神聖なる悪魔の子

らび

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25. 大人と子供

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リリノアside

 ゆっくりと目を開けると、薄暗い闇の中に溶けて見慣れた天井が視界に入った。
「う…ん?」
まぶたが張り付く不快な感覚に目を擦ろうとするも、思うように腕が動かない。
「あれ…私は、」
「ノア!やっと気がついたか。」
聞きなれた声とともに足元から誰かが寄ってくる。誰かなんて言うまでもない、カインだ。水の音が微かに聞こえ、水桶でも持っているのかと悟る。
「…カイン」
「はいはい、無理に動くんじゃないの」
ビチャビチャと音を立てて濡らしたタオルを絞ると、彼はそのタオルで私に掛けられた毛布を半分まで捲って首から腹までを丁寧に拭き始めた。汗でベタついた身体がさっぱりとしてゆくのが心地よく、私は何も思わず、何も言わずにことの成り行きに身を任せていた。
「さて、と。寒くない?」
「うん」
私がゆっくりと頷くと、彼はニコリと笑って見せた。
「…そうだ、赤ちゃんを産んで…私は空港で気を失って…どれくらいたったの?」
無駄に擦れる声で咳をこらえながら尋ねる。
「あぁ、半年だよ」
 水桶やタオルをどこへやったのか、手ぶらになったカインが戻ってきた。
「そう…半、……えっ!?」
聞き間違いだろうか!!??
「うん?半年。」
「えっ!?うそ、だって」
「あ、正確には6ヶ月と2週間と4日目だよ、今日で。」
「えぇっ!?」
慌てて体を起こそうとするも、力が入り切らずにバランスを崩す。
「ダメだってば、急に動いたりしたら。6ヶ月も寝たきりだったんだ、全身の筋肉が弱っているんだよ。立てるどころか、動けるわけないでしょ?」
ベッドから落ちる前に支えてもらって、そのまま座り直される。それでも体勢を保つので精一杯だった。
 頭の整理が追いつかない。取り敢えず頭の整理を、と思って使えない頭をフル回転させていると、ぼすっと隣に座ったカインは困ったように優しく笑っているばかりだった。

●●●
カインside

 そう、半年。一言にまとめるには長すぎる年月が過ぎていた。リリノアが長い眠りについた理由は分からないが、特に異常のない普通の眠りだったので、いつか目覚めるだろうことは分かっていた。
 あの日、空港で出産を無事とは言えない形で終えたノアだったが、無理やり胎盤を引きずり出した後も出血が収まらずに、結局一度連れて帰ることになったのだ。一度アンの家に連れて行って緊急で輸血を済ませた。3日後にやっと熱も下がり、自宅に帰ることになった。それから、時々アンが診療に来る以外、俺はノアの面倒を見ながら今日までを過ごしてきた。
 ノアは、空港での出来事までは覚えているようで、それはつい昨日のことだと勘違いしてもいるようだった。不安定に隣に座る彼女は、支えきれなくなったのかその身体をこてんとこちらに預けてきた。
「カイン、赤ちゃんはどうなったの?」
「大丈夫だよ。一族の末端で、でも一族のどこよりも安全な場所で育てられているだろうね。」
「幹部の元に連れていかれてしまったかと思った。」
「本来なら、子取りがそうするんだろうけど、俺がそうさせなかったからね。大丈夫、身の安全は保証されているよ。」
「良かった…」
しかし、そうは言ったものの彼女の瞳は再び遠くを見つめる。その瞳から、不意に幾筋もの涙が伝ってゆくが、ノアはそれに気づいていないのか、瞬きすらしない。
「君のその涙の理由は、悲しみではないね?それに、寂しさでもない。」
「何、」
俺は開いている左手を伸ばしてそっとノアの頬から涙をぬぐい取った。指先を濡らした雫は微かに熱を持って温かい。
「それは虚無だ。心が空っぽなんだろう?」
「…」
「俺だってそうさ。実の自分の子供が目の前で生まれて、そして触れることすら許されずに取られてしまったのだから。だが、母親のそれとは重みが違うんだろうな。何せ、俺が実際に産んだわけじゃない。あの子が生まれてくるまでの過程で、俺は1度も痛みや苦しみを味わっていないだろう?父親はそうなんだ。母親の君は違う。命懸けで、痛みにも苦しみにも耐え抜いて、やっと生まれた子どもが自分の元から離れてゆく。とても残酷なんだ。」
右手をゆっくりとノアの肩に回すと、その身体はやせ細り、薄く、とても出産を終えた屈強な母親の面影なんて感じられなかった。
「…もし、」
「うん?」
「もし、あの子がこの世に生まれてきたことを後悔するような日が来てしまったらと思うと、私、怖くて…」
そこまで言うと、彼女は小さく震えた。
 何故だろう、リリノア自身、まだ16才の…3歳の子供だというのに。悲しいくらいに彼女は大人のように振舞って、しかし、子供の体が付いていけないと言ったように、もどかしさに苦しんでいる。そこまで考える必要は無いのに、無駄に責任を負おうとするのだ。
「ノア、お風呂にでも入るかい?君が眠っている間、不潔になってはいけないからと濡らしたタオルで全身拭くくらいはしていたけど、やっぱり入った方がさっぱりするんじゃないか?」
 急な話題転換にきょとんとする彼女の首をつっと指先でなぞると、くすぐったそうにノアは声を漏らして首をすくめた。そして、そのやつれてしまった顔で小さく笑って見せた。
「…じゃあ、一緒に入ってくれる?」
そう言ってくる姿はとても幼く、本当に3、4歳の子供のようだった。
「あぁ、いいよ。」
俺は支えた腕をそのままに、体重が27kgまで減ってしまった少女の体を、壊れ物に触れるように丁寧に抱き上げた。
「…カイン、怖いの?」
「えっ?」
「…何でもない」
何か隠し事がバレたような感覚にヒヤッとしたが、俺はそれを無視してバスルームに向かった。


 浴室の床にノアを座らせると、彼女はすぐに膝を抱えた。俺はシャンプーのボトルを手に取って、そんな彼女の後ろに胡坐をかいて座る。シャワーで髪を濡らしてから、手のひらでシャンプーを泡立てると、柑橘系の匂いが辺りに広がった。ノアの細い絹のような髪は良く泡立ち、指通りが良い。それは昔から変わらないな、なんて考えていると、ふとノアが口を開いた。
「やっぱり、可哀想なことをしてしまった気がしてならないの。」
「…」
「それに、あの子は普通の人間として生まれてきたから、普通の人間の寿命で死んでしまうのでしょう?」
「…そうだね」
「だとしたら、何千年も生きてゆく私たちの見ているところで死んでしまうのでしょう?それを思うと、私が怖くて」
「じゃあ、産まなきゃ良かったと思うのかい?」
差し障りないように、優しく聞いてやると、ノアはふるふると首を振った。
「そんなことは無い、けど…自信が無いの。生んでよかった、って堂々と言える自信が。私の手を離れても、あの子が幸せになってくれるならいいの。でも、それが確認出来ないことが、とても怖い」
もう1度シャワーをかけて、泡を流していく。水の音にかき消されてしまうからか、彼女はその間何も言わなかった。
 どうして、こんなふうに偏って大人のようにになってしまったのだろう。いや、歪に成長させたのは彼女の境遇や環境のせいだろう。
「ノア、思いつめるのは良くない。世の中には理というものが存在していて、こうあるべきだ、と言われてしまえば殆どの人が逆らうことは出来ないんだよ?」
シャワーを止めて彼女の髪をひとまとめにしてクリップで留める。
「何かに対して後悔したって、過ぎた事はどうしようもないんだ。何を言っているかは分かるね?」
「うん、でも」
「だから、どうあるべきか、なんて考えなくていいんだ。」
すべてを背負いすぎてパンクするのは彼女の方だ。しかし、このことは何を言ったって彼女が聞く耳を持たないのは百も承知なのだ。しかし、だからといってこちらだって、毎度毎度譲ってはやれない。
「そうかもしれないけど、」
「あぁ、もう。何でわかんないかな!?」
 
 別に腹を立てたわけではなかった。ただ、気が付けば身体が先に行動していたのだ。
 俺は、お湯が張ってあるバスタブに、ノアを沈めていた。驚いたのか、お互いの動きが一瞬止まる。しかし、ゴボッという音とともに、彼女は自らを沈めに掛かっている俺の手を強く握りしめた。俺もハッとして慌ててノアを水面に起こすと、咳き込みながらノアは言った。
「何、するのっ、私を…ゲホッ、苦しめたいの…!?」
「…そうか。」
その言葉に、俺は自分の行動を理解した。
「そう、お前は苦しむだけだ。普通の人間なら、自分を殺そうとしたのではないかと言うところだろう。だが、俺もお前も、息ができないくらいじゃ簡単に死なないんだよ。」
「…え」
「俺もノアも、異端児に生まれた事はどうしようもない事実だ。悔やんだって泣いたって変わらないだろう?」
「うん」
「それと同じなんだよ。だから、子どものことを悔やむのはやめろ。それに、お前だってまだ子供じゃないか。無理して大人ぶるのはやめなさい。」
「…」
なんとも言えない顔つきで、ノアは目を伏せた。まだ、飲み込みきれていないのだろう。
「…だから、なんていうか…その、」
俺は片手でノアを抱えて、もう片方の手で濡れた彼女の頭を撫でた。
「子供らしくしていろよ。」
そう言うと、ノアは俺の肩の上から背中に腕を回して、抱きしめるように肩口に顔を埋めた。そして、悪いことをした子供のように、「ごめんなさい」と繰り返して泣いていた。
「いい子だね、リリノア」
俺は頼りない彼女の背中をぽんぽんと叩きながら、そのまま浴室を後にした。

 バスローブを着せてベッドに下ろすと、リリノアは力なくそのまま横たわった。
「ノア、髪乾かさないと風邪ひくよ。」
「…うん」
返事をするも、彼女は起き上がることが出来ない。俺は窓を開けてからベッドに戻ってゆっくりと起き上がらせた。彼女の後に座ってドライヤーを緩くかけると、白銀色の髪が優しく揺れた。
「ねえ、カイン。あの子の名前は決まったの?」
不意に、ノアが聞いてくる。それは素朴な疑問だったのか、あるいは深い意味があるのか。俺には計り知れなかった。
「あぁ、決まったよ。というか、魂の神の名前だね。」
「え?」
「前に話したよね。ブルードの一族のものは皆、ギリシャの神の魂を持っているらしいんだよ。ただ、俺たちみたいな異端児でない限り…つまりはただと人間としてその魂を持って生まれる分には、名ばかりで何の力も持たないけどね。だから、名前こそ神様の名前がついているけど、彼らは何の変哲もない人間だよ。」
「で、あの子の名前は?」
「…アテネ。知恵と芸術の女神だよ。」
「アテネ…美しい子になるかしら。」
「そうだね。」

●●●
~Some Time Ago~

アネモネside

 空港から戻ってリリノアの応急処置が一段落すると、やはり気になるのは赤ん坊のことである。最近ちょうど、私の研究が実を結んで、預言者に尋ねなくても生まれた子供が誰の魂を受け継いでいるのかが分かるようになった。
「行方不明?姉さん、それどういうこと?」
「その言葉通り…だといいんだがな。預言者が、いつの間にか姿を消していたんだ。私がこの間、必要な書類を取りに本邸に戻った時には、もう誰もが知っていることだったよ。」
「そんな…」
「まぁ、大体予想はつくがな。」
リリノアの元に直接助言しに行ったことが、一族にバレないはずがない。私のような一族の隅っこに追いやられて生きていられる特例を除いて、とくに預言者などという一族に重要視される中途半端に身分の高い人物は当主との直接の接触なんて許されていない。これらのことを組み合わせて考えれば、大方想像できる。
「…一族に消されたんだろうな。」
「殺されたとでも言うのか!?」
「いや、ブルードとて国家レベルの一族であれども法律は破れないだろう。殺されてはいないだろうけど、いわば追放くらいはされてしまっただろうね。気の毒だけど。それと、全く関係ないんだけどね?」
検査キットのようなものを用意しながら、カインに話す。
「リリノアの身体に、早くも異常が見られる。」
「なんだって!?」
「いや、異様というべきかな。別に身体に外をなす訳では無いんだが…」
一応手を止めて、マグカップを持ったままで固まっている弟の方を見る。
「不思議なことに、出産から数時間しか経っていない今、既に、処女膜が元に戻っているんだよ。」
「はい!?」
「いや、こちらも予想はつくんだ。リリノアはノアって名前こそついているけれど、その魂は女神アルテミスとの繋がりが深い。その処女神たる魂の力だろうね。不思議なものだ。」
そんな話をしながら、生まれたばかりの赤ん坊の口に綿棒を差し込んで唾液を採取し、小さな足に注射針を刺して血をにじませる。それを検査紙に通して用意していた薬品に綿棒と一緒に浸けた。すると透明だった薬品は鮮やかな赤に変色した。
「…すごいわ、赤系に出るのは有力だった神の魂よ。オリュンポスの可能性が高いわね」
オリュンポスの本を開いて同じ色を探す。すると、その色は案外すぐに見つかった。
「分かった?」
「…分かった。間違いないわね。この子の魂は知恵と芸術の女神、アテネのものだわ!」



 アテネ。彼女は知恵と芸術、そして戦術に長けた、アルテミスやヘスティアーと並ぶ処女神である。彼女にはパラスという親友がいたが、ある日口論になった際にアテネの放った一撃によってパラスは命を落とした。そしてアテネは悲しみに暮れてパラディオンというパラスによく似た木像を造ったそうだ。

●●●
~Time is Now~

リリノアside

 後ろから送られるゆるい温風が心地よくて、段々と眠くなってきた。不意に、夢で見たあの羽根を思い出す。
「アテネの使者はフクロウだった…?」
「えっ?」
無意識に出てきた言葉はまるで私の言葉では無いようだった。
「ううん、何でもないの。」
「そうだね、確かにフクロウだよ。どうして分かったの?」
私は夢で見たことを話した。するとカインは少しだけ黙り込んで、やがて口を開いた。
「これまでにも、そんな事はあったかい?」
「うん、たまにだけどね。」
「そっか。それは予知夢だね。記憶をなくした君を、誰かが支えているのかもしれない。信じるのも信じないのも君次第だよ。うまく利用するといい。」
「うん、そうする。」
アテネか。女神の魂なのね。そういえば、一族の人々は皆、神様の名前が付いているのに、どうして私とカインはギリシャ神話に登場する人間の名前なんだろう?
「あとさ、カイン」
「何?」
その疑問をそのまま口にすると、カインは驚いたように両目を見開いた。
「確かに…どうしてだろう?」
「カインにもわからないことってあるのね」
「そりゃあ俺だって人間だし。一応?」
クスクスと笑った彼は、ドライヤーを止めて私を後ろから抱きすくめた。
「今度姉さんに聞いてみよう。俺も気になってきた。」
首に触れる彼の吐息が少しだけむずがゆくて心地よかった。
 そうして心にぽっかり空いた穴がいつしか埋まっていたことに、その時私は気づけないほどに小さな幸福で満たされていた。
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