簒奪女王と隔絶の果て

紺乃 安

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氷の城

氷河王 4

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 ずいぶん印象が変わられた――そっけない挨拶をしてすぐに卓上の資料へ視線を落としたノアを見て、ベアトリスはそんな感慨を覚えた。

 二人が初めて顔を合わせたのは、三年前のことである。ノルドグレーンの完全な勝利に終わるかと思われたジュニエスの戦いが、豪雪の影響で形上は痛み分けとなり、講和のために設けられた会談の席でのことだった。
 その頃ノアはまだリードホルム王に即位しておらず、だが他に有力な国王候補が存在しなかったため、時の王ヴィルヘルム三世から王錫おうしゃくを借り受け、父王の全権代理としてジュニエス河谷かこくに参戦していた。
 ベアトリスが初めて目の当たりにしたノアは、絵に描いたように貴公子然とした、目元涼やかな青年だった。激戦の後だけにひどく疲弊ひへいしていたが、そんな素振りを見せない気丈さと、戦場で自ら剣を取って戦った者らしい精悍せいかんさも併せ持っていた。口調は穏やかで用いる言葉も折り目正しい。だが時々、うわの空で、ぼんやりジュニエス河谷を眺めている姿を見かけたことがあった。

 それから三年の月日が過ぎ、リードホルム王に即位したノアは別人のように変貌したと言ってよい。王子時代は、ノルドグレーンで学んだ教養に裏打ちされた穏やかな気性を、周囲の者に愛されたというノア王だったが、今は接した者たちの一部に酷薄こくはくとさえ評されるほどに、往時おうじの性質は失われてしまったらしい。それは王としての責務が、人としてあるべき情を捨てることを要求した結果だろうか。
 ノア王はその印象からか、あるいはジュニエス河谷の戦いで頭角を現した来歴からか、氷河王の異名をとっている。ジュニエス河谷は、巨大な氷河が長い年月をかけて山腹を削り取ることによってできた、ノーラント山脈間の広大な窪地だった。
 ノアの変容は内面のみならず外見にも及んでおり、こんな逸話がある。以前より細身となった身体と長く伸びた髪に、彼の姉フリーダの侍従じじゅうが、後ろ姿を見間違えてしまったのだ。
「理髪師を呼ぶたび、忘れて仮眠をとっていた私にも非はある。その者をあまり責めるな」
 フリーダをはじめ高官たちに叱責される侍従を、ノアはそう言って問題にしなかった。

 享楽きょうらく的で政治に無関心だった先王とはうって変わり、ノアは国内に山積する諸問題について積極的に影響力を行使しようとする為政者だった。空いた時間には、執務室にさまざまな人士を招いては国内外の情報を収集しており、リードホルムの城門は頻繁な開閉によって修繕の頻度が増したという。また、リードホルム国内の行政を司る六人の長官たちと会談した時間の合計は、二十年以上の治世が続いた先王のそれを一年で上回った。
 そんな激務を続けているせいなのか、ノアは夕刻頃にしばしば疲労を訴え、二時間程度の仮眠を取ることが少なくなかった。政務のあとに予定を組まれていた理髪師は、そうして責務を果たせぬまま捨て置かれる事態が十数度に及んでいたのだった。
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