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16 変身
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夢想した通りの夢を見ることは不可能だが、悪夢は簡単に作り出すことができる。局所的な感熱刺激や不自然な姿勢で眠るなど、体に負荷をかければよい。
寝心地のよいベッドに横になっていれば、かなたは悪夢にうなされず、快適な目覚めを迎えられたかもしれない。
幸い革張りのベンチは液体が染み込まず、こぼれた水の量もそれほど多くなかったため殆どが衣服に吸収されている。かなたが社会的な危機にうろたえていると、いつの間にか同室のベッドに寝ていた亜沙美が目を覚ました。予想外のことにかなたは狼狽の度を増したが、亜沙美はベッドに座ったまま夢うつつの顔をしている。彼女はドーナツやチョコブラウニーで昼食を終えた後、やはり自分も仮眠を取ると千花に願い出て、かなたが寝入った後で部屋に入ってきたのだ。
あ、あ、あ、あ、あと亜沙美の名前を呼ぼうとしているのかただ狼狽しているのか、かなたは自分でも分かっていない。
「おはようございます?」
「亜沙美ちゃん、おはよう。おはよう!」
見るからに色を失っているかなたを、亜沙美は目を見開いて観察した。
「私は五歳までだったと母が」
「これ! 水は違うのこれは水がペットボトルの!」
「……替えの制服なら持ってます」
「お、おう」
かなたの窮状は不特定多数に知られるよりも早く、亜沙美によって救済された。
亜沙美が制服を持ち歩いているのは、ゴスパンファッションでは立ち入りにくい場所に紛れ込むためだった。コスプレイベントさながらに服装に関する規則がゆるい女学院から一歩外へ出ると、田舎では亜沙美のような存在は過剰に目立つ。不躾な視線を集めるのは亜沙美でなくとも苦手だろうが、制服さえ着ていればそのような事態はほぼ回避できる。
部屋にある浴室を借り、かなたは借り物の制服に着替えた。下着だけは濡れたままのものを履き続けるが、湿って不快だといえど背に腹はかえられない。亜沙美は下着までは持ち歩いていないのだ。
亜沙美が持っていた制服は春・秋用のもので、六月初旬にはやや季節外れだった。かなたは身長が一五九センチ、対して亜沙美が一五三センチ。制服はウエストに余裕があったり袖丈が少し足りなかったりしたものの、多感な年頃の女子が生きていて恥ずかしくない装いとなった。一揃い着替え終えると、まだ黒いタイツが残っている。保温効果が高そうなことと嗜好の観点から、これは借りずにおいた。
髪型を整えて顔を洗い、かなたは別人となって舞い戻った。女学院内ではごく当たり前の姿であり、亜沙美や中原にとっては見慣れた姿だ。だが杏子などが見たらどう思うことだろう。
「ありがとう……あとで洗って返すね」
「洗濯ネットに入れておしゃれ着モードで十分ですがアイロンは私がかけます」
「折り目が重要なんだね」
休日の布留川女学院寮自室で、亜沙美が洗濯を終えたスカートを几帳面にアイロンがけしている姿は頻繁に目にしていた。
「よし、午後の捜査も頑張ろう」
着替えて気分を一新したかなたは、地下の件についての柳澤への連絡を綺麗に忘れてしまった。
亜沙美が時計を見ると、午後一時三十分になろうとしている。軽い仮眠のつもりが一時間以上も眠ってしまった。本人が思うよりも心的疲労が大きかったのだ。
「もうお二方が揃っている頃では」
「そうだね、早く行かなきゃ」
午前に続いて空は晴れ渡り、夏の一歩手前といった心地よい空気だ。
矢加部は小森親子との面談を屋外で行おうかと考えた。室内よりも開放的で、心理的な閉塞感に因われている人と話す場としてはより好ましい――-とは言われるが、ナオトの友人にはそうした開放感を心底嫌い密室でゲームとアニメとジャンクフードを摂取すると精神的に復調するタイプの人間もいる。紅茶の入った保冷ポットとグラスを会議室に運び、玲の連絡先などを記入するための書類を用意しておく。PCを運び込んで有線ネットワークに繋げば、ナオトとのテストもこの場で行える。
一通り準備を終えた矢加部が事務所兼受付に戻ると、羽鳥に声をかけられた。
「矢加部さん、ちょちょちょっとよろしいですの?」
「かまわないが、時間が近いので少しだけね」
「あの、小森という人が今から来るので? セーラー服で」
「何を言って……そうだね、予定通り今から来るそうだ」
「なにか、警察の世話になったそうじゃないですか」
「ん? ああ。そんな話だったが、こちらの予定には影響なかったようだよ」
「そうですか。その……謝っておいてください!」
羽鳥は唐突にそう言って、エントランスの方へ走り去った。
「……」
矢加部が腕時計を見ると、予定の午後一時三十分にはまだ間がある。
「そうか……なるほどセーラー服か……。連絡しておくべきか」
そう呟いて携帯電話を手にした。
「あれ? 蓮見さん?」
制服に着替えてすっかり見違えたかなたを見て、千花は見知らぬ人間が亜沙美とともに訪れたと勘違いした。すでに到着していた美希も同調し、こちらは素直に驚きを口にする。
「こんなかわいいのに、いままで変な格好してたんだ!」
「変とか言わない。……これって布留川女学院の制服ですか?」
「そ、そう。彼女に借りたんだけど」
「かなたちゃんの服が、しっきん……ご、つまり衛門府のことでありますがこれは検非違使すなわち警察官も兼ねておりそのアメリカ合衆国の衣装がいささか土埃のようなもので汚れてしまったので、お貸しいたしました」
亜沙美が意味不明な説明をしていると、千花がおもむろに振り返って顔を伏せた。
「本当は、ちゃんと決まってから言いたかったんだけど」
「何?」
「私、もうすぐ転校するの。この制服……布留川女学院に」
「マジで!」
「転入試験まだ受けてないから、決まってはいないんだけどね。でも、決めたの。もうあの学校に戻りたくないから」
「そうか……そうだよね」
そう言ったきり、美希は黙り込んでしまう。
「蓮見さんたちも、ごめんなさい。でも、皆さんを見て決めたんです。父から転校について聞かれた時は、どこの学校がいいかなんて分からなかったけど……ねえ美希、布留川女学院はすぐ近くよ。ここからなら、剣根高校より近い」
「林さえなければ、ここからでも東の方に見える位置なんだが」
「そうなの? そういえばかなたさんたちどっから来てるのか聞いてなかった」
「私たちは女学院の寮に住んでおります。二〇七番と呼ばれています」
「それは部屋の番号……学生寮って規則が厳しくて窮屈な場所なんだと思ってたけど、それほどでもないかも」
実際のところ、布留川女学院は校則も寮則も数は少なかった。他者を害する行為には厳しいが、そうでなければ服装や行動や信教や結社は自由という基本方針があるため無法地帯ではない。ただし要求される学習量と質からは、楽園とは言い難いが。
「近いうちに必ず、私はお二人の後輩になります。そのときは、改めてよろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそ……」
「いいな、あたしも行きたいな」
かなたには「よろしくお願いします」がアウトローの挨拶的なニュアンスを含んでいるようにも聞こえたが、もちろん今の千花にそういった意図はない。
「そうだ、公園に行くんだったよね」
「そのために集まったのでした」
「あ、ああ。協力してもらって感謝する」
「ごめんなさいね。今言った通りなので、転入試験の勉強をしないといけないの。美希、布留川女学院は剣根より偏差値高いのよ」
「マジで。あたしは無理っぽいねー」
「額田さんなら、スポーツ方面で何とでもなりそうだが……」
「あたし球技は苦手だけど」
「意外です」
「美希は、道具を使うのがあまり得意ではないの」
「そういえば……」
アウストラロピテクスやピテカントロプスを評したかのような物言いだが、確かに美希は武器として用いた丸太の扱いは褒められたものではなかった。
「額田さん、もしかしてゲームとかもダメ?」
「ぜんぜん。だって思い通りに動かすの大変なのに動きも遅いし」
「ゲームのキャラは大抵速いものでは……」
「美希基準なら、そうでしょうね」
「まあいいや。行こうよ。勉強頑張ってね」
「怪我をさせないようにね」
「嫌ぁ、玲くん負けちゃった」
「最後ねー。ポイントは俺が優位だけどお互いBotが落ちてて、ライフ無いなら待って五分の状況作らなきゃいけないでしょ。プロスペクトは状況固定しづらいマップだし。そこでバンザイ突撃したのが敗因なのは分かるね?」
「そのほうが美しいかなと思って……」
「美しい……そいつは新しい信仰だわ」
磐船講の別室では、ナヲトが小森玲を説教するという異様な光景が展開されていた。チーム対戦シューティングゲーム「レッド・マーキュリー2」でナヲトと対戦を行い、玲の腕前を確かめていたのだ。サンクト・ペテルブルクの大通りを舞台にしたステージで、お互いにコンピュータのCPUが操作する味方を一体付けて五分間戦い抜く。序盤は個人プレイを軸にした素早い作戦展開で玲が優勢だったものの、次第にナヲトが巻き返し、残り一分で勝敗を決めるポイントを逆転した。
「さすがに反応はすげーわ。このゲームはだいぶ荒らせるゲームだから、そのへんはよく分かってるね」
「でも負けちゃったのかー、次頑張ろうね」
「小森さん、あまり興奮すると傷に障りますよ」
「ちょ、ちょっとトイレに」
玲は緊張で紅茶を飲み過ぎたためか、試合が終わると足早に席を立った。
頭に巻かれた包帯が痛々しい小森千鶴と、矢加部兄弟が話を続ける。
「あー、玲くん多分」
「パン、ですか」
「すぐ食べちゃうみたいで……」
玲がストレスの発散法として無自覚にカロリー摂取に走ってしまうことは、すでに千鶴から矢加部に伝えられていた。
「うちで穫れたきゅうりとかに替えさせたら?」
「珍しくゲーム以外で建設的なことを言ったな」
「野菜作ってるんでしたっけ」
「一応、軸になる活動と位置づけてます。多少ローカロリーでも自分で作ったものなら、食べてありがたみがあるし続くかもしれません。運動不足の解消にもなる」
「ああ……じゃあハンサムな玲くんが帰ってくるのね」
「……農作業はまあ、好きにやってもらえばいいっすよ。昨日もダルいっつって一時間寝てた奴とかいるし」
「それはもしや羽鳥くんか?」
「よく知ってるな。以心伝心だな」
矢加部がため息をつき、千鶴に向き直った。にこやかだった笑みは消え、真摯な面持ちだ。
「小森さん、関係ない話で申し訳ないんですが」
「お?」
「え? な、なんでしょう? 私には夫も玲くんも」
「昨日の公園での事件、聞き込みに来た刑事さんから聞きました」
「あ、はい」
「あなたに暴力を振るった人間について、僕はほぼ目星がついています」
千鶴とナオトが目を見開いて矢加部を見る。
「むろん彼には罪を償ってもらう事になりますが……あなたへの謝罪を申し出ています」
「はい……」
「ですが、自分に怪我を負わせた人間など、顔も見たくないでしょう」
「会うとなったら、やっぱり怖いですね……」
「そうですよね」
「会うのは避けたいです。でも、罪の意識があるなら……私はこれ以上、騒ぎを大きくしなくてもいいと思っています」
「わかりました。いずれ警察には届け出て、然るべき報いを受けさせます。……それから」
「はい?」
「なぜセーラー服で公園に?」
「……知っていますか? 私の名前、千鶴にはルとツが入っていて、レイという男性と前世で引き裂かれた、運命の二人なんです。けれど現世では親子……二人はきっと来世で、今度こそ……」
「私が悪うございました」
玲って名前はあんたが付けたんじゃねえの? という指摘を、ナヲトは口に出せなかった。
千鶴がムー大陸の記憶に思いを馳せていると、運命の人が戻ってきた。
「ああ玲君、それじゃ来週からね。はじめは気を遣うだろうけど、あまり深く考えないで」
「気使うだけ無駄な連中だから」
「あ、ありがとうございます」
「道具や食べ物はこちらにあるから、手ぶらで構いませんよ」
「マウスとかキーボード、自分の使いたきゃ持ってきて」
「玲くん頑張ってねー」
小森親子の乗る電子の歌姫カラーの軽自動車を見送り、矢加部兄弟は室内に戻った。
「兄貴セーラー服好きだったか?」
「そんなわけないだろう」
「だよな。じゃあなんで聞いた」
「それをこれから話すんだ」
寝心地のよいベッドに横になっていれば、かなたは悪夢にうなされず、快適な目覚めを迎えられたかもしれない。
幸い革張りのベンチは液体が染み込まず、こぼれた水の量もそれほど多くなかったため殆どが衣服に吸収されている。かなたが社会的な危機にうろたえていると、いつの間にか同室のベッドに寝ていた亜沙美が目を覚ました。予想外のことにかなたは狼狽の度を増したが、亜沙美はベッドに座ったまま夢うつつの顔をしている。彼女はドーナツやチョコブラウニーで昼食を終えた後、やはり自分も仮眠を取ると千花に願い出て、かなたが寝入った後で部屋に入ってきたのだ。
あ、あ、あ、あ、あと亜沙美の名前を呼ぼうとしているのかただ狼狽しているのか、かなたは自分でも分かっていない。
「おはようございます?」
「亜沙美ちゃん、おはよう。おはよう!」
見るからに色を失っているかなたを、亜沙美は目を見開いて観察した。
「私は五歳までだったと母が」
「これ! 水は違うのこれは水がペットボトルの!」
「……替えの制服なら持ってます」
「お、おう」
かなたの窮状は不特定多数に知られるよりも早く、亜沙美によって救済された。
亜沙美が制服を持ち歩いているのは、ゴスパンファッションでは立ち入りにくい場所に紛れ込むためだった。コスプレイベントさながらに服装に関する規則がゆるい女学院から一歩外へ出ると、田舎では亜沙美のような存在は過剰に目立つ。不躾な視線を集めるのは亜沙美でなくとも苦手だろうが、制服さえ着ていればそのような事態はほぼ回避できる。
部屋にある浴室を借り、かなたは借り物の制服に着替えた。下着だけは濡れたままのものを履き続けるが、湿って不快だといえど背に腹はかえられない。亜沙美は下着までは持ち歩いていないのだ。
亜沙美が持っていた制服は春・秋用のもので、六月初旬にはやや季節外れだった。かなたは身長が一五九センチ、対して亜沙美が一五三センチ。制服はウエストに余裕があったり袖丈が少し足りなかったりしたものの、多感な年頃の女子が生きていて恥ずかしくない装いとなった。一揃い着替え終えると、まだ黒いタイツが残っている。保温効果が高そうなことと嗜好の観点から、これは借りずにおいた。
髪型を整えて顔を洗い、かなたは別人となって舞い戻った。女学院内ではごく当たり前の姿であり、亜沙美や中原にとっては見慣れた姿だ。だが杏子などが見たらどう思うことだろう。
「ありがとう……あとで洗って返すね」
「洗濯ネットに入れておしゃれ着モードで十分ですがアイロンは私がかけます」
「折り目が重要なんだね」
休日の布留川女学院寮自室で、亜沙美が洗濯を終えたスカートを几帳面にアイロンがけしている姿は頻繁に目にしていた。
「よし、午後の捜査も頑張ろう」
着替えて気分を一新したかなたは、地下の件についての柳澤への連絡を綺麗に忘れてしまった。
亜沙美が時計を見ると、午後一時三十分になろうとしている。軽い仮眠のつもりが一時間以上も眠ってしまった。本人が思うよりも心的疲労が大きかったのだ。
「もうお二方が揃っている頃では」
「そうだね、早く行かなきゃ」
午前に続いて空は晴れ渡り、夏の一歩手前といった心地よい空気だ。
矢加部は小森親子との面談を屋外で行おうかと考えた。室内よりも開放的で、心理的な閉塞感に因われている人と話す場としてはより好ましい――-とは言われるが、ナオトの友人にはそうした開放感を心底嫌い密室でゲームとアニメとジャンクフードを摂取すると精神的に復調するタイプの人間もいる。紅茶の入った保冷ポットとグラスを会議室に運び、玲の連絡先などを記入するための書類を用意しておく。PCを運び込んで有線ネットワークに繋げば、ナオトとのテストもこの場で行える。
一通り準備を終えた矢加部が事務所兼受付に戻ると、羽鳥に声をかけられた。
「矢加部さん、ちょちょちょっとよろしいですの?」
「かまわないが、時間が近いので少しだけね」
「あの、小森という人が今から来るので? セーラー服で」
「何を言って……そうだね、予定通り今から来るそうだ」
「なにか、警察の世話になったそうじゃないですか」
「ん? ああ。そんな話だったが、こちらの予定には影響なかったようだよ」
「そうですか。その……謝っておいてください!」
羽鳥は唐突にそう言って、エントランスの方へ走り去った。
「……」
矢加部が腕時計を見ると、予定の午後一時三十分にはまだ間がある。
「そうか……なるほどセーラー服か……。連絡しておくべきか」
そう呟いて携帯電話を手にした。
「あれ? 蓮見さん?」
制服に着替えてすっかり見違えたかなたを見て、千花は見知らぬ人間が亜沙美とともに訪れたと勘違いした。すでに到着していた美希も同調し、こちらは素直に驚きを口にする。
「こんなかわいいのに、いままで変な格好してたんだ!」
「変とか言わない。……これって布留川女学院の制服ですか?」
「そ、そう。彼女に借りたんだけど」
「かなたちゃんの服が、しっきん……ご、つまり衛門府のことでありますがこれは検非違使すなわち警察官も兼ねておりそのアメリカ合衆国の衣装がいささか土埃のようなもので汚れてしまったので、お貸しいたしました」
亜沙美が意味不明な説明をしていると、千花がおもむろに振り返って顔を伏せた。
「本当は、ちゃんと決まってから言いたかったんだけど」
「何?」
「私、もうすぐ転校するの。この制服……布留川女学院に」
「マジで!」
「転入試験まだ受けてないから、決まってはいないんだけどね。でも、決めたの。もうあの学校に戻りたくないから」
「そうか……そうだよね」
そう言ったきり、美希は黙り込んでしまう。
「蓮見さんたちも、ごめんなさい。でも、皆さんを見て決めたんです。父から転校について聞かれた時は、どこの学校がいいかなんて分からなかったけど……ねえ美希、布留川女学院はすぐ近くよ。ここからなら、剣根高校より近い」
「林さえなければ、ここからでも東の方に見える位置なんだが」
「そうなの? そういえばかなたさんたちどっから来てるのか聞いてなかった」
「私たちは女学院の寮に住んでおります。二〇七番と呼ばれています」
「それは部屋の番号……学生寮って規則が厳しくて窮屈な場所なんだと思ってたけど、それほどでもないかも」
実際のところ、布留川女学院は校則も寮則も数は少なかった。他者を害する行為には厳しいが、そうでなければ服装や行動や信教や結社は自由という基本方針があるため無法地帯ではない。ただし要求される学習量と質からは、楽園とは言い難いが。
「近いうちに必ず、私はお二人の後輩になります。そのときは、改めてよろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそ……」
「いいな、あたしも行きたいな」
かなたには「よろしくお願いします」がアウトローの挨拶的なニュアンスを含んでいるようにも聞こえたが、もちろん今の千花にそういった意図はない。
「そうだ、公園に行くんだったよね」
「そのために集まったのでした」
「あ、ああ。協力してもらって感謝する」
「ごめんなさいね。今言った通りなので、転入試験の勉強をしないといけないの。美希、布留川女学院は剣根より偏差値高いのよ」
「マジで。あたしは無理っぽいねー」
「額田さんなら、スポーツ方面で何とでもなりそうだが……」
「あたし球技は苦手だけど」
「意外です」
「美希は、道具を使うのがあまり得意ではないの」
「そういえば……」
アウストラロピテクスやピテカントロプスを評したかのような物言いだが、確かに美希は武器として用いた丸太の扱いは褒められたものではなかった。
「額田さん、もしかしてゲームとかもダメ?」
「ぜんぜん。だって思い通りに動かすの大変なのに動きも遅いし」
「ゲームのキャラは大抵速いものでは……」
「美希基準なら、そうでしょうね」
「まあいいや。行こうよ。勉強頑張ってね」
「怪我をさせないようにね」
「嫌ぁ、玲くん負けちゃった」
「最後ねー。ポイントは俺が優位だけどお互いBotが落ちてて、ライフ無いなら待って五分の状況作らなきゃいけないでしょ。プロスペクトは状況固定しづらいマップだし。そこでバンザイ突撃したのが敗因なのは分かるね?」
「そのほうが美しいかなと思って……」
「美しい……そいつは新しい信仰だわ」
磐船講の別室では、ナヲトが小森玲を説教するという異様な光景が展開されていた。チーム対戦シューティングゲーム「レッド・マーキュリー2」でナヲトと対戦を行い、玲の腕前を確かめていたのだ。サンクト・ペテルブルクの大通りを舞台にしたステージで、お互いにコンピュータのCPUが操作する味方を一体付けて五分間戦い抜く。序盤は個人プレイを軸にした素早い作戦展開で玲が優勢だったものの、次第にナヲトが巻き返し、残り一分で勝敗を決めるポイントを逆転した。
「さすがに反応はすげーわ。このゲームはだいぶ荒らせるゲームだから、そのへんはよく分かってるね」
「でも負けちゃったのかー、次頑張ろうね」
「小森さん、あまり興奮すると傷に障りますよ」
「ちょ、ちょっとトイレに」
玲は緊張で紅茶を飲み過ぎたためか、試合が終わると足早に席を立った。
頭に巻かれた包帯が痛々しい小森千鶴と、矢加部兄弟が話を続ける。
「あー、玲くん多分」
「パン、ですか」
「すぐ食べちゃうみたいで……」
玲がストレスの発散法として無自覚にカロリー摂取に走ってしまうことは、すでに千鶴から矢加部に伝えられていた。
「うちで穫れたきゅうりとかに替えさせたら?」
「珍しくゲーム以外で建設的なことを言ったな」
「野菜作ってるんでしたっけ」
「一応、軸になる活動と位置づけてます。多少ローカロリーでも自分で作ったものなら、食べてありがたみがあるし続くかもしれません。運動不足の解消にもなる」
「ああ……じゃあハンサムな玲くんが帰ってくるのね」
「……農作業はまあ、好きにやってもらえばいいっすよ。昨日もダルいっつって一時間寝てた奴とかいるし」
「それはもしや羽鳥くんか?」
「よく知ってるな。以心伝心だな」
矢加部がため息をつき、千鶴に向き直った。にこやかだった笑みは消え、真摯な面持ちだ。
「小森さん、関係ない話で申し訳ないんですが」
「お?」
「え? な、なんでしょう? 私には夫も玲くんも」
「昨日の公園での事件、聞き込みに来た刑事さんから聞きました」
「あ、はい」
「あなたに暴力を振るった人間について、僕はほぼ目星がついています」
千鶴とナオトが目を見開いて矢加部を見る。
「むろん彼には罪を償ってもらう事になりますが……あなたへの謝罪を申し出ています」
「はい……」
「ですが、自分に怪我を負わせた人間など、顔も見たくないでしょう」
「会うとなったら、やっぱり怖いですね……」
「そうですよね」
「会うのは避けたいです。でも、罪の意識があるなら……私はこれ以上、騒ぎを大きくしなくてもいいと思っています」
「わかりました。いずれ警察には届け出て、然るべき報いを受けさせます。……それから」
「はい?」
「なぜセーラー服で公園に?」
「……知っていますか? 私の名前、千鶴にはルとツが入っていて、レイという男性と前世で引き裂かれた、運命の二人なんです。けれど現世では親子……二人はきっと来世で、今度こそ……」
「私が悪うございました」
玲って名前はあんたが付けたんじゃねえの? という指摘を、ナヲトは口に出せなかった。
千鶴がムー大陸の記憶に思いを馳せていると、運命の人が戻ってきた。
「ああ玲君、それじゃ来週からね。はじめは気を遣うだろうけど、あまり深く考えないで」
「気使うだけ無駄な連中だから」
「あ、ありがとうございます」
「道具や食べ物はこちらにあるから、手ぶらで構いませんよ」
「マウスとかキーボード、自分の使いたきゃ持ってきて」
「玲くん頑張ってねー」
小森親子の乗る電子の歌姫カラーの軽自動車を見送り、矢加部兄弟は室内に戻った。
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