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ジュニエスの戦い

50 明日へ翔ぶ鳥

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 リードホルム主要部隊の拠点となっているソルモーサン砦では、幾人もの兵士が夜襲に備えてジュニエス河谷かこくを監視している。各所でかれた篝火かがりびと兵士たちの持つ松明たいまつ、それと夜空に煌々こうこうと輝く満月のおかげで、日が落ちた後も闇討ちの苗床なえどことなりそうな暗闇は少ない。
 青白い月明かりに照らされた城郭じょうかくの一角では、ノアとリースベットが肩を並べ、夜のランガス湖をながめていた。
「……いつ以来だろうな、こうして話すのは」
「あたしが逃げ出したのが四年半……いや、もっと前だ。おそらく五年にはなるかな」
「リラ川のほとりで別れたあの時には、もうこんな風に話せる機会は来ないと思っていた」
「まあ、こんな仮面を付けてなきゃいけないけどね」
 リースベットは寂しそうに笑う。
 二人はしばらくのあいだ、一緒に過ごす時間をただ味わうように、ランガス湖の湖面に揺れる月明かりを眺めていた。時折、季節はずれのあたたかさに南下を忘れたツグミの鳴き声が聞こえ、昼間の凄惨せいさんな戦いが遠い国の出来事だったようにさえ感じる。
 たとえかりそめの再会に過ぎなくとも、今は流れゆく穏やかな時間に身を浸していたかった。
「このまま、城に戻れればよいのだが……」
「……今のあたしじゃ、あまり長くあんたの側にはいられないな。なにしろこの仮面を外せば、元王女ってよりアウグスティンの暗殺者だ」
「いっそ仮面のままでも……何らかの立場は与えられる」
「無理だ。正体がバレたときに、あんたの立場がなくなるだろ」
「いや、私が実権を握れば、状況も変わる。勝者の側からなら、元王女として歴史を書き直すことも……」
「やめてくれ!」
 リースベットは急に声を荒げ、ノアの言葉をさえぎった。
「……悪い。あたしはあんたにだけは、そんなふうに言ってほしくなかったんだ」
 ノアはリースベットの言葉で、すぐに自身の利己主義的な強権志向に気付き、戦慄せんりつした。
 今は亡きアウグスティンやヴィルヘルムに対抗し、自身はそのわだちをなぞるような行いはしないと誓ったつもりだった。だが知らぬ間に、ノアは彼らと同じ思考形態にとらわれつつあったのだ。
 リースベットを救いたいがゆえの提案だったとは言え、強欲な縁故主義ネポティズムという点ではアウグスティンやエイデシュテットと本質的な差はない。
「……すまない。私もすっかり、兄たちに感化されてしまったかな」
 リースベットは思いつめた顔でうつむいたまま、言葉を絞り出すように口を開いた。
「あんたに聞いてほしいことがある。アウグスティンの最期だ」
「兄は……何か言っていたのか?」
「あいつ自身の言葉を……そのまま伝える気はない。……けど思ったんだ。あいつとあたしは、精神的に結構似たような存在だったんだって」
「そんなことはないだろう。リースは閉山で行き場を失った鉱山労働者や家のない放浪者たちをまとめ、誇りを失わず生きている……ましてあの男は、あれほど君をしいたげ、非道を働いたというのに」
 リースベットはいちど深呼吸して間を置いた。
「そのアウグスティン自身さえ、虐げられ、利用され、嘲笑ちょうしょうされ続けてたのさ……おかげで、あんたみたいに、当たり前に倫理でものを言う人間に対する、強烈な反抗心があいつの性根に宿った。あいつは、まともな言葉に従うことは負けと一緒だ、とでも思ってたんじゃねえかな。それを幼稚だと笑うのは簡単だけど……」
「確かに、兄はどれほど親切心や道理に基づいて忠告を受けようと、聞き入れはしなかった」
「正しさに反抗すること自体が、もうあいつの立ち位置になっちまってたんだ」
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