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10. ドライアドの森
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私は何を言われているのか理解出来なかった。え、殺されるって…?
「どういう事ですか預言者様!」
カインが食いつくように詰めかける。
私達はとりあえず、預言者を客間へと案内した。あまり私は立ち入ったことのないその部屋も、カインが掃除しておいてくれたようで綺麗に整っている。
「それで、どういう事ですか。」
改めてカインが問う。すると、初めて預言者は俯いていた顔を上げた。その顔は皺だらけで、予想通りの老婆であった。しかし、ブルード一族の者だから紅いはずの瞳は私が最初に見たとおり、やはり青かった。
「さっきお伝えした通りです、カイン様。どうかお早く泉へ。満月は今夜です。」
「殺される、とは具体的にどういうことですか?」
「それは分かりかねます。神々の手によるものではないことは分かりますが、邪なるもの、あるいは一族の影かも知れませぬ。私の予言に凶と出ることは死に値します故、どうかご自愛ください」
預言者は両手に杖を握りしめて深く腰を折った。しかし何故だろう、時折見える彼女の表情はどこか不自然な気がするのだ。なんというか、目に覇気がない。美しい瞳をしているのに、活力が感じられないのは…
「リリノア様、どうかなさいましたでしょうか」
あまりに私が見つめすぎたせいか、預言者はわずかに顔を上げた。長い前髪に隠れて、瞳はよく見えない。
「い、いいえ…」
思わず私が俯く。すると、少し考え込んでいたカインが再び口を開いた。
「分かりました。今夜、おっしゃる通りに致しましょう。しかし、私達はまだ未熟である月、どうかお付き合い願えませんか?」
「泉の近くまでご案内いたしましょう。しかし、それより先へは〈神の子〉しか入れぬのでありますので、私の案内はそこまでにございます。」
「泉で、ノアは何をすればいいのでしょうか」
「リリノア様だけでなく、貴方様もです。泉の水が注いで湖が出来ておりますから、その湖の底を歩き、対岸の泉へお行きください」
「俺も…?」
「そうでございます。貴方様も含めてのお告げです。どうか。」
「…分かりました。」
彼は渋々といった様子で頷いた。何か気がかりでもあるのだろうか。しかし、話は既に決まったらしい。私は彼らに任せるのみだった。
●●●
夜。満月の明かりに照らされた森へ続く一本道を、預言者のあとに続いてカインと並んで歩く。やがて少しずつ木が増え、辺りは月光すら遮られるような鬱蒼と茂る木々に囲まれていた。私は履きなれない長靴のようなブーツを履いて周りを見ながら歩いていた。
ふと、預言者が立ち止まる。見ると、そこには腐りかけた木の門があった。扉は壊れているものの、佇む2本の柱はどこか威圧的で、人を寄せ付けない森の深部へとやってきた事をひしひしと実感する。
「ここからは神秘の森です。今までのご様子を見る限り問題は無いと思いますが、どうかここより先は泉のほとりまで出来るだけ口を慎みください。私も到着いたしましたら一礼を持って失礼させていただきます。」
そう彼女が告げると、カインは黙って私の左手を握った。
「ここから先はこうしていてくれ。これから通る道は…ノアが記憶をなくした場所だ。」
カインが苦しそうな顔をしてそう言う。そうか、彼がここに来るのを渋ったのはそのことのせいか…。やっぱり私絡みだったのね。
言われるままに、握られた手に力を込めてそっと握り返すと、少しヒヤリとして私より大きい、男性的な骨っぽい手の感触が感じられた。それに少し戸惑いながらも小さく頷いてみせる。それを確認した預言者はゆっくりと門へと足を進めた。
そこは、まるでこの世とは別の世界のような場所だった。今までの場所とは比べ物にならないくらいに生い茂る木々に月の光は遮られ、静まり返る冷たい空気を時々揺るがす僅かな風。それに反応する木の葉の囁きは、人間のそれとよく似ていて、どこか懐かしさすら感じられる。前も横も見えないのに、どうしてか足元はしっかりとしている。どこか遠くで風を切るような音が聞こえるのは、きっと森の上を飛ぶ鳥の羽音。心の中は、美しい漆黒に包まれていくように深く沈んで落ち着いていた。
やがて、前を歩く預言者の足が止まった。そして暗闇の中でこちらを向いたのがぼんやりと見えたかと思うと、ゆっくりと腰を折った。あぁ、到着したのね。そう思って私も軽く会釈する。そして私が顔を上げた時、改めてしっかりと彼女と目が合った。…いや、視線の先はややズレている気がする。その瞳は青く光ってはいるが、生気はやはり感じられない。不思議に思うも、理由はわからない。
そんなことを考えていると、預言者は私たちに先に進めと促すように杖を持ってみせる。カインの手が私の手を握り直すように力む。私はそっと手を引かれるままに、預言者の横を通り過ぎてさらに奥へと進んだ。カインは道を知っているのだろうか、迷う様子はなくしっかりとした足取りでどこかに向かっている。私も記憶があれば、知っていたのだろうか?
次第に道幅が狭くなっていくのがわかる。ちょっとした岩場などは崖のようになっていて、山を降りるように下った。小さな川があった時は、靴を脱いで渡った。そんなことを繰り返しているうち、足元が木の根に覆われていることに気づいた。さっきまで歩いていた道は、土や落ち葉だったのに、今は地面の感触はなく、全面が太い木の根が絡み合った絨毯のようになっているのである。
やがて出たのはとても広い場所だった。さっきまで暗闇だったのに、そこだけは広大な湖が広がっていて、中央には小さな島が二つあり、それぞれに1本ずつ生えた2本の木が絡み合って島同士を結ぶアーチのようになっている。その他にも湖の底から生えているらしい木が空高くへと伸びており、葉の隙間からは月光が洩れてアーチを中心に照らし出していた。なんとも神秘的な場所である。
預言者は、湖の底を歩けと言った。見たところ水深は深いところで2mくらいだろう。果たして息が持つだろうか…そもそも私は泳げるのだろうか?対岸に泉があると言ったのだ、対岸までは行かねばならないのだろう。しかし、カインは何のためらいもなく靴を脱ぐとズボンの裾を邪魔にならないように少し捲って、湖に足を入れた。それからこちらを向くと、おいで、というようにこちらに両手を広げた。私は恐る恐る、靴を脱いでから彼の方に歩み寄る。すると、カインは私の腰をしっかりと抱いて歩き始めた。その行為から察するに、きっと私は泳げない。
一歩進むごとに湖は深くなっていく。背の低い私はあっという間に肩まで浸かってしまった。すると、カインが私を彼の頭の高さまで上げてくれる。顔が近くなったので私は本当に小さく彼の耳元に囁いた。
「息、続くかな」
すると、彼は何を言うでもなく私の額に自分のそれを優しくこすりつけた。心配するな、と言っているのだろう。彼はその足を止めず、私達は水の中に潜り込んだ。
私は息を止めるのも忘れてしまった。それなのに苦しくない。思わず固く閉じてしまっていた目を開けると、そこは地上と何ら変わらなかった。木々が生え、地面があり、何故か呼吸すらできる。見える世界は水上で見たものよりもずっと美しい景色だった。上を見上げると水面が歪んだ月光を揺らし、屈折した光の筋は一直線に水底へと斜めに差していた。
「綺麗…」
「大丈夫?」
ここでやっと、カインが口を開く。まるで広いホールの中にいるように、彼の声は透き通るように響き渡った。
「うん。…ここ、湖の底だよね?」
「そうだよ。でもちょっと不思議な場所だよ。この湖の範囲内では、ニンフや神々の魂が宿っているんだよ。つまり、この世で唯一の神との交流点かな。だから普通の人間は入れないんだ。代々、ブルードの一族の当主しかね。」
私は地面に下ろしてもらい、また手をつないで先へと進んだ。ひたすらに、ひたすらに…。
するとそのとき、どこかで子供の声を聞いた気がした。それは、すすり泣くような声。
(…さみしいよぉ…)
「えっ」
確かに聞こえた。寂しい、と言ったのだ。それを確信した瞬間、それは急にはっきりと聞こえてくるようになった。
(もういやだ、なんでわたしだけこんなめにあうの)
幼い、しかし凄く馴染みのある声。私はどこから声が聞こえるのかと耳をすませ、よく聞いた。それは、私の後から聞こえるようだ。私はそっと振り向くとそこに広がっていた風景に目を疑った。
そこには、教会のような小さな部屋が見えたのだ。そして、その台座の上では小さな女の子が膝を抱え、その方を震わせている。足は傷だらけで枷がついていて、爪は割れている。どうやら台座の上からは降りられないように縛り付けてあるようだ。そして、来ている服こそシルクの高級品のようだが、酸化して変色した血液や、排泄物に塗れて汚れきっている。長い間放置されているようだ。
(だれか…だれかたすけて)
泣き叫ぶように顔を上げた少女。銀色の前髪が揺れ、燃えるように、そして流れる血のように紅い瞳は涙に濡れている。とても、見覚えがあるその少女。
……………………………………………………あれは私だ。
そのとき、目の前で見ている光景の当時の記憶がはっきりと蘇る。
そうだ、私は〈生き神〉というモノとして、本邸の敷地にある小さな祭壇に括られ、奉られていたのだ。しかし、神とはよく言ったもので、実際の扱いは世に聞く奴隷以下であった。食事は与えられたが、睡眠も排泄もその場その体勢でしかならず、厚さも寒さも凌げない状況で、私は幼い数年を過ごしたのだ。開放されたのがいつだったのかまでは思い出せない。しかしあれは、半ば生き殺しのようなもので、死んだ方がマシだとすら思えたのを覚えている。
私は吐き気を覚え、地面に膝をついた。腹の中はとっくにカラなのか、嘔吐物はこみ上げてこない。あまりの苦しさに私は再び目を固く閉じた。
「ノア、どうした。」
カインが私の背を摩っているのが分かる。無意識に上がった息を整え、目を開けるとあの光景は消えていて、また美しい景色が広がっていた。
「カイン、私はここにいる?」
我ながら変なことを聞いたと思う。しかし、それほどまでに私は事故のフラッシュバックのように混乱していたのだ。
「あぁ、いるよ。ちゃんとここにいる。」
「大丈夫だよね?生きてるよね?」
「大丈夫、大丈夫。ここにいるし、生きている。」
カインが諭すように言ってくれる。そう、私はここにいる。大丈夫。でも、なぜこんなに震えが止まらないの?
「無理はしないで。どうしたんだい、リリノア。少し疲れたかな?」
「…後で必ず話すから」
「うん、分かった。おいで」
そう言うとカインは屈んで、私に背を向けた。促されるままにその背中に手を伸ばすと、そのまま彼は私を背負って歩き始めた。
「少しは休めるかな」
「…いつもごめんね」
「君は元々、身体が強くないんだ。だから、むりはしないでくれ。」
私はまた何か見えるのではないかと怖くなり、顔を伏せた。
「着いたよ。」
カインの声で目が覚める。どうやら私は眠ってしまっていたらしい。顔を上げると陸地にいて、対岸についたのだと分かる。そして目の前には、月光をあびてエメラルドグリーンに輝く小さな泉があった。
「ここ…?」
「そうみたいだね。」
私は彼の背から降りると、その泉に手を伸ばした。
「まぁ!来てくれたのね!」
突然頭上から声がして、慌てて手を引っ込める。声の主の方へ目をやると、私と同じくらいの背丈の、緑色の髪をした、裸体に布を纏った女性が目の前の木に座っていた。
「…誰?」
私が思わずそう言うと、彼女は少し顔をしかめた後、思い出したように苦笑した。
「記憶喪失って本当だったのね。風のうわさで聞いたわ。」
そして泉と同じエメラルドの瞳で私をじっと見据えると、秀麗に口元に笑みを浮かべ、言った。
「私はこの森の木に宿る、ドライアドという者よ。」
彼女はさらに目を細め、ニッコリと笑っている。
「ドライアド…?」
聞き覚えがないのか、将また忘れてしまったのか…。
「確か、ニンフだね。ドリアードとも呼ばれている、木に宿る精霊だよ。」
カインが私に説明しているのを聞いていた彼女も、それに合わせてうんうんと頷いた。
「えっと、ドライアドっていう名前?」
「違うわ。私たちをドライアドと呼ぶのは、貴方達を人間って呼ぶのと同じようなものよ。」
「じゃあ、名前は?」
「ごめんなさいね、ここまで言っておいてなんだけど、私達に個としての名前はないの。だから私の名前ではないけれど、ドライアドって呼んでくれて構わないわ。」
「わ、分かった」
彼女が笑う度に、深い緑色をした長い髪がふわふわと揺れる。その様は、まるで重力を無視して空中を漂い、まだ私は水の中にいるのではないかと錯覚してしまうほどだった。
「あのね、ふたりをここに導いたのは私よ。」
ドライアドが語る。…え?導いた?
私たちが唖然としていると、彼女は言葉を続けた。
「預言者に、二人をここへ来るようにお告げとして伝えたのよ。」
「じゃあ!俺達が殺されるっていうのは!?」
そう、そこね。最重要事項。よく聞いてくれたねカイン。私もう忘れかけてたよ…。
「殺される?私そんなこと言ってないわよ?」
そしてサラリと答えるドライアド。え、言ってない?
「そんな筈ない。預言者様は俺達がここに来なければ殺されるって言ったんだ。」
カインの必死の訴えに、怪訝そうな顔をして首をかしげる精霊。しかし、どうして彼女が動いても無音なのだろうか。すると、ぱっと何かを思いついたような素振りを見せたドライアドは、
「それはきっと、誰かほかの精霊が情報を入れた時に混同したのね。」
と言った。話によると、預言者とは神と一般人の意思疎通を図るための、言わば媒介であり、現代に言う伝言ゲームの仲介ポジションなのだとか。つまり、1度に何人かの神様や精霊から伝言をもらうと、預言者に入る情報が混濁してしまうのだ。
「でもそれじゃあ、誰かは私たちが殺されるっていうことを伝えたかったってこと?」
「…そうなるわね。でも、ここにいる分には普通の人間は来られないだろうし、安全といえば安全ね。で、私の要件は一つなのよ。」
ドライアドの瞳が少し苦しげな光を灯す。何があったのだろう?そんな瞳をするくらい、思い悩むようなことが…
「この湖のどこかに、オルフェウスの金の竪琴が沈んでいるはずなの。それを、探してきて欲しいの。」
私達は、唖然としてそれを聞いていた。
〇感謝を込めて〇
本作品をここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。書かせていただいております、らびっとと申します(通称:らび)。時間がある時や車の中で書いているもので、誤字脱字や文法的におかしい所が多々あることを、まず初めにお詫びします。
さて、今作の舞台は「現実と非現実をゴチャゴチャにした現代」…です。イメージは日本なのですが、名前がカタカナだったり、洋館が出てきたり…かといって高速道路が出てきたり。思い通り、ごちゃ混ぜにさせていただきます!
そして何より、ギリシャ神話ですね。これを使おうと思ったきっかけは、油絵で見たギリシャ神たちの美しさに魅了されたから…というか、透き通るような美しさの中に嫉妬やグロテスクが入ってて大好きです?でも何よりも奥が深くて…調べても尽きないところが好きですっ!
これからもこの調子で進んでいきますので、どうぞよろしくお願いします。そして、未熟な私に感想や意見などをお寄せいただきたく思います!ありがとうございました。・:+°
「どういう事ですか預言者様!」
カインが食いつくように詰めかける。
私達はとりあえず、預言者を客間へと案内した。あまり私は立ち入ったことのないその部屋も、カインが掃除しておいてくれたようで綺麗に整っている。
「それで、どういう事ですか。」
改めてカインが問う。すると、初めて預言者は俯いていた顔を上げた。その顔は皺だらけで、予想通りの老婆であった。しかし、ブルード一族の者だから紅いはずの瞳は私が最初に見たとおり、やはり青かった。
「さっきお伝えした通りです、カイン様。どうかお早く泉へ。満月は今夜です。」
「殺される、とは具体的にどういうことですか?」
「それは分かりかねます。神々の手によるものではないことは分かりますが、邪なるもの、あるいは一族の影かも知れませぬ。私の予言に凶と出ることは死に値します故、どうかご自愛ください」
預言者は両手に杖を握りしめて深く腰を折った。しかし何故だろう、時折見える彼女の表情はどこか不自然な気がするのだ。なんというか、目に覇気がない。美しい瞳をしているのに、活力が感じられないのは…
「リリノア様、どうかなさいましたでしょうか」
あまりに私が見つめすぎたせいか、預言者はわずかに顔を上げた。長い前髪に隠れて、瞳はよく見えない。
「い、いいえ…」
思わず私が俯く。すると、少し考え込んでいたカインが再び口を開いた。
「分かりました。今夜、おっしゃる通りに致しましょう。しかし、私達はまだ未熟である月、どうかお付き合い願えませんか?」
「泉の近くまでご案内いたしましょう。しかし、それより先へは〈神の子〉しか入れぬのでありますので、私の案内はそこまでにございます。」
「泉で、ノアは何をすればいいのでしょうか」
「リリノア様だけでなく、貴方様もです。泉の水が注いで湖が出来ておりますから、その湖の底を歩き、対岸の泉へお行きください」
「俺も…?」
「そうでございます。貴方様も含めてのお告げです。どうか。」
「…分かりました。」
彼は渋々といった様子で頷いた。何か気がかりでもあるのだろうか。しかし、話は既に決まったらしい。私は彼らに任せるのみだった。
●●●
夜。満月の明かりに照らされた森へ続く一本道を、預言者のあとに続いてカインと並んで歩く。やがて少しずつ木が増え、辺りは月光すら遮られるような鬱蒼と茂る木々に囲まれていた。私は履きなれない長靴のようなブーツを履いて周りを見ながら歩いていた。
ふと、預言者が立ち止まる。見ると、そこには腐りかけた木の門があった。扉は壊れているものの、佇む2本の柱はどこか威圧的で、人を寄せ付けない森の深部へとやってきた事をひしひしと実感する。
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そう彼女が告げると、カインは黙って私の左手を握った。
「ここから先はこうしていてくれ。これから通る道は…ノアが記憶をなくした場所だ。」
カインが苦しそうな顔をしてそう言う。そうか、彼がここに来るのを渋ったのはそのことのせいか…。やっぱり私絡みだったのね。
言われるままに、握られた手に力を込めてそっと握り返すと、少しヒヤリとして私より大きい、男性的な骨っぽい手の感触が感じられた。それに少し戸惑いながらも小さく頷いてみせる。それを確認した預言者はゆっくりと門へと足を進めた。
そこは、まるでこの世とは別の世界のような場所だった。今までの場所とは比べ物にならないくらいに生い茂る木々に月の光は遮られ、静まり返る冷たい空気を時々揺るがす僅かな風。それに反応する木の葉の囁きは、人間のそれとよく似ていて、どこか懐かしさすら感じられる。前も横も見えないのに、どうしてか足元はしっかりとしている。どこか遠くで風を切るような音が聞こえるのは、きっと森の上を飛ぶ鳥の羽音。心の中は、美しい漆黒に包まれていくように深く沈んで落ち着いていた。
やがて、前を歩く預言者の足が止まった。そして暗闇の中でこちらを向いたのがぼんやりと見えたかと思うと、ゆっくりと腰を折った。あぁ、到着したのね。そう思って私も軽く会釈する。そして私が顔を上げた時、改めてしっかりと彼女と目が合った。…いや、視線の先はややズレている気がする。その瞳は青く光ってはいるが、生気はやはり感じられない。不思議に思うも、理由はわからない。
そんなことを考えていると、預言者は私たちに先に進めと促すように杖を持ってみせる。カインの手が私の手を握り直すように力む。私はそっと手を引かれるままに、預言者の横を通り過ぎてさらに奥へと進んだ。カインは道を知っているのだろうか、迷う様子はなくしっかりとした足取りでどこかに向かっている。私も記憶があれば、知っていたのだろうか?
次第に道幅が狭くなっていくのがわかる。ちょっとした岩場などは崖のようになっていて、山を降りるように下った。小さな川があった時は、靴を脱いで渡った。そんなことを繰り返しているうち、足元が木の根に覆われていることに気づいた。さっきまで歩いていた道は、土や落ち葉だったのに、今は地面の感触はなく、全面が太い木の根が絡み合った絨毯のようになっているのである。
やがて出たのはとても広い場所だった。さっきまで暗闇だったのに、そこだけは広大な湖が広がっていて、中央には小さな島が二つあり、それぞれに1本ずつ生えた2本の木が絡み合って島同士を結ぶアーチのようになっている。その他にも湖の底から生えているらしい木が空高くへと伸びており、葉の隙間からは月光が洩れてアーチを中心に照らし出していた。なんとも神秘的な場所である。
預言者は、湖の底を歩けと言った。見たところ水深は深いところで2mくらいだろう。果たして息が持つだろうか…そもそも私は泳げるのだろうか?対岸に泉があると言ったのだ、対岸までは行かねばならないのだろう。しかし、カインは何のためらいもなく靴を脱ぐとズボンの裾を邪魔にならないように少し捲って、湖に足を入れた。それからこちらを向くと、おいで、というようにこちらに両手を広げた。私は恐る恐る、靴を脱いでから彼の方に歩み寄る。すると、カインは私の腰をしっかりと抱いて歩き始めた。その行為から察するに、きっと私は泳げない。
一歩進むごとに湖は深くなっていく。背の低い私はあっという間に肩まで浸かってしまった。すると、カインが私を彼の頭の高さまで上げてくれる。顔が近くなったので私は本当に小さく彼の耳元に囁いた。
「息、続くかな」
すると、彼は何を言うでもなく私の額に自分のそれを優しくこすりつけた。心配するな、と言っているのだろう。彼はその足を止めず、私達は水の中に潜り込んだ。
私は息を止めるのも忘れてしまった。それなのに苦しくない。思わず固く閉じてしまっていた目を開けると、そこは地上と何ら変わらなかった。木々が生え、地面があり、何故か呼吸すらできる。見える世界は水上で見たものよりもずっと美しい景色だった。上を見上げると水面が歪んだ月光を揺らし、屈折した光の筋は一直線に水底へと斜めに差していた。
「綺麗…」
「大丈夫?」
ここでやっと、カインが口を開く。まるで広いホールの中にいるように、彼の声は透き通るように響き渡った。
「うん。…ここ、湖の底だよね?」
「そうだよ。でもちょっと不思議な場所だよ。この湖の範囲内では、ニンフや神々の魂が宿っているんだよ。つまり、この世で唯一の神との交流点かな。だから普通の人間は入れないんだ。代々、ブルードの一族の当主しかね。」
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するとそのとき、どこかで子供の声を聞いた気がした。それは、すすり泣くような声。
(…さみしいよぉ…)
「えっ」
確かに聞こえた。寂しい、と言ったのだ。それを確信した瞬間、それは急にはっきりと聞こえてくるようになった。
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……………………………………………………あれは私だ。
そのとき、目の前で見ている光景の当時の記憶がはっきりと蘇る。
そうだ、私は〈生き神〉というモノとして、本邸の敷地にある小さな祭壇に括られ、奉られていたのだ。しかし、神とはよく言ったもので、実際の扱いは世に聞く奴隷以下であった。食事は与えられたが、睡眠も排泄もその場その体勢でしかならず、厚さも寒さも凌げない状況で、私は幼い数年を過ごしたのだ。開放されたのがいつだったのかまでは思い出せない。しかしあれは、半ば生き殺しのようなもので、死んだ方がマシだとすら思えたのを覚えている。
私は吐き気を覚え、地面に膝をついた。腹の中はとっくにカラなのか、嘔吐物はこみ上げてこない。あまりの苦しさに私は再び目を固く閉じた。
「ノア、どうした。」
カインが私の背を摩っているのが分かる。無意識に上がった息を整え、目を開けるとあの光景は消えていて、また美しい景色が広がっていた。
「カイン、私はここにいる?」
我ながら変なことを聞いたと思う。しかし、それほどまでに私は事故のフラッシュバックのように混乱していたのだ。
「あぁ、いるよ。ちゃんとここにいる。」
「大丈夫だよね?生きてるよね?」
「大丈夫、大丈夫。ここにいるし、生きている。」
カインが諭すように言ってくれる。そう、私はここにいる。大丈夫。でも、なぜこんなに震えが止まらないの?
「無理はしないで。どうしたんだい、リリノア。少し疲れたかな?」
「…後で必ず話すから」
「うん、分かった。おいで」
そう言うとカインは屈んで、私に背を向けた。促されるままにその背中に手を伸ばすと、そのまま彼は私を背負って歩き始めた。
「少しは休めるかな」
「…いつもごめんね」
「君は元々、身体が強くないんだ。だから、むりはしないでくれ。」
私はまた何か見えるのではないかと怖くなり、顔を伏せた。
「着いたよ。」
カインの声で目が覚める。どうやら私は眠ってしまっていたらしい。顔を上げると陸地にいて、対岸についたのだと分かる。そして目の前には、月光をあびてエメラルドグリーンに輝く小さな泉があった。
「ここ…?」
「そうみたいだね。」
私は彼の背から降りると、その泉に手を伸ばした。
「まぁ!来てくれたのね!」
突然頭上から声がして、慌てて手を引っ込める。声の主の方へ目をやると、私と同じくらいの背丈の、緑色の髪をした、裸体に布を纏った女性が目の前の木に座っていた。
「…誰?」
私が思わずそう言うと、彼女は少し顔をしかめた後、思い出したように苦笑した。
「記憶喪失って本当だったのね。風のうわさで聞いたわ。」
そして泉と同じエメラルドの瞳で私をじっと見据えると、秀麗に口元に笑みを浮かべ、言った。
「私はこの森の木に宿る、ドライアドという者よ。」
彼女はさらに目を細め、ニッコリと笑っている。
「ドライアド…?」
聞き覚えがないのか、将また忘れてしまったのか…。
「確か、ニンフだね。ドリアードとも呼ばれている、木に宿る精霊だよ。」
カインが私に説明しているのを聞いていた彼女も、それに合わせてうんうんと頷いた。
「えっと、ドライアドっていう名前?」
「違うわ。私たちをドライアドと呼ぶのは、貴方達を人間って呼ぶのと同じようなものよ。」
「じゃあ、名前は?」
「ごめんなさいね、ここまで言っておいてなんだけど、私達に個としての名前はないの。だから私の名前ではないけれど、ドライアドって呼んでくれて構わないわ。」
「わ、分かった」
彼女が笑う度に、深い緑色をした長い髪がふわふわと揺れる。その様は、まるで重力を無視して空中を漂い、まだ私は水の中にいるのではないかと錯覚してしまうほどだった。
「あのね、ふたりをここに導いたのは私よ。」
ドライアドが語る。…え?導いた?
私たちが唖然としていると、彼女は言葉を続けた。
「預言者に、二人をここへ来るようにお告げとして伝えたのよ。」
「じゃあ!俺達が殺されるっていうのは!?」
そう、そこね。最重要事項。よく聞いてくれたねカイン。私もう忘れかけてたよ…。
「殺される?私そんなこと言ってないわよ?」
そしてサラリと答えるドライアド。え、言ってない?
「そんな筈ない。預言者様は俺達がここに来なければ殺されるって言ったんだ。」
カインの必死の訴えに、怪訝そうな顔をして首をかしげる精霊。しかし、どうして彼女が動いても無音なのだろうか。すると、ぱっと何かを思いついたような素振りを見せたドライアドは、
「それはきっと、誰かほかの精霊が情報を入れた時に混同したのね。」
と言った。話によると、預言者とは神と一般人の意思疎通を図るための、言わば媒介であり、現代に言う伝言ゲームの仲介ポジションなのだとか。つまり、1度に何人かの神様や精霊から伝言をもらうと、預言者に入る情報が混濁してしまうのだ。
「でもそれじゃあ、誰かは私たちが殺されるっていうことを伝えたかったってこと?」
「…そうなるわね。でも、ここにいる分には普通の人間は来られないだろうし、安全といえば安全ね。で、私の要件は一つなのよ。」
ドライアドの瞳が少し苦しげな光を灯す。何があったのだろう?そんな瞳をするくらい、思い悩むようなことが…
「この湖のどこかに、オルフェウスの金の竪琴が沈んでいるはずなの。それを、探してきて欲しいの。」
私達は、唖然としてそれを聞いていた。
〇感謝を込めて〇
本作品をここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。書かせていただいております、らびっとと申します(通称:らび)。時間がある時や車の中で書いているもので、誤字脱字や文法的におかしい所が多々あることを、まず初めにお詫びします。
さて、今作の舞台は「現実と非現実をゴチャゴチャにした現代」…です。イメージは日本なのですが、名前がカタカナだったり、洋館が出てきたり…かといって高速道路が出てきたり。思い通り、ごちゃ混ぜにさせていただきます!
そして何より、ギリシャ神話ですね。これを使おうと思ったきっかけは、油絵で見たギリシャ神たちの美しさに魅了されたから…というか、透き通るような美しさの中に嫉妬やグロテスクが入ってて大好きです?でも何よりも奥が深くて…調べても尽きないところが好きですっ!
これからもこの調子で進んでいきますので、どうぞよろしくお願いします。そして、未熟な私に感想や意見などをお寄せいただきたく思います!ありがとうございました。・:+°
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