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風のオーロラ
3 それぞれの運命
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ヘルストランドからノルドグレーン公国に続くアカマツに囲まれた林道を、どんな獣も追いつけないほどの疾さで小さな人影が駆け抜けていった。
アウロラ・シェルヴェンはつい数時間前まで、自分がこれほど速く走れるなどとは考えもしなかった。その頃はまだ、リードホルム城塞の内部に建てられた王宮、時の黎明館で、時代遅れな服を着せられて端女にも劣る扱いを受けていたのだ。
前日、ソレンスタム教団の修道士に先導されて王宮に到着したアウロラは、その壮麗さに目を奪われた。堅固な石造りだが装飾性に乏しいヘルストランド城に比べ、夜だというのに煌々と明かりが灯る時の黎明館は、まるで全体が教会の聖堂として造られたような荘厳さを湛えていた。
「あら、ずいぶん若い子じゃない。誰の好みかしら」
アウロラは侍従長だという女から、広くはなく質素だが居心地の良い二階の部屋を私室としてあてがわれ、今夜はこのまま休んでよいという厚遇を受けた。
その侍従長は地位に似つかわしくない香水が鼻につく妖艶な女で、まだ仕事をしているはずなのに微醺を帯びていた。違和感を感じつつも、アウロラは枕元に僅かな荷物を置き、十四年の人生で最も上質と思えるベッドで眠りについた。
翌日も、早朝から起こされて水くみや掃除をさせられる、といったことはなかった。だが中年の侍従が持ってきた着替えの服を見て、アウロラは強い不信感を抱く。それは古い絵画や書物でのみ目にしたことがある、古代の人々が着ていたという薄手の一枚布だった。
「それに着替えて、午後から始まる酒宴を待ちなさい」
「酒宴って、夜じゃなくて……?」
「そう。それまで何もしなくていい。羨ましいご身分だこと」
「こんなもの、どうやって着るのさ」
「やれやれ、着かたなんざ分からないか。無理もないね、そういうのをご所望なんだから」
侍従は面倒臭そうに着替えだけは手伝い、アウロラの着ていた粗末なチュニックとフード付きのストールをベッドに投げ捨てて部屋を出ていった。酒宴で歌でも披露するのか、あるいは侍従らしく酒や料理を運ぶのか、何も説明されていない。
前日の馥郁とした侍従長にいざなわれて広間に入ったアウロラは、まずアルコールと奇妙な紫煙の混じった臭気に軽い吐き気を覚えた。そこでは彼女と同じ一枚布をまとった女たちが、リードホルム軍高官の礼装に身を包んだ男たちにかしずき媚態を晒している。男たちの胸には翼竜と剣を意匠にした紋章が縫い付けられており、これがリードホルム近衛兵の証であることを彼女は後になってから知る。
狂宴の中で立ちすくむアウロラに、不快な猫なで声をかけるものがあった。
「お嬢さん、か可愛いじゃないか。新入りかい?」
軍装が全く似合わないほど太った男がアウロラを見初め、酒臭い息を吐きながら千鳥足で近寄ってきた。いきなり不躾に手を掴まれ、嫌悪感から反射的に手を振りほどく。男の顔が見る間に凶暴に歪み、アウロラの左頬を平手打ちした。
「ソレンスタムの奴ら、教育ができておらんではないか」
「短気を起こすなラーネリード。おお、お嬢さん、怖かっただろう。名はなんと言う?」
「……ア、アウロラ」
仲裁に入って名を聞いてきた男は太ったラーネリードを足蹴にすると、一枚布の隙間からアウロラの背中に手を差し込んだ。アウロラは悲鳴を上げて突き放そうとしたが、男は素早くその手首を掴み、頭上にひねり上げる。
「あまり手間を掛けさせるんじゃない。お前らはこのために、ソレンスタムで育てられたんだろう?」
「このため、って何……」
「……いいか、お前らは商品だ。金で買われたのだよ。人並みに抵抗するなど許されん身分なのだ。ここにいる女ども全員がそうだ」
捩じ切れそうな腕の痛みに耐えながら、アウロラは孤児院で同室だった三人の子どもたちの顔を思い出していた。――アニタ、アルフォンス、ミカル、あの子たちもまさか――
「ここの連中はみな、そのへんの凡人とは比べ物にならない力を持っている。お前ら下々の連中とは違う、神に選ばれた人間なのだ。……一見そうは見えなくともな」
足元で酔いつぶれているラーネリードを足先で小突いて嗤笑しながら、男はアウロラの腕をほどいた。掴まれた手首にはくっきりと赤い痣が残っている。
「おとなしくしていれば、死ぬまでこうして遊んで暮らせるのだぞ。男爵や子爵といった半端な貴族に買われた連中に比べれば、お前は遥かに幸運なのだ」
「どうしてそんな……」
「さあ跪け。払った金のぶんの仕事をしろ」
広間が下卑た笑いに包まれ、アウロラは悔しさで目尻が濡れた。それと同時に、腹の底から抑えがたい怒りが湧き上がってくる。
――生まれた境遇によって、いろんなことに不自由が出ることくらい分かってる。でも、だからといって、こんな奴らに生き方のすべてを決められたくない。
「……知らないわよ」
「何?」
「あんたたちが神に選ばれたとか、あたしたちがお金で売られたとか、そんなことで何もかも決めつけないで!」
「この小娘……!」
男が取り押さえようとするよりもアウロラは疾く飛び退き、手近にあった陶器の水差しを投げつけた。男の顔面で割れた水差しから赤紫色のワインが飛び散り、男は目を押さえてのたうち回っている。アウロラは耳鳴りを感じながら、横たわるラーネリードにも酒瓶を叩きつけ、呆気にとられた酒宴の列席者たちが怒号を上げるよりも先に広間を出た。
驚く侍従たちの間を駆け抜け、彼女が巻き起こす風で廊下に掛けてあった絵画が揺れる。リスが木を登るように階段を駆け上がり、自室の荷物と服を引っ掴んで戻ると、階下には騒然とした人だかりができている。アウロラは階段の中程から撥条で弾かれたように跳躍し、とちゅう髭面の男の顔を踏みつけてもう一度飛んだ。
重厚な両開きの扉を蹴破って庭園に出たアウロラは、走れば走るほどに速度が増してゆく不思議な湧出感を覚えていた。自分の体だけ、時計の振り子が早く往復している感覚がある。
怒りにまかせて広間で反旗を掲げたときも、これまで体感したことのない機敏さで動くことができた。――あてもなく逃げ出してきたけれど、もしもこれが噂に名高いリーパーの力なら、あの子たちを助けられるかも知れない。
わざわざ部屋に戻って回収してきた荷物には、仲間たちがくれた小さなキルトが入っている。アニタ、アルフォンス、ミカルの三人が思い思いの刺し縫いを施したものだ。
希望の萌芽に胸を高鳴らせ、アウロラ・シェルヴェンはヘルストランド城を疾駆した。
アウロラ・シェルヴェンはつい数時間前まで、自分がこれほど速く走れるなどとは考えもしなかった。その頃はまだ、リードホルム城塞の内部に建てられた王宮、時の黎明館で、時代遅れな服を着せられて端女にも劣る扱いを受けていたのだ。
前日、ソレンスタム教団の修道士に先導されて王宮に到着したアウロラは、その壮麗さに目を奪われた。堅固な石造りだが装飾性に乏しいヘルストランド城に比べ、夜だというのに煌々と明かりが灯る時の黎明館は、まるで全体が教会の聖堂として造られたような荘厳さを湛えていた。
「あら、ずいぶん若い子じゃない。誰の好みかしら」
アウロラは侍従長だという女から、広くはなく質素だが居心地の良い二階の部屋を私室としてあてがわれ、今夜はこのまま休んでよいという厚遇を受けた。
その侍従長は地位に似つかわしくない香水が鼻につく妖艶な女で、まだ仕事をしているはずなのに微醺を帯びていた。違和感を感じつつも、アウロラは枕元に僅かな荷物を置き、十四年の人生で最も上質と思えるベッドで眠りについた。
翌日も、早朝から起こされて水くみや掃除をさせられる、といったことはなかった。だが中年の侍従が持ってきた着替えの服を見て、アウロラは強い不信感を抱く。それは古い絵画や書物でのみ目にしたことがある、古代の人々が着ていたという薄手の一枚布だった。
「それに着替えて、午後から始まる酒宴を待ちなさい」
「酒宴って、夜じゃなくて……?」
「そう。それまで何もしなくていい。羨ましいご身分だこと」
「こんなもの、どうやって着るのさ」
「やれやれ、着かたなんざ分からないか。無理もないね、そういうのをご所望なんだから」
侍従は面倒臭そうに着替えだけは手伝い、アウロラの着ていた粗末なチュニックとフード付きのストールをベッドに投げ捨てて部屋を出ていった。酒宴で歌でも披露するのか、あるいは侍従らしく酒や料理を運ぶのか、何も説明されていない。
前日の馥郁とした侍従長にいざなわれて広間に入ったアウロラは、まずアルコールと奇妙な紫煙の混じった臭気に軽い吐き気を覚えた。そこでは彼女と同じ一枚布をまとった女たちが、リードホルム軍高官の礼装に身を包んだ男たちにかしずき媚態を晒している。男たちの胸には翼竜と剣を意匠にした紋章が縫い付けられており、これがリードホルム近衛兵の証であることを彼女は後になってから知る。
狂宴の中で立ちすくむアウロラに、不快な猫なで声をかけるものがあった。
「お嬢さん、か可愛いじゃないか。新入りかい?」
軍装が全く似合わないほど太った男がアウロラを見初め、酒臭い息を吐きながら千鳥足で近寄ってきた。いきなり不躾に手を掴まれ、嫌悪感から反射的に手を振りほどく。男の顔が見る間に凶暴に歪み、アウロラの左頬を平手打ちした。
「ソレンスタムの奴ら、教育ができておらんではないか」
「短気を起こすなラーネリード。おお、お嬢さん、怖かっただろう。名はなんと言う?」
「……ア、アウロラ」
仲裁に入って名を聞いてきた男は太ったラーネリードを足蹴にすると、一枚布の隙間からアウロラの背中に手を差し込んだ。アウロラは悲鳴を上げて突き放そうとしたが、男は素早くその手首を掴み、頭上にひねり上げる。
「あまり手間を掛けさせるんじゃない。お前らはこのために、ソレンスタムで育てられたんだろう?」
「このため、って何……」
「……いいか、お前らは商品だ。金で買われたのだよ。人並みに抵抗するなど許されん身分なのだ。ここにいる女ども全員がそうだ」
捩じ切れそうな腕の痛みに耐えながら、アウロラは孤児院で同室だった三人の子どもたちの顔を思い出していた。――アニタ、アルフォンス、ミカル、あの子たちもまさか――
「ここの連中はみな、そのへんの凡人とは比べ物にならない力を持っている。お前ら下々の連中とは違う、神に選ばれた人間なのだ。……一見そうは見えなくともな」
足元で酔いつぶれているラーネリードを足先で小突いて嗤笑しながら、男はアウロラの腕をほどいた。掴まれた手首にはくっきりと赤い痣が残っている。
「おとなしくしていれば、死ぬまでこうして遊んで暮らせるのだぞ。男爵や子爵といった半端な貴族に買われた連中に比べれば、お前は遥かに幸運なのだ」
「どうしてそんな……」
「さあ跪け。払った金のぶんの仕事をしろ」
広間が下卑た笑いに包まれ、アウロラは悔しさで目尻が濡れた。それと同時に、腹の底から抑えがたい怒りが湧き上がってくる。
――生まれた境遇によって、いろんなことに不自由が出ることくらい分かってる。でも、だからといって、こんな奴らに生き方のすべてを決められたくない。
「……知らないわよ」
「何?」
「あんたたちが神に選ばれたとか、あたしたちがお金で売られたとか、そんなことで何もかも決めつけないで!」
「この小娘……!」
男が取り押さえようとするよりもアウロラは疾く飛び退き、手近にあった陶器の水差しを投げつけた。男の顔面で割れた水差しから赤紫色のワインが飛び散り、男は目を押さえてのたうち回っている。アウロラは耳鳴りを感じながら、横たわるラーネリードにも酒瓶を叩きつけ、呆気にとられた酒宴の列席者たちが怒号を上げるよりも先に広間を出た。
驚く侍従たちの間を駆け抜け、彼女が巻き起こす風で廊下に掛けてあった絵画が揺れる。リスが木を登るように階段を駆け上がり、自室の荷物と服を引っ掴んで戻ると、階下には騒然とした人だかりができている。アウロラは階段の中程から撥条で弾かれたように跳躍し、とちゅう髭面の男の顔を踏みつけてもう一度飛んだ。
重厚な両開きの扉を蹴破って庭園に出たアウロラは、走れば走るほどに速度が増してゆく不思議な湧出感を覚えていた。自分の体だけ、時計の振り子が早く往復している感覚がある。
怒りにまかせて広間で反旗を掲げたときも、これまで体感したことのない機敏さで動くことができた。――あてもなく逃げ出してきたけれど、もしもこれが噂に名高いリーパーの力なら、あの子たちを助けられるかも知れない。
わざわざ部屋に戻って回収してきた荷物には、仲間たちがくれた小さなキルトが入っている。アニタ、アルフォンス、ミカルの三人が思い思いの刺し縫いを施したものだ。
希望の萌芽に胸を高鳴らせ、アウロラ・シェルヴェンはヘルストランド城を疾駆した。
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