を開いた。
「マルコーに何を言われた?」
「…何だったかな。大国の王妃候補は遊びでも人に負けるのは嫌なのかとか。魔法も剣も使えぬのなら王妃となった後はレイを騎士にして守ってもらうつもりかとか。周りに兵士がいましたから言葉は選んでいましたけど、明確な悪意は感じましたよ」
「…少し釘を刺した方が良いか」
「余計なことはしなくて良いですよ。泣きついたと思われるのも癪ですし。この先マルコーとメアリ姫とは関わる機会もないでしょう」
明日の公休日が明ければ、使節団員は王宮内の各部署に配属され公務の見学にあたる。顔合わせを目的として来国したメアリがどのように動くかはわからないが、ゼータが積極的に関わる機会はないだろう。ルナを貶め、メアリの剣技を披露し、マルコーは今満足しているはずだ。余計な餌は撒かないに限る。
「ゼータがそれで良いと言うならそうしよう。念のため、明日以降のメアリ姫とマルコーの予定がわかれば逐一伝える。他の使節団員と同じように、どこぞの部署の見学をするというのなら、ゼータは魔法研究所に行っていても構わない。どうする?」
「王宮にいますよ。追加予算の交渉のために、研究成果の報告に来ていることになっていますから」
「ああ、成程な」
魔法研究所への追加予算の配布は、妃候補を演じるゼータへの報酬だ。無事報酬を獲得した暁にはそうして研究所の仲間に説明するのかと、レイバックは納得の表情である。
「聖ジルバード教会の図書室はずっと来てみたかったんですよ。丁度良い機会なので目ぼしい本には目を通して帰ります。客室にいなければ、まず図書室に籠っていると思ってくれて良いですよ。何か用があれば赴いてください」
行動が単純で良いでしょう、とゼータは笑う。先程までの魔王のような形相とは打って変わってご機嫌だ。それからしばらくは他愛のない会話を繰り返し、ゼータの口調は次第にのんびりとなる。正確な時刻はわからないが、日付は当に変わっている。マルコーの嫌味に対する鬱憤も晴れ、試合の熱も冷めたゼータはお眠のようだ。
レイバックは思い出したように手を伸ばし、横でまどろむゼータの頭をゆるゆると撫でた。
「…なんですか」
「褒めてくれと言ったじゃないか」
「ああ…」
それきりゼータは黙り込んで、頭を撫で回すレイバックの手のひらを振り払うことはなかった。安易な身体の接触は好まぬゼータが、今日はいたく素直である。珍しいこともあるものだと、レイバックはゼータの黒髪を撫で回す。しかし半開きの口が本格的に寝息を立て始めたことに気づき、慌ててその肩を揺り起こすのだ。
「ゼータ、ここで寝るな。客室に戻れ」
「んー…」
「ほら、刀は俺がこっそり返しておくから。くれぐれもその姿のまま寝るなよ。着替えて、ルナの姿に戻って寝るんだぞ。わかったか?」
「はいはい」
ゼータは気だるげに立ち上がり、頼りない歩みで王宮へと続く道のりを歩いて行く。あっちの草むらへこっちの草むらへと無意味な寄り道をしながら林道へと消えてく背中を見送り、残されたレイバックは芝生の上に落ちた2本の真剣を拾い上げた。投げ捨てた鞘を探し、輝く刀身を収める。刀を抱え武器庫へと続く道のりを歩み始めれば、殴打を食らった脇腹や顔面の傷がずきずきと痛んだ。
身体の痣は衣服で隠れても、顔の殴打痕は嫌でも人の眼に触れる。侍女や官吏への説明をどうしたものかと、レイバックは思案する。その顔はゼータと同じくご機嫌であった。
訓練場の中心まで揚々と歩いたゼータは、持っていた真剣の一振りをレイバックの足元へと放った。残す一振りは片手で胸の前に抱き込んでいる。二振りの真剣は兵士が訓練に使用している物ではない。いざ魔獣退治に赴く際に剣隊の兵士が携帯する物で、刃こぼれを起こした訓練用の剣とは違いよく研ぎ澄まされている。武器庫の扉には2つの錠前が付いていたはずだが、一体どうやって盗み出してきたのだと、真剣を拾い上げたレイバックは溜息を零すのである。
「試合の勝利条件は?」
「そうですね…。剣を手放せば負けなんて糞つまらない事言わずに、相手の首を獲った方が勝ちにしましょう。殺し合いです」
「…いいだろう」
今のゼータに説得の言葉は通じない。レイバックは着ていた夜着の袖を捲り上げ、刀を抜いた。鞘は勝負の邪魔にならぬようにと遠くに放る。ゼータも同じように不要の鞘を投げ捨てると、抜き身の刀身を月明かりに翳ししげしげと眺めていた。何度も柄を握り直す様子は、ゼータが剣に不慣れであることを伝えている。
月明かりの下、2人は対峙した。レイバックは両手で剣を持ち隙のない構えを作る。対するゼータは右手で剣を持ち、左手は身体の横に垂らしたままだ。剣を持つ者の構えとしては、あまりにもお粗末。命の懸かった試合をする者の姿には見えない。
先に動いた者はゼータであった。レイバックの間合いへと潜り込んだゼータは、首を狩り取るべく剣を振るう。大きく振りかぶった剣は太刀筋が丸わかりで、陽動も何もあったものではない。レイバックは初めの一太刀を躱し、ぎこちない動きで繰り出された二太刀目を刃で受ける。
「ぐ…」
組み合った剣は想像以上に重たかった。押し負けたレイバックは体勢を崩し、芝生に片膝を付く。ゼータの剣には、およそ素人が片手で打ち出したとは思えぬ威力が込められていた。巨人族である王宮軍隊長デューゴの一撃に匹敵する。
「剣に魔力を込めるなら先に言え」
「殺し合いだと言ったでしょう。律儀に不得手の剣技だけで向かっていく訳ないでしょうが。頭を使わないと死にますよ」
ゼータは鼻で笑って、再び剣を振り上げる。膨大な魔力の込められた剣であれば、まともに受け続けるのはまずい。レイバックは身体を捻ってその切っ先を躱す。
拙い動きの剣は、一瞬でレイバックの命を狩り取る剣へと変貌した。休みなく四方から振り翳される剣に焦りを感じながらも、レイバックの口の端は自然と上がる。愉しい。やはり試合はこうでなくてはいけない。メアリの振るう剣は確かに美しかった。しかしあれは言うなれば硝子で作られた綺麗な置物。美しいと思うことはあれど、目の前にして血肉が騒ぐことなどない。
鮮烈と打ち合う中で、レイバックの剣の峰がゼータの手の甲を打った。刀を取り落としたゼータは、手の甲を押さえながら数歩後ろに下がる。草むらに落ちた自らの剣を一瞥、そしてあろうことか、丸腰のまま再び戦場へと舞い戻ってきた。
「おい、剣を拾え!」
焦ったのはレイバックだ。丸腰の人間に向けて剣を振るえば一瞬で決着はつく。がら空きの首を狩り取ることなど造作もない。敵の奇行に戸惑うレイバックは、剣を振るう手を止める。ゼータは僅かな隙を見逃さない。伸ばされた両手のひらがレイバックの胸倉を掴む。
途端、身体中に電流を流されたような衝撃が走り、レイバックは剣を取り落とした。魔法による攻撃。掴まれたままではまずいと、レイバックはゼータの鳩尾を蹴り飛ばす。
身体中が痺れて指が思うように動かない。方や渾身の力で蹴りつけたはずのゼータはけろりとした顔で立っている。魔法を攻撃だけでなく防御にも充てている。厄介な奴だとレイバックは顔を歪める。魔力を有する以上、レイバックとて魔法が使えないわけではない。しかし使えると言えば生活の中で使うささやかな生活魔法のみで、多種の魔法を戦いの中で繊細に操ることはできない。
「全く茶番も良いところですよ。人形のように飾り立てられた姫君を相手に、お遊びの剣を振るえなど」
冷淡な声が響く。月明かりを背にして夜闇に立つゼータはさしずめ魔王だ。
「あの男、あの場で腹を打ち抜いてやろうかと思いましたけどね。観客のいる場で、隣国の客人を魔法の的にするのはまずいと思って我慢したんですよ。レイが事を荒立てたくないと言うから。気位が高いだの、下等な魔獣程度の魔力などと散々悪し様に言われましたけど、頑張って穏便に収めたんですよ。褒めてくれません?」
「試合が終わったらな」
試合は再開。大股でレイバックとの距離を詰めたゼータは、今度は拳を振りかぶった。刀と同じく魔力を込めた拳だ。まともに食らえば只では済まない。しかし肉弾戦に持ち込まれた以上レイバックとて容赦はしない。構えを組手へと変え応戦、防御を掻い潜った拳がゼータの頬を打つ。
数秒過ぎた時には、2人の顔と身体には多数の殴打痕があった。切れた口内の傷からは血が滲み、口端から流れ落ちる。動くたびに脇腹や太腿の殴打痕がずきずきと痛む。
額から流れてきた汗に、レイバックが僅かに目を細めた瞬間であった。弾丸のように突進したゼータが、渾身の力でレイバックの身体を押し倒す。そのまま腹に馬乗りになり、間髪入れずにレイバックの顔面を殴打する。魔力の籠った拳が頬を打つ。意識を飛ばされては叶わぬと、両腕で拳を凌いでいたレイバックであるが、徐々に重さを増す拳に耐え切れず―
緋の両眼が光り、レイバックは咆哮するように口を開いた。
刹那、目がくらむような光と衝撃が口腔から吐き出される。不意の攻撃に反応が遅れ、咆哮の直撃を食らったゼータの身体は弾き飛ぶ。そしてなす術もなく地面に身体を打ちつけた。
ゼータが身を起こした時には、立ち上る白煙の中にレイバックの姿はない。
「終わりだ」
耳元で囁く声。同時に伸びてきたレイバックの片腕が、ゼータの身体を背後から抱きすくめる。
そして研ぎ澄まされた刀身がゼータの首をす、となぞった。
レイバックは深々と息を吐き、脱力して後ろに倒れこんだ。腕に抱き込まれたままのゼータも共に倒れこむ。寄り添うようにして地面に倒れこんだ2人は共に満身創痍だ。レイバックの顔には数多の殴打痕、右目の瞼は腫れ、切れた口内からは鮮血が零れ落ちている。ゼータは顔面の傷はさほどではないが、手痛い咆哮の直撃を食らったため衣服の一部が焼け焦げていた。
「首は、獲ったことにしてくれ」
レイバックが呟けば、ゼータは首筋の刀痕を指先でなぞった。満足げな笑い声が零れる。
***
2人は寝ころんだまま、長い事夜空浮かぶ薄雲を眺めていた。月にかかる薄雲は風に吹かれて何度も形を変える。レイバックとゼータがこうして手合わせをするのは多々あることだ。例えばレイバックの仕事が詰まった時の憂さ晴らしに、ゼータが新しく覚えた魔法の試し打ちをしたい時に。一方が誘えばもう一方は快く応じる。そうした喧嘩友達と言うべき関係は、もう長いこと続いている。
煌々と輝く月輪が薄雲に隠れたときに、レイバックは口を開いた。
「マルコーに何を言われた?」
「…何だったかな。大国の王妃候補は遊びでも人に負けるのは嫌なのかとか。魔法も剣も使えぬのなら王妃となった後はレイを騎士にして守ってもらうつもりかとか。周りに兵士がいましたから言葉は選んでいましたけど、明確な悪意は感じましたよ」
「…少し釘を刺した方が良いか」
「余計なことはしなくて良いですよ。泣きついたと思われるのも癪ですし。この先マルコーとメアリ姫とは関わる機会もないでしょう」
明日の公休日が明ければ、使節団員は王宮内の各部署に配属され公務の見学にあたる。顔合わせを目的として来国したメアリがどのように動くかはわからないが、ゼータが積極的に関わる機会はないだろう。ルナを貶め、メアリの剣技を披露し、マルコーは今満足しているはずだ。余計な餌は撒かないに限る。
「ゼータがそれで良いと言うならそうしよう。念のため、明日以降のメアリ姫とマルコーの予定がわかれば逐一伝える。他の使節団員と同じように、どこぞの部署の見学をするというのなら、ゼータは魔法研究所に行っていても構わない。どうする?」
「王宮にいますよ。追加予算の交渉のために、研究成果の報告に来ていることになっていますから」
「ああ、成程な」
魔法研究所への追加予算の配布は、妃候補を演じるゼータへの報酬だ。無事報酬を獲得した暁にはそうして研究所の仲間に説明するのかと、レイバックは納得の表情である。
「聖ジルバード教会の図書室はずっと来てみたかったんですよ。丁度良い機会なので目ぼしい本には目を通して帰ります。客室にいなければ、まず図書室に籠っていると思ってくれて良いですよ。何か用があれば赴いてください」
行動が単純で良いでしょう、とゼータは笑う。先程までの魔王のような形相とは打って変わってご機嫌だ。それからしばらくは他愛のない会話を繰り返し、ゼータの口調は次第にのんびりとなる。正確な時刻はわからないが、日付は当に変わっている。マルコーの嫌味に対する鬱憤も晴れ、試合の熱も冷めたゼータはお眠のようだ。
レイバックは思い出したように手を伸ばし、横でまどろむゼータの頭をゆるゆると撫でた。
「…なんですか」
「褒めてくれと言ったじゃないか」
「ああ…」
それきりゼータは黙り込んで、頭を撫で回すレイバックの手のひらを振り払うことはなかった。安易な身体の接触は好まぬゼータが、今日はいたく素直である。珍しいこともあるものだと、レイバックはゼータの黒髪を撫で回す。しかし半開きの口が本格的に寝息を立て始めたことに気づき、慌ててその肩を揺り起こすのだ。
「ゼータ、ここで寝るな。客室に戻れ」
「んー…」
「ほら、刀は俺がこっそり返しておくから。くれぐれもその姿のまま寝るなよ。着替えて、ルナの姿に戻って寝るんだぞ。わかったか?」
「はいはい」
ゼータは気だるげに立ち上がり、頼りない歩みで王宮へと続く道のりを歩いて行く。あっちの草むらへこっちの草むらへと無意味な寄り道をしながら林道へと消えてく背中を見送り、残されたレイバックは芝生の上に落ちた2本の真剣を拾い上げた。投げ捨てた鞘を探し、輝く刀身を収める。刀を抱え武器庫へと続く道のりを歩み始めれば、殴打を食らった脇腹や顔面の傷がずきずきと痛んだ。
身体の痣は衣服で隠れても、顔の殴打痕は嫌でも人の眼に触れる。侍女や官吏への説明をどうしたものかと、レイバックは思案する。その顔はゼータと同じくご機嫌であった。
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