青の境界、カナタの世界

紺乃 安

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13 六月七日 日曜日

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 蓮見かなたの六月七日は、最高の目覚めで始まった。
 昨夜は寮の消灯時間を過ぎても興奮のあまりなかなか寝付けず、最後に時計を見たのは午前〇時を回った頃だった。さらに朝は午前六時に目覚め、目は冴え冴えとして眠れそうにない。結局そのまま起床したのだが、さほど寝不足という感覚はなかった。
 まだ誰もいない洗面所で顔を洗い、朝食の時間までインターネットで磐船講周辺の航空写真を見たり、夢の内容を反芻して自己分析したりしながら過ごした。AK‐四七アサルトライフルが登場したのは、ロシア人のクジマに会ったからだろうか。
 同室の降矢亜沙美は、前日の午後十時頃から泥のように眠り続けている。午前七時にかなたが勢い良くカーテンを開けると、亜沙美は野生を捨てきった家猫のような態度で、人語になっていない文句を言った。
 七時十五分に寝ぼけたままの亜沙美の手を引いて食堂に行き、蓮見さん落ち着いて食べなさいと注意されるほど急いで朝食を摂った。亜沙美はミツユビナマケモノのようにゆっくりと食物を口に運び、かなたはそれを待つあいだ妄想の世界に浸って度々薄ら笑いを浮かべ、隣席した生徒に不審がられた。
 歯磨きを済ませたかなたは昨日とは違うダークグレーのジャケットとフレアパンツに着替え、サングラスを丹念に磨いた。服装はほとんど同じだが、今日は銃器メーカーブランドのバッグを持って行く。顔を洗ってようやく目が覚めた亜沙美が部屋に戻ってきて、スーツケースにお菓子や制服を詰め込んでいる。昨日あれほど愚痴を言っていたにもかかわらず、今日もかなたについていく気らしい。
 寮則に従って管理人室に昼食は不要と伝え、かなたと亜沙美は布留川女学院学生寮を発った。空は快晴で、僅かな雲はゆっくりと流れてゆく。美希たちとの待ち合わせ場所である磐船講までは道のりが六キロほどもあり、かなたたちは先日同様、徒歩十分ほどの最寄り駅から電車での移動だ。女学院のある仙寿山を降りる道からは雲雀野市北部が一望できる。道沿いの桜並木は、二ヶ月前まで満開の花を湛えていた。
 徒歩での過酷な移動が予想されているというのに、亜沙美は相変わらずアポロチョコ色のゴシック・パンクファッションで、厚底でヒールの高いショートブーツを履いている。かなたは階段を下りながら、電車の時刻を調べていなかったことに気付いた。インフラの充実した都市生活者にとっては信じがたいことだろうが、利用者の少ない地方都市のダイヤは一~二時間に一本程度しか運行がない。
 幸いなことに、二十分ほどで彼女らが乗るべき上り列車は来るようだった。もし発車直後だった場合は一時間待つか一時間半ほど歩くかの二択になるが、後者は亜沙美が断固拒否しただろう。
「さあ、時は来た」
「あまり歩くようでしたら、私はお姫様の部屋で休ませていただきます」
「でも、昨日あれだけ歩いたのに今日は大丈夫じゃない」
「おそらく明日あたりに筋肉痛が来ます」
「そこまで老いてないでしょ……先生じゃあるまいし」
 やがて、二両編成の電車がやって来た。車内はロングシートが窓を背にして向かい合っており、乗客は老婆が一人だけだった。席を譲るどころかシートに寝転がっても、品性とマナーに悖る点以外は問題がなさそうだ。亜沙美は実際にそうしたかった。

 二人が磐船講に着いたのは九時四十分、十時の待ち合わせにちょうど良い時間だ。昨日と違って館内には人の姿が見え隠れしており、どうやら農作業は行われていないようだ。
「昨日より人が多いようです」
「ふ、普通に挨拶して入っていいって、い言ってなかったっけ」
「何をしてるんですか、二人で」
 かなたが当惑していると、背後から怪訝な顔の中原に声をかけられた。昨日は買い物袋を持っていたが、今日はファイルノート一冊だけだ。
「ご招待にあずかりましたので、今日は立派な客人でございます」
「先生? 私たちはその、雛母離さんたちに会いに来たんです。お前、先生こそ何をしてるんですか」
「探偵ごっこでないなら、まあ」
「探偵なんて、浮気調査とかそんなのばっかりじゃないか。もっと格調高く科学捜査と言って欲しいな」
「何が科学なのかよく分かりませんが……また捜査なんですか」
「左様です」
「シッ!」
「まあ、程々に……私は矢加部氏からの頼まれごとです。そうだ、近々女学院の生徒が一人増えるかも知れませんよ」
「そうか」
 全く気のない返事をし、じゃあ時間なのでとかなたは先を急いだ。西側エントランスから入ってメイン通路をまっすぐ進み、教師は総合受付へ、学生二人は途中で左側通路に入り、イベントホール裏へ向かう。

 普通の家に住む友人を尋ねる場合と違い、一体どこからが家なのか判然としない。途中で矢加部と同じ服を着た二人組の男性とすれ違い、こんにちはと軽く挨拶した。
「コンニチワ。バンドマンとプロデューサーですか」
「変なこと言うなよ。すいませんこいつ対人スキル終わってるんで」
 見た目からは二十代とも四十代ともとれる年齢不詳の男性は、かなたたちの挨拶にそう返答した。すぐさま隣りにいた眼鏡の若い男性が謝り、頭を下げて立ち去って行った。
「マリリン・マンソンとか好きですか!」
 遠くでそんな声が聞こえ、眼鏡の男性はまた頭を下げていた。彼らが千花の血縁者なのか家族と見做すべきなのか、何もかもよく分からない。
 千花の部屋に近付くと、中から楽しそうな話し声が聞こえる。どうやら美希もすでに来ているようだ。
「美希もスマホ持てばいいのに。それで全部解決したんじゃない?」
「そういえばお店に行こうって言われてたんだけど、訓練でなんかずっと忘れてた」
 かなたがドアをノックして雛母離さん、と声をかけると、すぐに返事があった。はあい、と返事をしたのは美希だったが。
「なんで美希が言うの」
「いいじゃん、誰か分かってるんだし」
「そんなにお菓子が楽しみ?」
「まだ貰ったの全部食べてないよ!」
 主な目的は亜沙美の持つお菓子らしい。千花は美希の行動パターンをよく把握し、その反応を楽しんでいるようだ。仲が良いのは間違いないが、その関係性は野生動物と動物王国の女王のようでもある。
「わざわざ来てくれてありがとう」
「いいよ、あたしもちょっと楽しみだし。座って」
「またあなたが言う。ここは私の部屋、一応ね」
「昨日言っていた、茶色くて甘いのの中にサクサクしたのでございます」
 亜沙美がスーツケースを開け、ウエハースをチョコレートでコーティングしたお菓子の袋をテーブルに置いた。昨日の? と言いながら美希はさっそくひとつ口に放り込んだ。千花は昨日と同じ格好だが、美希はスポーツブランドのロゴが入った長袖のトレーニングウェアを着ている。
「師匠に昔貰ったのもこんなだった……でもそうだ、ちょっと変なんだよ」
「賞味期限は問題なかったはずですが」
「いや、昨日あの後ね、師匠のところに行ったらいなかったんだ。で、家の前には見たことないバイクみたいなのが置いてあって」
 美希がチョコレート菓子のパッケージを見回しながら言った。千花がグラスにハイビスカスティーを注いで、かなたと亜沙美に差し出す。
「バイク……昨日行った時には、確かに無かった」
「うん。今までそんなもの見せられたことなかったし、夕方はだいたい家にいる人だったから、ちょっと気になって」
「美希、その……クジマさんだっけ、私にもよく話してくれたけど、どんな仕事をしてる人だったの?」
「仕事? 何してるんだろう……よくわかんない。あ、ごめんね! 今日はかなたさんのことだったのに」
「ああ、構わないよ。なにかの予兆かなこれは」
 かなたもクジマという謎のロシア人には興味があったため、本題を忘れて美希の話に乗ってしまった。
「ええと、昨日は時間がなくて、場所もよく聞けなかったけど」
 気を取り直し、かなたはプリントアウトしておいた磐船講周辺の地図をバッグから取り出した。A4サイズの用紙に五キロ四方範囲のものと、それを倍に拡大したものを4枚、美希に見せた。
「この地図で、小森さんの家と家庭菜園の場所わかるかな」
「これがこっち? 公園がこっち向き?」
 要領を得ていない様子で紙をくるくる回転させる美希に、千花が助け舟を出した。拡大図の4枚を並べ、磐船講のメインエントランスが西向きであることを教える。美希の家はこのへんでしょう、と紙から外れたテーブルの上を指差した。
「あ、こう見るんだ。これがあの家か……なんか、あれない?」
 何かをつまむような形で手を振る美希にボールペンを渡すと、拡大地図の一つに書き込みを始めた。ペンで道路をなぞってルートを示すのではなく、地図上で何も表示されていない箇所に線を書いている。
「ここが小森くんち。でっかい家だから、遠くからでもわかると思うよ。で、たぶんそのカテイサイエンっていうのがここだと思う。なんか物置みたいなのと、草がいっぱい生えてた。家の前から行こうとするとたぶんすぐ見つかっちゃうから、こっちの橋渡って行ったほうがいいと思う。他にも道はあるけど、農家の人がトラックとかで時々通るだけの道だし、遠回りになるからいらないよね」
「美希、どうして小森君の家にそんなに詳しいの……」
「小森君の家だけじゃないよ。師匠に言われて山の中を走る訓練してたから、このあたりの地形はだいたい知ってるんだ。舗装された道を走ってるだけじゃ、体力はついても身体感覚は鍛えられないって言ってた」
「相変わらず徹底したトレーニング法でいらっしゃる……」
 美希の身体感覚に基づいた図解は緻密で、建物の大きさやドアの向きまでしっかりと書き込まれている。かなたたちと話しながら、おそらく世界中で美希しか知らない獣道やツチノコ目撃地点の情報なども追記されていった。
「だいたいこんな感じ」
「これだけの情報がわかれば、すぐに行っても良さそうだね」
「しかしながら、ここまでの距離は二キロくらいあると思われます」
「二キロって五分くらいで行けるよね?」
「美希とマラソンの金メダリスト以外は無理よ」
 かなたはよし、と一声上げて、グラスのハイビスカスティーを一気に飲み干す。
「出発……の前に、これから何があるか分からないから。ちょっと立って」
 そう言ってかなたは、千花の前に進み出た。
「握手するみたいに、手を出してみて」
 千花は不思議そうな笑顔で、言われた通り右手を前に出した。
 これはかなたが得意とする、持ちネタだ。互いに右手を出して握手している状態から、相手の右手首を左手で外側から掴み、握った右手を顔の高さまで持ち上げてから相手の前腕に被せるように下げると、それだけで肘と肩の間接が極まって左手と膝を地面につくことになる。これを護身術だと称して優しく仕掛け、婦女子の尊敬を得ようというのがかなたの常套手段なのだが、目にも留まらぬ体捌きで技を成立させたのは千花の方だった。
「あっ? あーっ?! あーっ!」
 千花の瞳には、冷徹な青い炎が揺らめいている。
「ここから、こうもいけるんですよ」
 腕の痛みに逆らえず手と膝を床についたかなたに対し、千花は左側面から自分の右脚をかなたの左脚に絡ませ、腕を極めていた右手を離すと同時に前転して右腕でかなたの左ふくらはぎをロックし、足首を交差させてかなたの膝を曲がらない方向に絞り上げた。仰向けで脚を広げた屈辱的な姿勢でヒーッヒーッと息を吐くだけの悲鳴を上げるかなたが十回ほど掌で床を叩くと、ようやく千花は技を解いた。
「こんなご時世ですもの、護身術は心得ておきませんと……」
 能面のような微笑みを浮かべる千花を、かなたは負け犬のように見上げていた。
「千花は泣いて負けを認めるまで止めないから、気をつけてね」
 美希の忠告が一分早ければ、かなたのプライドは今も保たれていたことだろう。亜沙美は稀有な事態に何らかの好奇心を掻き立てられたようで、目を爛々と輝かせて眼前の総合格闘技を凝視していた。

 不測の事態はあったものの、女子高校生たちは小森家の探索に向けて出発した。ただし千花だけは、父親の言いつけに従って仮家に残らなければならなかった。かなたの左膝関節は全くの極められ損だ。
「冒険みたいで面白そうだけど、今日はここにいなきゃいけないの。あとで聞かせてね」
 千花が見送りにドアを一歩出ると、かなたは一歩後ずさった。穏やかな笑顔の千花に見送られて、怯えた小動物のようなかなたと他二人は意気揚々と部屋を後にした。移動距離に不満を述べていた亜沙美も、結局ついてくる。
 三人が案内所の前を通りかかると、美希がフリースペースの椅子に掛けていた女性に呼び止められた。
「美希ちゃん! ここで何してるの」
「あれ、母さん? 母さんこそなにしてんの?」
 その人物は、美希の母親、額田晴美だった。美希に似て小柄だが、面差しはあまり似ていないようだ。この女性が、美希に雑穀や謎の草といった縄文時代水準の食物を与えている。あるいはそれが、美希のフィジカルを支えているのかもしれない。
「何してるのも何も、お母さんは時々ここで仕事してるのよ。農業指導」
「うん。この近くっては聞いてた」
「近くじゃなくて、ここ。あっちに畑があるの知らない? それより美希ちゃんは……そうね、雛母離さんと仲良かったわねあなた。そちらもお友達?」
「うん。学校違うけど」
「あらあら、どうも美希の母です。この子がご迷惑おかけしているでしょう」
 かなたと亜沙美はああ、はい、いえ、と生返事で返す。どうやら、迷惑をかけていることは母親の中で確定事項のようだ。
「そうだわ美希ちゃん、せっかくだから、あなた雛母離さんのお父さんに挨拶していきなさい。まだ会ったことがないって言うじゃない」
「えー、今から探検に……用事があるんだけど」
「あと丁度よかった、これ」
 そう言って晴海は、美希にスマートフォンを差し出した。工事現場の作業員などに支給される、耐衝撃・防水タイプの機種だ。
「あなた土曜日にお店に行こうって言ってたのに、いっつも家にいないからお母さん勝手に選んできちゃったわよ」
「マジで! うわーじゃあ千花の番号聞いてこよう!」
「その前に挨拶よ、五分もかからないから」
 母親の言葉には、美希は基本的に素直に従うようだ。いずれにせよ美希ならば、五分程度遅れても簡単に取り返せるだろう。二キロを五分で走破できるのだから、常人が徒歩で二キロの移動を終える前に五分のビハインドを挽回できる。とくに亜沙美の歩行速度では、三十分で二キロ程度進むことさえ容易ではない。
 かなた以外はピクニック程度の気持ちで気軽に参加しているが、詳細を知らない以上は当然のことだ。最も当のかなた自身さえ、遊びなのかよりシリアスな事件なのか、未分化のまま動いている節がある。
「ごめん、ちょっと先行ってて。すぐ追いかけるから」
「そうだね、場所はさっき教えてもらったし」
「我々より先に到着することも不可能ではないと思われます」
 美希はこの後、千花の父が先約で塞がっていたため、先に千花の部屋に行ってスマートフォン使用のレクチャーを受けることになる。そしてあっさり時間を忘れ、一時間以上遅れて出発する。それは致命的な遅延なのだが、美希は天候による動物の行動予測などはできても未来予知の能力はない。小森家の場所はかなたたちに教えてあるため、遅れても問題はないだろうと暢気に構えていたのだった。

 亜沙美は奇妙なことに、スーツケースを押して歩いていた。ケースは引いたほうが楽な筈だが、左手で押すことによりケースを支えつつも両手でお菓子の袋を開けることが可能である。極めて効率的な移動法なのだ。
 亜沙美の非効率的な歩行に合わせても、三十分で小森家付近に到着した。地図に書き込まれた美希の追加情報のとおり、用水路を渡る小さな橋と、その先に砂利道が続いている。周囲は青々と稲が繁る田んぼと竹林ばかりだが、少し離れた場所には小学校と老人保健施設があるようだ。
 かなたたちの立つ歩道からでも、丘の上の白いフェンスの先に物置らしき建物が見てとれる。緩やかな上りの砂利道を二百メートルほど進めば、目的の農園に到達するだろう。
「さあ、いよいよだ」
「あの中に小森埋蔵金が」
「……違うと思う。しかし額田さん遅いな」
 学校の運動着で来ればよかったのかも知れない。いざとなれば、ランニング中に迷い込んだ運動部員という体で白を切れる。だが、もうここで戻るわけにはいかない。
 砂利道の正面は雑草に覆われた勾配の急な斜面で、西側に敷石を積んで作られた登り階段がある。その階段も両脇から雑草が生い茂っており、各々こだわりのファッションに身を包んだ二人は少し後悔していた。
「ここの雑草、ちょっと掻き分けられているね」
「根元の折れた草が六十本以上あります」
 敷石以外のあらゆる箇所から力強く茂る雑草が、倒れている箇所が幾つもある。かなたの聞いた電話の声は「夜に確認をしておく」と昨日話していたが、裏付けが取れたと言えるだろう。
 不安定な地面にヒールを取られてよろける亜沙美がしばしばかなたの腕に捕まったりしつつ、痕跡をたどって物置に到着した。現実の事件に近づきつつあるという事実に、少し恐怖心が芽生えてくる。
「足跡です。我々より大きい」
「ああ、これは夜のうちについたののだから、大丈夫」
 折れた葉の植物ホルモン量を調べ、植物が損傷した大まかな時間を導き出す科学捜査は存在するが、もちろんかなたはそんな検査キットなど使っていないし持ってさえいない。徐々に肥大化してゆく恐怖心と興奮で、台詞の一部を発音しそこなった。
 かなたはバッグから綿製の白い手袋とLEDライトを出し、左手首にライトのストラップを通してから逆手に持つ。銃を構えた右手を左手首で支えながら物置のドアを蹴破り「デイド郡警察だ!」と叫ぶ妄想をしながら物置に入った。室内を見渡すと、壁際には錆びついた農具と化成肥料が三袋、埃に覆われた床にはいくつもの足跡がある。床の一角から取り外された九十センチ四方サイズの蓋が、ドアの脇に立て掛けられていた。
「ここからは別の世界……うわ、ひどい臭いだ」
「カビ臭い……」
 澱んだ空気を吸い込むだけでかなたは吐き気がしてきたが、あいにくマスクは持ってきていない。二人はハンカチを出して鼻口を覆い、床に開いた穴に近づいた。ところどころ腐食した床板がきしむ。
「これは、怪しいな……いかにも怪しいな! 背筋も凍るような怪しさだ」
「意味は分かりませんが怪しいのは分かります」
 恐怖よりも事件に出会えた喜びが、一時的に勝利した。怪気炎を上げるかなたは、いつになく声がうわずっている。
「よし、いける!」
 かなたは穴の手前に金属製のフックを見つけ、確認しようと膝を折る。亜沙美はその後ろから、立ったままお辞儀の姿勢で覗き込んだ。よく観察しようと両足を揃えてつま先立ちになると、ロープが引きちぎれるような音を立てて足元の床が沈み込む。バランスを崩してかなたの肩に手をつくと、前のめりの姿勢のかなたも重心を失った。かなたは反射的に亜沙美の腕を掴んだが、踏ん張りの利かない亜沙美はただ引きずり下ろされるだけだ。穴の縁に手を掛けたが片手で掴まるには握力が足りず、二人は縦穴の底へと墜落していった。
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