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フィスカルボの諍乱
矛盾の人 4
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ノルシュトレームみずからが言ったとおり、たしかにオリーヴィアの恩に報いる提言だったと言えるだろう。もしもベアトリスが狭量な封建領主であったなら、ノルシュトレームはその場で命を奪われていたかもしれない。老哲学者の命を賭した提言によって、ベアトリスは自身の“敵対者”に対する理解をより深めることができたのだ。ひとことで敵対と言っても、その言葉が内包するものがいかに多様であるのかを。
ベアトリスは思考に整理をつけ、食堂に戻ってきた。ノルシュトレームにいくつか質問がしたかったのだが、そこには老哲学者の姿はすでになく、かわりに見慣れぬ若い男が座っていた。たしか助手としてノルシュトレームに随行してきていた男だ。背は高いのにどことなく貧相な印象のあるその男は、ノルシュトレームのものらしき噛み跡のあるフィンカに反対側から噛みついていた。
「は、おうお」
フィンカから口を離さずに挨拶らしき声を上げた若い男は、眉根にしわを寄せ立ち尽くすベアトリスを前にして、十分に咀嚼ししっかりとフィンカを味わい、飲み込んでからようやくまともな人語を発した。
「先生は、食うだけ食ってもう帰りました」
「そ、そう……」
「僕は助手をしていた、ステファン・ラーゲルフェルトと申します」
「……ラーゲルフェルト?」
目の前の奇態な男が名乗った姓名と、かつて法務省で名を馳せた能吏の姓名が同じであることに気付くまで、ベアトリスはかなりの時間を要した。ベアトリスが頭の中で情報の伝達経路を必死でつないでいる間も、ラーゲルフェルトはテーブルの上のサンドイッチやりんご酒を黙々と口に押し込み続けていた。
「あなた、以前もしや法務省に……」
「あ、ご存知で」
「……本当にあのステファン・ラーゲルフェルトなの?」
「何ですかね、その『あの』には、ちょっとした毒のようなものを感じますね」
「あ……ごめんなさい」
ラーゲルフェルトは軽い口調で、かつ迂遠な言い回しをしてはいるが、ベアトリスの言葉に含まれる非礼を指摘した。どうやらこの男はいつも、表面的にはこんな調子で、だが失言や論理矛盾は見逃さず軽い口調で批判する、というのが常態であるらしかった。
「……ところで、なぜあなただけ残っているの?」
「はあ、僕はどうやらクビだそうで」
「そうなの」
ベアトリスはこうして、ラーゲルフェルトを雇い入れることになった。
ただ、初めから重要な役職を与えたわけではない。このときはとりあえず、食客としてローセンダール家に滞在させる、という待遇だった。彼の扱いに勿体をつけたのは、目の前のしまりのない男が本当に「あの」ラーゲルフェルトなのか、見極める必要性を感じたからだ。時間や境遇が人の才を失わせる、ということも珍しい話ではない。
滞在日数に比して幾何級数的に横柄さを逓増させるラーゲルフェルトに対し、ベアトリスは社会倫理書の解釈やノルドグレーン憲章の条文についての見解など、数々の質問を投げかけてみた。果たして彼はたしかに、かつての能吏ステファン・ラーゲルフェルトであった。
ベアトリスが法務省時代のことを彼に尋ねると、提示された回顧録はなかなかに意外なものだった。彼に言わせれば、法務省での清廉な仕事ぶりは、私心のおもむくままに振る舞った結果だという。
「ただまあ、ちょっと教条的に過ぎましたかね。おかげで椅子を追われましたから」
ベアトリスは思考に整理をつけ、食堂に戻ってきた。ノルシュトレームにいくつか質問がしたかったのだが、そこには老哲学者の姿はすでになく、かわりに見慣れぬ若い男が座っていた。たしか助手としてノルシュトレームに随行してきていた男だ。背は高いのにどことなく貧相な印象のあるその男は、ノルシュトレームのものらしき噛み跡のあるフィンカに反対側から噛みついていた。
「は、おうお」
フィンカから口を離さずに挨拶らしき声を上げた若い男は、眉根にしわを寄せ立ち尽くすベアトリスを前にして、十分に咀嚼ししっかりとフィンカを味わい、飲み込んでからようやくまともな人語を発した。
「先生は、食うだけ食ってもう帰りました」
「そ、そう……」
「僕は助手をしていた、ステファン・ラーゲルフェルトと申します」
「……ラーゲルフェルト?」
目の前の奇態な男が名乗った姓名と、かつて法務省で名を馳せた能吏の姓名が同じであることに気付くまで、ベアトリスはかなりの時間を要した。ベアトリスが頭の中で情報の伝達経路を必死でつないでいる間も、ラーゲルフェルトはテーブルの上のサンドイッチやりんご酒を黙々と口に押し込み続けていた。
「あなた、以前もしや法務省に……」
「あ、ご存知で」
「……本当にあのステファン・ラーゲルフェルトなの?」
「何ですかね、その『あの』には、ちょっとした毒のようなものを感じますね」
「あ……ごめんなさい」
ラーゲルフェルトは軽い口調で、かつ迂遠な言い回しをしてはいるが、ベアトリスの言葉に含まれる非礼を指摘した。どうやらこの男はいつも、表面的にはこんな調子で、だが失言や論理矛盾は見逃さず軽い口調で批判する、というのが常態であるらしかった。
「……ところで、なぜあなただけ残っているの?」
「はあ、僕はどうやらクビだそうで」
「そうなの」
ベアトリスはこうして、ラーゲルフェルトを雇い入れることになった。
ただ、初めから重要な役職を与えたわけではない。このときはとりあえず、食客としてローセンダール家に滞在させる、という待遇だった。彼の扱いに勿体をつけたのは、目の前のしまりのない男が本当に「あの」ラーゲルフェルトなのか、見極める必要性を感じたからだ。時間や境遇が人の才を失わせる、ということも珍しい話ではない。
滞在日数に比して幾何級数的に横柄さを逓増させるラーゲルフェルトに対し、ベアトリスは社会倫理書の解釈やノルドグレーン憲章の条文についての見解など、数々の質問を投げかけてみた。果たして彼はたしかに、かつての能吏ステファン・ラーゲルフェルトであった。
ベアトリスが法務省時代のことを彼に尋ねると、提示された回顧録はなかなかに意外なものだった。彼に言わせれば、法務省での清廉な仕事ぶりは、私心のおもむくままに振る舞った結果だという。
「ただまあ、ちょっと教条的に過ぎましたかね。おかげで椅子を追われましたから」
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