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山賊討伐

5 分かたれた兄妹

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 夕暮れのラルセン山地、その片隅を流れるリラ川のほとりを、ノア・リードホルムは重い足取りで歩を進めていた。この川は王都ヘルストランドを流れるニブロ川の支流であり、流れを辿っていけばいずれ帰還できるはずだ。闇雲に山中を歩き回るよりも確実で、視界が開けているため奇襲も受けにくい。ただし大小の岩が敷き詰められた川岸は足場が悪く、川面まで灌木がせり出していて迂回路を取らなければならない場所も多かった。
 ノアは若く健康な体を授かっているが、それでも休みなく歩き続けるには険しすぎる道だった。彼は幼年期は病弱だったが、いちど破傷風はしょうふうで生死の境をさまよって以後は、壮健な体を手に入れたようだ。
 身を隠せそうな黒い大岩の陰に腰を下ろし、顔を被い隠していた覆蓋兜アーメットを脱いでしばし休憩を取ることにする。
 置かれた状況は危機的であるはずなのに、鳥のさえずりや蛙の声が響く森の様子は平和そのものだ。
 ノアはなぜか、ヘルストランドの王宮、時の黎明館ツー・グリーニンで過ごした幼年期を思い出していた。それは僅かな期間ではあったが、歳の近い姉や妹と共に、まっとうに子供らしく庭園や館のいたる所を駆け回った無邪気な年月だった。
 そののち、七歳からの十年間はノルドグレーンへの留学――むろん実情としては外交上の人質である――で過ごし、帰国したのは四年前だ。兄のアウグスティンは、口先では祝いの言葉を述べつつ不快感を示していたが、二人の姉妹は心から祝福してくれていたようだった。
「こんな時に昔のことを思い出すとは……げんの悪い」
 その独り言は、不運なことに正確な予言となった。ノアが覆蓋兜を被り立ち上がると、身を隠していた岩の左側から、くの字型に輝く刃が突き出された。身を挺して彼の身を守ったブリクストやネルソンの血を吸った、リースベットのオスカだ。
「動くなよ、若様」
「……絵に描いたような予兆だったようだな」
 二人の視界には部分的にしか、お互いの姿は入っていない。
 ノアは己が身を嗤笑ししょうしながらも覚悟を決めた。戦技で師事したブリクストを凌駕した相手である以上、勝てる要素はないと言ってよい。だが一太刀も交えずに負けるとしたら、何のために技を磨いてきたのか。
 ノアは剣に右手を添えた。
「おっと、抵抗しなけりゃ手荒な真似はしねえぜ。あんたにゃ人質になってもらおうと思ってんだ。じゃねえとこっちも商売あがったりでね」
「人質はずいぶん長くやったのでな……監視付きで塔の上に十年だ。そろそろ御免ごめんこうむりたいのだが」
「へえ! 思った以上に大したご身分のようだ」
「それに、私に金を払う価値があるかは怪しいものだ。むしろ嬉々として要求を拒絶するのではないかな」
「そん時ゃそん時だ。てめえの身の上話に興味はねえ」
 岩陰から飛び出したリースベットがおどりかかる。ノアは刀身の反った王家の宝剣を横に構え、振り下ろされる二本のオスカを受け止めた。
 この時初めて、彼は覆蓋兜の隙間から女山賊の顔を目の当たりにした。脳裏を幼年期の記憶が駆け巡り、意識が戦いから逸れる。リースベットはその隙を見逃さず、前蹴りでノアの右手を蹴り上げ、上空に剣を弾き飛ばした。手の痛みで我に返り、ふたたびリースベットの顔に視線を向ける。
「さあ、いい子だ若様。一緒に来てもらうぜ。おうちにはあたしらが連絡してやる」
 宙を舞っていた剣が、岩肌に弾かれて地面を転がった。
 リースベットがあざけりながら一歩前に出て、ノアの首筋に右のオスカを突きつける。ノアはなおも覆蓋兜の中から彼女の顔を見つめ、ひとつの確信を得た。
 つい先ほどまで回想していた、過ぎし日の記憶――姉のフリーダと並んで微笑む、妹の顔。四年前、その身を守ろうとしたが力及ばず、姿を消した第二王女。
「待て……君は、リースベットか」
「?! てめえ! なんであたしの名前を知ってやがる?!」
 予想だにしない言葉に驚き、リースベットが後ずさる。ティーサンリードの中でさえ、彼女の姓名を知っているものは少ないのだ。ノアが覆蓋兜を脱ぎ、白皙はくせきの素顔を見せた。
「リースベット、いやリース。まさかこんなところで……」
「お前……ノア、兄さん……」
「その純絹じゅんけんの髪、右腕のあざ、確かに覚えている。その痣は、病気になるまではなかったものだ」
「痣……? この痣を……」
「よくぞ生きていてくれた……」
 あらゆる生者を侮蔑ぶべつする邪鬼のような笑みが、リースベット・リードホルムから消え去った。ほんの一瞬、戸惑い泣き出しそうな少女の面影が顔をのぞかせる。
 ふたりとも言葉に詰まり、しばらくの間沈黙が続いた。
「いや。死んだよ、あんたの知ってるリースベット・リードホルムは」
「リース、何を言って」
「お姫様はもう死んだんだ。アウグスティンの追手がモニカさんを殺して、あたしに手をかけようとした後にな」
「コールバリが……」
 モニカ・コールバリは、リースベットの世話役をしていた侍従だった。
 四年前、長兄アウグスティンの手から逃れるため、リースベットとモニカはノアの手引でヘルストランドから落ち延びた。行方が分からなくなってからもノアは折を見てはその消息を追ったが、ついに今日までようとして知ることがなかったのだ。
「別にあんたを恨んじゃいないよ。やってくれたことにゃ感謝してる。でもお姫様の悲劇はそこで終わり、続きはないんだ」
「リース、今からでもいい。私がり成すから、城に戻る気はないか」
「……あんたの前にいるのは、生きるためには平気で盗みも殺しもする、ただの山賊女だ。アウグスティンとどっこいの外道の、な」
「いや、君は私の妹、リースベットだ。そのことに変わりはない」
「言ったろ、そいつはもう死んでるって。あたしがいるのは死者の世界だ。一度ここに落ちたら、二度と戻ることはできない。あたしらはみんな死者なんだよ」
「……リース、君の言っていることが分からない。現にこうして生きて、私と話しているじゃないか」
 リースベットの瞳からあらゆる輝きが消え、ひどく陰惨いんさんな顔になった。戦いに挑むときや嘲り笑うときとは違った、絶望の泥濘でいねいに沈んだ目だ。
「あんたは分からねえだろう。ゴミ以下のとして排除されて、自分が生きるために他の人間をモノとして排除しだす……その鎖に繋がれたら、もう鎖の一部としてしか生きられねえのさ」
「戻れないというのか……」
「あんたは守ってくれようとしたけど、アウグスティンみたいな奴は、邪魔なら邪魔だってだけの理由で、ゴミみたいに人を排除する。あとから手前勝手な理屈を並べてな」
「兄は……あいつは私が必ず、何とかする。あれと、宰相のエイデシュテットもだが」
「そうかい。あんたはリードホルムの王になるといい。ちょっとはマシな世の中になるかもな」
 リースベットはオスカを収め、右腕の痣を隠すように拱手こうしゅした。気鬱きうつな顔で髪を触る様子には、四年前の面影がまだ十分に残っている。
「もう遅いんだ」
「すまない……」
「謝んないで」
 二つの孤影こえいは俯いたまま言葉を失い、川の水とともに時間が流れていった。リースベットが小さくため息をつき、ようやく静寂が途切れる。
「……あたしに、あんたを人質に取るなんて真似はできない。遠いけど一人で帰って」
「リース、ならこれを持っていってくれ。悪趣味な宝石が散りばめてある。そこそこの値はつくだろう」
 ノアは落ちていた宝剣を拾い、腰から抜いた柄に収める。脱いだ覆蓋兜と共にリースベットに手渡すと、彼女は吐息混じりに笑った。
「まあ、何もなしじゃ頭領の名折れだしな。ありがたく頂いとくよ」
「今の私は、君にかける言葉を持っていない。このまま別れよう」
 リースベットは無言で頷き、この時を惜しむようにゆっくりときびすを返す。ふと何かを思い立って振り返り、ノアに唐突な質問を投げかけた。
「なあ、腕相撲は強くなったか?」
「……強くはなったが、おそらくリースには勝てない」
「だろうな」
 リースベットの瞳には、流れに揺れる川の水面が映っているようだった。
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