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ジュニエスの戦い

26 軍人令嬢 2

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「おや、ローセンダール様が弱気な言葉を口にされるとは……」
「ふふ……では、今日のところは、と付け加えておきましょうか」
 挑発するようなロードストレームの言葉に、ベアトリスは不敵に笑った。
 その後も報告は続き、リードホルム軍の陣形、部隊配置などが明らかになってゆく。ベアトリスは自分でも望遠鏡を覗きつつ、そのすみれ色の瞳の奥でチェスの盤面ばんめんを構築していった。
「ハンメルト、リドマン、両連隊は重装歩兵を前面に展開、横陣おうじんで前進しなさい。区々くくたる詭計きけいは無用! 力でリードホルムを押し潰すのよ」
「お任せを!」
 二人の連隊長は声を揃えて応答した。彼らはいずれも、三千の兵をまとめる高級士官だ。
 通常、ノルドグレーン軍において連隊長以上の地位に就く者は、有力者の子弟が多い。だが彼らは市民階級の出身で戦功を重ね、その実力に目をつけたベアトリスが抜擢ばってきした者たちだ。実力のみならず士気や忠誠心においても確かな存在であり、だからこそベアトリスは彼らの力量を信頼し、大まかな指示のみに留め置いている。
「レーフクヴィスト、ノルランデル両隊は後方に展開。部隊間の距離を開け、散発的に突破を図ろうとする敵部隊に対応しなさい」
「承知」
「お任せを」
 この二人もやはり市民の出で、ベアトリスに対し崇拝すうはいとさえ言えるほどの忠誠を誓っている。
 こうした者たちが幾人いくにんもおり、彼ら、彼女らはベアトリスの私兵、ローセンダール軍とさえあだ名され、ノルドグレーン軍の中でも特異な存在として知られていた。
 そうでありながら、彼らに向けられる軽侮けいぶの眼差しは少ない。それはひとえに、これまで積み上げてきた数多あまたの戦功によるものだ。
 彼らのほかに、ベアトリスの下には四人の参謀が控えている。だが連隊長たち実戦指揮官に比べ、ローセンダール軍における参謀たちの存在感は薄い。
 彼らはベアトリスの不在時や目が届かない戦場などで、彼女から授けられた策を忠実に遂行する代行者に徹しているからだ。役割としては極めて重要だが、さながらベアトリスという大輪たいりんの花を際立たせる、濃緑色のうりょくしょくの枝葉のような存在だった。
 そして軍人たちとは別に、ロードストレーム率いる親衛隊が存在する。彼らは純然たるベアトリスの私兵だ。前線に立つ際や野営地での生活に至るまで、彼女の身辺警護は親衛隊が一手に引き受けている。
 ときどき一般兵の訓練に混じり圧倒的な実力を披露したことはあったが、親衛隊が実戦で戦う姿を見た者はいない。彼らが剣を抜くほどの事態にベアトリスの軍がおちいったことが、これまで一度としてないからだ。
 リードホルム軍の布陣に対応した兵の差配さはいを終え、ベアトリスが戦闘馬車上の座席から立ち上がった。ふわりと舞い上がった亜麻あま色の髪が陽光にきらめく。
「皆、よく聞きなさい!」
 周囲の兵たち一瞬で静まり返り、かかとを踏み鳴らしてベアトリスに向き直った。全員が彼女の一挙手一投足に注目している。
「これよりの戦いは、ただの小競こぜり合いではありません。リードホルムという、自らを神の隣人と僭称せんしょうして人々を睥睨へいげいし、力で諸国を抑圧していた国――その野蛮な王国がわたくし達に課してきた二百年のくびきを、断ち切るための戦いなのです」
 兵たちはめいめいに武器を掲げ、大地が震えんばかりの雄叫おたけびを上げた。
「リードホルム兵が精強を誇ったのも過去のこと。近衛兵もすでにおとろえ、もはやここに至っては鬼胎きたいを抱くに足りません。独立不羈ふきの魂を宿すノルドグレーン兵士たちよ! 恐れず前へ進みなさい。ベアトリス・ローセンダールはこの戦場で常に、あなた達とともにあります」
 ノルドグレーン軍全体が一層激しく咆哮ほうこうし、ローセンダールの家名を幾度も叫ぶ掛け声がノーラント山脈を包み込んだ。
 ベアトリスは満足げな顔でリードホルム軍の陣を見やり、菫青石アイオライトの瞳を鋭く輝かせた。
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