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簒奪女王
憎悪の向こう 2
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ベアトリスがリードホルム城での生活に慣れてきた頃、ラーゲルフェルトはひそかにノルドグレーンの首都ベステルオースに潜入していた。そこで彼は行商人のふりをして各地の酒場や取引所に顔を出しては、益体もない酒場政談をよそおって、ある理論を吹聴して回った。
「知ってるかい? 飛ぶ鳥を落とす勢いだったベアトリス・ローセンダールが、突然リードホルム王に嫁いだって」
ある日ラーゲルフェルトは、リンデスゴートン大通りのはずれにある酒場で、一人で酒をあおっていた。そして行商人風の男が食事をとっているのを見つけると、上機嫌な酔客のふりをして気軽に話しかけた。
「……あんた、それ知らねえ奴なんているのか?」
「他所から来たならもしやと思ってね。まあ飲みなよ。俺のおごりだ」
ラーゲルフェルトはそう言って、給仕係にビールを頼んだ。この酒場で供されるビールは、エングブロム醸造所という酒造業者で作られた高級品だ。
「悪いね。……大口の取引でも決まったかい?」
「そんなとこさ」
「うらやましいねえ。こっちはそのベアトリス・ローセンダールが悩みの種さ」
「そりゃまた何で」
「この状況下だぜ? ランバンデッドを通れなくて困ってんだよ。せっかくフィスカルボであれこれ買い付けてきたってのに」
「そりゃ杞憂ってもんだ。ベアトリス・ローセンダールは、俺らみたいな行商人に交易都市ランバンデッドの門を閉ざしちゃいない」
「そうなのか? リードホルムに嫁いだローセンダールは県令の地位を失って、いまランバンデッドは最高議会の管理下に置かれてるって聞いたが……」
「実際はランバンデッドの手前のグラディスにローセンダールの私兵が駐留してる。議会は手を出せてないよ」
「普通に通してくれるのか……?」
「まあ関所が厳しくなってはいるようだけどな。怪しいものを運んでなきゃ通してくれるよ」
「じゃあ、グラディスに近寄るなっていう産業省の通達は、ありゃ一体何なんだ?」
「聞くところによると、最高議会とベアトリス・ローセンダールが衝突してたらしいぜ……」
もともとノルドグレーン政界内では一年以上前から、ベアトリスとリードホルム王に政略結婚の話があった。この計画の段階では、王妃となったベアトリスはグラディスの町を含むオースリバリエット県令の資格を失い、ヴァルデマルはそれを我がものにしようと目論んでいたのだ。だがベアトリスは王妃となっても、所領をいっさい手放さなかった。
このことによってノルドグレーン社会の上層では、根源的で深刻な、制度に対する疑念が生まれていた。つまり――武力による裏付けがあったにせよ――公国憲章に反しても所領を保有し続けられるのなら、公国によって任じられている県令とはいったい何なのか。
ベアトリスが私物のようにグラディスとランバンデッドを持っていってしまった事実が意味するのは、ノルドグレーン公国という制度の崩壊だった。
「知ってるかい? 飛ぶ鳥を落とす勢いだったベアトリス・ローセンダールが、突然リードホルム王に嫁いだって」
ある日ラーゲルフェルトは、リンデスゴートン大通りのはずれにある酒場で、一人で酒をあおっていた。そして行商人風の男が食事をとっているのを見つけると、上機嫌な酔客のふりをして気軽に話しかけた。
「……あんた、それ知らねえ奴なんているのか?」
「他所から来たならもしやと思ってね。まあ飲みなよ。俺のおごりだ」
ラーゲルフェルトはそう言って、給仕係にビールを頼んだ。この酒場で供されるビールは、エングブロム醸造所という酒造業者で作られた高級品だ。
「悪いね。……大口の取引でも決まったかい?」
「そんなとこさ」
「うらやましいねえ。こっちはそのベアトリス・ローセンダールが悩みの種さ」
「そりゃまた何で」
「この状況下だぜ? ランバンデッドを通れなくて困ってんだよ。せっかくフィスカルボであれこれ買い付けてきたってのに」
「そりゃ杞憂ってもんだ。ベアトリス・ローセンダールは、俺らみたいな行商人に交易都市ランバンデッドの門を閉ざしちゃいない」
「そうなのか? リードホルムに嫁いだローセンダールは県令の地位を失って、いまランバンデッドは最高議会の管理下に置かれてるって聞いたが……」
「実際はランバンデッドの手前のグラディスにローセンダールの私兵が駐留してる。議会は手を出せてないよ」
「普通に通してくれるのか……?」
「まあ関所が厳しくなってはいるようだけどな。怪しいものを運んでなきゃ通してくれるよ」
「じゃあ、グラディスに近寄るなっていう産業省の通達は、ありゃ一体何なんだ?」
「聞くところによると、最高議会とベアトリス・ローセンダールが衝突してたらしいぜ……」
もともとノルドグレーン政界内では一年以上前から、ベアトリスとリードホルム王に政略結婚の話があった。この計画の段階では、王妃となったベアトリスはグラディスの町を含むオースリバリエット県令の資格を失い、ヴァルデマルはそれを我がものにしようと目論んでいたのだ。だがベアトリスは王妃となっても、所領をいっさい手放さなかった。
このことによってノルドグレーン社会の上層では、根源的で深刻な、制度に対する疑念が生まれていた。つまり――武力による裏付けがあったにせよ――公国憲章に反しても所領を保有し続けられるのなら、公国によって任じられている県令とはいったい何なのか。
ベアトリスが私物のようにグラディスとランバンデッドを持っていってしまった事実が意味するのは、ノルドグレーン公国という制度の崩壊だった。
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