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月明かりのない夜だった。帝都の中心。王宮にほど近いこの区画には貴族達の屋敷が集中している。街路に設置された街灯によるものだ。ゆらめく炎が帝都の夜を照らしていた。
マーコムは屋敷の自室からじっと街中を眺めていた。帝都の少し外れ、離宮のある方角だ。ユスフは上手くやっただろうか。離宮の警備にはわざと穴をつくるように指示してある。子飼いの衛兵と共に無事に計画が遂行されたことを、マーコムは祈っていた。
扉がノックされた。
「なんだ?」
「旦那様。ユスフ様の使いという方がお越しになっています」
入って来たのはメイドだった。短く切りそろえられたダークブラウンの髪に、明るい茶色の瞳が印象的だ。マーコムは女好きというわけではなかったが、それでも目を惹かれてしまう。
「ユスフ殿からの使いだと?」
こんなメイドはいただろうか。そんな思いがマーコムの頭をよぎる。だが、この時間にしかもユスフからの使いが来たことの方が気になってしまった。成功したら連絡をするという約束はしていない。もしオフィーリアの暗殺が成功していた場合、下手に接触すればどこかしらボロが出る可能性があからだ。
(しかし――)マーコムは考える。(なんらかの不具合が起きたのあれば、連絡が来てもおかしくはない)
「分かった。談話室に通しておけ。すぐに向かう」
それだけ言うとマーコムは机に向かった。内心穏やかではない。話の内容によってはすぐに帝都を離れなければならない。マーコムにも妻子はいる。家族まで連れ出す時間はあるだろうか。
「いえ。すでにこちらにいらしてます」
「なんだと?」
メイドの言葉にマーコムは振り返った。いかにユスフの使いとはいえ、勝手にこの部屋に通すなどあり得ない。マーコムは怒鳴ろうとしてしかし、メイドの後ろにいる人物を見て口を開けたまま声を出せなかった。
彼女より頭半分ほど高いその人物は黒かった。メイドの後ろからゆっくりと姿を現す。
オイルランプに照らされてその姿が浮き彫りになる。そいつはフード付きのマントに身を包み、黒塗りの仮面をつけていた。不気味な黒い存在。
「き、貴様は誰だ!?」
ようやく口をついて出たのは誰何の声だった。さすがのマーコムも目の前の存在がユスフの使いでないことは気づいていた。
「ご指名いただいた暗殺者だよ。クレイグ・マーコム伯爵」
冷たい男の声が仮面の向こうから聞こえてきた。マーコムは部屋の温度が一気に下がった錯覚に陥る。
「あ、暗殺者だとッ!? おいお前、早く警備の者を読んでこい!」
マーコムはメイドに命じた。彼女は背を向けて扉へと近づくと――静かに閉じた。
「な!?」
メイドが自分の味方ではないことにマーコムはようやく気づいた。そもそもこんな時間にメイドが来客を取り次ぐことがおかしかったのだ。
「ま、まて。何かの間違いだ。私は暗殺者など指名して――」
そこまで言って、マーコムは何か思い出したかのように目を見開いた。震える指で仮面の男を指す。
「まさか〝人形師〟」
「その通り名はあまり好きではないが……そうだ」
〝人形師〟の後ろにいたメイドが、なぜかくすりと笑った。だがマーコムにそれを見咎める余裕はない。
「俺を噛ませ犬にしてくれた礼はさせてもらう」
「な、何を言うか。そもそもお前がオフィーリア様を殺せなかったのがいけないんだぞ!」
マーコムに近づいていた〝人形師〟の足が止まった。仮面の向こうで笑ったような気配が生まれる。
「その点については謝罪しよう。まさか〝死なずの〟オフィーリアがあのような体質だとは知らなかったのでな。そちらのお膳立てに乗って、碌に調査しなかったこちらの落ち度だ」
「オフィーリア様の……体質?」
思いがけない言葉にマーコムが聞き返す。オフィーリアが二度生死の境を彷徨い、それでも死ななかったことに明確な理由があるというのだろうか。
「ああ。あれは特異体質だな。と言ってもお前に説明するつもりはない」
〝人形師〟がその歩みを再開した。マーコムが後ずさる。すぐに机に当たり、慌てた様子で反対側へと回り込んだ。机の引き出しに短剣が置いてあるはずだ。それを取りだそうとして、動きがピタリと止まった。背後に気配を感じたのだ。
慌てて振り向くと、すぐ後ろに〝人形師〟が立っていた。
音もなく目を離した僅かな隙に忍び寄ったその姿に、マーコムはかつてないほどの不気味さを感じた。
「ま、待て。見逃してくれ。最初に言った額の倍払う!」
「断る。後悔しても、もう遅い」
仮面の右目に当たる部分に青白い炎が生まれた。それはまるで人の魂を冥界へと誘う鬼火のようだ。先程感じた不気味さに拍車がかかる。
「ひっ」後ずさったマーコムが椅子の上に崩れ落ちた。「こ、殺さないでくれ。命だけは……」
「他者の命を奪うのなら、自分が奪われる覚悟をしろ……と言いたい所だがお前は殺さない。いまの雇い主に感謝するんだな」
「で、では……」
「だが逃がすこともしない」
〝人形師〟の右手が座り込んだマーコムの頭に当てられてた。マーコムは思わず目を閉じる。
青白い炎がその手を包んだ。刹那、キンッ――という硬質な何かが割れるような音が室内に響く。ただ、それだけだった。
「は?」
痛みも何も感じなかったことに驚いてマーコムは目を開いた。
見上げると〝人形師〟が背を向けていた。もう興味がないとばかりに目の前から去っていく。マーコムは刺激しないように息を潜めてそれを見ていた。
〝人形師〟は入って来た時と同じくらい唐突に、部屋を出て行った。メイドがその後へ続く。扉を閉める前にメイドはマーコムにウインクをして見せた。
「はははははは。本当に殺さなかったぞ。何が〝人形師〟だ。一流の暗殺者だ!」
しばらくして、〝人形師〟が戻ってくる様子がないことが分かると、マーコムは狂ったように笑い始めた。
「くくくく。あははははは。逃がすことはしないだと? 馬鹿め。私は逃げてやる。そして後悔させてやるぞ! あいつめ、いまの雇い主と言いおったな。どうせオフィーリアだろう。ああ今度こそ殺してやる。殺さなかったことを後悔させて――」
立ち上がろうとしてマーコムの言葉が止まった。立ち上がれないのだ。両脚に力が入らない。いや、そもそも動かない。
「く。腰が抜けたか。情けない」
手を使ってなんとか立ち上がろうとする。だがマーコムの意志に反して手が動くことはなかった。手だけではない。腕が、両腕が動かないのだ。
「なんだ。なぜ動かない」
見た目はどこも傷ついていない。なのに動かない。痛みすらないのに。そこでマーコムは気づいた。感じないのは痛みだけではない。手足の感覚もないのだ。
「ひっ、こ、これは」
彼が殺した人間は外傷もなく、一見すると生前と変わらないまま。その死体はまるで人形のよう。だからついた通り名が〝人形師〟。
なぜオフィーリアを殺すのに〝人形師〟を指名したのか、マーコムは思い出した。〝死なずの〟オフィーリアは生死の境を彷徨うほどの大怪我をしたのに二度も死ななかった。傷ついてなお死なないならば他の方法で……そう思って〝人形師〟を指名したのだ。
スケアクロウから連絡を受け、メイナードたちが屋敷に来たのはそれから一時間後のことだった。マーコムの部屋へと踏み込んだメイナードが見たものは、椅子に座りこんでうつろに呟き続ける屋敷の主の姿だった。
外傷もなく意識もあったが、ただうわごとのように〝人形師〟と繰り返し呟くマーコム。なぜか四肢を動かせなくなった彼を連行するのに、メイナードたちはひどく苦労した。
マーコムは屋敷の自室からじっと街中を眺めていた。帝都の少し外れ、離宮のある方角だ。ユスフは上手くやっただろうか。離宮の警備にはわざと穴をつくるように指示してある。子飼いの衛兵と共に無事に計画が遂行されたことを、マーコムは祈っていた。
扉がノックされた。
「なんだ?」
「旦那様。ユスフ様の使いという方がお越しになっています」
入って来たのはメイドだった。短く切りそろえられたダークブラウンの髪に、明るい茶色の瞳が印象的だ。マーコムは女好きというわけではなかったが、それでも目を惹かれてしまう。
「ユスフ殿からの使いだと?」
こんなメイドはいただろうか。そんな思いがマーコムの頭をよぎる。だが、この時間にしかもユスフからの使いが来たことの方が気になってしまった。成功したら連絡をするという約束はしていない。もしオフィーリアの暗殺が成功していた場合、下手に接触すればどこかしらボロが出る可能性があからだ。
(しかし――)マーコムは考える。(なんらかの不具合が起きたのあれば、連絡が来てもおかしくはない)
「分かった。談話室に通しておけ。すぐに向かう」
それだけ言うとマーコムは机に向かった。内心穏やかではない。話の内容によってはすぐに帝都を離れなければならない。マーコムにも妻子はいる。家族まで連れ出す時間はあるだろうか。
「いえ。すでにこちらにいらしてます」
「なんだと?」
メイドの言葉にマーコムは振り返った。いかにユスフの使いとはいえ、勝手にこの部屋に通すなどあり得ない。マーコムは怒鳴ろうとしてしかし、メイドの後ろにいる人物を見て口を開けたまま声を出せなかった。
彼女より頭半分ほど高いその人物は黒かった。メイドの後ろからゆっくりと姿を現す。
オイルランプに照らされてその姿が浮き彫りになる。そいつはフード付きのマントに身を包み、黒塗りの仮面をつけていた。不気味な黒い存在。
「き、貴様は誰だ!?」
ようやく口をついて出たのは誰何の声だった。さすがのマーコムも目の前の存在がユスフの使いでないことは気づいていた。
「ご指名いただいた暗殺者だよ。クレイグ・マーコム伯爵」
冷たい男の声が仮面の向こうから聞こえてきた。マーコムは部屋の温度が一気に下がった錯覚に陥る。
「あ、暗殺者だとッ!? おいお前、早く警備の者を読んでこい!」
マーコムはメイドに命じた。彼女は背を向けて扉へと近づくと――静かに閉じた。
「な!?」
メイドが自分の味方ではないことにマーコムはようやく気づいた。そもそもこんな時間にメイドが来客を取り次ぐことがおかしかったのだ。
「ま、まて。何かの間違いだ。私は暗殺者など指名して――」
そこまで言って、マーコムは何か思い出したかのように目を見開いた。震える指で仮面の男を指す。
「まさか〝人形師〟」
「その通り名はあまり好きではないが……そうだ」
〝人形師〟の後ろにいたメイドが、なぜかくすりと笑った。だがマーコムにそれを見咎める余裕はない。
「俺を噛ませ犬にしてくれた礼はさせてもらう」
「な、何を言うか。そもそもお前がオフィーリア様を殺せなかったのがいけないんだぞ!」
マーコムに近づいていた〝人形師〟の足が止まった。仮面の向こうで笑ったような気配が生まれる。
「その点については謝罪しよう。まさか〝死なずの〟オフィーリアがあのような体質だとは知らなかったのでな。そちらのお膳立てに乗って、碌に調査しなかったこちらの落ち度だ」
「オフィーリア様の……体質?」
思いがけない言葉にマーコムが聞き返す。オフィーリアが二度生死の境を彷徨い、それでも死ななかったことに明確な理由があるというのだろうか。
「ああ。あれは特異体質だな。と言ってもお前に説明するつもりはない」
〝人形師〟がその歩みを再開した。マーコムが後ずさる。すぐに机に当たり、慌てた様子で反対側へと回り込んだ。机の引き出しに短剣が置いてあるはずだ。それを取りだそうとして、動きがピタリと止まった。背後に気配を感じたのだ。
慌てて振り向くと、すぐ後ろに〝人形師〟が立っていた。
音もなく目を離した僅かな隙に忍び寄ったその姿に、マーコムはかつてないほどの不気味さを感じた。
「ま、待て。見逃してくれ。最初に言った額の倍払う!」
「断る。後悔しても、もう遅い」
仮面の右目に当たる部分に青白い炎が生まれた。それはまるで人の魂を冥界へと誘う鬼火のようだ。先程感じた不気味さに拍車がかかる。
「ひっ」後ずさったマーコムが椅子の上に崩れ落ちた。「こ、殺さないでくれ。命だけは……」
「他者の命を奪うのなら、自分が奪われる覚悟をしろ……と言いたい所だがお前は殺さない。いまの雇い主に感謝するんだな」
「で、では……」
「だが逃がすこともしない」
〝人形師〟の右手が座り込んだマーコムの頭に当てられてた。マーコムは思わず目を閉じる。
青白い炎がその手を包んだ。刹那、キンッ――という硬質な何かが割れるような音が室内に響く。ただ、それだけだった。
「は?」
痛みも何も感じなかったことに驚いてマーコムは目を開いた。
見上げると〝人形師〟が背を向けていた。もう興味がないとばかりに目の前から去っていく。マーコムは刺激しないように息を潜めてそれを見ていた。
〝人形師〟は入って来た時と同じくらい唐突に、部屋を出て行った。メイドがその後へ続く。扉を閉める前にメイドはマーコムにウインクをして見せた。
「はははははは。本当に殺さなかったぞ。何が〝人形師〟だ。一流の暗殺者だ!」
しばらくして、〝人形師〟が戻ってくる様子がないことが分かると、マーコムは狂ったように笑い始めた。
「くくくく。あははははは。逃がすことはしないだと? 馬鹿め。私は逃げてやる。そして後悔させてやるぞ! あいつめ、いまの雇い主と言いおったな。どうせオフィーリアだろう。ああ今度こそ殺してやる。殺さなかったことを後悔させて――」
立ち上がろうとしてマーコムの言葉が止まった。立ち上がれないのだ。両脚に力が入らない。いや、そもそも動かない。
「く。腰が抜けたか。情けない」
手を使ってなんとか立ち上がろうとする。だがマーコムの意志に反して手が動くことはなかった。手だけではない。腕が、両腕が動かないのだ。
「なんだ。なぜ動かない」
見た目はどこも傷ついていない。なのに動かない。痛みすらないのに。そこでマーコムは気づいた。感じないのは痛みだけではない。手足の感覚もないのだ。
「ひっ、こ、これは」
彼が殺した人間は外傷もなく、一見すると生前と変わらないまま。その死体はまるで人形のよう。だからついた通り名が〝人形師〟。
なぜオフィーリアを殺すのに〝人形師〟を指名したのか、マーコムは思い出した。〝死なずの〟オフィーリアは生死の境を彷徨うほどの大怪我をしたのに二度も死ななかった。傷ついてなお死なないならば他の方法で……そう思って〝人形師〟を指名したのだ。
スケアクロウから連絡を受け、メイナードたちが屋敷に来たのはそれから一時間後のことだった。マーコムの部屋へと踏み込んだメイナードが見たものは、椅子に座りこんでうつろに呟き続ける屋敷の主の姿だった。
外傷もなく意識もあったが、ただうわごとのように〝人形師〟と繰り返し呟くマーコム。なぜか四肢を動かせなくなった彼を連行するのに、メイナードたちはひどく苦労した。
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