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伯爵家編

子爵令嬢のあり得ない午後

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 社交期の貴族は忙しい。
 連日連夜のパーティー、舞踏会は真夜中まで。翌朝、遅い朝食を摂ったら乗馬をしたり、公園を散歩したりして、同じ階級の人々と交流を深める。それから昼食を済ませ、ドレスを着替え、昨夜参加したパーティーの主催者に挨拶をして、……そして夜にはまた別の集まりに顔を出す。そんな具合であったから、午後のティータイムくらいしか自由になる時間はなかった。
 その大切な時間を使って、メイベルは都の東側、従兄が始めたばかりの弁護士事務所まで馬車を走らせた。というのも、どうしても聞いてもらいたい話があったからだ。それも従兄にしか打ち明けられない、重大な話が。

「だからって社交期シーズン真っ只中のご令嬢が来るところじゃないだろ」

 なのにクロードときたら呆れ顔。新聞やら書類やらで散らかったテーブル周りを片付けている。私は気にしないのに。メイベルがそう言っても、彼は手を止めなかった。
 可愛い従妹に頼られて嬉しくないなんて、とんだ不届き者だ。お姫さまだのなんだのと今まで持ち上げてきたのは嘘だったのだろうか?メイベルは口を尖らせた。
 「だって早く会いたかったんだもの」そりゃあ今が大切な時期だというのはわかっているけれど、でも。……そう思ってしまうのは、ワガママなんだろうか。
 五歳歳上の、子爵家の次男。爵位を継承できないクロードは大学を卒業したばかりで、事務所を開いたとはいっても今はまだそれまでのツテを頼りに仕事を得ている状態だ。
 信頼を得て、軌道に乗せる。そのためにも今はただ、目の前の仕事に誠実に向き合うしかない。たとえそれが何でも屋のようなものであったとしても、だ。
 だからこれまでと同じように構ってほしいなんていうのは、やはりワガママでしかないのだろう。わかっているのに、行動に移せない。いつまでも子供みたいに不満を露にしてしまう。

「……別に来てほしくないわけじゃない。ただこのあと来客があるから、」

「時間は取らせないわ。本当に少しだけ。……それでもだめ?」

「……まったく」

 けれど最後にはいつだって「仕方ないなぁ」と笑って、ワガママを受け入れてくれるから。だからいつまでたってもメイベルの自立心は養われないまま。今日も今日とて従兄の優しさに甘えてしまう。
 内心反省しつつ、メイベルは「ありがとう」と頬を緩めた。それでもやっぱり、嬉しいものは嬉しいのだ。家族のように──いいや、きっと、それ以上に──思っているから。

「それで?いったいどんな仰天ニュースが飛び込んできたって?」

「……その言い方、まるで信じていないでしょう?本当に本当の、驚天動地のビッグニュースなんだから」

「ほほう?そいつは楽しみだ」

 にやりと笑いながら、今度はやかんに火をかけにいくクロードを追いかけながら、メイベルは思案する。
 ──さて、どこから話そうか。

「レンジャー伯爵家が養子を迎えたって話は知ってると思うけど、彼女……キャンディ様についてはどのくらい聞いているかしら?」

「ミス・キャンディ・レンジャーか?母親は確か農場の娘だったな。子供ができてからは都に移って、伯爵が借りてる別邸でひっそり暮らしてたって話くらいしか知らないが」

「……そうなの?」

 『くらいしか』とクロードは言うけれど。でもその情報さえ知らなかったから、メイベルは素直に感心してしまった。
 いったいどこからそんな情報を掴んでくるのやら。あまり褒められた話ではないし、伯爵もキャンディもぺらぺら話すような性格には見えなかった。けれど現実として、赤の他人に内情が知れ渡っている。となると、人の口に戸は立てられないということか。伯爵家ともなれば付き合いのある人々も多くなるはず。
 しかし、それにしたって……

「よく知ってるわねぇ」

「たまたまだよ。あそこの長男も同じ大学を出てるからな。色々と教えてくれるやつもいるのさ」

 何てことはない、とクロードは肩を竦めてみる。その仕草は存外さまになっていて、普段は感じさせない歳の差というものを否が応にも意識させられた。
 メイベルは「ふうん、」と気のない風を装ったが、本当のところは微妙な気持ちだった。おいてけぼりにされた幼子のような、そんな気分。交遊関係の広さは知っていたけれど、改めて振り返ってみると、ここ最近はそれを思い知らされることが多かった。
 「今からでも新聞記者になったらいいんじゃない?」そう言いながら、メイベルはクロードの代わりに火を止めた。
 旧式のキッチナー、埃っぽい借間フラット。ここでは通いのメイド一人しか雇っていないらしい。そんなことにすら今のメイベルは違和感を覚えてしまう。
 でもクロードにとっては当たり前なのだ。その差が少しだけ、寂しかった。
 それに、とメイベルは思う。それに私は、この人の友だちだって知らない。彼については知らないことばかりだ。彼とリチャードが同じ学校を出ているのも、それなりに親しい間柄だというのも。レンジャー伯爵家と付き合いがあるのだって、今はじめて知った。
 メイベルが知っているのはしょせん【従兄としての】リチャードだけだ。後輩としての彼も、友人としての彼も、或いは女性と接する時の彼などは、想像もつかなかった。
 従兄のことは何でもわかっているつもりだったけれど、本当は何も知らなかったのかもしれない。なんとなく裏切られた気分だ。彼が悪いわけじゃないとはわかっているのに、目が合わせられない。

 ──そういえば、このあと約束があると言っていたけれど、相手は誰なんだろう──?

「そのワケあり令嬢がどうかしたのか?まさかお前のとこでも隠し子とか、」

「なっ!ちっ、違うわよ!」

 そんな具合でぼんやりお茶を淹れていたものだから、ティーポットを取り落としそうになる。
 しかしそれはクロードの言葉があまりに見当違いだったから……というだけではない。顔を覗き込まれ、不意に縮まった距離にびっくりしたせいだ。彼の目はメイベルのそれよりも深みのある色をしていた。底知れない夜の色、静まり返った冬の海。凪いだ目は、すべてを見透かすようだった。
 その視線から逃れるように、ソファに座り直すふりをする。
 すると目に留まるのは、テーブルの隅に無理やり寄せられた本の山。合間合間からは書類なのかメモなのかわからない走り書きの用紙がはみ出ている。
 メイベルにはそのうちのどれが重要なもので、どれがそれ以外のものにあたるのか、まるで見当がつかない。が、もう少しのところでそれらを水浸しにしてしまうところだったのだ。
 背中に嫌な汗を感じながら、メイベルは息を整えた。
 ……そういえば今はなんの話をしていたんだっけ?とても失礼なことを言われたような気がしたんだけど……。
 ……あぁ、そうだ。思い出した、

「……確かにそんなことになったら天地が引っくり返るけど、ていうかその前にヒステリーを起こしたお母様が倒れる羽目になるだろうけど、そういうのじゃなくて……」

 メイベルの母はそれはもう気が強くて、プライドの高さはエベレスト(が、この世界にもあるのかは知らないけれど)級だ。事なかれ主義の夫が相手だからこそ今までの結婚生活だって成り立ってきた。とんでもなく失礼な話だが──しかし娘としてはそう思わざるをえない。
 「……うん、たぶんお父様にそういうのはないと思うけど……、 」だからあの父がレンジャー伯爵のような事態を引き起こすとはとても思えないが──考え込むうち深みにはまり、自信が持てなくなる。

「どうなのかしら?どう思う?あり?なし?」

 不安から、縋るように従兄を見やる。
 ──すると。

「いや、冗談だから。オレもないと思うよ。ロックウェル夫人は怒らせると怖そうだし、子爵の方も面倒ごとは嫌うだろ」

「そう、そうよね……。って、あなたが言い出したんじゃないの、もうっ」

「だから冗談だって。こら、叩くな。行儀が悪いぞ」

「そう言うあなたの冗談はたちが悪いわ、ぜんぜん笑えないもの」

 当の張本人があっさりと否定するから、メイベルはすっかり膨れっ面。こんな下らない冗談を言うなんて、やっぱりまだまだ子供みたい。そう、自分の反応は棚に上げて、メイベルは呆れる。
 ……でもそんな従兄の様子にホッとしたのは内緒だ。

「悪かったよ。ちゃんと真面目にお前の話を聞くから、な?機嫌直せって」

「……本当に?本気でそう思ってる?」

「本当に本当だって」

「じゃあ話すけど……、もう余計な茶々は入れないでよね」

「ああ、わかったよ」

「……その、彼女も私たちと同じかもしれないの」

 時間が経つうちに『そんなに大した話じゃないかも』と思い始めていたメイベルだったが、その台詞を口にした途端、紅茶を飲むクロードの手が止まった。
 「同じって、」メイベルと同じ色の目が、困惑に染まる。「それはつまり……【前世】があるってことか?」たぶん、そういうことなのだろう。キャンディとの会話を思い返しながら、メイベルは頷いた。

「正確には……、ええっと、そうね、たしか転生者って言っていたわ。何かの専門用語かしら?少なくとも仏教には存在しない単語だと思うけど……。それは置いておくとしても、これってつまり彼女も輪廻転生した記憶があるってことでしょう?」

「この国では異端側の考えであることは確かだな。うちじゃ死者の魂は天国にいくもんだし。けどそれだけじゃなぁ……」

 確証が持てない、とクロードは言葉を濁す。
 ……言われてみれば、たしかに。そういえば明確な言葉を聞いたわけではない、かも。話の流れからなんとなく『そうじゃないか』と思っただけなのだ。そんなことにさえ気づかなかった。
 ……というより、他のことに気を取られていた。『身分違いの恋』という、従兄に知られたら鼻で笑われそうな話題のせいで。

「で、でも彼女の様子からしてまったく別のことを指しているとは思えなかったわ」

「それならもうちょっと具体的に……どんな話をしたのかだけでも教えてくれないと。一言一句違わずにとは言わないから、他に思い出せることはないのか?」

「ぐ、具体的に?それは……その……」

 メイベルは視線を泳がせた。
 話を聞いてほしいとは思っていたけれど、この反応は想定外だ。慌てて記憶を漁るが、思い出せることといえば、キャンディがリチャードに好意を抱いているということと、それとは反対に、自分へは敵意を向けられたということくらい。理由は違えど、どちらも従兄には軽々しく話せない内容である。
 それ以外に何か……何かないだろうか?

「そういえば、ゲームがどうとか攻略がどうとかも言っていたような……」

 焦るメイベルがやっとのことで見つけ出したのは、キャンディが口にした言葉の断片。しかしこんなものが役に立つとはとても思えない。実際、クロードも「ゲーム?攻略?」と首を捻っている。

「それはなんだ?チェスか?クロッケーか?」

「違う……と思うわ。そういうのとは関係ない話をしていた時だったもの」

 キャンディはなんと言っていただろう?【ゲーム】という単語を使った時には……そうだ、この世界を指していた。

「仮想現実とかそういう話なのかしら」

「はぁ?」

「だから……こう……VR?とか、そういう感じのニュアンスで言っていたのよ、彼女」

 とはいえメイベル自身もその手のゲームに詳しい方じゃない。それはクロードも同じらしく、メイベルの説明にわかったようなわからないような顔をしている。
 けれどもし、もしもこの世界が──現実だと思っている今が、作り物だとしたら──?

「……おい、何してるんだよ」

「いえ、ここが遊戯盤の上だっていうなら、あなたも良くできた作り物なのかしら、と思って。……痛かった?」

「フツーに痛いわ」

 だとしたら目の前の彼もNPCなのだろうか?そう考えて、頬を軽くつねってみたところ、顰めっ面で凸ピンをされた。
 それもまた痛みを伴うものであったから、メイベルは謝りながら内心で安堵していた。
 ……よかった。ここがゲームの中なのか、それともこの考察が間違っているのかはまだわからないけれど。でもこの人は作り物なんかじゃない。ちゃんと生きている。感情のある人間だ。……私と、同じように。
 だからよかった、とメイベルは心から思った。この従兄まで偽物だったら、もう何も信じられなくなるところだった。

「遊戯盤の上……ってことは、少なくともキャンディ嬢はオレたちをチェスの駒みたいなもんだと思ってるってわけか」

「私はそういう意味で受け取ったってだけよ?彼女がそういうつもりで言ったのかはわからないんだから。私たちと同じ……だっていうのも、私の勘違いかもしれないし」

「まぁその辺はおいおいな、おいおい。はっきりするまでは深入りするなよ?」

「でも私、レンジャー伯爵に頼まれちゃったもの。『娘のことはよろしく頼む』って」

「……だとしても、気を許しすぎるなってことを言いたいんだよ、オレは」

 「警戒心が薄すぎる」と、何故だか溜め息をつかれる。その物言いは実の父よりよほど父親らしい。
 だからメイベルは思わず、「心配性ね」と笑ってしまった。まぁでも、嫌な感じはしない。心配されるということはすなわち、根底には愛情があるということだ。
 ……愛情。そういえば、彼女──キャンディ嬢は他にもおかしなことを言っていたっけ。従兄と結婚がどうとか、駆け落ちがどうとか──そんなのよほどの情熱があるか、それとも向こう見ずなだけか。少なくとも自分にできるものではないとメイベルは思う。
 だってそのためには国境を越えなければならないし、そこまでの距離だって五百キロはゆうにある。その間中ずっと二人きりで馬車に揺られて……、きっと到着する頃には最初の熱も冷めてしまっているに違いない。そうならないのは物語の中だけ、フィクションの世界だけだ。

 だけどもし、もしもこの世界がゲームだというのなら──そんな子供じみた夢が叶うのだとしたら────?

「メイベル?」

「なっ、なんでもないわ!私は別に、駆け落ちなんて、」

「駆け落ち?」

「あ、」

 しまった、墓穴を掘ってしまった。怪訝そうに見つめてくる従兄から視線を逸らし、メイベルは喉の奥で唸る。
 ……さて、なんと言って誤魔化そうか。

「……か、駆け落ちネタって最近流行ってるけど、そろそろ食傷気味かしら、と思って。そりゃあハッピーエンドの方がいいに決まってるけど、たまには成功せず悲劇的な結末を迎えるっていうのもね、いいんじゃないかしら、と。やっぱりロミジュリって最高よね」

「あぁ、持病の癪が出たのか」

 口早に言い募ると、意外にもクロードはあっさり納得した。「妄想もほどほどにしろよ」などとありがたい忠告まで添えて。
 そう言われると、それはそれで釈然としない。あまりにあっさりしすぎでは?持病の……と言うけれど、それでは日頃から妄想に耽っている痛い女みたいじゃないか。
 そんなことは……ないとは言い難いけど……というか心当たりはありすぎるけど……(この時メイベルの脳裏を過ったのは、書斎に隠したポエムノートや隙間時間に書き綴った物語だった。ちなみにその殆どでリチャードがモデルとなっている)……それでもあんまりな言い方だ。

「とりあえずキャンディ嬢のことはオレも少し調べてみるから……、ってなんつー顔してるんだ」

「別に?なんでもないわ。妄想癖のある痛い女の顔なんてこんなものでしょう」

「わかりやすく拗ねてるな」

 今度は彼の方に笑われてしまい、メイベルはそっぽを向く。
 「かわいいかわいい」と頭を撫で回されるが、ちっとも嬉しくない。いつまでたっても子ども扱い、彼の目には出会ったばかりの頃のメイベルが映っているらしかった。幼少期の──世界から除け者にされたような気になっていた頃の、メイベルが。

「お忘れになっているようだから念のために言っておきますけどね、私は──」

 もう子どもじゃないのよ。王宮での拝謁プレゼンテーション・アト・コートを済ませた、一人前のレディなんだから。
 そう言いかけたところで、事務所のドアが開いた。

「……おや?」

 現れたのは艶やかな黒髪に鋭い灰色の目。公爵家の令息であり、自身もまた侯爵の位を持つ青年貴族──レオナルド・クレイトンが、従者のひとりもつけずに立っていた。
 だから最初は信じられず、メイベルは目を見開いた。グレイのフロックコートは遠目にも最高品質であることがわかる。そんな彼がこのような場所に──埃っぽく、散らかり放題の小さな借間に──やって来るだなんて!
 その驚きがあまりにも大きかったから、つい反応に遅れた。

「なんという幸運だろう、まさか君と会えるなんて。僕の愛しい赤薔薇──こんなところでも君は美しく咲いているんだね」

 百戦錬磨の男はその隙を見逃さなかった。メイベルが呆けているうちに距離をつめ、流れるようにその手を取り、唇を落とす。
 ……そんなこと、許可した覚えはないのだけど。ていうか『僕の愛しい赤薔薇』ってなに?『僕の』って、……いや、深く考えるのはよそう。どうせいつものたわ言だ。
 それよりも気になるのは──

「あっ、あなたこそどうして」

「そりゃあ運命だからだよ、ミス・メイベル。僕たちは強い縁で結ばれているんだね」

「……まさか来客って」

 恐る恐る従兄に視線をやる。と、彼は「だから帰れって言ったんだ」と肩を竦める。

 ……そんな理由なら、ちゃんと説明してくれればよかったのに!

 こんなことなら大人しくクロードの言うことを聞いておけばよかった。
 後悔するメイベルの隣で、レオナルドだけが上機嫌だった。
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