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過去編・夜へ続く道
1 覚醒
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目を覚ましたあたしの目に映ったのは、見たこともない景色だった。
宗教画みたいなものが描かれた天井と、そこに向けてアーチ状になった石造りの柱。その天井も、とんでもない高さだ。
寝ているベッドも天蓋が付いていて、まるでお姫様の寝処。枕はとても柔らかいけど、ベッド自体は結構硬い。ベッド脇で誰かが喋ってるようだけど、身体が重くて目を開けてるのも辛く、とても返事ができる状態じゃない。
目を瞑って眠ろうとすると、誰かが口に少しずつ水を流し込んでくれた。死ぬほど喉が渇いていたのでありがたい。
次に目を覚ますと、体調はだいぶ良くなっていた。まだ気合を入れないと身体を起こすのも辛いけど。
「リースベット様、お加減はいかがですか」
ベッドの脇に座っていた白いエプロン姿のおばさんが、あたしをそう呼んだ。そんな名前だったっけ? 違う気はするけど、じゃあ本当は何だったかって聞かれても思い出せない。
「うん、まだキツいわ」
「きつい……? まあ、無理もありませんね。食事は取れそうですか?」
「食べたら吐くかも」
「スープなら入りますかね」
おばさんはそう言って、部屋から出ていった。
この部屋は何? 壁はどう見ても石造りだし、ドアだって濃い茶色の木材を鉄の枠で固定した古めかしい作りで、とても重そうだ。
石壁は一部にカーテンが掛けてあったり、ドラゴンみたいな紋章のタペストリーが垂れ下がったりしてる。
窓は釣り鐘型の出窓で、どう見てもあれは鉄格子だ。
火はついてないけど暖炉があって、そばの木桶に積み上げられてるのは薪だろうか。その近くの椅子では黒猫が体を丸めて眠っている。
石の床にはなにかの毛皮が敷かれていて、形も大きさもさまざまな椅子やテーブルが、だだっ広い部屋にいくつも置かれている。
こんな景色見たこともないけど、もともとどんな景色の中にいたのかも分からない。
あたしがあたしなことだけは確かだと思う。
右腕にある筆記体のエックスみたいな痣は、間違いなくあたしのものだ。肌が白くなった気がするけど、病気で寝てたみたいだから血の気が引いたのか?
さっきのおばさんが、お盆になにか載せて戻ってきた。うっすら緑色がかったポタージュスープみたいだ。スプーンで掬って飲ませてくれたのは感謝するとして、まずくはないけど何だか味が地味だ。
スプーン一杯分のスープを一度に飲もうとすると、喉につかえて咳き込んでしまう。病弱な人がお粥を食べようとして咳き込んでるアレは、割とリアルな描写だったらしい。
あれこれ考えながら食事と格闘したら急に疲れが出たので、また横になることにした。眠りしなに誰か男の人が部屋に入ってきたようだけど、顔を見る前に意識を失ってしまった。
どうやら今のあたしは、記憶喪失らしい。実感はあまりないけど、周りがそうだと言うんだからとりあえず合わせておこう。
同じ部屋にいる黒猫も毛を逆立てて唸ってきたし、この子の名前すら知らない。
あたしの頭を最初に疑ったのは、いま目の前にいる目許涼やかな金髪の青年。名をノア・リードホルムというらしい。あたしの姓もリードホルムで、この人は一つ違いの兄妹だそうだ。
残念だ。
「では、兄上や姉上どころかヴィルヘルム三世、父上のことさえ覚えていないと?」
「はい。ぜんぜん。あと、あの黒猫の名前も」
「……デミだ。とすると、六日前、つまりリースが倒れる前に食べたものなども知らぬのだろうな」
「あたし何か、変なもの食べて食中毒とかだった?」
「いや、そうではない。わかった」
「ねえちょっと、濁されると逆に恥ずかしくなってくるんだけど!」
「すまない、だが中毒ではないから安心してくれ。興奮すると体に障るだろう」
実は記憶については、ときどきその断片みたいなものが浮かんできたり妙な違和感を覚えることはある。
ただ、調子が良くなって城内を歩き回ってから気付いたのは、その記憶はここのものじゃないってことだった。城郭からどっちを見ても、巨大な鉄の塊がものすごい速度で動いたり、夜の街に天の川より明るい光が煌めいたりする風景はない。庭園に咲いている色とりどりのアネモネは綺麗だけど。
それと、この城。
お城ってもっと華やかな場所だったような気がするんだけど、このヘルストランド城はパッとしない。
廊下は隅の方にやたらと藁や砂が散らばってるし、壁も床も灰色で、人は茶色っぽい服ばっかり着てる。身分の高い人は時々きらびやかな装いでいるのも見るけど、やっぱりよそ行きの服らしい。
明かりが燭台と暖炉だけなので、全体的に薄暗いし。
謁見の間とやらを探して廊下を歩いていると、姉上様に声をかけられた。
「リースベット、息災で何よりです。父と兄へのご挨拶は?」
「あ、これから行くとこなんだけど、場所分かんねー」
「……側仕えのものはどうしたのです」
「あのおばさん……モニカさんだっけ。あー、そういえば着替え持ってくるから待ってろって言われたんだった」
今着ているのは、例のごとく茶色いドレスだ。ティーガウンというらしい。体を締め付ける部分が少なくて動きやすいから、ずっとこれでいいんだけど。
「……本当にあなた、どうしてしまったの?」
このフリーダという名の、上品という単語が服を着て歩いているような女は、二つ違いの姉だそうだ。見た目も振る舞いもいかにもお姫様然として、嫌いというのじゃないけど、話しててちょっと調子が狂う。
「どう、と言われても……」
「自分でも気付いていないのですか? 歩き方から物言いまで、まるで別人のようになってしまって」
「そうなの?」
「ノアのことを兄貴などと呼んで。街のごろつきではないのですよ」
「何だろう、兄のことは兄貴って呼んでたような気がするんだけど」
「あなたはノア兄様と呼んで、……仲良くしていたじゃない」
「マジか……」
つまり病気で寝込む前のあたしは、この姉みたいに言葉遣いが丁寧で、歩幅も半分くらいだったんだろうか。
それは本当にあたしか?
「でも、あなたが無事で良かった。そうでなければ私が代わりに……」
「え? 何?」
「い、いえ。それより父王に失礼のないようにね」
「へいへい」
この会話の真意を、あたしは後になってから知る。外面ばかり楚々として、ろくでもない姉様もいたもんだ。
モニカさんに先導されてようやく、あたしは謁見の間にたどり着いた。
服もシルクの立派なドレスに着替えたけど、コルセットが窮屈だし裾が長すぎて歩きにくい。
私のことはコールバリとお呼びください、とモニカさんは言ったが、親子くらい年の離れた人を名字で呼び捨てるのは気が引ける。
あたしは生まれてからずっとお姫様で、こういう人たちにかしずかれて生活してたわけで、こんな違和感を持つほうが変なはずなんだが。
謁見の間の重そうな扉を、あたしは力いっぱい押した。見るからに重そうな分厚い木と鉄の扉だったからそうしたんだけど、扉はものすごい勢いで開いて轟音が鳴り響き、燭台に立つ四本の蝋燭の火すら揺れていた。
玉座に座ってる人やその侍従、部屋中の視線があたしに集まり、モニカさんが頭を抱えている。
「すっかり元気になったようだな、リースベットよ」
「あの方が長兄のアウグスティン様です」
照れ笑いしながら赤いカーペットを進むあたしに、モニカさんがそう耳打ちした。
ノア兄さんと全く違った外見のアウグスティンの言葉は、皮肉混じりどころか皮肉しか入ってないと思う。ノア兄さんからコミュニケーションレッスンでも受けやがれ。
玉座の手前で立ち止まり、教えられたとおりに軽くお辞儀をする。
玉座に座ってる、豪華なローブを纏った枯れ枝みたいな人がヴィルヘルム三世、あたしの父で国王らしい。父親じゃなくてお爺さんの間違いじゃないんだろうか、と思うほど年老いて見える。
その隣に立ってるのは摂政のエイデシュテット宰相だ、とモニカさんが事前に教えてくれていた。陰険そうな細面であたしを睨んでいる。ああいう、外で無駄に尊大なおやじは、たいてい家庭内では居場所がないもんだ。
この場にはノア兄さんはいない。
「リースベット、こうしてまた顔を見れるとはな。医師の話では、記憶がややおぼろげだと言うが……」
「そうみた……左様です」
しわがれ声が震えている。やっぱりこの人は爺さんだろう。
エイデシュテットがなにか耳打ちして、爺さんがうなずく。絵に描いたような小悪党ぶりだ。
「無事で何よりであった」
「病後ではまだ立っているのも辛かろう。早々に休むがよい」
人を呼びつけといてこれで終わりかよ、と思いながらあたしは頭を下げた。体力はもう十分だけど、この場所が不快だからお言葉に甘えよう。
爺さん、ヴィルヘルム三世とアウグスティンは肉親らしいが、あたしが寝てる間たぶん一度も様子を見に来ていないようだし、顔もいま初めて見た。
何の感慨もない。記憶がないからとか以前に、権力が絡んだら、家族だってこんなものなのかも知れない。
入ってきたときと違って、今度は扉を軽く押してみたけど、びくともしない。
やっぱり重いんだ、と力を込めると、また扉がものすごい勢いで開いた。回転軸みたいなものの滑りが良すぎるんじゃないの、と思ったけど、あたしより力のありそうなモニカさんは必死の形相で扉を閉めている。
「リース、君は一体何をやったんだ?」
謁見の間の外では、怪訝な顔のノア兄さんが待っていた。あたしに何か用なのかしら。
「兄さん、あたし前から力持ちだった?」
「……暖炉の薪さえ侍従頼みだったはずだが。まさかな……」
「何? あたしなんか目覚めちゃった?」
不確かな記憶のことといい、なにかこの世ならざる力に導かれてやってきた救世主のような物語を、あたしは期待した。
こういうのは何ていうんだっけ、貴種流離譚じゃなくて……。
あたしはこのノアという青年に、なんだか言語化しがたい妙な疚しさを感じている。
なにが原因なのかは分からないが、この人の前に出ると心の奥底から、生まれてすいませんという声が響いてくる。僅かでも記憶が戻ってきているんだろうか。
この夢のような世界、夢なら夢でいいけど、じゃあ覚めるまでは好きに振る舞わせてもらおう。
宗教画みたいなものが描かれた天井と、そこに向けてアーチ状になった石造りの柱。その天井も、とんでもない高さだ。
寝ているベッドも天蓋が付いていて、まるでお姫様の寝処。枕はとても柔らかいけど、ベッド自体は結構硬い。ベッド脇で誰かが喋ってるようだけど、身体が重くて目を開けてるのも辛く、とても返事ができる状態じゃない。
目を瞑って眠ろうとすると、誰かが口に少しずつ水を流し込んでくれた。死ぬほど喉が渇いていたのでありがたい。
次に目を覚ますと、体調はだいぶ良くなっていた。まだ気合を入れないと身体を起こすのも辛いけど。
「リースベット様、お加減はいかがですか」
ベッドの脇に座っていた白いエプロン姿のおばさんが、あたしをそう呼んだ。そんな名前だったっけ? 違う気はするけど、じゃあ本当は何だったかって聞かれても思い出せない。
「うん、まだキツいわ」
「きつい……? まあ、無理もありませんね。食事は取れそうですか?」
「食べたら吐くかも」
「スープなら入りますかね」
おばさんはそう言って、部屋から出ていった。
この部屋は何? 壁はどう見ても石造りだし、ドアだって濃い茶色の木材を鉄の枠で固定した古めかしい作りで、とても重そうだ。
石壁は一部にカーテンが掛けてあったり、ドラゴンみたいな紋章のタペストリーが垂れ下がったりしてる。
窓は釣り鐘型の出窓で、どう見てもあれは鉄格子だ。
火はついてないけど暖炉があって、そばの木桶に積み上げられてるのは薪だろうか。その近くの椅子では黒猫が体を丸めて眠っている。
石の床にはなにかの毛皮が敷かれていて、形も大きさもさまざまな椅子やテーブルが、だだっ広い部屋にいくつも置かれている。
こんな景色見たこともないけど、もともとどんな景色の中にいたのかも分からない。
あたしがあたしなことだけは確かだと思う。
右腕にある筆記体のエックスみたいな痣は、間違いなくあたしのものだ。肌が白くなった気がするけど、病気で寝てたみたいだから血の気が引いたのか?
さっきのおばさんが、お盆になにか載せて戻ってきた。うっすら緑色がかったポタージュスープみたいだ。スプーンで掬って飲ませてくれたのは感謝するとして、まずくはないけど何だか味が地味だ。
スプーン一杯分のスープを一度に飲もうとすると、喉につかえて咳き込んでしまう。病弱な人がお粥を食べようとして咳き込んでるアレは、割とリアルな描写だったらしい。
あれこれ考えながら食事と格闘したら急に疲れが出たので、また横になることにした。眠りしなに誰か男の人が部屋に入ってきたようだけど、顔を見る前に意識を失ってしまった。
どうやら今のあたしは、記憶喪失らしい。実感はあまりないけど、周りがそうだと言うんだからとりあえず合わせておこう。
同じ部屋にいる黒猫も毛を逆立てて唸ってきたし、この子の名前すら知らない。
あたしの頭を最初に疑ったのは、いま目の前にいる目許涼やかな金髪の青年。名をノア・リードホルムというらしい。あたしの姓もリードホルムで、この人は一つ違いの兄妹だそうだ。
残念だ。
「では、兄上や姉上どころかヴィルヘルム三世、父上のことさえ覚えていないと?」
「はい。ぜんぜん。あと、あの黒猫の名前も」
「……デミだ。とすると、六日前、つまりリースが倒れる前に食べたものなども知らぬのだろうな」
「あたし何か、変なもの食べて食中毒とかだった?」
「いや、そうではない。わかった」
「ねえちょっと、濁されると逆に恥ずかしくなってくるんだけど!」
「すまない、だが中毒ではないから安心してくれ。興奮すると体に障るだろう」
実は記憶については、ときどきその断片みたいなものが浮かんできたり妙な違和感を覚えることはある。
ただ、調子が良くなって城内を歩き回ってから気付いたのは、その記憶はここのものじゃないってことだった。城郭からどっちを見ても、巨大な鉄の塊がものすごい速度で動いたり、夜の街に天の川より明るい光が煌めいたりする風景はない。庭園に咲いている色とりどりのアネモネは綺麗だけど。
それと、この城。
お城ってもっと華やかな場所だったような気がするんだけど、このヘルストランド城はパッとしない。
廊下は隅の方にやたらと藁や砂が散らばってるし、壁も床も灰色で、人は茶色っぽい服ばっかり着てる。身分の高い人は時々きらびやかな装いでいるのも見るけど、やっぱりよそ行きの服らしい。
明かりが燭台と暖炉だけなので、全体的に薄暗いし。
謁見の間とやらを探して廊下を歩いていると、姉上様に声をかけられた。
「リースベット、息災で何よりです。父と兄へのご挨拶は?」
「あ、これから行くとこなんだけど、場所分かんねー」
「……側仕えのものはどうしたのです」
「あのおばさん……モニカさんだっけ。あー、そういえば着替え持ってくるから待ってろって言われたんだった」
今着ているのは、例のごとく茶色いドレスだ。ティーガウンというらしい。体を締め付ける部分が少なくて動きやすいから、ずっとこれでいいんだけど。
「……本当にあなた、どうしてしまったの?」
このフリーダという名の、上品という単語が服を着て歩いているような女は、二つ違いの姉だそうだ。見た目も振る舞いもいかにもお姫様然として、嫌いというのじゃないけど、話しててちょっと調子が狂う。
「どう、と言われても……」
「自分でも気付いていないのですか? 歩き方から物言いまで、まるで別人のようになってしまって」
「そうなの?」
「ノアのことを兄貴などと呼んで。街のごろつきではないのですよ」
「何だろう、兄のことは兄貴って呼んでたような気がするんだけど」
「あなたはノア兄様と呼んで、……仲良くしていたじゃない」
「マジか……」
つまり病気で寝込む前のあたしは、この姉みたいに言葉遣いが丁寧で、歩幅も半分くらいだったんだろうか。
それは本当にあたしか?
「でも、あなたが無事で良かった。そうでなければ私が代わりに……」
「え? 何?」
「い、いえ。それより父王に失礼のないようにね」
「へいへい」
この会話の真意を、あたしは後になってから知る。外面ばかり楚々として、ろくでもない姉様もいたもんだ。
モニカさんに先導されてようやく、あたしは謁見の間にたどり着いた。
服もシルクの立派なドレスに着替えたけど、コルセットが窮屈だし裾が長すぎて歩きにくい。
私のことはコールバリとお呼びください、とモニカさんは言ったが、親子くらい年の離れた人を名字で呼び捨てるのは気が引ける。
あたしは生まれてからずっとお姫様で、こういう人たちにかしずかれて生活してたわけで、こんな違和感を持つほうが変なはずなんだが。
謁見の間の重そうな扉を、あたしは力いっぱい押した。見るからに重そうな分厚い木と鉄の扉だったからそうしたんだけど、扉はものすごい勢いで開いて轟音が鳴り響き、燭台に立つ四本の蝋燭の火すら揺れていた。
玉座に座ってる人やその侍従、部屋中の視線があたしに集まり、モニカさんが頭を抱えている。
「すっかり元気になったようだな、リースベットよ」
「あの方が長兄のアウグスティン様です」
照れ笑いしながら赤いカーペットを進むあたしに、モニカさんがそう耳打ちした。
ノア兄さんと全く違った外見のアウグスティンの言葉は、皮肉混じりどころか皮肉しか入ってないと思う。ノア兄さんからコミュニケーションレッスンでも受けやがれ。
玉座の手前で立ち止まり、教えられたとおりに軽くお辞儀をする。
玉座に座ってる、豪華なローブを纏った枯れ枝みたいな人がヴィルヘルム三世、あたしの父で国王らしい。父親じゃなくてお爺さんの間違いじゃないんだろうか、と思うほど年老いて見える。
その隣に立ってるのは摂政のエイデシュテット宰相だ、とモニカさんが事前に教えてくれていた。陰険そうな細面であたしを睨んでいる。ああいう、外で無駄に尊大なおやじは、たいてい家庭内では居場所がないもんだ。
この場にはノア兄さんはいない。
「リースベット、こうしてまた顔を見れるとはな。医師の話では、記憶がややおぼろげだと言うが……」
「そうみた……左様です」
しわがれ声が震えている。やっぱりこの人は爺さんだろう。
エイデシュテットがなにか耳打ちして、爺さんがうなずく。絵に描いたような小悪党ぶりだ。
「無事で何よりであった」
「病後ではまだ立っているのも辛かろう。早々に休むがよい」
人を呼びつけといてこれで終わりかよ、と思いながらあたしは頭を下げた。体力はもう十分だけど、この場所が不快だからお言葉に甘えよう。
爺さん、ヴィルヘルム三世とアウグスティンは肉親らしいが、あたしが寝てる間たぶん一度も様子を見に来ていないようだし、顔もいま初めて見た。
何の感慨もない。記憶がないからとか以前に、権力が絡んだら、家族だってこんなものなのかも知れない。
入ってきたときと違って、今度は扉を軽く押してみたけど、びくともしない。
やっぱり重いんだ、と力を込めると、また扉がものすごい勢いで開いた。回転軸みたいなものの滑りが良すぎるんじゃないの、と思ったけど、あたしより力のありそうなモニカさんは必死の形相で扉を閉めている。
「リース、君は一体何をやったんだ?」
謁見の間の外では、怪訝な顔のノア兄さんが待っていた。あたしに何か用なのかしら。
「兄さん、あたし前から力持ちだった?」
「……暖炉の薪さえ侍従頼みだったはずだが。まさかな……」
「何? あたしなんか目覚めちゃった?」
不確かな記憶のことといい、なにかこの世ならざる力に導かれてやってきた救世主のような物語を、あたしは期待した。
こういうのは何ていうんだっけ、貴種流離譚じゃなくて……。
あたしはこのノアという青年に、なんだか言語化しがたい妙な疚しさを感じている。
なにが原因なのかは分からないが、この人の前に出ると心の奥底から、生まれてすいませんという声が響いてくる。僅かでも記憶が戻ってきているんだろうか。
この夢のような世界、夢なら夢でいいけど、じゃあ覚めるまでは好きに振る舞わせてもらおう。
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