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ノルドグレーン分断
駆け引き 4
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都市間の移動に多大な困難が伴う時期に、ベアトリスはわざわざヘルストランドにやってきた。その事実だけでも、ただならぬ用向きを秘めての来訪であることは、ブリクストやノアに見透かされていたかもしれない。
「ところで、いったいどういう用向きなのだ?」
「……!」
ブリクストが職掌を越えた質問を投げかけてきたことは、ベアトリスにとって予想外だった。これは、ヘルストランド郊外の学校建設予定地で会った頃は突き放したような態度だった彼が、打ち解けてきたことのあかしである。ノアへの取り次ぎに手心を加えてくれたことと、表裏を成す変化だろう。
ベアトリスが押し黙っていると、ブリクストは諒察したようにうなずいた。
「……そうか。あまり訊かれたくない話だ、ということか」
「いずれ知る時が来るでしょう。もっともその時には、あなたはノア王から直接聞いているでしょうけれど」
これまでベアトリスがヘルストランド城で目にした部屋といえば、明るく西日が差し込み天井のフレスコ画や壁の化粧漆喰に神々の姿が彫られた豪壮な謁見の間や、薄青色の御影石で覆われた幽幻な雰囲気の会議室だった。これらは暗い灰色の、堅牢だが質素な組積造の外装や廊下とは一線を画す、特別な美的造形を備えた催事場である。
今回はそうした晴れがましい場所でなく、渡り廊下で隔てられた別棟の部屋に案内された。どうやらその一帯は、ヘルストランド城に暮らす人々の居住区域のようだった。
大柄な女中がひと一人分の小ぶりな扉を開けると、室内から温かい空気が流れてきた。内部はワニス塗りの板壁が貼られ、石造りの部屋にくらべ見た目にも温かみが感じられる。入って左側の壁面は一角が凹んでおり、カーテンが掛けられた長めのソファが設えてある。そこに、氷河王ノアが座っていた。寝間着ではないがゆったりとした上着にローブを羽織り、身を起こしたばかりなのか、長い髪の右側には癖がついてわずかに波打っている。
眠そうな顔をしていたノアが、ベアトリスの姿を認めると笑顔を作ってみせた。
「久しいな、フローケン・ローセンダール」
「……あの夏以来ですわね、ノア様」
「そうだな。あなたにしてはずいぶん長く、ヘルストランドを留守にしたものだ」
これはノアの言うとおりだった。去年までベアトリスは、ふた月と開けずにヘルストランドに顔を見せていた。それが今年になってからは足が遠のき、ノアの唐突なランバンデッド視察がなければ、半年近く彼と顔を合わせる機会はなかっただろう。この疎遠は無論ベアトリスの本意ではなく、リードホルムにおけるローセンダール家の地歩が固まりつつあったことと、ノルドグレーン内で多くの出来事があったことが原因だ。
「お時間をいただけたこと、深謝いたします。ですが、お加減はよろしいのですか……?」
「他ならぬあなたの話を聞くぐらいのことはできるさ。もっとも、あとになって内容を忘れているかも知れないがな」
ノアは自嘲的な皮肉を言って笑うが、その声にはやはり力がない。
「人払いをすべきかな?」
「できれば……ですが、さほど意味のないことなのでは?」
「その点も織り込み済み、ということか」
「ええ」
リードホルム城内でベアトリスがノアと会うとき、必ず誰かが聞き耳を立てている――これはエル・シールケルの副長テオドル・バックマンが授けた警句だった。
「ところで、いったいどういう用向きなのだ?」
「……!」
ブリクストが職掌を越えた質問を投げかけてきたことは、ベアトリスにとって予想外だった。これは、ヘルストランド郊外の学校建設予定地で会った頃は突き放したような態度だった彼が、打ち解けてきたことのあかしである。ノアへの取り次ぎに手心を加えてくれたことと、表裏を成す変化だろう。
ベアトリスが押し黙っていると、ブリクストは諒察したようにうなずいた。
「……そうか。あまり訊かれたくない話だ、ということか」
「いずれ知る時が来るでしょう。もっともその時には、あなたはノア王から直接聞いているでしょうけれど」
これまでベアトリスがヘルストランド城で目にした部屋といえば、明るく西日が差し込み天井のフレスコ画や壁の化粧漆喰に神々の姿が彫られた豪壮な謁見の間や、薄青色の御影石で覆われた幽幻な雰囲気の会議室だった。これらは暗い灰色の、堅牢だが質素な組積造の外装や廊下とは一線を画す、特別な美的造形を備えた催事場である。
今回はそうした晴れがましい場所でなく、渡り廊下で隔てられた別棟の部屋に案内された。どうやらその一帯は、ヘルストランド城に暮らす人々の居住区域のようだった。
大柄な女中がひと一人分の小ぶりな扉を開けると、室内から温かい空気が流れてきた。内部はワニス塗りの板壁が貼られ、石造りの部屋にくらべ見た目にも温かみが感じられる。入って左側の壁面は一角が凹んでおり、カーテンが掛けられた長めのソファが設えてある。そこに、氷河王ノアが座っていた。寝間着ではないがゆったりとした上着にローブを羽織り、身を起こしたばかりなのか、長い髪の右側には癖がついてわずかに波打っている。
眠そうな顔をしていたノアが、ベアトリスの姿を認めると笑顔を作ってみせた。
「久しいな、フローケン・ローセンダール」
「……あの夏以来ですわね、ノア様」
「そうだな。あなたにしてはずいぶん長く、ヘルストランドを留守にしたものだ」
これはノアの言うとおりだった。去年までベアトリスは、ふた月と開けずにヘルストランドに顔を見せていた。それが今年になってからは足が遠のき、ノアの唐突なランバンデッド視察がなければ、半年近く彼と顔を合わせる機会はなかっただろう。この疎遠は無論ベアトリスの本意ではなく、リードホルムにおけるローセンダール家の地歩が固まりつつあったことと、ノルドグレーン内で多くの出来事があったことが原因だ。
「お時間をいただけたこと、深謝いたします。ですが、お加減はよろしいのですか……?」
「他ならぬあなたの話を聞くぐらいのことはできるさ。もっとも、あとになって内容を忘れているかも知れないがな」
ノアは自嘲的な皮肉を言って笑うが、その声にはやはり力がない。
「人払いをすべきかな?」
「できれば……ですが、さほど意味のないことなのでは?」
「その点も織り込み済み、ということか」
「ええ」
リードホルム城内でベアトリスがノアと会うとき、必ず誰かが聞き耳を立てている――これはエル・シールケルの副長テオドル・バックマンが授けた警句だった。
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