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ノア王の心裏
欺瞞の空音 7
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「あ……」
揺れているのはランタンではなく、ベアトリスの視界そのものだ。視界が黒くにごる。世界が遠のき、ベアトリスは椅子から崩れ落ちた。ダニエラのおどろく声が遠くで聞こえる。
「こんな話はどうです? ノルドグレーン上流階級のご婦人方は、ある秘密結社を作っています。こんな新月の夜に秘密の会合を持ち、反ソレンスタムの儀式を……」
「まあ、なんて涜神的」
廊下の突き当たりにある窓から庭園の池を眺めながら、オラシオ・アルバレスが頬を赤らめた若い女と話をしている。女のほうは、昼間サロンにティーセットを運んでいた女中のヨハンナだ。
「隊長! こんなところで油売ってる!」
なまめかしい雰囲気の二人のもとに、アリサが血相を変えて駆け寄ってきた。
「……アリサ、あなたは空気を読めないところがありますね」
「呑気なこと言ってないで来てください。主公様が倒れたんです!」
「それは……! ヨハンナ、すみませんが急用です。続きはまた後で」
アルバレスはヨハンナに色目を使うとすぐに、居住まいを正してアリサに向き直る。名残惜しそうな顔のヨハンナを残し、ベアトリスを守るふたりはせわしく走り去った。
「様子はどうです?」
アルバレスが部屋に入ると、ダニエラとルーデルスがベッドに眠るベアトリスを見守っていた。ベアトリスは穏やかな寝顔で静かに寝息を立てている。ベッドの側には老人が掛けており、彼はノエルデンフェルト家の執事だ。オーモットの町まで医師を呼びに行くのは時間がかかるため、さしあたり医術の心得がある彼が診察にあたっていた。彼の見立てでは疲労以上のものではないようだ。腕の傷口もおおむね癒合しており、感染症などの心配もないという。
「念のため、町に医師を呼びに向かっています。ノルデンフェルトの名を出せば、この時間でも来てくれるでしょうが……おそらく見立ては変わりますまい」
「助かったよハンス。ちょうどいいときにいてくれたね」
「あとではちみつ入りのワインなどお持ちしましょうかな」
「ハンス殿。ローセンダール家の家臣を代表して、お礼申し上げます」
「ずいぶん無理をなされたようだが……お若い方だ、安静にしていれば数日で回復することでしょう」
アルバレスが長身の腰をかがめて頭を下げる。物腰の柔らかな老執事はそう忠告をのこして部屋を出ていった。
「すまなかったね。親父を出し抜くために言ったつもりが、本当に、それも倒れるほど疲れてたなんて」
自分まで憔悴したかのようなため息をつき、ダニエラがアルバレスに話しかけた。食堂でノルデンフェルト侯爵に向けて言った「ベアトリスは疲れている」という嘘が真実であるとは、そのときのダニエラは知らなかったのだ。
「どうか、お気に病まれませぬよう。体が弱い方ではないのですが、怪我を押して忙しく動き続けていましたから……」
「悪かったよ。そんな素振りは見えなかったもんでね」
「それはどちらかと言うと、こちらが責を負うべきことです」
「……病気になったことが問題だっていうの? それはあんまり内罰的じゃない?」
「えーと、主公様は、過度に気丈にふるまう方なんです。ダニエラさんが、体調が悪いことを見抜けなかったのも無理はありません」
「そうなの?」
「本国では、弱みを見せるとそこにつけ込んでくる政敵にばかり相対していますから。主公様がその気になって装えば、我々でもすぐには見破れないでしょう」
「はあ、ずいぶん無理してんのねえ」
ダニエラはベアトリスの寝顔を見て、ふたたびため息をついた。
揺れているのはランタンではなく、ベアトリスの視界そのものだ。視界が黒くにごる。世界が遠のき、ベアトリスは椅子から崩れ落ちた。ダニエラのおどろく声が遠くで聞こえる。
「こんな話はどうです? ノルドグレーン上流階級のご婦人方は、ある秘密結社を作っています。こんな新月の夜に秘密の会合を持ち、反ソレンスタムの儀式を……」
「まあ、なんて涜神的」
廊下の突き当たりにある窓から庭園の池を眺めながら、オラシオ・アルバレスが頬を赤らめた若い女と話をしている。女のほうは、昼間サロンにティーセットを運んでいた女中のヨハンナだ。
「隊長! こんなところで油売ってる!」
なまめかしい雰囲気の二人のもとに、アリサが血相を変えて駆け寄ってきた。
「……アリサ、あなたは空気を読めないところがありますね」
「呑気なこと言ってないで来てください。主公様が倒れたんです!」
「それは……! ヨハンナ、すみませんが急用です。続きはまた後で」
アルバレスはヨハンナに色目を使うとすぐに、居住まいを正してアリサに向き直る。名残惜しそうな顔のヨハンナを残し、ベアトリスを守るふたりはせわしく走り去った。
「様子はどうです?」
アルバレスが部屋に入ると、ダニエラとルーデルスがベッドに眠るベアトリスを見守っていた。ベアトリスは穏やかな寝顔で静かに寝息を立てている。ベッドの側には老人が掛けており、彼はノエルデンフェルト家の執事だ。オーモットの町まで医師を呼びに行くのは時間がかかるため、さしあたり医術の心得がある彼が診察にあたっていた。彼の見立てでは疲労以上のものではないようだ。腕の傷口もおおむね癒合しており、感染症などの心配もないという。
「念のため、町に医師を呼びに向かっています。ノルデンフェルトの名を出せば、この時間でも来てくれるでしょうが……おそらく見立ては変わりますまい」
「助かったよハンス。ちょうどいいときにいてくれたね」
「あとではちみつ入りのワインなどお持ちしましょうかな」
「ハンス殿。ローセンダール家の家臣を代表して、お礼申し上げます」
「ずいぶん無理をなされたようだが……お若い方だ、安静にしていれば数日で回復することでしょう」
アルバレスが長身の腰をかがめて頭を下げる。物腰の柔らかな老執事はそう忠告をのこして部屋を出ていった。
「すまなかったね。親父を出し抜くために言ったつもりが、本当に、それも倒れるほど疲れてたなんて」
自分まで憔悴したかのようなため息をつき、ダニエラがアルバレスに話しかけた。食堂でノルデンフェルト侯爵に向けて言った「ベアトリスは疲れている」という嘘が真実であるとは、そのときのダニエラは知らなかったのだ。
「どうか、お気に病まれませぬよう。体が弱い方ではないのですが、怪我を押して忙しく動き続けていましたから……」
「悪かったよ。そんな素振りは見えなかったもんでね」
「それはどちらかと言うと、こちらが責を負うべきことです」
「……病気になったことが問題だっていうの? それはあんまり内罰的じゃない?」
「えーと、主公様は、過度に気丈にふるまう方なんです。ダニエラさんが、体調が悪いことを見抜けなかったのも無理はありません」
「そうなの?」
「本国では、弱みを見せるとそこにつけ込んでくる政敵にばかり相対していますから。主公様がその気になって装えば、我々でもすぐには見破れないでしょう」
「はあ、ずいぶん無理してんのねえ」
ダニエラはベアトリスの寝顔を見て、ふたたびため息をついた。
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