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21. 忍耐、そして憂鬱
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鳥の囀りで目が覚めた。風に揺れる若草色のカーテンが、朝日を揺らしながら部屋に取り込む。私がゆっくりと起き上がろうとすると、強い力で押し戻された。
「んがっ」
「くっははっ」
悪戯に笑う声と、私の体に乗せられた腕。
「…カイン、もうずっと前から起きてたんでしょ。」
「まぁね。」
寝起き特有の、少し擦れた彼の声が静かに言葉を返す。その声からは、昨日の夜のような様子は感じられなくて安心した。
と、思ったのも束の間、彼は唐突に私の体に腕を回して、まるでぬいぐるみを抱くかのようにぎゅっと抱きしめてきた。
「ふぇあっ!な、なに!?」
「いいや?なんとなく。」
稀に見るあどけない表情をした彼を見入っていると、今度は彼の手がいたわるように私の腹部に触れた。
「…ちゃんと、大きくなってるね。」
「やっと分かるようになってきたよね」
「でもやっぱり、普通の人よりも胎児の成長が早い。」
「そうなの?」
「一般人は半年じゃ生まれないよ。1年くらいだもの。」
「へぇ、知らなかった。」
「君の世間知らずは極端に偏るよね」
確かに、私の考える一般常識は少しずれていることが多い。だから、あまり自信が無いのだが…
「さて、そろそろ起きるか。」
私から腕をどかしてゆっくりと起き上がるかイン。絹のような髪が寝癖で少し跳ねている。私もゆっくり起き上がって、その髪に手を伸ばした。毛質がいいので、軽く手櫛を通すだけで簡単になおる。
「またクセになってた?」
「うん、でももうなおったよ。」
にっこりと笑いかければ、優しい微笑みが返ってくる。軽く私の頭を撫でた彼は、窓辺に干してあった自らの服を手に取って、乾いているのを確認してから寝巻きから着替えてゆく。
少しして、何をするでもなく空を見つめていた私の元に戻ってきたカインが、私の着ているゆるゆるだった借り物の寝間着を解いた。
「ちゃんと乾いていたからノアも着替えよう。借りた服は洗って返したいからね」
「うん」
言われるままに慣れた手つきで着替えさせられる。普段私が着ているネグリジェは、リボンの結び目もファスナーも全部背中なので、自分では着られないのだ。
「さて、じゃあベッドから降りて。シーツもカバーもまとめて洗ってしまおう。」
と、私がベッドから降りた時だった。カインがシーツを剥がそうとすると、部屋の扉が開いた。
「あら、おはようございます。何をしていらっしゃるのですか?」
エキドナがひょっこりと顔を出した。にっこりと笑顔を向ける彼女の表情に、あの獣のおぞましい表情は欠けらも無い。ゆるくウェーブのかかった長い髪をポニーテールのように上げて、クリーム色のエプロンを身につけている。
「あぁいえ。お世話になりっぱなしなのも申し訳ないので、部屋くらいは綺麗にさせていただこうかと…」
「いいんですよ、そんなことしなくても。それに…少々困ったことが起こっているのです。」
さっきまでの笑顔を少し濁して、彼女は困ったように眉間にシワを寄せた。
「困ったこと?それは私たちにとって?」
「ええ、そうなんです。」
「何があったのです、エキドナ。俺達が困ることって」
エキドナは部屋に入って後ろ手に扉を閉めると、少しだけ肩をすくめておずおずと口を開いた。
「お2人は、今日帰国なさる予定だとおっしゃっておりましたね?」
「ええ。」
「私もすっかり忘れていたのですが、今は飛行機が出ていないのです。貴方がたの乗っていた飛行機事故…あれに事件性があると、言われ始めたもので。それ以来、飛行機は運行を見合わせており、4週間後までは少なくとも…」
「なんですって!?どうしよう、カイン」
見ると彼は、既に真剣な表情で少しだけ目を伏せていた。微動だにしていない表情の中、赤い瞳だけが動揺しているのがよく見える。
…そう、これは少しまずいかもしれない。
●●●
カインside
どうしたものか。4週間…それではギリギリすぎる。視界の端で、リリノアが不安そうにこちらを見上げている。その小さな両手は自身を抱くように腹に触れている。
そう、彼女の出産予定は、早くも5週間後に迫っていた。見た目では分からないが、異端児の子供ともなると、胎児の成長は異様なもので、残りの3週間で急成長を遂げ、出産へと追い込む。原因は分からないが、代々の女当主たちは皆そうだったらしい。だから、それを見越して予定日の二週間前には姉さんのもとに身を寄せることになっていたのだ。
「陸路や船でも駄目ですか」
「そうですね、今はテロの可能性を重視していて、旅行客も帰国したい国民も含めて国の出入りが出来なくなっているのです。4週間様子を見て、何もなければ復興するのですが…」
また面倒なことになってしまった。だから、いかなる危険を避けるために、ギリシャへ来るのは出産後のノアが落ち着いてからにしようと思ったのに…《あの女》が急かしてこなければ…
「…ノア、選びなさい。今ここで。残された道は2つだ。まずは、きちんと二週間前に、この国の病院に入院してそのまま産むか…或いは、ギリギリまで粘って意地でも帰って、姉さんのところで産むか。一度入院してしまえばもう産むまでは退院できない。でも、君の安全を考えならその方が安全策と言えるだろう。母体へのストレスは、全てが胎児に影響を与えてしまうと思いなさい。だから、君自身がやりたいようにやるといい。俺はそれを全力でサポートしよう。」
腰を屈めて、背の低い彼女に目線を合わせる。ゆっくりと、その片目を見つめて言い聞かせるように伝えると、ノアは小さくうなずきながら聞いていてくれた。いつの間にかその両手は胸に当てられていて、まるで自分と相談しているようにみえた。…いや、そうなのだろう。
少し身を屈めて、俯きがちの彼女の顔をのぞき込む。目線を合わせると、隠されていない左目と目が合った。それは、許しを乞うているように見えて…きっと、何か言いづらいけど言いたいことがあるのだろうというのが手に取るようにわかった。
「いいよ、どうしたいか言ってごらん?」
ぽんぽんと頭を撫でると、ノアはゴクリと唾を飲んで、音を立てずに深く息を吸った。そして、蚊の鳴くような声でそっと告げてきた。
「…私は、帰りたい。危険なのも、カインに迷惑をかけるのも分かってる…もしかしたら、エキドナにも。でも…分かっているけど、やっぱりアンさんのところで産みたい。だって、この子は私が抱いてあげることができないから。私の代わりにこの子を最初に抱くのは、アンさんがいいから。知らない国の病院で、見ず知らずの人にこの子を取り上げて欲しくないの…特別な存在だから。」
胸に当てていた手を片方伸ばして、俺の服の裾を握った。これは、初めて聞く彼女の我侭だった。
「でももし、」
「分かった。ギリギリでも帰ろう。」
俺はノアの言葉を遮った。遠慮の言葉を吐こうとした彼女は、また自分が我慢しようとする。自分が我慢すれば済むのなら…そう思っているに違いない。しかし、今回ばかりは譲らせてやるつもりは無かった。
「エキドナ、飛行機が復活したら教えてくれないか。それまでは、その辺の適当なホテルにでも…」
「分かりました。ならば、帰国までウチにいてはいかがですか?」
屈託のない笑顔を浮かべてエキドナはふわりと笑った。
「いいのですか?俺達が邪魔になるようなら申し訳ないのですが。」
「迷惑だなんてとんでもない。それに、安静にしておいた方がいいのでしょう?この部屋なら自由に使って頂けますし、何かあれば私も出産経験は多いですし…獣ですけどね?あと、車も持っていますし、いくらでも脚にはなりますよ。」
「でも、助けられっぱなしというのも気が引けますし…」
「それなら、家事を手伝って頂けますか?」
ひらめいた、と言わんばかりにエキドナは手を合わせて言った。
「えっと…そんなことでいいならいくらでもしますけど…本当にいいんですか?」
「いいんですよ!ご存知の通り捕らわれの身だったもので、掃除も兼ねてお手伝いいただければ十分です。」
「じゃあ、お世話になろうか、ノア。」
そこまで言われると、断る理由もなくなってしまった。まぁ、仕事をくれるならいいだろうか。
「うん。あの、宜しくお願いします」
「それから、エキドナ。頼んでおきたいのだが、気を遣い過ぎないでください。一族を離れた今、俺達はただの人間で、生き神でも何でもない。」
「そんな、いいんですよ。私如きが、」
彼女は眉尻を下げて困ったように笑った。きっと、体に染み付いてしまった何かが、俺やノアを敬わなければならなくしているのだろう。
「…なら、普通に話そうよ。カインもエキドナも、さっきから敬語ばっかり。回りくどくて疲れちゃいそうだから…だめ?」
仲介するように、リリノアが口を開いた。
「あぁ、俺は構わないが。」
「…あの、カイン殿とリリノア様がお望みとあらばそう致しますが。」
リリノアを見ると、少し腑に落ちないような顔をしていたが、深い瞳の色を緩めて少しだけ口角を上げた。
「ま、いっか。」
そう言うと彼女は、ゆっくりと椅子から降りた。体の重さに慣れないながらも、ゆっくりと歩いて、俺の前に来た。
「カインも、私に気をかけすぎないでね?一緒にエキドナのお手伝いしたいけど、どうも出来そうにないから、おねがい。私はちゃんと大人しくしてるから。」
その大きな瞳を細めてふわりとノアが笑う。その笑顔は、俺以外に向けているのを見たことがない。
決して自惚れている訳では無いが、彼女は他人に笑顔を向けることをしないのだ。だから、彼女が初めて俺に笑った時には息が止まるほどに驚いて、そしてその無邪気な笑顔に、彼女が普通の少女であると改めて気付かされたのだった。
今となっては愛おしくてならない。リリノアとは、夫婦の契を交わしたわけでも、愛を誓ったわけでもない。子供が出来た時点で、事ある毎に夫婦であることにしてきたが、別に口に出して語り合ったことではないのだ。この状況を、彼女はどう捉えているのだろうか。そして、俺はどう捉えたいのか。…そんなこと、聞くまでもない。
「いい子だね。」
俺にとっての最初の子供はリリノアのようだと思っていたが、対等でありたいと思う今、普通の恋人同士でありたいのだ。片思いかもしれないけれど、彼女の笑顔は俺だけのものだから。それに何か意味があるなら、俺は大切にしたいと思う。
●●●
リリノアside
エキドナの家に滞在し始めて一週間が過ぎた。八日目の今日は雨が降っていて、ジトジトと空気を重苦しくしている。カーテンを開けても薄暗くて首元に張り付く髪が鬱陶しかった。
この頃はもう、ベッドから降りることも億劫になっていた。お腹の重みに押しつぶされてしまいそうで、横を向いてしか寝ていられない日々。寝返りを打つのも一苦労で、殆ど動いていないのに疲れは水たまりの雨粒のように少しずつたまっていった。
「調子はどう、ノア。喉乾いてない?トイレは?」
「大丈夫、ありがとう。あの、髪を結ってくれない?張り付いて気持ちが悪いの。」
ゆっくりとだるい体を起こして脚をベッドから降ろすと、反対側からベッドに上がったカインが私の背後に胡坐をかいて座った。櫛で髪を梳きながらひとまとめにして持ち上げられると、首元がすっきりして心地よくなった。
「寝やすいように編み込んでおくから、解く時はまた言ってね。」
「うん」
「首、少し汗かいてる。そんなに暑かったなら早くいえばよかったのに。」
洗い物でもしてきたのだろうか、首に触れた彼の手は異様に冷たくて気持ちがいい。
「もう動くのも大声出すのも億劫なのよ。」
「そうか。」
完全に結い上げてくれたようで、長い髪は頭に収まった。いつも思ってはいるのだが、彼はとても手先が器用だと思う。
「疲れてるねぇ、お嬢さん。」
「何もしなくても体力を削られていくの。」
「赤ちゃんがエネルギーもらっているからね。」
カインにゆっくりと寄りかかると、彼は片腕に私を乗せて空いた手で私の肩を解すように揉み始めた。
「固まってるなぁ」
「…痛い」
「だろうね。少し我慢してな」
そういうなり、かなり強い力で肩のツボをピンポイントで押された。
「いっ…!!!」
「暴れるなって」
「がぁっ…あっ…!い゛っ」
息を止めて耐え続けること数分。だんだんと痛みを感じなくなってくる。それと同時に、少し肩が軽くなって来た気がする。
「どう?」
「…楽になってきた」
「強引だけど手っ取り早いだろ?」
確かにそうだけど、最初はかなりの拷問だった…。
「あら二人とも、ここにいたのね。」
「あぁ、エキドナ。リリノアのネグリジェ、アイロンかけてくれたんだね。わざわざありがとう」
「しばらく着ないでしょ?」
そう、私は今、エキドナに借りた妊婦用のワンピースを着ている。慣れるまでは眠れなかつたものだが。
「リリノアちゃん、疲れたまっちゃった?」
「うん、でも今は平気。」
「そっか。」
彼女のひだまりのような笑顔は、もう大分見慣れてきたものだ。
不意に、ルリアのことを思い出した。暖かな笑顔を見ると、彼女を思い出す。最近全く出てこないが、どうしているのだろうか。
「んがっ」
「くっははっ」
悪戯に笑う声と、私の体に乗せられた腕。
「…カイン、もうずっと前から起きてたんでしょ。」
「まぁね。」
寝起き特有の、少し擦れた彼の声が静かに言葉を返す。その声からは、昨日の夜のような様子は感じられなくて安心した。
と、思ったのも束の間、彼は唐突に私の体に腕を回して、まるでぬいぐるみを抱くかのようにぎゅっと抱きしめてきた。
「ふぇあっ!な、なに!?」
「いいや?なんとなく。」
稀に見るあどけない表情をした彼を見入っていると、今度は彼の手がいたわるように私の腹部に触れた。
「…ちゃんと、大きくなってるね。」
「やっと分かるようになってきたよね」
「でもやっぱり、普通の人よりも胎児の成長が早い。」
「そうなの?」
「一般人は半年じゃ生まれないよ。1年くらいだもの。」
「へぇ、知らなかった。」
「君の世間知らずは極端に偏るよね」
確かに、私の考える一般常識は少しずれていることが多い。だから、あまり自信が無いのだが…
「さて、そろそろ起きるか。」
私から腕をどかしてゆっくりと起き上がるかイン。絹のような髪が寝癖で少し跳ねている。私もゆっくり起き上がって、その髪に手を伸ばした。毛質がいいので、軽く手櫛を通すだけで簡単になおる。
「またクセになってた?」
「うん、でももうなおったよ。」
にっこりと笑いかければ、優しい微笑みが返ってくる。軽く私の頭を撫でた彼は、窓辺に干してあった自らの服を手に取って、乾いているのを確認してから寝巻きから着替えてゆく。
少しして、何をするでもなく空を見つめていた私の元に戻ってきたカインが、私の着ているゆるゆるだった借り物の寝間着を解いた。
「ちゃんと乾いていたからノアも着替えよう。借りた服は洗って返したいからね」
「うん」
言われるままに慣れた手つきで着替えさせられる。普段私が着ているネグリジェは、リボンの結び目もファスナーも全部背中なので、自分では着られないのだ。
「さて、じゃあベッドから降りて。シーツもカバーもまとめて洗ってしまおう。」
と、私がベッドから降りた時だった。カインがシーツを剥がそうとすると、部屋の扉が開いた。
「あら、おはようございます。何をしていらっしゃるのですか?」
エキドナがひょっこりと顔を出した。にっこりと笑顔を向ける彼女の表情に、あの獣のおぞましい表情は欠けらも無い。ゆるくウェーブのかかった長い髪をポニーテールのように上げて、クリーム色のエプロンを身につけている。
「あぁいえ。お世話になりっぱなしなのも申し訳ないので、部屋くらいは綺麗にさせていただこうかと…」
「いいんですよ、そんなことしなくても。それに…少々困ったことが起こっているのです。」
さっきまでの笑顔を少し濁して、彼女は困ったように眉間にシワを寄せた。
「困ったこと?それは私たちにとって?」
「ええ、そうなんです。」
「何があったのです、エキドナ。俺達が困ることって」
エキドナは部屋に入って後ろ手に扉を閉めると、少しだけ肩をすくめておずおずと口を開いた。
「お2人は、今日帰国なさる予定だとおっしゃっておりましたね?」
「ええ。」
「私もすっかり忘れていたのですが、今は飛行機が出ていないのです。貴方がたの乗っていた飛行機事故…あれに事件性があると、言われ始めたもので。それ以来、飛行機は運行を見合わせており、4週間後までは少なくとも…」
「なんですって!?どうしよう、カイン」
見ると彼は、既に真剣な表情で少しだけ目を伏せていた。微動だにしていない表情の中、赤い瞳だけが動揺しているのがよく見える。
…そう、これは少しまずいかもしれない。
●●●
カインside
どうしたものか。4週間…それではギリギリすぎる。視界の端で、リリノアが不安そうにこちらを見上げている。その小さな両手は自身を抱くように腹に触れている。
そう、彼女の出産予定は、早くも5週間後に迫っていた。見た目では分からないが、異端児の子供ともなると、胎児の成長は異様なもので、残りの3週間で急成長を遂げ、出産へと追い込む。原因は分からないが、代々の女当主たちは皆そうだったらしい。だから、それを見越して予定日の二週間前には姉さんのもとに身を寄せることになっていたのだ。
「陸路や船でも駄目ですか」
「そうですね、今はテロの可能性を重視していて、旅行客も帰国したい国民も含めて国の出入りが出来なくなっているのです。4週間様子を見て、何もなければ復興するのですが…」
また面倒なことになってしまった。だから、いかなる危険を避けるために、ギリシャへ来るのは出産後のノアが落ち着いてからにしようと思ったのに…《あの女》が急かしてこなければ…
「…ノア、選びなさい。今ここで。残された道は2つだ。まずは、きちんと二週間前に、この国の病院に入院してそのまま産むか…或いは、ギリギリまで粘って意地でも帰って、姉さんのところで産むか。一度入院してしまえばもう産むまでは退院できない。でも、君の安全を考えならその方が安全策と言えるだろう。母体へのストレスは、全てが胎児に影響を与えてしまうと思いなさい。だから、君自身がやりたいようにやるといい。俺はそれを全力でサポートしよう。」
腰を屈めて、背の低い彼女に目線を合わせる。ゆっくりと、その片目を見つめて言い聞かせるように伝えると、ノアは小さくうなずきながら聞いていてくれた。いつの間にかその両手は胸に当てられていて、まるで自分と相談しているようにみえた。…いや、そうなのだろう。
少し身を屈めて、俯きがちの彼女の顔をのぞき込む。目線を合わせると、隠されていない左目と目が合った。それは、許しを乞うているように見えて…きっと、何か言いづらいけど言いたいことがあるのだろうというのが手に取るようにわかった。
「いいよ、どうしたいか言ってごらん?」
ぽんぽんと頭を撫でると、ノアはゴクリと唾を飲んで、音を立てずに深く息を吸った。そして、蚊の鳴くような声でそっと告げてきた。
「…私は、帰りたい。危険なのも、カインに迷惑をかけるのも分かってる…もしかしたら、エキドナにも。でも…分かっているけど、やっぱりアンさんのところで産みたい。だって、この子は私が抱いてあげることができないから。私の代わりにこの子を最初に抱くのは、アンさんがいいから。知らない国の病院で、見ず知らずの人にこの子を取り上げて欲しくないの…特別な存在だから。」
胸に当てていた手を片方伸ばして、俺の服の裾を握った。これは、初めて聞く彼女の我侭だった。
「でももし、」
「分かった。ギリギリでも帰ろう。」
俺はノアの言葉を遮った。遠慮の言葉を吐こうとした彼女は、また自分が我慢しようとする。自分が我慢すれば済むのなら…そう思っているに違いない。しかし、今回ばかりは譲らせてやるつもりは無かった。
「エキドナ、飛行機が復活したら教えてくれないか。それまでは、その辺の適当なホテルにでも…」
「分かりました。ならば、帰国までウチにいてはいかがですか?」
屈託のない笑顔を浮かべてエキドナはふわりと笑った。
「いいのですか?俺達が邪魔になるようなら申し訳ないのですが。」
「迷惑だなんてとんでもない。それに、安静にしておいた方がいいのでしょう?この部屋なら自由に使って頂けますし、何かあれば私も出産経験は多いですし…獣ですけどね?あと、車も持っていますし、いくらでも脚にはなりますよ。」
「でも、助けられっぱなしというのも気が引けますし…」
「それなら、家事を手伝って頂けますか?」
ひらめいた、と言わんばかりにエキドナは手を合わせて言った。
「えっと…そんなことでいいならいくらでもしますけど…本当にいいんですか?」
「いいんですよ!ご存知の通り捕らわれの身だったもので、掃除も兼ねてお手伝いいただければ十分です。」
「じゃあ、お世話になろうか、ノア。」
そこまで言われると、断る理由もなくなってしまった。まぁ、仕事をくれるならいいだろうか。
「うん。あの、宜しくお願いします」
「それから、エキドナ。頼んでおきたいのだが、気を遣い過ぎないでください。一族を離れた今、俺達はただの人間で、生き神でも何でもない。」
「そんな、いいんですよ。私如きが、」
彼女は眉尻を下げて困ったように笑った。きっと、体に染み付いてしまった何かが、俺やノアを敬わなければならなくしているのだろう。
「…なら、普通に話そうよ。カインもエキドナも、さっきから敬語ばっかり。回りくどくて疲れちゃいそうだから…だめ?」
仲介するように、リリノアが口を開いた。
「あぁ、俺は構わないが。」
「…あの、カイン殿とリリノア様がお望みとあらばそう致しますが。」
リリノアを見ると、少し腑に落ちないような顔をしていたが、深い瞳の色を緩めて少しだけ口角を上げた。
「ま、いっか。」
そう言うと彼女は、ゆっくりと椅子から降りた。体の重さに慣れないながらも、ゆっくりと歩いて、俺の前に来た。
「カインも、私に気をかけすぎないでね?一緒にエキドナのお手伝いしたいけど、どうも出来そうにないから、おねがい。私はちゃんと大人しくしてるから。」
その大きな瞳を細めてふわりとノアが笑う。その笑顔は、俺以外に向けているのを見たことがない。
決して自惚れている訳では無いが、彼女は他人に笑顔を向けることをしないのだ。だから、彼女が初めて俺に笑った時には息が止まるほどに驚いて、そしてその無邪気な笑顔に、彼女が普通の少女であると改めて気付かされたのだった。
今となっては愛おしくてならない。リリノアとは、夫婦の契を交わしたわけでも、愛を誓ったわけでもない。子供が出来た時点で、事ある毎に夫婦であることにしてきたが、別に口に出して語り合ったことではないのだ。この状況を、彼女はどう捉えているのだろうか。そして、俺はどう捉えたいのか。…そんなこと、聞くまでもない。
「いい子だね。」
俺にとっての最初の子供はリリノアのようだと思っていたが、対等でありたいと思う今、普通の恋人同士でありたいのだ。片思いかもしれないけれど、彼女の笑顔は俺だけのものだから。それに何か意味があるなら、俺は大切にしたいと思う。
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リリノアside
エキドナの家に滞在し始めて一週間が過ぎた。八日目の今日は雨が降っていて、ジトジトと空気を重苦しくしている。カーテンを開けても薄暗くて首元に張り付く髪が鬱陶しかった。
この頃はもう、ベッドから降りることも億劫になっていた。お腹の重みに押しつぶされてしまいそうで、横を向いてしか寝ていられない日々。寝返りを打つのも一苦労で、殆ど動いていないのに疲れは水たまりの雨粒のように少しずつたまっていった。
「調子はどう、ノア。喉乾いてない?トイレは?」
「大丈夫、ありがとう。あの、髪を結ってくれない?張り付いて気持ちが悪いの。」
ゆっくりとだるい体を起こして脚をベッドから降ろすと、反対側からベッドに上がったカインが私の背後に胡坐をかいて座った。櫛で髪を梳きながらひとまとめにして持ち上げられると、首元がすっきりして心地よくなった。
「寝やすいように編み込んでおくから、解く時はまた言ってね。」
「うん」
「首、少し汗かいてる。そんなに暑かったなら早くいえばよかったのに。」
洗い物でもしてきたのだろうか、首に触れた彼の手は異様に冷たくて気持ちがいい。
「もう動くのも大声出すのも億劫なのよ。」
「そうか。」
完全に結い上げてくれたようで、長い髪は頭に収まった。いつも思ってはいるのだが、彼はとても手先が器用だと思う。
「疲れてるねぇ、お嬢さん。」
「何もしなくても体力を削られていくの。」
「赤ちゃんがエネルギーもらっているからね。」
カインにゆっくりと寄りかかると、彼は片腕に私を乗せて空いた手で私の肩を解すように揉み始めた。
「固まってるなぁ」
「…痛い」
「だろうね。少し我慢してな」
そういうなり、かなり強い力で肩のツボをピンポイントで押された。
「いっ…!!!」
「暴れるなって」
「がぁっ…あっ…!い゛っ」
息を止めて耐え続けること数分。だんだんと痛みを感じなくなってくる。それと同時に、少し肩が軽くなって来た気がする。
「どう?」
「…楽になってきた」
「強引だけど手っ取り早いだろ?」
確かにそうだけど、最初はかなりの拷問だった…。
「あら二人とも、ここにいたのね。」
「あぁ、エキドナ。リリノアのネグリジェ、アイロンかけてくれたんだね。わざわざありがとう」
「しばらく着ないでしょ?」
そう、私は今、エキドナに借りた妊婦用のワンピースを着ている。慣れるまでは眠れなかつたものだが。
「リリノアちゃん、疲れたまっちゃった?」
「うん、でも今は平気。」
「そっか。」
彼女のひだまりのような笑顔は、もう大分見慣れてきたものだ。
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