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簒奪女王
簒奪女王 終
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「大事な太子様のお世話、本当にあいつで大丈夫だったのでしょうか……」
「乳母はつけてあるし、エステルたちもいるわ。少なくとも、戦場にいるよりは良い育ち方をするでしょう。……それとルーデルス、マリウスは私の子であっても、王位を継ぐべき太子様などではないわ。塔に幽閉されていた私が誰とも知らぬ男との間に設けた、ローセンダール家の私生児よ」
「し、失礼いたしました」
「王家の胤などと持て囃されるより、そのほうがあの子の未来にも展望が開けるというもの……王など、議会にでも選ばせればいいわ」
ベアトリスは、遠く離れたヘルストランド城にある、リードホルム王家の血を引く我が子に思いを馳せた。マリウスはようやく一歳になったばかりだ。
リードホルム王家から即位する王は自分で最後になる――ノアはそう言っていた。また願望混じりに過ぎない、とも。ならばその言葉を、ベアトリスの手で現実のものとすることもできるだろう。
「いっそマリウスは……ダニエラさんに師事して画家にでもなったほうが、よほど充実した生を謳歌できることでしょう」
「ダニエラ・ノルデンフェルト侯爵令嬢ですか……飾らず率直な、素晴らしい方でした」
「そうね。正直なところ一年半の幽閉生活は、ダニエラさんに心を支えてもらった面が少なくないわ」
「肖像画の仕上げのためにヘルストランドを訪れた、と言っていましたが……今となれば、主公様の慰めどころを買って出るための口実だったとさえ思えます」
「でしょうね」
無駄話が過ぎたというように、ベアトリスは扇を開いた。戦女神の肖像がふたたびその目を開く。
「エル・シールケルの遊撃部隊は?」
「日ごとにノルドグレーン軍の野営地に夜襲をかけて回っているそうですが……信じがたい戦果を上げています」
「オラシオが認めただけの、あるいはそれ以上の力を持っているようね」
「仄聞するところでは、アウロラという女首領がたった一人で襲撃し、数十人の兵士を十分足らずで叩きのめしては闇夜に消えるのだとか。彼女の使う武器が刃物でないおかげで、死人は出ていないようですが……そのせいもあって、襲撃を受けたノルドグレーン兵士たちが、口々にその恐怖を触れ回るのだそうです。……ベアトリス女王に背く者を、赤き薔薇の鬼が襲うと……」
「赤き薔薇……? ああ、彼女の赤毛の髪を見て、そんな二つ名がつけられたのかしら」
「いったい何者なのでしょうか」
「彼女らは、ノア様の……いえ、リースベット王女の後継者よ」
ベアトリスはノルドグレーン侵攻にあたって、エル・シールケルにはスタインフィエレットの守りを固めるか、さもなくば一時退避するよう通達していた。アウロラたちはベアトリスの配下ではなく、あくまで鉱山開発を委託している取引相手に過ぎない――と同時に、ノアからベアトリスに託されたリースベットの忘れ形見でもある。そんな存在を戦争に利用することには、ベアトリスは後ろめたさを感じていた。だが首領のアウロラからは戦闘に協力すると返答があり、かつてリードホルム近衛兵を打ち破ったという名声に恥じぬ活躍を続けている。
エル・シールケルは、楽園から排除されたリースベットが作り上げた退避所だ。きっとこれからも、楽園から逃げ出したり追放された者たちはエル・シールケルに逃げ込むだろう。その生き方にどれほどの困難が伴うとしても、凍てついて生皮が裂けるような世界から隔てられた聖域は必要なのだ。
ベアトリスは彼女らのことが、すこしだけ羨ましいと思っていた。
笛のような音が聞こえた気がして、ベアトリスは窓の外に目をやった。薄青く晴れわたった空に大きな鳥が羽ばたいている。あれはハイイロチュウヒだ――ベアトリスがその名を思い出した刹那、空の色を帯びた猛禽は銀色の翼を風に乗せて飛び去った。
アウロラやエステル、リースベット、ダニエラ、マリウス、そしてノア――私は大切なもののことごとから離れて、今ここに立っている。だが隔絶されて在るリードホルム女王としての務めだけが、氷の楽園で凍てつく心を少しだけあたためてくれる。望む未来は遠すぎるけれど、不思議と重荷には感じていない。きっとこれが贖罪だからだ。敵同士として憎み合うべきだった人を愛したこと、その体の奥で疼き続ける罪を、ノアの遺志を継ぐことだけが鎮めてくれる。
人の思いが別の誰かに受け継がれるというのは、いつもこんなふうにつらく悲しいものなのだろうか?
私は受け手、継承者として、もしかしたら不適であるかもしれない。けれど少なくとも、もう失ってしまった人を思い続ける時間だけが、罪や恐怖から、私を自由にしてくれる。そのために私は、簒奪女王として世界を欲することになるだろう。
「乳母はつけてあるし、エステルたちもいるわ。少なくとも、戦場にいるよりは良い育ち方をするでしょう。……それとルーデルス、マリウスは私の子であっても、王位を継ぐべき太子様などではないわ。塔に幽閉されていた私が誰とも知らぬ男との間に設けた、ローセンダール家の私生児よ」
「し、失礼いたしました」
「王家の胤などと持て囃されるより、そのほうがあの子の未来にも展望が開けるというもの……王など、議会にでも選ばせればいいわ」
ベアトリスは、遠く離れたヘルストランド城にある、リードホルム王家の血を引く我が子に思いを馳せた。マリウスはようやく一歳になったばかりだ。
リードホルム王家から即位する王は自分で最後になる――ノアはそう言っていた。また願望混じりに過ぎない、とも。ならばその言葉を、ベアトリスの手で現実のものとすることもできるだろう。
「いっそマリウスは……ダニエラさんに師事して画家にでもなったほうが、よほど充実した生を謳歌できることでしょう」
「ダニエラ・ノルデンフェルト侯爵令嬢ですか……飾らず率直な、素晴らしい方でした」
「そうね。正直なところ一年半の幽閉生活は、ダニエラさんに心を支えてもらった面が少なくないわ」
「肖像画の仕上げのためにヘルストランドを訪れた、と言っていましたが……今となれば、主公様の慰めどころを買って出るための口実だったとさえ思えます」
「でしょうね」
無駄話が過ぎたというように、ベアトリスは扇を開いた。戦女神の肖像がふたたびその目を開く。
「エル・シールケルの遊撃部隊は?」
「日ごとにノルドグレーン軍の野営地に夜襲をかけて回っているそうですが……信じがたい戦果を上げています」
「オラシオが認めただけの、あるいはそれ以上の力を持っているようね」
「仄聞するところでは、アウロラという女首領がたった一人で襲撃し、数十人の兵士を十分足らずで叩きのめしては闇夜に消えるのだとか。彼女の使う武器が刃物でないおかげで、死人は出ていないようですが……そのせいもあって、襲撃を受けたノルドグレーン兵士たちが、口々にその恐怖を触れ回るのだそうです。……ベアトリス女王に背く者を、赤き薔薇の鬼が襲うと……」
「赤き薔薇……? ああ、彼女の赤毛の髪を見て、そんな二つ名がつけられたのかしら」
「いったい何者なのでしょうか」
「彼女らは、ノア様の……いえ、リースベット王女の後継者よ」
ベアトリスはノルドグレーン侵攻にあたって、エル・シールケルにはスタインフィエレットの守りを固めるか、さもなくば一時退避するよう通達していた。アウロラたちはベアトリスの配下ではなく、あくまで鉱山開発を委託している取引相手に過ぎない――と同時に、ノアからベアトリスに託されたリースベットの忘れ形見でもある。そんな存在を戦争に利用することには、ベアトリスは後ろめたさを感じていた。だが首領のアウロラからは戦闘に協力すると返答があり、かつてリードホルム近衛兵を打ち破ったという名声に恥じぬ活躍を続けている。
エル・シールケルは、楽園から排除されたリースベットが作り上げた退避所だ。きっとこれからも、楽園から逃げ出したり追放された者たちはエル・シールケルに逃げ込むだろう。その生き方にどれほどの困難が伴うとしても、凍てついて生皮が裂けるような世界から隔てられた聖域は必要なのだ。
ベアトリスは彼女らのことが、すこしだけ羨ましいと思っていた。
笛のような音が聞こえた気がして、ベアトリスは窓の外に目をやった。薄青く晴れわたった空に大きな鳥が羽ばたいている。あれはハイイロチュウヒだ――ベアトリスがその名を思い出した刹那、空の色を帯びた猛禽は銀色の翼を風に乗せて飛び去った。
アウロラやエステル、リースベット、ダニエラ、マリウス、そしてノア――私は大切なもののことごとから離れて、今ここに立っている。だが隔絶されて在るリードホルム女王としての務めだけが、氷の楽園で凍てつく心を少しだけあたためてくれる。望む未来は遠すぎるけれど、不思議と重荷には感じていない。きっとこれが贖罪だからだ。敵同士として憎み合うべきだった人を愛したこと、その体の奥で疼き続ける罪を、ノアの遺志を継ぐことだけが鎮めてくれる。
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おもしろい!
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ありがとうございます。
前作との兼ね合いで、しばらくは説明的な内容が続いてしまいますが、どうか気長にお付き合いください。