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ノア王の心裏
欺瞞の空音 8
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「本国では、弱みを見せるとそこにつけ込んでくる政敵にばかり相対していますから。主公様がその気になって装えば、我々でもすぐには見破れないでしょう」
「はあ、ずいぶん無理してんのねえ」
ダニエラはベアトリスの寝顔を見て、ふたたびため息をついた。
ここ二年ほどのベアトリスはグラディス・ローセンダール家の所領や資産を守るために、所々方々を休みなく駆け回っていた。勢力拡大を続けていた四年前までと比べれば、これは明らかな停滞である。この停滞は、ベアトリス個人の能力に依存した統治・運営が限界点に達していることの証左であり、彼女自身もそのことを実感してはいた。だが新たな体制には移行できないまま、ついには今日、体力的な限界点を迎えてしまったのだ。ゆいいつ幸運だったのは、昏倒したのが彼女に悪意を持つ者がいない場所だったことである。
眠り続けるベアトリスの横顔を見ながら木炭画の細かな手直しをしていたダニエラが、ふとアルバレスに向き直った。
「ところで、あんたがオラシオ・ロードストレームだね?」
「その名をご存知でしたか。今は姓をアルバレスと改めましたが……」
「へえ、改名したの。まあ名前はどうでもいいさ。その長身と浅黒い肌に、彫刻みたいな顔立ち。噂通りだね」
「おや、もしや私を絵のモデルに?」
どこか妖しげに目を輝かせるダニエラに、アルバレスは涼やかにうそぶいた。
「いや。……昔だったら、今夜のベッドに誘ったんだけれど」
「は!?」
アリサが裏返った声を上げ、信じられないという顔で立ち上がった。
「や、やめたほうがいいですよダニエラさん! この人はそっちこっちで……さっきだって女中を口説いてたんですから!」
「その、誰彼かまわず……みたいな言い方はやめてもらえますか、アリサ。ヨハンナはなかなかの才媛、レディですよ」
「そういう問題じゃないでしょう!」
ダニエラが愉快そうに声を上げて笑う。
「冗談だよ」
「それは残念」
「まあ、フランシスと結婚したからね。あいつの不利益になることはやらないよ。特に女が不貞を働いたときの、教会のうるささは異様だからね」
「個々人の情合と性愛が違っていたとして、それはほんらい他者が容喙すべきことではないのですが……」
「まったくだね」
「ええ……?」
なぜか共感しあっているダニエラとアルバレスに、アリサは困惑の色を隠せない。
「フランシスはこれまでの素行不良のせいで、社交界じゃ奇異の目で見られてるんだ。これであたしが浮気までしたら、立ってるだけで笑い種だろうね」
「意外ですね。あのフランシスさんが、社交界なんて気にするって……あっ! すいません、気を悪くされたら」
ルーデルスが横目でアリサを見やり、アリサは慌てて食言を訂正する。
「いいよ。確かにそう見えるだろうさ。あの、玄関先で魚を抱えてた男が社交界なんてね」
ダニエラは気にしていないというように笑った。
「ダーリンはあれで、カッセルじゃ王子の教育係を任されてるんだ。見聞を広めるためにも、社交界での人脈づくりは欠かせないのさ」
「へえ、すごい」
「もちろん彼一人じゃなくて、教育係は他に何人もいるけどね……」
ベアトリスの病状に心配がないという事実が、同室したダニエラたちの雰囲気を自然と和ませた。休息のための夜は更けてゆき、まだ冷たいストラ・ヴァットネット地方の夜気が、彼ら彼女らを心地よく深い眠りにいざなう。
「はあ、ずいぶん無理してんのねえ」
ダニエラはベアトリスの寝顔を見て、ふたたびため息をついた。
ここ二年ほどのベアトリスはグラディス・ローセンダール家の所領や資産を守るために、所々方々を休みなく駆け回っていた。勢力拡大を続けていた四年前までと比べれば、これは明らかな停滞である。この停滞は、ベアトリス個人の能力に依存した統治・運営が限界点に達していることの証左であり、彼女自身もそのことを実感してはいた。だが新たな体制には移行できないまま、ついには今日、体力的な限界点を迎えてしまったのだ。ゆいいつ幸運だったのは、昏倒したのが彼女に悪意を持つ者がいない場所だったことである。
眠り続けるベアトリスの横顔を見ながら木炭画の細かな手直しをしていたダニエラが、ふとアルバレスに向き直った。
「ところで、あんたがオラシオ・ロードストレームだね?」
「その名をご存知でしたか。今は姓をアルバレスと改めましたが……」
「へえ、改名したの。まあ名前はどうでもいいさ。その長身と浅黒い肌に、彫刻みたいな顔立ち。噂通りだね」
「おや、もしや私を絵のモデルに?」
どこか妖しげに目を輝かせるダニエラに、アルバレスは涼やかにうそぶいた。
「いや。……昔だったら、今夜のベッドに誘ったんだけれど」
「は!?」
アリサが裏返った声を上げ、信じられないという顔で立ち上がった。
「や、やめたほうがいいですよダニエラさん! この人はそっちこっちで……さっきだって女中を口説いてたんですから!」
「その、誰彼かまわず……みたいな言い方はやめてもらえますか、アリサ。ヨハンナはなかなかの才媛、レディですよ」
「そういう問題じゃないでしょう!」
ダニエラが愉快そうに声を上げて笑う。
「冗談だよ」
「それは残念」
「まあ、フランシスと結婚したからね。あいつの不利益になることはやらないよ。特に女が不貞を働いたときの、教会のうるささは異様だからね」
「個々人の情合と性愛が違っていたとして、それはほんらい他者が容喙すべきことではないのですが……」
「まったくだね」
「ええ……?」
なぜか共感しあっているダニエラとアルバレスに、アリサは困惑の色を隠せない。
「フランシスはこれまでの素行不良のせいで、社交界じゃ奇異の目で見られてるんだ。これであたしが浮気までしたら、立ってるだけで笑い種だろうね」
「意外ですね。あのフランシスさんが、社交界なんて気にするって……あっ! すいません、気を悪くされたら」
ルーデルスが横目でアリサを見やり、アリサは慌てて食言を訂正する。
「いいよ。確かにそう見えるだろうさ。あの、玄関先で魚を抱えてた男が社交界なんてね」
ダニエラは気にしていないというように笑った。
「ダーリンはあれで、カッセルじゃ王子の教育係を任されてるんだ。見聞を広めるためにも、社交界での人脈づくりは欠かせないのさ」
「へえ、すごい」
「もちろん彼一人じゃなくて、教育係は他に何人もいるけどね……」
ベアトリスの病状に心配がないという事実が、同室したダニエラたちの雰囲気を自然と和ませた。休息のための夜は更けてゆき、まだ冷たいストラ・ヴァットネット地方の夜気が、彼ら彼女らを心地よく深い眠りにいざなう。
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