簒奪女王と隔絶の果て

紺乃 安

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ノア王の心裏

仮面 1

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 イェルケル・オットソンとの決闘にからくも勝利したベアトリス・ローセンダールは、すぐに新興交易都市ランバンデットへと出発した。左腕の傷が癒えるのも待たずに港湾都市フィスカルボを離れたのは、リードホルム王ノアとの重要な交渉が迫っていたからだ。
 数年で勢力を急拡大したグラディス・ローセンダール家の所領は、慢性的な人手不足に悩まされている。その解消のため、リードホルム王国から一時的労働者を迎え入れたい、という意向をノア王に申し入れていた。同国においては、こうした徴募ちょうぼも自由に行うことはできない。すべての国民は、リードホルム王の所有物である、ということになっているのだ。
 郊外に生まれたものは土地に、市街に生まれたものは家の職にしばられているのが、リードホルムの身分制である。その端的なものは農業従事者だ。移動の自由はなく、生涯しょうがい、――王から下賜かしされた――領主の土地で労働を提供する。
 他方ノルドグレーンはもう少し先駆的で、すくなくとも居住地の移動は認められている。実情としては、就ける業種の制限などもあり自由とは程遠いが、いずれの生がより希望に満ちているかは言うまでもないだろう。たとえば家柄や制度によって結婚を禁じられた若い男女が、手に手をとって故郷を離れ、見知らぬ土地で新たな生を得ることがかなうのだから。
 リードホルムの農民のような状態を農奴のうどと呼び、ノルドグレーンのそれを隷農れいのうと呼ぶ。この違いは、とくにノルドグレーン社会の上層では明確に意識されており、ごく最近ある人物がこのように用いた。
「まったく、これでは隷農と同じではないか」
 みずからの立場を、貨幣地代じだいを納め続ける農民のようだと自嘲じちょうしたのは、イェルケル・オットソンだった。
「そうは言うがな、ヴァルデマルの捨て石にならなかっただけというものだ」
「だったとしても、グラディスの小娘ごときの風下になど立てるものか」
「まだ言うか……私の従兄弟いとこ殿が、ここまで強情なやつだったとは」
 エクレフは呆れたように笑う。
「今はまだ駄目だ。だがこれで終わりではないぞ。シベリウスと共同で準備していた事業もある」
「……その意気だ」
 事ここに至って初めて、オットソンはベアトリスという存在を、対等な競争相手と認めたのだろう。

 リードホルム王が自国民を労働力として送り出す、という事業は前例がなく、それだけに高官たちとの調整にも時間を要していた。ベアトリスがこうした困難な手段で労働力を求めなければならなかったのは、ノルドグレーン内からの確保が難しかったことに起因する。それは仇敵きゅうてきであるヴァルデマル・ローセンダールが諸侯しょこうに圧力をかけ、ベアトリスへの協力をためらわせたからだ。彼の反感を買ってまでベアトリスに協力しようという人士の数は少ない。ノルドグレーンにおいて最大の権勢を誇るヴァルデマルに反旗はんきひるがえしたために、ベアトリスは母国にありながら、多数の敵対者に囲まれている。

 ベアトリスは、馬車の窓から見えるノーラント山脈の白い山稜さんりょうを眺めながら、自身のおかれた苦境を嘲笑ちょうしょうするようにため息をついた。初夏のランバンデットは冷たく心地よい風が吹き、遠くの山肌はまだ雪に覆われている。
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