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伯爵家編
あなたは私の推しじゃない!
しおりを挟む咲きそめのバラが美しい五月。社交期を迎えた都は俄に活気づく。あちこちで宴が催され、子爵令嬢のメイベルも両親によってスケジュールを埋められていた。
それはもう、『今が売り時』とばかりに。
「いやんなっちゃう。せっかく花の盛りだっていうのに、もう結婚だ子供だ……って」
やれやれと首を振る。と、ボーイからグラスを受け取った従兄のクロードがちいさく笑った。
「仕方ないだろ。ここはオレたちの知ってる世界じゃないんだから」
「ああもう、あなたまでそんな歳上ぶるの?」
「実際オレの方が歳上だ」
……唯一の【仲間】だから、共感してほしかったのに。
なのに今年大学を出たばかりの従兄は大人びた顔。あしらわれたメイベルは頬を膨らます。
が、差し出されたグラスまで拒絶することはしない。ふて腐れた顔で乾杯をし、シャンパンを口にした。
メイベルにも従兄のクロードにも、前世の記憶というものがある。この世界よりもずっと自由で、けれど退屈な日々の記憶が。
二人が同じ時代、同じ国の記憶を持っていると知ったのは偶然のことだった。だからもしかすると他にも同じような経験の持ち主がいるかもしれない。しかしメイベルにとってはクロードが唯一で、ある意味とても特別な存在だった。
そんな彼が寄宿学校を出、大学を卒業し──、また以前のような付き合いができるのかと内心期待していたのだけれど。
「おいメイベル、見ろよ。愛しの【レオ様】がいるぞ?」
そう耳打ちするクロードの、なんと意地悪なこと。子どもみたいに口許をにやつかせ、しきりに目配せをしてくる。
そんな彼の視線の先には、パーティーの主催者たちと歓談する男性貴族がひとり。公爵家の子息、レオナルドである。
艶やかな黒髪に、鋭い灰色の目。確かメイベルより五つか六つ歳上の彼は、未だ噂になるような恋人もおらず、見目麗しいこともあって独身女性が虎視眈々と狙っている男でもある。
が、メイベルの愛する【レオ様】は彼ではない。前世の推しと同名なだけの赤の他人だ。顔立ちすら似ていないし、好みのタイプでもなかった。
「……クロード、揶揄うのはよしてちょうだい」
むっつりと唇を引き結んで、メイベルは従兄を睨む。
そういえばこの人、昔から人を揶揄うのが大好きだった。家庭教師に笑えない悪戯をした回数だって、両手では数えきれないほど。基本的に精神年齢が子どもなのだ。
まったく。先刻見せた大人の余裕のようなものは、いったいどこへいってしまったことやら。生憎そういうものは寄宿学校でも大学でも教えてくれなかったらしい。
メイベルは腰に手を当て、「いいこと?」とクロードの前に人差し指を立てた。
「あれはレオナルド様であって、私の【レオ様】じゃないの。第一リチャード様の方がよっぽど【レオ様】に似て……」
「おっ、そのリチャード様もいるみたいだぞ」
「…………っ!!」
懇々と説教をするつもりだった。……のだけれど、次いで発せられたクロードの言葉に、慌てて視線を走らす。
翻るコート。波打つドレス。眩しいほどの光沢。色とりどりの人影。その中で、一際輝いて見える男性がいた。
メイベルは思わず、恍惚の溜め息を溢す。
「ああ、やっぱり似ているわ……。日に透かすと黄金に燃えるお髪、憂いがちな蒼い瞳……彼こそこの世界における永遠の王子様よ」
「オレは『タイ●ニック』よか『ジ●ンゴ』の方が好きだけどなぁ、全然覚えてないけど」
「あなたの好みなんて聞いてないのよ」
……ようするに、メイベルはただの【顔オタ】なのだ。
推しの顔がいいという理由だけで、退屈きわまりない映画も擦りきれるほど観た。その結果、『やっぱりクソ映画だなぁ』という結論に達した。たぶん映画ファンには怒られるタイプのオタクである。
……閑話休題。
「じゃあリチャード様狙いでいくか?伯爵家だし、レオナルド様よりかは可能性あるだろ。口さえ開かなきゃお前も……」
「あのねぇ……、似てるとはいってもリチャード様はリチャード様で、【レオ様】じゃないのよ?それに推しは遠くから見守るものなの。狙うとか、そういうのは……」
「おお、いわゆる【壁になりたい系オタ】っていうアレか」
「というか……、単純に、顔がよすぎて身が持たないのよ」
「……なるほど」
恐らく前に立っただけで頭が真っ白になる。そんなみっともない姿をさらすくらいなら遠くから見守っていたい。そのくらいの距離感がちょうどいいのだ、と。
メイベルが言うと、何故かクロードに肩を叩かれた。「まぁ、しょうがないさ」慰めか、はたまた同情か。
いや別に、そこまで傷ついちゃいないけど。そもそも本気で結ばれたいと思ったことすらないけれど。
「もしも売れ残ったらオレが引き取ってやるから……、まっ、大船に乗ったつもりでいてくれて構わないぞ?」
「その船、穴空いてない?本当に大丈夫?」
「病める時も健やかなる時も……ってやつだな」
「健やか要素はどこにいったのよ」
下らない会話をしていると、「メイベル嬢、」と声をかけられる。遠巻きに見ていたパーティーの主催者だ。しかしいったい何の用だろう?挨拶ならば先ほどしたはずだが……。
「ぜひ紹介させてほしい。こちらレオナルド・クレイトン卿」
「お目にかかれて光栄です、メイベル嬢。お美しいと評判のあなたにようやくお会いできたこと、たいへん嬉しく思います」
主催者に促され、レオナルドが一歩踏み出す。聞き取りやすい声、発音も完璧だ。
将来の公爵様だもの、当然よね。そんなことを考えながら、メイベルも形式的な一礼をする。
主催者の男は「彼から君を紹介しろとせっつかれてね。いやはや……二人並ぶと見事な一対の絵画だ」 などといたく満足げ。仕方なくメイベルも「まぁ」とわざとらしく声を上げる。
「こちらこそ噂に名高いレオナルド様にお声がけいただけるなんて、夢のようですわ」淀みなく口は回るし、微笑みも絶やさない。けれどメイベルの心中は不信感でいっぱいだった。
どうしてわざわざ声をかけてきたのかしら?子爵家の娘なんて、彼の方から挨拶をする必要もないだろうに……。
偏見のせいだろうか。レオナルドのそつのない微笑みが、いやに芝居がかって見えた。
「この後のご予定は?よろしければあなたと二人、もう少し話をしたいのですが」
「それは……」
答えあぐね、メイベルはちらりと従兄の様子を窺う。
クロードを無視するレオナルドのことなど興味もないけれど。でもここで彼の誘いを断るのは外聞が悪い。そういった思いを込めて視線を走らせれば、歳上の従兄は『気にするな』というように小さく笑った。
彼がそう言うのなら、誘いに乗るのが正しいのだろう。メイベルは腹を括り、レオナルドに笑みかけた。
「お誘いいただきありがとうございます。わたくしもレオナルド様とはぜひお話ししたいと思っておりましたの」
「よかった。ではこちらへ」
ホッとしたように笑うけれど、本心はどうなのかしらね。断られるなんて、微塵も思ってなさそうだけど。
『またあとで』と従兄と目配せし合ってから、メイベルはレオナルドの腕に手をかけた。
信頼のおける従兄と離れるのは若干の不安が残るが……仕方ない。宮廷に拝謁したばかりとはいえ、社交界デビューを果たしたのならもう立派な大人だ。いつまでも従兄に甘えてはいられない。
メイベルは仮面の下で自戒した。この世界で大事なのは財産であり爵位であり、──それ以外のものにどれほどの価値があるだろう?
従兄のことは大切だけど、彼は子爵家の次男坊で、それ以上でもそれ以下でもなかった。……客観的に、見るならば。
「風が気持ちいいですね、メイベル嬢。ここの庭園はご覧になりましたか?」
「いいえ、まだ」
「後程ご案内しましょう。ここのバラ園を見ないまま帰っては勿体ない」
「お気遣いありがとうございます」
──なんであなたにこの後の予定まで決められなきゃいけないのよ。しかも勝手に確定事項にして。やっぱり断られるなんて毛頭思っていないんだわ。
バルコニーを吹き抜ける爽やかな風を感じながら、メイベルは既に帰りたい気持ちでいっぱいになっていた。自信家の鼻持ちならない男。レオナルドに対する印象ときたらそんなものだ。好感度は地を這っている。
だが子爵家の一人娘としてはボロを出すわけにはいかない。引き攣る頬に渇を入れる。
「レオナルド様はお優しいのですね」
「それはあなただからですよ。あなただから親切にしたいと思うのです」
「あら、そんなこと言われたら本気にしてしまいますわ」
「私はいつでも本気ですよ」
「まぁ」
あらあらまぁまぁ。その二つの感動詞を使い回すのにも限界が近づいている。
が、レオナルドは気づいていないらしい。口説き文句を垂れ流しているが、全自動式なのだろう。BOTかな?きっと、こちらが何を言っているかなんてどうでもいいのだ。
広間からは楽団の奏でる音色が聞こえてくる。それから人々のさざめきも。
つまらない会話に、メイベルの意識はそちらに傾いていった。
──クロードは今ごろ何をしているのかしら。野心はないようだけど、本当に?
貴族の次男という不安定な立場を考えれば、資産家の娘などを狙うのが常道だ。少々子どもっぽいところはあるけれど、愛嬌があると言い換えることもできる。元々見てくれはいいのだから、可能性が低いわけでもなし。年下の従妹の世話になどかまけていないで、クロードは自分の将来を考えるべきだ。
それが本来あるべき姿で、だから別に、寂しくなどない──
「……メイベル嬢、」
「はい、……?」
名を呼ばれ、反射的に返事をする。その時はじめて、レオナルドに肩を抱かれていることに気づいた。
いつの間にだろう?何だか距離が近い。ほぼ初対面に近いのに、ちょっと遠慮がなさすぎやしないか。
押し戻そうと彼の胸に手をやる。……つもりが、その手首を掴まれた。
いったいどういうつもり?メイベルは僅かに眉を寄せ、レオナルドを見上げる。これは抗議したっていいだろう。そう思った。
そもそも勝手に肩を抱いてきた時点で失格だ。その上手首を掴まれ、あまつさえ顔を近づけられ──
「……わたくし、戯れの火遊びに興味はないのですけど」
唇が触れる寸前で、レオナルドは止まった。どうやらギリギリ間に合ったらしい。空気に呑まれていたら負けるところだった。危ない危ない。
嫌な感じにどきどきする心臓を抑え、メイベルは努めて冷静に振る舞う。つんと取り澄まして、こんなことには慣れているといった風で。装い、悠然と笑む。
すると、レオナルドは意外そうに目を瞬かせた。
「あれ?おかしいな……、喜んでくれると思ったんだけど」
あらあらまぁまぁ!とんだうぬぼれ屋ですこと!
そう言ってやりたいのを堪え、「そのような軽い女ではありませんことよ」と窘めてやった。わたくしは軽い女じゃないわ、……今まであなたがお付き合いされた方々とは違って。
そう言外に匂わせたのは、先ほどの流れるような所作、手つきを思い出し、『常習犯ね』と見当をつけた結果である。どうやらこちらの将来の公爵様は女ぐせが悪いらしい。しかもそれを悪いとも思っていない様子。これでは妻となる人は苦労することだろう。
……かわいそうに。メイベルには幸福を願ってやることしかできない。
「どうやらそのようだね。……あーあ、残念。噂なんてあてにならないものだ」
「……うわさ?」
「あぁ、君が僕に夢中だとかっていう噂だよ。だからてっきり……」
くしゃりと前髪を掻き上げる彼、レオナルドの口調は随分砕けている。なるほど、これが本性か。軽薄そうな態度に、メイベルは冷ややかな目を送る。
……っていうか、何よその噂って!
発生源を詳しく聞きたいところだが、深追いするのは危険だ。やぶ蛇になりかねない。首根っこをつかまえて聞き出したい気持ちを宥めすかし、「おかしな噂もあるものですね」としらを切った。
するとレオナルドは悩ましげな溜め息をひとつ。
「でもやっぱり惜しいな。……ねぇメイベル嬢、私とひとときの夢を見ませんか?」
「今さら取り繕ったところでどう変わるというのでしょう?それにわたくし言いましたよね?火遊びなどに興味はないと」
顎に伸びてくる不埒な手。その甲をぴしゃりと叩き、メイベルはレオナルドを睨む。
諦めの悪い男は嫌われるわよ。尤も、この世界ではどうだか知らないけれど。
「うーん、手強いなぁ」そう情けなさを装って眉を下げるレオナルドに、しかし『退く』という選択肢はないらしい。
「誰か他に想う人がいるの?たとえば……そう、リチャードとか?」
「そうですわね、あなたよりかはずっと素敵な方だと思いますわ」
「かたっくるしくてつまらないだけだよ、リチャードなんて」
「誠実なのは美点ですわ」
「えー……、あんなのと四六時中一緒にいたら絶対飽きると思うけど」
「……対して、未練がましいのは美点にはなりませんわね」
「一途と言ってほしいな」
「ご期待に添えられなくて申し訳なく思いますわ。そう仰ってくださる方のところへどうぞ」
『面倒くさい男ね』と呆れつつ、メイベルは広間を指し示した。
元々独身女性の余っているこの世界、公爵家のご子息様など引く手あまた。家格の低い、火遊び相手にしかならない女など忘れて、もっと有意義な時間を過ごせばいいのに。
「さぁ」とメイベルはレオナルドを促す。
が、彼の方はまだ未練が残るらしい。後ろ髪引かれるといった様子で、何度もメイベルを振り返る。
よほど勝負に負けたのが悔しいのか。矜持が傷つけられたとでも思っているのか。意固地になられたところでメイベルに差し出せるものなど何もない。
「素敵な夜をお過ごしくださいませ」
嫌みったらしく言ってやってから、メイベルは去り行くレオナルドから視線を外した。
……ま、現実なんてこんなものよね。皆の憧れの的であろうとも、しょせんはただの人間。中身はあんなものなのだろう。
夢のない話だ。メイベルはちょっとばかし残念に思いつつ、半ば存在を忘れかけていたグラスに口をつける。
「……ずいぶん浮かない顔をしているな、我らがお姫様は」
「クロード、」
入れ替わるようにしてメイベルの隣に立ったのは頼りになる従兄だった。
まるで見計らったかのような登場。てっきり広間にいるものとばかり思っていたけれど、……もしかして、どこからか見守っていてくれたのだろうか。
「なぁに?そんなに私に会いたかったの?」
「んなわけあるか。たまたまだよ」
「……こういう時は肯定するものじゃない?だからモテないのよ、あなた」
「うるせぇ」
揶揄えば、同じ調子で返してくれる。口調は荒っぽいけれど、眼差しは優しい。無理やり迫ってくることもないし、高慢でもうぬぼれ屋でもない。そういうところが『好きだなぁ』と思う。
……調子に乗るだろうから、絶対に言ってはやらないけど。
「ここのバラ園は見ものらしいわよ。後で見に行ってみない?」
「いいけど、ああいうところは夜になると男女の逢い引き場になるもんじゃないのか?出歯亀の趣味はないぞ」
「えー……、それじゃあやめとこうかしら。私だって他人の色恋沙汰に興味はないもの」
「お前はまだまだ花より団子ってところだな」
「淑女に向かって何てこと言うのかしら、この唐変木は」
「いてて、悪かった悪かった。お前は立派なレディだよ」
やっぱりクロードと話しているのが一番楽しい。否定はしたけれど、花より団子というのも間違ってはいないのだろう。
それでいいじゃない、とメイベルは思う。どうしても結婚しなきゃいけないと言われたら、その時は修道院に入るのもひとつの手だ。貴族のお坊っちゃんの若かりし日の過ちになるつもりも、財産のためだけに結婚するつもりもない。どうせ生まれ変わったんだから、楽しいことをしなくちゃ損だ。
──そう、改めて決意したメイベルだったのだが。
「やぁ。奇遇ですね、メイベル嬢。またあなたとお会いできるとは……私はこの奇跡に感謝しなくてはなりませんね」
ゆく先々のパーティーでレオナルドに絡まれるようになり、メイベルはうんざりしていた。それはもう、猫を被るのが嫌になるほどに。
「なんだか急に気分が悪くなりました。ごめんなさい、失礼いたしますわね」
「それは大変だ。応接室に行きましょう。長椅子で休めば少しは楽になるはずですから……大丈夫、私も付き添いますよ」
「あら、どうもありがとう。でも結構ですわ。わたくし、信頼できる殿方でなければエスコートを任せないと、先日固く決意したところですの」
「ははは、さすがメイベル嬢。一筋縄ではいきませんね」
──面と向かって嫌みを言われているのに、なんでこの人は笑っていられるんだろう。
レオナルドがまったく未知の生物に思われて、メイベルは微笑みの下で気味悪がった。
もしかしてこの人、前世でいうところのドエムというやつかしら。そういう人とお付き合いしたことはなかったけれど、知識としては知っている。このタイプは罵られるのも快感として受け止めてしまうらしい。
いたく楽しげなレオナルドに、メイベルは確信する。
それにしても場を弁えてほしい。見えていないのだろうか、メイベルと同じ年頃の令嬢たちが遠巻きに囁き合っている姿が。彼女たちの意味ありげな視線が突き刺さって、メイベルの膚はすっかりささくれだっているというのに。
「……でも僕は諦めないから」
必ず君を落としてみせる──そう耳許で囁かれ、メイベルはぞくりとするものを感じた。
もちろん快感なんかじゃない。悪寒だ。寒気がして、皮膚が粟立った。
「ではわたくしも宣言いたしますわ。絶対、あなたにだけは落とされない」
さりげなく距離を取り、メイベルも完璧な微笑を返してやる。
……ものの、レオナルドは笑みを深めるばかりであった。
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