簒奪女王と隔絶の果て

紺乃 安

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簒奪女王

王城の炎 2

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 その夜はリードホルムの冬にしては妙に暖かく、星も月も厚い雲に隠れた暗い空からは、いつしか混じりの雪が降りはじめていた。灰色の古城ヘルストランド城は深い宵闇よいやみに包まれ、点在する篝火かがりびや廊下の燭台しょうだいの明かりが届かない場所は完全な暗黒となっている。
 そんな中、二人一組で夜間の警備に当たっていた衛兵が、暗闇にうごめく人影を見かけた。
「……そこ、誰かいるのか?」
 衛兵は松明たいまつをかざして呼びかけるが、人影は応えず暗闇に消えていった。
 むろんそれで問題がないはずがない。彼らの持ち場は、国王ノアの居室がある区画なのだ。
 二人の衛兵は顔を見合わせ、一人が槍を構えて人影を追った――が、衛兵は足を滑らせて体勢を崩し、石畳の床に手をついた。
「おい、なにやってんだ」
「痛てて……ちくしょう、何だこりゃ?」
「この匂い、亜麻あまか?」
 衛兵の手には、べっとりと亜麻仁あまに油がついていた。これが軍靴ぐんかの革の靴底を滑らせたのだ。
「相変わらず鼻が利くな、オーケルバリ精油商の息子殿は」
「ほっとけよカスパル。……しかし、苦しまぎれに油をまいて逃げたのか? ずいぶん変な盗賊だな」
「まあどうあれ、報告はせにゃならんだろ」
「そりゃそうだ」
 この、どこか間の抜けた様子が緊張感を欠き、報告に向かう衛兵カスパルの足どりは緩慢かんまんだった。
 だがこのとき実は、ヘルストランド城の中央棟二階のいたるところで、同じような事態が生じていたのだった。そのことがいち早く知られてさえいれば、ブリクストから王宮の警備を一任されていたマウリッツ・オデアン警備副主任などは、計画的な襲撃だと看破かんぱして迅速な対応をとったことだろう。
 この夜警備にあたっていた者たちは、あとになって一様いちように、みずからの悠長ゆうちょうさを後悔した。
 オデアン副主任のいる衛兵詰所つめしょに向かっていたカスパルは、まったく予想外なものにその道ゆきをさえぎられた。カスパルはそのとき、真っ暗だった廊下の先がぼんやりと、そして徐々に明るくなってきていることに違和感を覚えていた。
「ほ……炎!?」
 組積造そせきぞうの廊下の向こうからカスパルのほうへ、規則正しく曲がり角を曲がって炎が迫ってくる。炎は床から立ちのぼって壁にも広がり、ヘルストランド城の暗闇を煌々こうこうと照らす。
「さっきの油、まさかこのために……」
 燃えさかる炎は火の壁となって人の出入りを阻む。その炎の中心にいるのは、ほかならぬ国王ノアだった。

 炎に包まれゆく王宮の一角で、なめし革のローブに身を包んだ人影が五つ、身を寄せ合っている。みな上背は低く、屈強な男は含まれていないようだ。
 ローブのフードで顔を覆った女が、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「大丈夫なのでしょうか、このようなことをして……」
「何を心配することがあろうか。この区画の構造とノアの部屋までの道すじは、わたしの頭に入っている」
「いえ、そうではなく……」
「なんだ、では後顧こうこうれえがあるとでもいうのか? ……やはりどうも女たちは怯懦きょうだに過ぎるな。いいか、この火でヘルストランド城を燃やし尽くすことはできん。だが、燃え上がる王宮を見た誰もが、ノアの落日を胸に強く焼きつけることだろう。そしてえあるアッペルトフトの血に連なるこのわたしこそ、貴族の連合体であるリードホルムの王にふさわしい、と皆に気づかせるのだ」
「は、はい。王太子おうたいし様」
 人影のひとつがすっくと立ち上がった。そのまだあどけなさの残る細面ほそおもての顔は、かつてベアトリスとも幾度か言葉をかわしたことのもある、後宮からの使者ラーシュだった。
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