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落日の序曲
9 真実と正義
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ノアの王都帰還から十日後、ヘルストランド城の一角にある碧潭の間において、アウグスティン暗殺事件の裁判が行われていた。うっすらと青みがかった石壁に囲まれたその部屋は、リードホルムにとって特に重大な裁判にのみ使用される。
碧潭の間にはヴィルヘルム三世とノア、それに軍務省、典礼省、内務省、財務省、図書省、民部省の六長官が一堂に会していた。
個々人の思惑はどうあれ、皇太子アウグスティンの殺害という大事件の終幕だけに、高官はもれなく出席している。
彼らは、部屋の中央にある被告人席を見下ろすように配置された、一段高い位置にある座席に着いていた。ヴィルヘルム三世の座る玉座を頂点とするV字型に並んだ席には各長官が、その末席にはノアが着席している。
ヴィルヘルム三世は眠ったような目で、興味なさげに拳で頬杖をついていた。
この場にいる誰にとっても意外なことに、エイデシュテット宰相の姿がない。
フォッシェル典礼省長官には刻限に遅れる旨の連絡は入っていたが、これまで会議や式典に遅れたことなどなかった人物だけに、誰もが違和感を覚えていた。
両脇を二人の衛兵に抱えられ、ぼろぼろの囚人服を着た男が入室した。それを受けてフォッシェルが響きの良い低音の声で宣言する。
「ではこれより、アウグスティン大公殺害事件の裁判を執り行う。被告人、前へ」
囚人服の男が衛兵に押されるように、被告人席に立たされた。
「被告人の名はアードルフ・ネレム、出身はヴィトフォーシュ、事件の起きた当日はヘルストランド監獄に収監中。これに相違ないな?」
フォッシェルの問いかけに、ネレムと呼ばれた男は無言でうなずく。
「被告人アードルフ・ネレムは、アウグスティン・リードホルム大公殺害の大逆罪、および監獄から脱走したことによる逃走罪に問われている。これに異論はないな?」
次の質問に対しては、ネレムは無言のまま押し黙っている。
「……異論はないな?」
フォッシェルは怪訝な顔で質問を繰り返した。
通例では、この碧潭の間で行われる裁判は形式的なものに過ぎない。内務省の調査報告を典礼省長官が読み上げ、最後に国王が求刑を裁可して終わる。
典礼省の朗読会と呼ばれるほど、実質は裁判の体を成していない儀礼なのだ。
当然、被告人が起訴内容に異を唱えることなど許されていない。だがネレムは、その前例に静かに抗っている。
「……フォッシェル長官、なにか異論があるようならば、罪状認否の質問に移ってはどうか」
ここに至るまで流れを静観していたノアが、初めて口を開いた。
彼自身、裁判は初めての経験で、いままで縁の薄かった刑法に急いで目を通して臨んだのだった。
列席する高官の大半が、意外そうな顔でノアに振り向いた。これも通例にそぐわない発言である。
ノアは、法に定められてはいるが形骸化している罪状認否を提案した。
これはノアが前例を知らないことよりも、おそらく無実と思われる被告人をこのまま大逆犯に仕立て上げてよいのか、という葛藤から発せられた提案だった。
ネレムが真犯人であると確信を持って断言できる人間は碧潭の間に存在しないが、だが彼を助けることで利益を得る人間もまた存在しない。ノア自身も、ミュルダール軍務省長官も、犯人を捏造してエイデシュテットの暴発を牽制したステーンハンマル内務省長官も、それは同様である。
予想外の事態にフォッシェルがまごついていると、ネレムの背後にある扉が開いた。
「申し訳ございませぬ。シーグムンド・エイデシュテット、ただいま御前に参上いたしました」
碧潭の間にはヴィルヘルム三世とノア、それに軍務省、典礼省、内務省、財務省、図書省、民部省の六長官が一堂に会していた。
個々人の思惑はどうあれ、皇太子アウグスティンの殺害という大事件の終幕だけに、高官はもれなく出席している。
彼らは、部屋の中央にある被告人席を見下ろすように配置された、一段高い位置にある座席に着いていた。ヴィルヘルム三世の座る玉座を頂点とするV字型に並んだ席には各長官が、その末席にはノアが着席している。
ヴィルヘルム三世は眠ったような目で、興味なさげに拳で頬杖をついていた。
この場にいる誰にとっても意外なことに、エイデシュテット宰相の姿がない。
フォッシェル典礼省長官には刻限に遅れる旨の連絡は入っていたが、これまで会議や式典に遅れたことなどなかった人物だけに、誰もが違和感を覚えていた。
両脇を二人の衛兵に抱えられ、ぼろぼろの囚人服を着た男が入室した。それを受けてフォッシェルが響きの良い低音の声で宣言する。
「ではこれより、アウグスティン大公殺害事件の裁判を執り行う。被告人、前へ」
囚人服の男が衛兵に押されるように、被告人席に立たされた。
「被告人の名はアードルフ・ネレム、出身はヴィトフォーシュ、事件の起きた当日はヘルストランド監獄に収監中。これに相違ないな?」
フォッシェルの問いかけに、ネレムと呼ばれた男は無言でうなずく。
「被告人アードルフ・ネレムは、アウグスティン・リードホルム大公殺害の大逆罪、および監獄から脱走したことによる逃走罪に問われている。これに異論はないな?」
次の質問に対しては、ネレムは無言のまま押し黙っている。
「……異論はないな?」
フォッシェルは怪訝な顔で質問を繰り返した。
通例では、この碧潭の間で行われる裁判は形式的なものに過ぎない。内務省の調査報告を典礼省長官が読み上げ、最後に国王が求刑を裁可して終わる。
典礼省の朗読会と呼ばれるほど、実質は裁判の体を成していない儀礼なのだ。
当然、被告人が起訴内容に異を唱えることなど許されていない。だがネレムは、その前例に静かに抗っている。
「……フォッシェル長官、なにか異論があるようならば、罪状認否の質問に移ってはどうか」
ここに至るまで流れを静観していたノアが、初めて口を開いた。
彼自身、裁判は初めての経験で、いままで縁の薄かった刑法に急いで目を通して臨んだのだった。
列席する高官の大半が、意外そうな顔でノアに振り向いた。これも通例にそぐわない発言である。
ノアは、法に定められてはいるが形骸化している罪状認否を提案した。
これはノアが前例を知らないことよりも、おそらく無実と思われる被告人をこのまま大逆犯に仕立て上げてよいのか、という葛藤から発せられた提案だった。
ネレムが真犯人であると確信を持って断言できる人間は碧潭の間に存在しないが、だが彼を助けることで利益を得る人間もまた存在しない。ノア自身も、ミュルダール軍務省長官も、犯人を捏造してエイデシュテットの暴発を牽制したステーンハンマル内務省長官も、それは同様である。
予想外の事態にフォッシェルがまごついていると、ネレムの背後にある扉が開いた。
「申し訳ございませぬ。シーグムンド・エイデシュテット、ただいま御前に参上いたしました」
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