簒奪女王と隔絶の果て

紺乃 安

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フィスカルボの諍乱

確執の萌芽 1

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 ベアトリス・ローセンダールが子供の頃、印象に残っている父エーリクの姿は、伯父のヴァルデマルに頭を下げる、頼りない姿ばかりだった。胸を張って堂々と意見を述べ、ときにヴァルデマルと口論さえしていた母オリーヴィアが隣りにいたせいか、なおのこと不甲斐なく感じたのかもしれない。
――それで私は愚かにも、伯父にこびを売ったりもした。それは父に対する、いかにも子供らしいあてつけだったろうか。父があれで得難い人物だったことを、私はずいぶんあとになって知る。家を出て自ら交渉の場に立ち、ローセンダール家と同じような権門の者たちを相手にし、ようやく気付かされたのだ。尊大そんだいで下心にまみれ、それが満たされないとすぐに怒りだす、特権意識に骨の髄まで浸かった男どもに、うんざりさせられて。
 とはいえ幼い頃は、名士と名高いヴァルデマル伯父を無邪気に尊敬し、恐れもしていたと思う。
 はじめに覚えているのはチェンバロだ。飲み込みが早かった私はすぐに教則本を卒業し、子供の手の大きさではずいぶん無理のある曲を、伯父の前で披露した。指が届かない鍵盤への運指を装飾音でごまかしながらの、私なりに精一杯の演奏を聞いた伯父は、気のない拍手をしながら吐き捨てるように言った。
「子供にしては大したものだが、いずれ身を捧ぐ先の男から嫉妬を買うだけだ。ほどほどにしておくことだな」
 その頃の私は、まだヴァルデマルの言葉の意味がよく理解できていなかった。だがすくなくとも、私の努力の成果を祝福していないことは感じ取った。
 それを聞いた母はヴァルデマルに、ベステルオースのローセンダール本家から火急の報せが入ったと、帰りの馬車を用意させた上でもっともらしく伝えた。これはもちろんヴァルデマルを追い出すための嘘だ。怒りが頂点に達すると冷静で無表情になる、というのが母の特質だった。
 遠ざかってゆくヴァルデマル一行の馬車群を窓越しに眺めながら、母は私に言った。
「いい、ベアトリス? 音楽のあることそれ自体が、あなたの人生を豊かなものにしてくれるのよ。どんな人にも、無常の世から離れて、心を休める時間が必要なの。音楽がそれを助けてくれるわ」

 母オリーヴィアの生家は、グラディスでも名の通った商家だった。明らかに社会階層の違うローセンダール家の姻族いんぞくとなるには相応ふさわしくない――ヴァルデマルあたりはそのように考えているだろう。彼を擁護する気などないが、これは珍しい考えではない。
 リードホルムのような封建制を撤廃したノルドグレーンだが、それは表向きの話に過ぎない。市民が選挙で選ぶことのできない最高議会議員の存在は、呼び名を変えただけの貴族そのものだろう。より開明的な社会制度を採用しているはずのノルドグレーンも、内実はさして代わり映えしない階級社会なのだ――私にそう教えてくれたのも、他ならぬ母オリーヴィアだった。
 ノルドグレーンはもともと、リードホルム王によってほうぜられた大公の治める国であり、現在は力関係こそ逆転したものの、その形式だけは儀礼的に存続している。最高議会議員などについても人事案を大公が上奏じょうそうし、それをリードホルム王が允可いんかするのだが、王が人選に反対することはない。もはや、ただのしきたり以上でも以下でもない。
 つまるところノルドグレーンの統治機構は、かつてリードホルム王から下賜かしされた土地を領有していた貴族たちが、県令という役職に横滑りしたに過ぎないのだ。これを現体制の創立者ジグフリードソン大公の怠慢たいまんと取るか、議会設立のための最善手だったと取るか――母は前者の立場だったようだ。もっとも、旧貴族たちから無理やりに領地を剥奪はくだつなどしようものなら、ノルドグレーンは内乱で荒廃していただろう、とも言っていたが。
 ともあれ市民に――リードホルムに比べれば広汎な――権利を認めたことによる社会の自由が、ノルドグレーンの隆盛を支えていることは、疑いようのない事実である。そのように虚実きょじつの入り混じった社会状況を、商家ゆえに民衆とも権門とも交流のあった母は、若いみぎりから経験的に理解していたのだろう。
 その開かれた世界観を私は受け継ぎ、この世界を私が生きるための力となっていると思う。だからこそ、時代錯誤さくごの体現者ともいうべきヴァルデマルなどとは、より強く反発しあう関係となったのだが。
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