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旅立ち
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離宮にある館の前、馬車回しには十人ほどの人間が集まっていた。
その中心にいるのはオフィーリアだ。深いグリーンのドレス姿で、同色の丸いベレーを頭に被っている。ベレーからは顔全体にベールが降りていた。表情を見ることはできるが薄いベールのおかげで傷が目立たない。亜麻色の髪は両横に纏めて垂らしてあった。
ドレスは普段着ているものより更にシンプルだが質の良さは見て取れる。一見すると裕福な商家のお嬢様といったふうだ。
「オフィーリア様、お体にお気を付けて。お帰りをいつでもお待ちしております」
バシェルがオフィーリアを見て言う。その目は僅かに潤んでいるようだった。
「ありがとう。留守は任せるわ」
その言葉にバシェルが一礼する。そしてすぐ横にいたジャケット姿のカークウッドへと目を向けた。
「オフィーリア様のお世話をしっかり頼む。それと……あれも」
バシェルは馬車の前にいるハリエットに目を向けた。彼女はメイド服ではなく黒いワンピースを着ていた。ニコニコしながら他の使用人と一緒に荷物の積み込みをしている。
バシェルたちが見ている前で、積み込もうとした旅行鞄が落ち、中身が散らばった。
ハリエットは慌ててかき集める。
「……はい」
それを見てため息をつくバシェルに、カークウッドは返事をする。顔は無表情だったが、声には釈然としないという響きがあった。
「フー姉さま」
イルマがオフィーリアに近づいて来た。その後ろにはマドックもいる。
「これを母上が」
そう言ってイルマが手渡したのは銀の手鏡だった。磨き上げられた鏡面。背面は手持ちに至るまで細かい細工がされている。
その手鏡には覚えがあった。オフィーリアがまだ小さい頃、母親のアネットが使っているのを見て欲しいとねだった手鏡だ。そんなオフィーリアに、アネットは「あなたが嫁ぐ時にあげるわ」と言ってくれたのを覚えている。
しかしその後アーベルの事件と離宮建設時の事故の件があり、オフィーリアは王宮を離れてしまった。
「……お母様」
オフィーリアは手鏡をそっと胸に抱いた。これから嫁ぐわけではない。だがこれが母親なりの餞別なのだろう。
「ありがとうって、お母様に伝えておいて」
オフィーリアは微笑んて言う。イルマも笑顔で頷く。
「フェラン伯爵。イルマのことをよろしくお願いします」
「必ずや、イルマ殿下を皇帝にしてみせます」
マドックはしっかりとオフィーリアを見つめ、頷いてみせた。キーランの帝位継承は遠のいたとはいえ、生きている以上可能性はゼロではない。なによりこれから先、イルマの身に何も起こらないとは限らない。だたマドックならきっとイルマを支えてくれるはずだ。
「オフィーリア様。出発の準備が出来ました!」
ハリエットが叫んだ。オフィーリアはイルマたちに頷いてみせると馬車の方へ向かった。カークウッドがその後ろについて行く。
「なんで私が貴女の旅のお供をしないといけないんですか?」
カークウッドがオフィーリアにだけ聞こえるようにぼやく。
「だって貴方はあたしが雇ったんだもの」
「マーコムの件はもう片付きましたが?」
「あら、雇用するときに期限の条件なんてなかったでしょ?」
「それは……そうですが」カークウッドはまだ不満そうだ。
「大丈夫。退屈はしないわよ、きっと」
オフィーリアが立ち止まり、振り向いて言った。その顔には笑顔を浮かべている。それはカークウッドと最初に会った時に浮かべていた、どこか諦めたような淡い笑みではなかった。きっとこれから楽しいことが待っている。そんな期待に満ちた笑みだ。
自然とカークウッドの口から笑みが漏れた。
「確かに、貴女といれば退屈しなさそうだ」
「なら決まりね!」
オフィーリアはくるりと回ると馬車へとまた歩き始める。馬車ではハリエットが扉を開けて待っていた。そして御者台の下にも男が一人立っていた。スケアクロウだ。
「皇女殿下。俺、護衛がんばるッス。よろしくお願いするッス」
スケアクロウは傭兵ふうの格好をしていた。
「皇女殿下ではなくお嬢様です。帝都を出るまでに直しておいてください」
カークウッドが注意する。スケアクロウはばつが悪そうに頭を掻いた。
オフィーリアは身分を隠し、毛織物で財を成した商家の令嬢として旅をする。それはトビアスから監査官の話が出たときに、彼女自身が思い付いたことだった。名前も前世と同じように〝リア〟と名乗るつもりだ。
それに合わせて馬車も二頭立ての立派ものだが、見た目は質素な馬車を用意してもらっていた。当然、国章もついてはいない。
最初トビアスはオフィーリアの提案を渋っていた。彼女のブランドを利用したいのだから当然だろう。だが監査官として属州や大貴族の領地を廻るより、最初は身分を隠していた方が油断して不正は見つけやすい。根気よく説得した結果、トビアスはようやく承諾した。
それにはイルマとマドックの協力も大きく影響していた。
「ハティはオフィーリア様に一生ついていきます!」
馬車に乗り込んだオフィーリアの対面に座り、ハリエットが嬉しそうに言う。オフィーリアが旅に出ると言った時、ハリエットは自分が解雇されないか心配だった。だがオフィーリアはハリエットを旅の供に選んでくれたのだ。
「ありがとうハティ。でもね、帝都を出たらあたしのことはリアって呼ぶのよ」
「はい、オフ……あ、リア様!」ハリエットが元気に答える。
「ではリア様。まずはどちらへ向かいますか?」
外からカークウッドの声が聞こえてきた。カークウッドとスケアクロウは御者台に乗り込んでいる。
「そうね。まずはラムズデン侯爵領ね」
オフィーリアは最初の行き先に帝国領の最西端をあげた。三つある大貴族の領地の一つ。そこから更に西に抜ければいくつもの属州へと広がっている。
手綱が馬をを叩く音が聞こえた。同時に馬車が動き出す。
空は晴天。オフィーリアの瞳の色を反映したかのような紺碧の空の下、馬車はゆっくりと離宮を離れていった。
その中心にいるのはオフィーリアだ。深いグリーンのドレス姿で、同色の丸いベレーを頭に被っている。ベレーからは顔全体にベールが降りていた。表情を見ることはできるが薄いベールのおかげで傷が目立たない。亜麻色の髪は両横に纏めて垂らしてあった。
ドレスは普段着ているものより更にシンプルだが質の良さは見て取れる。一見すると裕福な商家のお嬢様といったふうだ。
「オフィーリア様、お体にお気を付けて。お帰りをいつでもお待ちしております」
バシェルがオフィーリアを見て言う。その目は僅かに潤んでいるようだった。
「ありがとう。留守は任せるわ」
その言葉にバシェルが一礼する。そしてすぐ横にいたジャケット姿のカークウッドへと目を向けた。
「オフィーリア様のお世話をしっかり頼む。それと……あれも」
バシェルは馬車の前にいるハリエットに目を向けた。彼女はメイド服ではなく黒いワンピースを着ていた。ニコニコしながら他の使用人と一緒に荷物の積み込みをしている。
バシェルたちが見ている前で、積み込もうとした旅行鞄が落ち、中身が散らばった。
ハリエットは慌ててかき集める。
「……はい」
それを見てため息をつくバシェルに、カークウッドは返事をする。顔は無表情だったが、声には釈然としないという響きがあった。
「フー姉さま」
イルマがオフィーリアに近づいて来た。その後ろにはマドックもいる。
「これを母上が」
そう言ってイルマが手渡したのは銀の手鏡だった。磨き上げられた鏡面。背面は手持ちに至るまで細かい細工がされている。
その手鏡には覚えがあった。オフィーリアがまだ小さい頃、母親のアネットが使っているのを見て欲しいとねだった手鏡だ。そんなオフィーリアに、アネットは「あなたが嫁ぐ時にあげるわ」と言ってくれたのを覚えている。
しかしその後アーベルの事件と離宮建設時の事故の件があり、オフィーリアは王宮を離れてしまった。
「……お母様」
オフィーリアは手鏡をそっと胸に抱いた。これから嫁ぐわけではない。だがこれが母親なりの餞別なのだろう。
「ありがとうって、お母様に伝えておいて」
オフィーリアは微笑んて言う。イルマも笑顔で頷く。
「フェラン伯爵。イルマのことをよろしくお願いします」
「必ずや、イルマ殿下を皇帝にしてみせます」
マドックはしっかりとオフィーリアを見つめ、頷いてみせた。キーランの帝位継承は遠のいたとはいえ、生きている以上可能性はゼロではない。なによりこれから先、イルマの身に何も起こらないとは限らない。だたマドックならきっとイルマを支えてくれるはずだ。
「オフィーリア様。出発の準備が出来ました!」
ハリエットが叫んだ。オフィーリアはイルマたちに頷いてみせると馬車の方へ向かった。カークウッドがその後ろについて行く。
「なんで私が貴女の旅のお供をしないといけないんですか?」
カークウッドがオフィーリアにだけ聞こえるようにぼやく。
「だって貴方はあたしが雇ったんだもの」
「マーコムの件はもう片付きましたが?」
「あら、雇用するときに期限の条件なんてなかったでしょ?」
「それは……そうですが」カークウッドはまだ不満そうだ。
「大丈夫。退屈はしないわよ、きっと」
オフィーリアが立ち止まり、振り向いて言った。その顔には笑顔を浮かべている。それはカークウッドと最初に会った時に浮かべていた、どこか諦めたような淡い笑みではなかった。きっとこれから楽しいことが待っている。そんな期待に満ちた笑みだ。
自然とカークウッドの口から笑みが漏れた。
「確かに、貴女といれば退屈しなさそうだ」
「なら決まりね!」
オフィーリアはくるりと回ると馬車へとまた歩き始める。馬車ではハリエットが扉を開けて待っていた。そして御者台の下にも男が一人立っていた。スケアクロウだ。
「皇女殿下。俺、護衛がんばるッス。よろしくお願いするッス」
スケアクロウは傭兵ふうの格好をしていた。
「皇女殿下ではなくお嬢様です。帝都を出るまでに直しておいてください」
カークウッドが注意する。スケアクロウはばつが悪そうに頭を掻いた。
オフィーリアは身分を隠し、毛織物で財を成した商家の令嬢として旅をする。それはトビアスから監査官の話が出たときに、彼女自身が思い付いたことだった。名前も前世と同じように〝リア〟と名乗るつもりだ。
それに合わせて馬車も二頭立ての立派ものだが、見た目は質素な馬車を用意してもらっていた。当然、国章もついてはいない。
最初トビアスはオフィーリアの提案を渋っていた。彼女のブランドを利用したいのだから当然だろう。だが監査官として属州や大貴族の領地を廻るより、最初は身分を隠していた方が油断して不正は見つけやすい。根気よく説得した結果、トビアスはようやく承諾した。
それにはイルマとマドックの協力も大きく影響していた。
「ハティはオフィーリア様に一生ついていきます!」
馬車に乗り込んだオフィーリアの対面に座り、ハリエットが嬉しそうに言う。オフィーリアが旅に出ると言った時、ハリエットは自分が解雇されないか心配だった。だがオフィーリアはハリエットを旅の供に選んでくれたのだ。
「ありがとうハティ。でもね、帝都を出たらあたしのことはリアって呼ぶのよ」
「はい、オフ……あ、リア様!」ハリエットが元気に答える。
「ではリア様。まずはどちらへ向かいますか?」
外からカークウッドの声が聞こえてきた。カークウッドとスケアクロウは御者台に乗り込んでいる。
「そうね。まずはラムズデン侯爵領ね」
オフィーリアは最初の行き先に帝国領の最西端をあげた。三つある大貴族の領地の一つ。そこから更に西に抜ければいくつもの属州へと広がっている。
手綱が馬をを叩く音が聞こえた。同時に馬車が動き出す。
空は晴天。オフィーリアの瞳の色を反映したかのような紺碧の空の下、馬車はゆっくりと離宮を離れていった。
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最後の最後でちょっとニンヤリしてしまいました。行く先々で沢山できるであろうご隠居…じゃなかった皇女様の先の活躍お祈り申し上げます。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
そして小ネタにニヤリとしていただけたようで、仕込んだ甲斐があったと小躍りして喜んでおります。