4 / 281
氷の城
氷河王 4
しおりを挟む
ずいぶん印象が変わられた――そっけない挨拶をしてすぐに卓上の資料へ視線を落としたノアを見て、ベアトリスはそんな感慨を覚えた。
二人が初めて顔を合わせたのは、三年前のことである。ノルドグレーンの完全な勝利に終わるかと思われたジュニエスの戦いが、豪雪の影響で形上は痛み分けとなり、講和のために設けられた会談の席でのことだった。
その頃ノアはまだリードホルム王に即位しておらず、だが他に有力な国王候補が存在しなかったため、時の王ヴィルヘルム三世から王錫を借り受け、父王の全権代理としてジュニエス河谷に参戦していた。
ベアトリスが初めて目の当たりにしたノアは、絵に描いたように貴公子然とした、目元涼やかな青年だった。激戦の後だけにひどく疲弊していたが、そんな素振りを見せない気丈さと、戦場で自ら剣を取って戦った者らしい精悍さも併せ持っていた。口調は穏やかで用いる言葉も折り目正しい。だが時々、うわの空で、ぼんやりジュニエス河谷を眺めている姿を見かけたことがあった。
それから三年の月日が過ぎ、リードホルム王に即位したノアは別人のように変貌したと言ってよい。王子時代は、ノルドグレーンで学んだ教養に裏打ちされた穏やかな気性を、周囲の者に愛されたというノア王だったが、今は接した者たちの一部に酷薄とさえ評されるほどに、往時の性質は失われてしまったらしい。それは王としての責務が、人としてあるべき情を捨てることを要求した結果だろうか。
ノア王はその印象からか、あるいはジュニエス河谷の戦いで頭角を現した来歴からか、氷河王の異名をとっている。ジュニエス河谷は、巨大な氷河が長い年月をかけて山腹を削り取ることによってできた、ノーラント山脈間の広大な窪地だった。
ノアの変容は内面のみならず外見にも及んでおり、こんな逸話がある。以前より細身となった身体と長く伸びた髪に、彼の姉フリーダの侍従が、後ろ姿を見間違えてしまったのだ。
「理髪師を呼ぶたび、忘れて仮眠をとっていた私にも非はある。その者をあまり責めるな」
フリーダをはじめ高官たちに叱責される侍従を、ノアはそう言って問題にしなかった。
享楽的で政治に無関心だった先王とはうって変わり、ノアは国内に山積する諸問題について積極的に影響力を行使しようとする為政者だった。空いた時間には、執務室にさまざまな人士を招いては国内外の情報を収集しており、リードホルムの城門は頻繁な開閉によって修繕の頻度が増したという。また、リードホルム国内の行政を司る六人の長官たちと会談した時間の合計は、二十年以上の治世が続いた先王のそれを一年で上回った。
そんな激務を続けているせいなのか、ノアは夕刻頃にしばしば疲労を訴え、二時間程度の仮眠を取ることが少なくなかった。政務のあとに予定を組まれていた理髪師は、そうして責務を果たせぬまま捨て置かれる事態が十数度に及んでいたのだった。
二人が初めて顔を合わせたのは、三年前のことである。ノルドグレーンの完全な勝利に終わるかと思われたジュニエスの戦いが、豪雪の影響で形上は痛み分けとなり、講和のために設けられた会談の席でのことだった。
その頃ノアはまだリードホルム王に即位しておらず、だが他に有力な国王候補が存在しなかったため、時の王ヴィルヘルム三世から王錫を借り受け、父王の全権代理としてジュニエス河谷に参戦していた。
ベアトリスが初めて目の当たりにしたノアは、絵に描いたように貴公子然とした、目元涼やかな青年だった。激戦の後だけにひどく疲弊していたが、そんな素振りを見せない気丈さと、戦場で自ら剣を取って戦った者らしい精悍さも併せ持っていた。口調は穏やかで用いる言葉も折り目正しい。だが時々、うわの空で、ぼんやりジュニエス河谷を眺めている姿を見かけたことがあった。
それから三年の月日が過ぎ、リードホルム王に即位したノアは別人のように変貌したと言ってよい。王子時代は、ノルドグレーンで学んだ教養に裏打ちされた穏やかな気性を、周囲の者に愛されたというノア王だったが、今は接した者たちの一部に酷薄とさえ評されるほどに、往時の性質は失われてしまったらしい。それは王としての責務が、人としてあるべき情を捨てることを要求した結果だろうか。
ノア王はその印象からか、あるいはジュニエス河谷の戦いで頭角を現した来歴からか、氷河王の異名をとっている。ジュニエス河谷は、巨大な氷河が長い年月をかけて山腹を削り取ることによってできた、ノーラント山脈間の広大な窪地だった。
ノアの変容は内面のみならず外見にも及んでおり、こんな逸話がある。以前より細身となった身体と長く伸びた髪に、彼の姉フリーダの侍従が、後ろ姿を見間違えてしまったのだ。
「理髪師を呼ぶたび、忘れて仮眠をとっていた私にも非はある。その者をあまり責めるな」
フリーダをはじめ高官たちに叱責される侍従を、ノアはそう言って問題にしなかった。
享楽的で政治に無関心だった先王とはうって変わり、ノアは国内に山積する諸問題について積極的に影響力を行使しようとする為政者だった。空いた時間には、執務室にさまざまな人士を招いては国内外の情報を収集しており、リードホルムの城門は頻繁な開閉によって修繕の頻度が増したという。また、リードホルム国内の行政を司る六人の長官たちと会談した時間の合計は、二十年以上の治世が続いた先王のそれを一年で上回った。
そんな激務を続けているせいなのか、ノアは夕刻頃にしばしば疲労を訴え、二時間程度の仮眠を取ることが少なくなかった。政務のあとに予定を組まれていた理髪師は、そうして責務を果たせぬまま捨て置かれる事態が十数度に及んでいたのだった。
0
お気に入りに追加
39
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。
文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。
父王に一番愛される姫。
ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。
優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。
しかし、彼は居なくなった。
聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。
そして、二年後。
レティシアナは、大国の王の妻となっていた。
※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。
小説家になろうにも投稿しています。
エールありがとうございます!
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】初めて嫁ぎ先に行ってみたら、私と同名の妻と嫡男がいました。さて、どうしましょうか?
との
恋愛
「なんかさぁ、おかしな噂聞いたんだけど」
結婚式の時から一度もあった事のない私の夫には、最近子供が産まれたらしい。
夫のストマック辺境伯から領地には来るなと言われていたアナベルだが、流石に放っておくわけにもいかず訪ねてみると、
えっ? アナベルって奥様がここに住んでる。
どう言う事? しかも私が毎月支援していたお金はどこに?
ーーーーーー
完結、予約投稿済みです。
R15は、今回も念の為
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
妻のち愛人。
ひろか
恋愛
五つ下のエンリは、幼馴染から夫になった。
「ねーねー、ロナぁー」
甘えん坊なエンリは子供の頃から私の後をついてまわり、結婚してからも後をついてまわり、無いはずの尻尾をブンブン振るワンコのような夫。
そんな結婚生活が四ヶ月たった私の誕生日、目の前に突きつけられたのは離縁書だった。
まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる