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日付不明・二年目
日付不明 愛・スクリーム
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世間では夏休みと呼ばれる時期の、ある日のことだった。地球温暖化の魔の手は山奥にある皐月の家をも襲い、そこに住む現代っ子二人は通気性に優れた家の中で冷房を働かせていた。早朝に草刈りと縁側の掃除を終えた狩人はシャワーを浴びた後よく冷やしておいた部屋の中に滑り込み、自分の寝室の厚さに耐えかね起きてすぐ冷房に頼った吸血鬼が作った昼食を食べ、クソ暑いけど買い物行かねえとな、でも暑いし動く気しねえよな、と二人でだらだら悩んでいたころのことだった。
「アイスのフレーバー。何が食べたい?」
「いきなり何だ。心理テストか?」
狩人は吸血鬼に携帯端末の画面を見せた。アイスクリーム専門店のメニュー表が拡大されて映っている。
「義兄さんが買ってくれるんだって」
「来るの?」
「そう。今から」
「いくつまで選んでいい?」
「遠慮なくどうぞ、だって」
「えっへっへぇ、本当に遠慮しないぞ」
吸血鬼は十ぐらいのフレーバーを挙げた。狩人は義兄と連絡を取っている端末をとられたので、ふんふんと相槌を打ちながら吸血鬼が三つ目くらいから挙げた限定ものでないフレーバーを記憶の隅に書き留めて置いた。その記憶はひとまず打ちやって、吸血鬼から戻ってきた端末で義兄にメッセージを送る。
「全部買ってって言っとくね」
「お前遠慮って言葉の意味わかってる?」
「遠慮しなくていいって言ってるんだから。するほうが失礼だよ」
送信。連絡を終え端末から顔を上げた狩人を、吸血鬼が真ん丸な目で覗き込んでいた。
「お前さ、あのお義兄様相手だと結構ずけずけいくよな」
「……そうお?」
「そう見える。やっぱり、家族って遠慮が無いもんなの?」
そう見えるのか。吸血鬼に三年以上連続して暮らしたような家庭は、前半生に二つきりだ。遠い昔のことであまり覚えていないのだろう。狩人自身も、産みの母親のことはもう殆ど覚えていない。吸血鬼も同じようなものだろう。
しかし、そんなことよりも。狩人には引っかったことがあった。吸血鬼の顔を両手で挟んで問い詰めるように見つめる。
「僕と君は家族じゃなかったか?」
「……つまり?」
吸血鬼は首を傾げる。つまり。つまりなんて聞かれる予定は無かったし、狩人は答えを用意していなかった。ただの確認のつもりだった。何を聞くつもりだったんだ。狩人は挙動不審に答える。
「ええと。き、君も僕に遠慮なんてしないで」
「俺はしているつもりがないが」
「つまり……つまりなんてない。確認だ。君は僕を家族だと思っていないのか?」
「ひとつ屋根の下に暮らしてるんだから、たぶんそうじゃないのか? お前たまに面倒くさいよな」
たまにどころではない。吸血鬼はほとんど気付いていないかもしれないが、狩人は一日に一度以上の頻度で吸血鬼がここを出て行かないかの確認行為をしている。言葉であったり行動であったり、面倒な男である。
「義兄さん迎えに行くけど。一緒に行く?」
「行かない。お留守番してる。行ってらっしゃーい」
吸血鬼は冷房が効いた部屋から出たくなかった。狩人が運転する軽トラックがブロロンと音を立てて出て行ったのを聞いてから、しばらくだらだらした後、冷凍庫の空き容量を確認しに立ち上がった。
視点は切り替わり狩人を映す。義兄は駅前の量販店にいるらしかった。駐車場に車を停め、合流のためメッセージを確認しつつ、買い物を済ませ、待ち合わせ場所に向かう。
「久しぶり~。随分でかくなったな!」
義兄は相変わらずだった。半年分髪が伸び、服装が変わった程度の変化しかない。変わらず大きなバックパックを背負い、日除けのための長袖の上着を着て、空いていない方の手にはアイスクリームが入った箱を下げている。
人懐っこそうにぶんぶん手を振って、自分のそれより少し高いところにある頭を、開いた手で頭をぽんぽんと優しく叩いた。すぐに叩き落とされた。
「どうしたのその荷物」
「町に降りたので、ついでに買い物を。帰りにガソリンスタンドも寄っていいですか」
「おう、寄れ寄れ。お手並み拝見だな」
ガソリンの支払いを義兄に持ってもらい、集中を削がない程度にお喋りしながら山道を行く。
「思ってたより山だな。そんなに山に入る?」
「冬の家よりは道がマシだったかと」
「そうかなぁ?」
「慣れてないからでしょ。ここ来るの初めてでしたよね?」
「うん。ミカジロさんの実家だろ? 父さんも来たこと無いんじゃないかな」
義兄は辺りをきょろきょろと警戒するように見回していた。故郷の山と似たところがあるとはいえ、街の景色や山の植生は全く違うし、見慣れないものがたくさんあるだろう。
「こっちに来たのって、何かのついでですか? 僕たちに火急の用事が?」
「いんや、特に。義弟の顔見たくって悪いかよ」
「へえ」
「彼とは上手くやってる?」
「もちろん、ラブラブです」
「初めて聞いたなその表現。どういう意味だ?」
「上手くやってますよ」
「ふうん、なら、いいんだけど。そういやこのトラックどうしたの?」
「ミカジロに借りてます。普段使い用に」
「荷台なんか乗ってない?」
「何も乗ってないですよ」
そのようなやりとりをしながら家に戻る。軽トラックを自宅の前に停めた後、義兄は荷台を確認して、きょろきょろと辺りを見回していた。見知らぬ山中への物珍しさだけではなさそうな挙動だった。
「追われてたんですか?」
「追われてるっていうかつけられてるっていうかそういう気がするだけっていうか」
「撒いてから合流してくださいよ」
「言うようになったなぁ?」
吸血鬼は玄関に座って待ち構えていた。挨拶もそこそこに、土産代わりのアイスクリームがたくさん詰まった箱を義兄が押し付けると、急いで冷凍庫に持って行った。ついでに普段の荷物も持って行って欲しいと狩人は思ったが、こちらはアイスクリームほど急ぎではない。仕方なしに靴を脱ぎ、義兄が周りを警戒していた理由の続きを聞く。
「空港まで旅行好きの吸血鬼と一緒に居たんだが、ここまで追って来たかもしれなくてさ。あいつヤバいんだよ。もう今年半年ぐらいあいつと一緒にいる気がする。やんなっちゃう」
「考え過ぎじゃないですか?」
「警戒は怠らない方がいいだろ。不審なやつが来ても招くなよ。こんな山の中でも戸締まりはしっかりしろよ。日本家屋ってやつ、広いわりに廊下が丸出しじゃないか」
「わかってますって。日が陰ってきたら雨戸を閉めますから」
そういうわけで、狩人は客人を冷房の効いた居間に通した。重いバックパックを部屋の端に降ろし、上着を脱いで身震いを一つする。今日は無軌道な土産物は持っていないらしい、三人で方形のちゃぶ台を囲んで座る。
「改めて。久しぶり、シャンジュくん。最近の暮らしぶりはどう? リヒトにいじめられてないか?」
「それを僕がいる前で聞くんですか?」
「下ネタになるけどいい?」
「そうか。仲良しならいい。詳細は話さなくて結構。あっそういやあのアイス、結構量あったけど全部冷蔵庫に入った?」
「おう、入った入った。しばらく贅沢出来るわ」
「そんならよかった。あー、あとなあ。何聞くんだっけ。……ン、そうそう。こんな山ン中だし、飯とかいろいろ、不自由してないか?」
「してないけど。なんでそんな聞いてくる? 小舅? うちの子につまらんもん食わせてないかとか?」
「確かに小舅だけど。そんな意地悪言ってるつもりはないんだけど」
「じゃあ希少動物の保護官だ」
「そうだけど?」
「いやあんた吸血鬼狩人だろ? 保護なんてしていいのかよ」
吸血鬼は以前アパートでこの義兄に同じ質問をした気がした。答えを覚えていないから再びしたのだが。
「一応、共存が目的だからな。出来なさそうなら殺すしかないが。そうだな、どうだ? リヒト。シャンジュとは上手くやっているか?」
「やってます。物騒なことは僕の仕事ですから。あまり立ち入らないでください」
「それならいいんだ。仲良きことは美しきかな、って言うだろ」
ああ、とふと思い出したように、義兄はわりととんでもないプライベートなことを聞いた。
「そうだ。吸血鬼に対してする一番重要な質問なんだけど。血は足りているか? 下の街にいる人間を襲ったりしてないよな?」
「襲ってるわけないだろ」
狩人といるときは猪に変身して町まで駆け降りるようなことはしない。町に降りるときはだいたい狩人が運転する軽トラックを使っている。まったく無意味な質問だ。狩人は眉を顰めた。
「他の吸血鬼であんたに正直に言う奴っているの?」
「いないよ。でも嘘ついてるかはわかるから。飢えていないってことは、リヒトの血を吸ってるのか? それとも他の動物の血か?」
「ここいらの動物の血。理人のはたまに」
「他の人間の血を吸いたくなることはある?」
「……今は全然。理人がいるし。面倒ごとは起こしたくないし。狩られたくないし。ここいらまだ猟友会が元気なんだわ。山のこっちには来ないけど」
「へえ。銃が怖いのか」
「怖いよ。音でかいし、無粋じゃない?」
「うん。そうか。慣れたいものじゃないよな。怖れるべきものだ。その恐怖は正しいよ。僕も怖いし」
「あんたも撃たれたら死ぬんだな」
「撃たれ所が悪ければね。君もそうだろ」
「さあ、撃たれたことないからわかんないや」
「……そうだな。君は吸血鬼だし、特に君の系統は急所の統計が取れるほどデータが無い。喜ばしいことだ」
「なんか腹立つな。俺理人の子ども産もうかなぁ」
えっ! と天井から埃が落ちてくるほど義兄は声を響かせる。甥が出来るあてをまざまざと見せつけられて驚いたとみえる。吸血鬼はにっこり笑った。狩人は会話に口を挿まず真ん丸に目を見開いて吸血鬼を睨んだ。
「君、メスだったっけ? オスじゃなかった? クマノミみたく性転換した?」
「産まれて死ぬまでオスのつもりだよ。ただのよくある変身能力。形だけ変えられるやつ、他にいないの?」
「ああ、いるよ。変身能力な。でも子どもを産んだ例は無いな」
「俺も上手く産めなかったし」
「……あー、ええ? うーん、まあ、そうか」
かつてルチエが彼ら二人に渡した調査書には、吸血鬼の出産については書かれていなかった。生まれてから八歳まで、十二歳から十三歳、十六歳から十八歳まで、推定形が半数を占めたぶつ切りの人生が書かれていた。彼が牛として生活していたときのことだから、その間隙、完全に人間社会から切り離されて暮らしていたときのことは、人間である義兄にはわからなかったのだろう。
「ともかく、そうなりそうになったら、こっちに連絡してくれ。色々手続きが要るだろ、そのへん手伝ってやれるし。吸血鬼の出産ってあまり例がないから、こっちでも研究したいし」
現実的な問題を出されると嫌になるな、と吸血鬼は笑ったまま眉間にしわを寄せた。
「する予定は無いから安心して。冗談だよ。尻の穴でしかやってない」
今度は義兄が眉を顰める番だった。仲良しならばいいと言ったが、具体的なことは何一つとして聞きたくなかった。狩人は吸血鬼の頭を軽く引っ叩いた。
「なんだよ」
「喋り過ぎだ」
「お義兄様も俺に劣らずなかなかのお喋りじゃないの」
「君は余計なことを喋るから」
「子供が欲しいって言ったのは余計か?」
「そっ、それは、その、あの、えーっと、その」
「吸血鬼くん」
静かな声色で義兄は言う。狩人と吸血鬼はまさに声色の狙い通りに口論を止め、義兄のほうに注目した。声色の変化はすぐに終わる。
「最近は何かと物騒だからね。不審な吸血鬼が来ても、血を分けたりするなよ。ちゃんと戸締まりすること」
「……分けねえって。吸血鬼ったって全部不審だし、すぐわかるだろ」
「わからないかもしれないのが恐ろしいんだ。ほ~ら日が傾いてきたぞ。黄昏時だ。逢魔が時ともいうな。誰が来てもおかしくないぞ」
お喋りに夢中になっていたが、そろそろ夕食の準備を始めなければならない。今日は吸血鬼が起きているから彼が食事を作る予定であったが、この義兄がどう動くかが問題だった。帰るのは今か、明日以降か。きっと明日以降だろう。吸血鬼は溜め息を吐きながら立ち上がった。
「お義兄様、飯食ってく?」
「いいの?」
「この辺人間が飯食うとこないから」
吸血鬼は別だ。うまくありつけるかどうかは運次第であるが、人間は生肉を食うわけにはいかない。ぺたぺたと足音を立て、居間を出て台所へ向かう。
「今夜はまた野営する予定だったんでしょう?」
「そのつもりだった。庭借りていい?」
「……庭と言わずこの部屋をどうぞ。布団は無いですよ」
「やったぁ、ありがとな」
図々しいやつだ。きっと風呂も借りるつもりだったのだ。狩人は聞かせるように溜め息を吐いた。誰も反応しなかった。思えば冬の家にいたころにはあまり頻繁に風呂には入らなかった。気候の違いもあるかもしれない。日本は夏はとても湿っぽくて暑い。年の半分は寒く雪が降り積もっていた冬の家と比べれば、毎日風呂に入って汗を流したい欲求ははるかに勝る。
「風呂借りていい?」
二言目に予想通りの言葉が出た。狩人は断る理由も無いので頷いた。
「いいですよ。昨日から湯を落としてないので、汚いかもしれませんが」
「ありがと! ついでに洗濯してもいい?」
「やるんならお喋りする前にやってくださいよ」
「忘れてた」
そう言って義兄はバックパックの中身を居間に散らかす。思い付いたことを思い付いた時にやるのは忘れっぽいからだ。義兄はそういう人だった。義兄の行き当たりばったりな性質が好ましい時もあるし、憎たらしい時もある。今は切羽詰まっていないから、受け入れる余裕がある。
洗濯物を抱えつつ通りがかるとき、吸血鬼が廊下越しに台所から話しかけた。
「風呂上がったときには飯を食えるようにしておくよ」
「ありがとな~。ホントに。頼りないところばっかり見せてる。家に来たら……自分の家無いんだった」
具体的にどういう生活をしているのか想像できない。仕事上ひとところに留まらない性質なのは吸血鬼でも知っているが、定住する家がないとは、現代社会が生んだ悲しき戦士だ。
狩人はいつもの倍の量の米を洗った。吸血鬼は冷蔵庫にあるもの三人分の飯をでっち上げた。狩人がそれ用の買い物をしておいたおかげだった。メイン以外のおかずの準備も整っている。あとは味を付けた肉に火を通すだけとなった。
吸血鬼が義兄が風呂に入るところを見るのはこれで二度目だった。以前はこんなに長風呂ではなかったように思える。吸血鬼は風呂で沈んでいないかと思い、風呂の様子を見に行った。
「なあお義兄様」
「どうした吸血鬼」
風呂の戸のガラス越しにくぐもった声が返る。本当に長風呂なだけだった。杞憂だった。まだ風呂桶に沈んではいないようだ。よかった。
「吸血鬼じゃなくってシャンジュって呼んでよ~」
ここで吸血鬼は義兄上ともうちょっと話をしたくなった。洗面所の床に体操座りして、嫌味をちょっとだけ続ける。
「俺の全てを調べたくせに、名前は呼んでくれないんだな~?」
「お前には確固たる名前がなかったんだ。ちょっとややこしいからさ」
「今の俺にはシャンジュっていう、あんたの義弟が付けてくれた素敵な名前があるんだけど?」
「ああ悪かったなシャンジュくん、ところで何の用だ、今じゃなきゃダメか。風呂出てからでもいいだろ」
「大した用じゃない。本当に。……そういえばあんたの血、前に吸わせてくれるって言ったよな。あれ今でも大丈夫かな、って……」
少しの沈黙があった後、吸血鬼は狩人の静かな足音を聞いた。出来るだけ消していても靴下の衣擦れの音が嫌に耳に届く。早足でこちらに迫りくるのがわかる。おそらくルチエは気付いていない。まずい返答はしないかもしれないが、それでも吸血鬼は気まずい気分になった。
「いいけど、君の流儀には合わせてやらないぞ。こっちの言うやり方に従ってもらう」
「へえ。例えば?」
やってきた狩人が客用のタオルを数枚風呂の戸の側に置いて行った。義兄の洗濯物を乗せた洗濯機がごうんごうんと動いていた。
「何話してるのかなって思っただけ。あんまり風呂入る邪魔しないであげてね」
「そろそろ出るから。どっか行ってくれ」
「はーい」
あの髪の長さでは乾かすのにそれなりに時間がかかるだろう。今火を通せばあたたかいまま食べられる。吸血鬼は台所に向かい、最後の仕上げをした。
義兄は明日穿くパンツ一枚以外全ての服を洗濯してしまったので、狩人が貸したTシャツを一枚上に着ることになった。これで狩人は明日が雨であったなら、あるいは何らかの事情で今日着ている服が明日する洗濯の後乾かなかったら、明後日には上に着るものがなくなってしまうことになった。狩人はあまり多くの服を持っていなかった。
つつがなく食事を終え、ルチエが飯釜を空っぽにした後。今日は洗い物を客人に任せ、吸血鬼と狩人は手分けして脱水を終えた洗濯物を干した。昼の外に干しておけば一瞬で乾きそうな気候であるが、良い時間はもう過ぎてしまった。冷房を届かせていない空いた部屋に干しておくことにした。きっと一晩放っておけば室内でも乾くだろう、乾いてくれなければ困る、と二人で喋りながら。もうちょっと早い時間にやってくれれば確実に乾いたのだが。
洗濯物を干し終え、狩人は風呂に入った。吸血鬼は寝る気分ではないが何かする気分でもない。洗い物を終えた義兄は寝袋を引っ張り出していた。食べて早速寝るのか、と吸血鬼はテレビを点ける手を躊躇った。
「お義兄様もう寝るの?」
「いんや、まだ。準備だけ。歯磨いてから。シャンジュくんは? 風呂に入らないの?」
「あんたの知り合いの吸血鬼はお風呂好きか? 俺はそうじゃない」
「週一くらい?」
「よくわかったな」
「綺麗好きさんめ。そういえば昼間起きてたけど今はちゃんと眠い?」
「寝る気はしないな。これから夜だし。寝たくなったら寝る」
「不規則だなー。昼間はどこで寝てる? やっぱり押し入れ?」
「いや、台所横の部屋」
「どこ?」
「閉じてるからわかりづらいけど。探すなよ」
見せたくないわけではない。自分の寝床に他人を踏み入れさせたくないだけだ。
義兄上は寝袋を広げた上に座り、Tシャツを脱いでぽんぽん膝を叩いて指した。
「シャンジュくん、ほら、こっち来なさい」
「は? やだ、エッチ! 急に何!」
「どこがエッチなんだ。さっき血を吸うって言っただろ、……しないならしないほうがいいけど」
言うが早いか義兄上はいそいそとTシャツを着はじめた。寝袋を広げたところは冷房の風が直接当たって、上裸でいると寒かった。シャンジュはテレビのリモコンを放り出した。胡坐をかいた義兄上に縋りつき、頭の半分まで着かかっていたシャツを脱がせて背中近くの畳に追いやった。
「吸う。飲む飲む。あっ、お義兄様美味しそうなにおいするね」
「よく言われる」
吸血鬼は身体が惹かれるままに抱き着き、すんすん鼻を鳴らしながら長い髪に留まった首筋の香を嗅ぐ。明るい栗色の髪は細いが量が多くふわふわつやつや、さっき食べたばかりの豚肉の臭い、風呂に入ったばかりでまだシャンプーの残り香、髪を掻くたび匂いが広がり、しゃらしゃら柳の葉が靡くような音が聞こえる。夢中で抱き着き耳の後ろに鼻を寄せる吸血鬼の背を、ルチエは強めに叩いた。
「おまえな、いつまで嗅いでるんだよ」
「ねえお義兄様、キスしていい?」
「は? どこにだよ」
「全身、全部」
「駄目だ。さっさとガブっとしなよ。ここまで、ってところで言うから。止めなかったら殺すからな」
「浮気者。義弟に悪いとか思わないの?」
「あれも事情を知らずに殺しには来ないだろ。ほら」
吸血鬼がしているように、義兄も吸血鬼の背を抱き返す。
「エッチなんだ。ここまでしといて寸止めかよ」
「なんだよ。血はいらないのか?」
「裸で抱き着いて首筋に噛みつくのはいいけど、それからは? ってこと」
「それだけ。好きで裸なわけじゃない。普段は服を着てる」
「あのスケベ服な。でもこの状況、理人が見たら誤解しちゃうかもよ。俺も脱ごっかな」
「誤解はしない。さっさと済ませな。本当に殺すぞ」
吸血鬼の首筋に針のようなものが触れる。牙よりも鋭く冷たい。動けば背骨にぶすっと刺さる。死にかねない位置だ。
「え、何? 美人局かよ、怖ッ」
「安心しろ、僕も怖い。これが刺さるかは君の行動次第だ、シャンジュくん。君は血を吸うだけだ」
「……わかったよ」
満腹でも魅惑的な首筋に牙を立てる。傷口に繰り返し吸い付き、首筋に舌を這わせ、傷口を舌で抉り広げ、血を啜り、吸血鬼は相手の様子を窺う。
義兄上は身じろぎ一つしない。ただ吸血鬼の背中を一定の速さで撫でているだけだ。呼吸も脈動も血が抜けたせいで多少の揺らぎはあるが、驚くほど安定している。理人なんか抱き着いてキスまでしてくるのに。そりゃあいつだけか。吸血鬼は肩に口を這わせながら、吐息たっぷりに聞いた。
「お義兄様さぁ、誰にでもこういうふうに身体とか許しちゃってるの?」
「これ以上の接触をしたがるやつには警告。それでも踏み込んでくるなら殺した。君たちに人間の法は通用しないからな」
「よく命があるよな」
「鍛錬の賜物。あとは天が味方してる」
「ふーん」
吸血鬼は姿勢を変えるため、うっかりを装い下腹に触れる。何の熱も無い。ただの人間の体温が冷たい掌に返ってきた。
つまらない男だ。今まで食らってきた人間の誰より理性的と言い替えてもいい。こういうやつを堕落させるのが一番楽しいといういう見解もある。今はそうではない。狩人が風呂から出てくるまで、急を要する。
「左手を肩に乗せろ。膝でもいい」
「ごめんて」
小さな針の先が首に少しだけ刺さる。殺されてはたまらない。膝の上に突っ張って支えて、それらしく体重のかけ方を変える。
「今日は持ってるの? 朱色と白の縞々のやつ」
「持ってるよ。欲しいならあげる。後で自分で使いな」
「自分で使うことって無いの?」
「それを君に言う必要はない。寒いから飲むなら早くしろ」
「もうちょっと」
一口二口飲んだところで、「もうやめろ」という声とほぼ同時に、吸血鬼の首筋に再び銀の針が触れた。これで死んではたまらない。ちゅっ、とリップ音を立てて、吸血鬼はすぐさま義兄に付けた傷を治した。
「ねえお義兄様。これで離れんの嫌だな。もうちょっと抱き着いててもいい?」
「駄目。お仕舞い。離れろ。人肌恋しいなら後で理人に抱きつけ」
「ちぇーっ」
義兄上はさっさとバックパックの中のウエットティッシュで傷口の周りを拭いて絆創膏を張り、服を着て身震いをして「あー寒っ」と言った。どうやら寒かったのは本当らしい。先程まで抱き合っていた吸血鬼の体温は人間のよりずっと低いうえに、冷房の風も当たっている。これで寒くない方がおかしい。
先程の冗談を真に受けたのか義兄上は吸血鬼のほうに使い捨てのオナホールを投げて寄越し、自分は台所に行くようだった。吸血鬼は今はこれを使う気分ではなかったので珍しいものを見るように手の中のボトルを見下ろした。記憶が正しければ前とまったく同じ種類のものだった。これで自分たちに義兄がオナホールを寄越すのは二度目だった。
「なんかいただいてくる。食べちゃダメな物ある?」
「生肉、生米、生卵……」
「調理が必要なものはさすがに食べないよ」
これは後日狩人と刺激的な行為をするときに有効活用させてもらおう、と吸血鬼はオナホールを自分の部屋に放り込みに向かう。
道中ちらりと台所の様子を見ると、義兄は冷凍庫の戸を開け放ち、昼に買ってきたアイスクリームを漁っていた。寒い寒いと言っていたにも拘らず、庫内の温度を一定に保つための冷気を浴びながらどれにしようかなどと悩んでいる。吸血鬼が隣の部屋にオナホールを投げ込んだ後もまだ悩み続けている。冷凍庫の一秒は長い。吸血鬼は思わず怒鳴った。
「さっさと閉めろよ!」
「わかった。うーん、やっぱりチョコ!」
冷蔵庫にもびーびー文句を言われつつ、義兄は冷凍庫の戸を閉めた。
「味は三十二個、買ったのは三十六個。一応ダブってるやつ選んだから、あとは二人で仲良くな」
カップから直接アイスクリームの球を齧り、心底美味しそうににんまり笑う。
「スプーン使ったら」
「どこにある?」
「はい」
吸血鬼は戸棚からデザート用の小さな鉄製スプーンを出して渡した。義兄上は初めて見るもののようにくるくると手のひらで回した。
「ありがとう。シャンジュくんもどう? アイス」
「いや俺はいい。もうちょっと余韻を楽しみたい」
「そっか。後で一口欲しくなったら言ってね」
バタン、と風呂のドアが開く音が聞こえた。狩人が風呂から出て来たらしい。吸血鬼は廊下を覗き込んだ。風呂の湿気が少しばかり漂って来ただけで、特に変化はない。
義兄上はシンクに腰を預け、他のことに構わずアイスクリームを一口、スプーンで掬って口に入れた。にっこり笑ってご機嫌だった。さっきまで寒そうにしていたのに。
「うん、美味しい」
「あんた誰にでもそんな調子なわけ?」
「そんな調子とは?」
機嫌良さげにアイスクリームがくっついたスプーンを舐めて、義兄上は聞き返した。
「他の吸血鬼とか、人間とかにもかもしれないけど、関わるもの全てにお義兄様は思わせぶりな態度をとり続けてるの?」
「おも、思わせ? 何を思っているの?」
スプーンを咥えながら、戸惑っている声色だった。手の熱でアイスクリームを溶かさないようにカップの端を持ち、もう一口掬って食べる。さっきよりもあからさまに美味しそうな顔はしない。感動も薄れて来たのか、体が冷えてきたのか、頭が痛いか歯に沁みたのか。
「すぐくっついてくるし、誰にでも血を吸わせるし。かわいこぶっちゃって」
「ぶってない。君が僕を可愛いと認識してるだけ」
吸血鬼はやっぱりアイスクリームを食べることにした。冷凍庫の戸を開くのを止め、義兄にどの味が二つ入っているのか聞いた。
「赤と青のチョコミント味と、ハート型のチョコが入ったやつと、スイカのシャーベットと、これ」
「他には?」
「一通り。具体的には覚えてないよ」
冷凍庫を開けてちょっと悩んだ末、義兄が挙げたどの味でもない、紫とピンクのマーブル模様の何かを食べることにした。三×四個のアイスが入った箱の中には、プラスチック製の小さな使い捨てスプーンがカップの数だけ入っていた。まだ下には二段分のアイスクリームがあるらしい。しばらく贅沢できる実感が湧く。
「これって何味?」
「何だろ。一口ちょうだい」
「あんたなんでもそうやって一口ちょうだいって聞くのか」
「聞くぞ。だから君も聞いていい」
吸血鬼がしぶしぶカップを差し出すと、義兄は少々のチョコレートが付いたスプーンで控えめに一口を掬う。うーんと唸ってスプーンを味わい、綺麗に舐ってからさらに首を傾げる。
「何味だろう。果物じゃない気がする。甘いね」
「そりゃアイスなんだから甘かろうよ」
狩人が楽し気な話し声に台所を覗き込んできた。パンツだけ穿いて頭にはタオルを巻いていた。
「行儀悪いですよ。ちゃんと座って机の前で食べなさいよ」
「服着ろよ」
狩人はすぐに洗面所に戻った。ドライヤーの音が聞こえてくる。
「インスタントコーヒーある? お湯沸かしていい?」
「あんた体冷やしたいのか温めたいのかどっちなんだよ」
吸血鬼はヤカンに丁度一人分の湯を沸かす。マグカップを出し、インスタントコーヒーの粒をざらざら瓶を傾け入れる。吸血鬼は謎の味のアイスをまだ一口も食べていない。
「中和したいんだ」
マグカップ一つ分の湯はすぐに沸いた。吸血鬼はぼとぼと湯を落として、義兄上に熱いカップを差し出した。
「混ぜんのは自分でやりなよ」
「ありがとね。そろそろ座りたくなってきたから戻ろ」
吸血鬼は義兄の後について歩き出す前に一口アイスクリームを味わった。ただ砂糖のように甘いが、何の味かわからない。砂糖味かもしれない。金平糖とか。それにしては色が濃い。金平糖はもっとパステルカラーというか、色が薄くて紫ではない気がする。うーむ。
首をひねりつつ吸血鬼は座布団の上に座る。狩人が座っていた座布団はすっかり冷え切っていた。
義兄上は冷たいスプーンでコーヒーを掻き混ぜた後、食べかけのアイスクリームとマグカップを並べて、行き場をなくしたスプーンを口に咥え、写真を撮っていた。
「ちょっとぉ、こっち写さないでよ」
「写さないよ。写らないだろ?」
「写らないけどさ。なんで撮ってるの? どっか上げたりする?」
「しないしない。日記用。食べたもの記録しとくと後々便利だから」
「便利って?」
「人に聞かれた時に今日はどこに居たってわかると都合がいいんだ」
「誰に聞かれるの? 仕事仲間?」
「そう。仕事」
「ご家族は? 結婚とかしてらっしゃらないの?」
「うっわ。ヤなこと聞くね~ッ。実家のおじいちゃんみたいだ」
「へー。実家におじいちゃんいるんだ」
「いるよ。でも場所は教えてやんない」
「なんでー。俺もおじいちゃんにご挨拶したい」
「行かない方がいい。生粋の吸血鬼狩人なんだ。厳しいぞ」
「そりゃまずい。それよりなんだよ。自分の家あるんじゃん」
「血のつながりがある人が住んでるだけだよ。居て居たたまれない家をマイホームって呼べるかね?」
「呼ぶだろ」
ドライヤーの音が止んで、いくつかのスイッチを付けたり消したりする音が聞こえた後、狩人が居間にやってくる。義兄は早速夜中のアイスクリームを薦めた。
「リヒトもどう? アイス。食べる?」
「歯磨いたんでいいです」
本当に、この義兄は誰にでも一口どうぞと聞くやつなのだ。吸血鬼は口にも顔にも出さず呆れた。それから甘い味が何なのか一人でも多くの意見を聞きたくて、スプーンの先をちょっと振った。
「おい理人。これ何味だと思う?」
狩人の返答は極端に非情だった。
「調べたら? 公式サイトとか見てさ」
「名前当てゲームだよ。なんて名前の味だと思うって。ほら、あーん」
一口分が乗った使い捨てスプーンを差し出された狩人は、しぶしぶ吸血鬼の隣に腰を下ろした。
「君の予想は?」
「食ったら教えてやる。あーん」
狩人は口を開き、甘んじて吸血鬼のあーんを受け入れた。もぐもぐと舌の上に溶けたアイスクリームを広げ、やはり首を傾げて言った。
「甘いね」
「俺は金平糖味だと思う」
「金平糖ではないんじゃない、この店の系統だったら直接金平糖を入れると思うし」
「あっ思い出した!」
「お兄様! 答えは言わなくていい! おい理人、これ何味だと思う?」
「なんでそんな必死なの……綿あめとか?」
答え合わせをした後、自分の答えが外れたことに吸血鬼は唇を尖らせて、可愛らしく不機嫌になった。それでも変わらずアイスクリームは甘い。一口食べれば機嫌はすぐに直った。
「リヒトも何か出さない? せっかく食べたんだし。何でもあるぞ」
「いや、いいですって。食べ終わったら歯を磨きなさいよ」
「わかってる。後で洗面台借りるよ」
「こら、シャンジュも」
「む~っ」
吸血鬼は歯を磨きながら曖昧に答えた。狩人は歯を磨き直すらしい、さっさと立ち上がった。
「あいつ夜中は何も食べないって決めてるの?」
「いや。今日は腹の機嫌が悪いんじゃないのか」
勝手なことを言うものだ。義兄上はクッキーが混じったチョコレートアイスクリームを機嫌良く食べて、半分くらい食べたところに熱々のコーヒーをかけてアフォガートにしていた。コーヒーをかけた後はさらにご機嫌だった。アフォガートを一口貰った吸血鬼は、今度アイスを食べるときに真似しようと思った。
「熱々でなくてもいい。牛乳とか炭酸とか。アイスを溺れさせる必要はない」
歯を磨き終えて狩人が戻ってきた。
「義兄さん、これからの旅程は決まってますか」
「決まってないよ。のんびりだ。明日は何時起き?」
「のんびりです。予定は掃除と買い物に行くぐらいですから。午前中には送ってきますよ」
「助かるぅ。ところで掃除って山の奥?」
「いえ、普通の掃除です。その辺掃いたり、掃除機かけたり」
「家が広いと大変だな。ロボット掃除機買おうか?」
「いやぁ、見ての通り段差が多いので。いちいち助けてられないですよ。シャンジュが手伝ってくれると助かるんですが」
「やなこった」
吸血鬼は紫色に染まった舌をべーっと突き出した。アイスクリームには着色料が法に背かぬ程度の量使われていた。舌が染まらぬはずがない。
「なーお義兄様、吸血鬼のことをよく知ってるお義兄様に聞くけどさ、よその吸血鬼も散らかってる方が好きだろ? 俺みたいに」
「僕がよく知ってる吸血鬼はちゃんと掃除してるぞ。綺麗好きで整理整頓が得意だ」
「うそだぁ」
「嘘じゃない。毎週決まった時間に掃除してたり、物は多くてもちゃんと整頓したりしてる。だいたい吸血鬼ってのは几帳面で、豆を放ったらいちいち数えて拾うもんだろ」
「拾わねえよ。そんな几帳面じゃない」
「新時代だなぁ……」
脈絡なく、時が来れば眠気はやってくる。狩人は口を押さえ、一つ大きくあくびをした。とろんと気の抜けた目をしていて、そろそろ限界だという顔をしている。
「リヒトはもうおねむか」
「はい」
返事をした後もう一つあくびをする。目を擦りながらよろよろ這いつつ立ち上がる。
「山の中なので近所付き合いは無いですけど、あんまり遅くまで騒がないでくださいね。おやすみなさい」
「おやすみ」
眠気でよたよた歩きの狩人を見送り、吸血鬼は最後の一口を口に放った。もぐもぐと口を動かし甘い紫色を口腔全体に広げる。冷え切った口の中、溶け切らないアイスクリームが喉の奥に落ちる。吸血鬼の体温でもアイスクリームは溶けるらしい。腹の奥には温かいご飯もいるはずだ。一緒にぐずぐずに融けて体になっていく。
「いつもこれくらいに寝てる?」
「いんや。俺あいつがどれくらいに寝るか知らんし。夜更かしを強要することはある」
「そうか」
すっかりぬるくなったアフォガードもどきを飲み干し、義兄は席を立った。バックパックをごそごそ漁る。
「僕も寝ようかな。シャンジュくんはどうする? まだ起きてる?」
携帯用歯ブラシを探し出し、ポケットに突っ込む。台所に行くついでに歯を磨くらしい。
夜の空疎な時間一人でを潰すには、山奥では料理かテレビくらいしかあてがない。吸血鬼は自分も空のカップを片付けようと、義兄に着いて行く。
ゴミ箱にカップを重ねて捨てる。義兄は水を含ませたスポンジで以てスプーンを慎重に洗う。
「いや。でも客人が寝る邪魔をするとたぶん理人が怒る。理人のとこに行こうかな」
「僕はいいよ、君が飽きるまでお喋りに付き合っても。あいつあんまり寝れてないんじゃないの? そんな調子じゃあさ」
「……なんでそんなへっぴり腰なんだよ」
「運が悪いと辺り一面びしゃびしゃになるじゃない?」
「運じゃなくて当たる角度が悪いんだろ」
義兄はへっぴり腰ながら水流を最後まで御しきり、綺麗になったスプーンを乾燥棚に立てかける。
「これ朝まで放って置いていい?」
「いいよ」
「そりゃよかった。片付けよろしくな」
「はーい」
それから洗面所に移動し、予定通り歯を磨く。すりガラスの扉一つ隔てた向こうでは、風呂の換気のために窓が開き、換気扇がごうごう音を立てている。心なしか洗面所も蒸し暑い。吸血鬼は廊下に座り込み、歯磨き粉のミントの香りが消えるのを待っていた。
最低限の口腔ケアを終え、歯ブラシの水分を拭きながら、義兄は吸血鬼を横目に見下ろして聞いた。
「シャンジュくんは歯を磨かないのか」
「俺は吸血鬼なんだけど?」
「吸血鬼でも駄目だって。虫歯になったら保険も効かないんだろ。食べ終わったらすぐしたほうがいい。俺がやってやろうか?」
そろそろ歯ブラシを変えないとな、などとと考えながらケースに戻す。いやににやにや笑って吸血鬼は先の問いかけに答えた。
「……せっかくだし、お願いしよっかな」
「からかったつもりなんだけど。相当甘えんぼさんだな」
「なんだ、やってくれないのか」
「いんや。やると言った以上やってやるさ。君の歯ブラシはどっち?」
「赤いほう」
居間に戻り、広げた寝袋の上に胡坐をかいて座る。吸血鬼は仰向けに寝転がって股の間に頭を乗せる。
栗色の髪を耳にかける。かかりきらない髪を肩から後ろに流す。鋼色の目が吸血鬼を見降ろす。この目の色は父親似だ。吸血鬼は一度しか会ったことはないが、よく覚えている。
改めて、変な状況だ。
「じっとしてろよ」
「じたばたしてやろうか」
「歯ブラシが喉の奥を突いて苦しいのはお前だぞ。おとなしくしな」
吸血鬼はおとなしく義兄上の指示に従った。口を開けと言われれば開き、イの形にしろと言われればそうする。吸血鬼はちょっと後悔した。今己が口の中を任せている相手は、もう嫌だと言ってやめてくれる相手ではない。狩人とて歯磨きをねだれば途中でやめてはくれまいが、時を経て築き上げてきた一切の甘さがない。
口の中を不快な泡でいっぱいにしてようやく、「起きて口の中をすすげ」と義兄上が肩を叩いた。起き上がってさっさと口の中の泡を吐きに行く。
「そんな慌てなくても……」
「いいだろ。慌てるの好きなんだ」
一通りの泡は洗面台に吐いて捨て、歯茎や頬の間に詰まった泡は呑みこむ。口をすすぐのは勘弁してほしい。泡ごと呑みこむのでない限り、雨に体を流されるがごとく不愉快だ。
ついてきてくれた義兄上から自分の汚れが付いた歯ブラシを受け取ろうとして避けられた。むっとして吸血鬼は下唇を突き出す。
「なんでいじわるするんだよ」
「磨き残しがないか確認するから、口を開け」
「歯ブラシはさっさとすすいだ方がいいだろうがよ」
「確かに、そりゃそうだな」
むっとしたまま歯ブラシを奪い取り、吸血鬼が歯ブラシの先端を蛇口から出る水にさっとくぐらせる。歯ブラシを洗面台の所定の場所に戻したら、相変わらずむっとし続けたまま義兄上のほうを向く。
「よし。あーん」
開いた下顎を掴み、義兄上は不躾に口の中を覗く。ふんふんとひととおり歯の様子を見るようなふりをしたのち、どこからともなく取り出した綿棒で頬の内側を撫でる。吸血鬼が戸惑っているうちに、さっさと試験管に似た容器に綿棒を落とした。一体どこに仕舞っていたのか皆目見当もつかないが、パンツの中でないことは確かだ。
「えっ……どうして……なんで綿棒?」
「遺伝子調査。前会った時は出来なかったからな」
「なんでそんなことするの」
「口もすすだほうがいい」
「しない」
義兄上は小さな容器を手のひらの中に隠し、吸血鬼がどう動こうが構うまい、という様子で話し始める。ぺたぺたと足音を立て、板張りの廊下を行き冷房が効いた居間に戻ろうと歩く。
「君は自分の不死性がどこから来るか、知りたくないか?」
「いらないでしょそんなもの!」
吸血鬼は己が平和ボケしていたのだと気付くまでにあまり長い時間はかからなかった。人間にとっては己はどこまでも外様で、暴き立てるべき自然であるのだと再び自覚するまで、口に一瞬だけ突っ込まれた綿棒のせいで、歩数にして五歩ほどかかってしまった。
人間という生き物はとにかく理由を求めたがる。吸血鬼はこの、己の人生においては特に義兄が示している性質には常々疎ましいと思っていた。特に付き合いもない癖に、やたらと過去やらを探りたがる。あるがままをそのまま素直に受け入れてはくれないものか。
その点狩人は良い同居人だった。一年半共に過ごし、もういちいちうるさく聞いてこない。
義兄はあまり吸血鬼の威嚇を怖れていないようだった。頭を擦る鴨居のためにちょっと屈んだところで後ろの様子を振り返り、毛を逆立て怒る吸血鬼の眉間のしわを人差し指の腹で伸ばして、自分は頬を膨らせて言い分を述べる。
「いるんだよ。僕は噛まれたからな。こんな仕事でも僕は健康に生きたいから、君が何か病気を持っていないか調べる必要がある」
「やっぱ美人局かよ。汚ねえ真似しやがって」
「僕の血は吸ってもいい。僕の健康を損なわない範囲でね。しかし、これで君は納得してくれるのだな。素直でいいことだ。これに懲りたら、あまり人間を信用しないことだな」
人馴れし過ぎて己の特質を今更思い出した吸血鬼には、もはや負け惜しみくらいしか出すものは無かった。
「あんたが童貞なら一生かからない病気にもかけられたのに」
「おお、怖い。君の慈悲に感謝しなきゃな」
まったく堪えていないどころかからかわれている。負け惜しみはそうとわかっていれば倍にして返されるものだ。吸血鬼にはもう前歯をむき出しにし頬を膨らませることくらいしかできなかった。
「電気どうやって消す? この紐引っ張れば消える?」
「布団先に入りなよ。俺が消しといてやる。おやすみ」
「おやすみ。君はここにいる?」
「どうしようかね。夜じゅうお義兄様の寝顔でも眺めておこうかね」
「リヒトくんとこ行ってろよ」
ルチエは寝袋の中に入り、袋の入り口をぎゅっと絞った。呼吸のために口と鼻を出す。
「不用心だな、これじゃ誰がキスしたかわかんねえだろ」
「そんなことしたらこうだぞぉ」
空気穴の中からなまくらの拳骨が飛び出た。何にも当たらず空を切る。
「……俺は起きてるよ。台所にいるつもり。うるさくしたら悪いな。おやすみなさい」
おやすみ、と義兄は返す。馬の陰茎が萎びていくがごとく腕がしゅるしゅると寝袋に入っていくのを見届けてから、吸血鬼は電気を消した。
しばらくして、義兄上の寝息が聞こえてから立ち上がる。テレビが禁じられた今、ゲームをやりたい気分ではないし、狩人をいじくりまわして。せめて朝は豪勢にしよう、と吸血鬼は出来るだけ物音を殺して台所に向かう。明日は義兄上を下の街まで送りに行くだろう。ついでに買い物もするだろうから、冷蔵庫をひっくり返して朝を豪勢にしたところで、食べる物に困ることはない。金を出せば季節もあまり関係ない。まったくいい世の中だ。
もっぱら吸血鬼が考える豪華な朝食と言えば和食であった。朝も夜も無く食える時に食うような生活をする必要がなくなってから、つまり己が宿敵との同居を始めてから、得た技術が主に和食であるからだ。色々こまごまと献立を考える今の暮らしは、吸血鬼には贅沢過ぎた。その贅沢にはすぐ馴染んでいた。
米を炊き、味噌汁を作り、厚焼き卵を焼いてやろう。味噌汁には揚げ茄子を入れ、厚焼き玉子には大根おろしを添えてやる。今日の夜明けには丁度いいサイズになるだろうから、キュウリの浅漬けもいい。この家に来てから吸血鬼は家庭菜園を始めた。吸血鬼らしからぬ趣味だが、古い鉢植えの中で干からびていくばかりの世界を見るのはそれなりに楽しい。
食事の計画を組み立てたら早速手を動かす。冷蔵庫を漁り材料を揃え、直前にやった方がいい作業以外の全てを終える。時間配分が未だにわかっていない。夏の日は早く昇るが、その前に終わってしまった。
時間を持て余し、吸血鬼はすりガラス越しにぼんやり外を眺める。吸血鬼にはある程度の透視能力があるから、窓一枚くらいなら透かして見られる。そうして涼しい室内にありながら、未だ冷めやらず蒸し暑い外を眺めていた。
面白いものは何もない。手入れのされない藪の中、何やらわからない虫が耳鳴りのように泣いている。生き物が生きるにはこの夏が暑すぎる。
人は古くからの噂を信じここに来ない。夏休みのはじまり頃に、噂を中途半端に信じた者が度胸試しで来たことがある。吸血鬼はあのとき初めて警察を呼んだ。赤いランプは恐ろしかったが、ことは極めて丸く収まった。
ぼんやりしていると夜が明けた。外に出て、鉢植えの中の一日で最も冷えた土に水をやり、丁度いい塩梅のキュウリとプチトマトをいくつかむしる。茄子とピーマンもいい頃合いで、朝ごはんを食べ終わったら収穫しよう。今は手がいっぱいで、これ以上ものを持つと戸が明けられなくなる。
これらの新鮮な野菜どもは美味しく食べたいなら必ず食べ頃に食わなければならない。当たり前ゆえあほくさい言い方である。最近はこの小さな家庭菜園のおかげで野菜を買う量が減った。近くに冷蔵庫代わりのコンビニやスーパーはない。最寄りのスーパーまで数十分の山の上暮らしでは、野菜を買い溜めたいなら重さが馬鹿にならない。祈るような形で野菜を手のひらの中に、家の中に戻る。
居間の中で何かがごそごそ動いていた。狩人はまだ起きる時間ではない。昨日の昼来た客人が、寝袋を干していた。
「起こしちゃったか」
「お構いなく。起きるときも寝るときも不定なんだ」
「理人はまだ寝てるよ。朝早すぎるから」
「だろーな。夜は一日起きてたの?」
「起きてたよ。ご飯の用意してた」
「ありがとな。そのピーマンとかは?」
「キュウリとトマトだよ。目大丈夫か」
「暗くてよく見えてないんだ」
日は昇ったが、まだ雨戸を開けておらず屋敷の中は薄暗い。人間の目の何と脆弱なことだろう。吸血鬼は取れたての野菜を洗い、氷水を入れたボウルの中で冷やした。義兄は洗面所に歩いて行ったらしい、そういう足音がした。
「着替えってどこ干した?」
「廊下突き当り右の……あー、ついてきて」
野菜入りボウルを流しの中に置いておき、直接案内することにした。この屋敷の建物は広いが、多くは使われていない。開けてはいけない場所がかなりあるからだ。何かといたずら心が湧きがちな吸血鬼には詳細を知らされていないことであるが、呪いが詰まっていて、何やら入ると危ないらしいということは聞いていた。具体的にどこかは覚えていないが、一見してそうとわからない部屋があったのが恐ろしいところだ。
二人がかりで洗濯物を畳み、義兄上は着替えを済ませた。上は襟ぐりの開いた黒い半袖Tシャツに下はジーンズ。昨日よりは普通の人間らしい格好だ、と吸血鬼は思う。下はあまり変化がない。気に入ったものと似たようなものを何着も持っているらしい。
「あんた普通の服も着るんだな」
「僕のこと何だと思ってるんだ」
「誰にでも体を許すエッチなお義兄様」
「心外だな、仕事なんだよ」
好きでやっているわけではない、と舌打ちを一つ。お義兄様は洗濯物を抱えてバックパックに仕舞いに行く。居間は夏の間中は冷房を点けっぱなしにするつもりでおり、とてもよく冷えている。肌寒い部屋の中で、腹減ったなぁ、と溜め息を吐く。
「飯はまだだよ。準備はこれから。なんでこんな早起きしちゃったんだよ」
「……飯は後でいいんだ。リヒトが起きてからで。勝手に起きたこっちが悪いんだから」
「そうだそうだ」
屋敷はまだ暗い。吸血鬼は気分が乗らなければ雨戸は開けない。吸血鬼とは日の光に弱いものであるから、当然自分もそうなのだ。実はそんなことはなくただ怠惰を己の生物的性質に丸投げしているだけかもしれないが、まあ、その辺は、あまり重要な点ではないから、いいのだ。
「そこの雨戸っての、開けていい?」
「壊すなよ」
「壊れやすかったりするのか?」
「おんぼろだからな」
吸血鬼が雨戸を開けなくなったのは、雨戸を乱暴に扱って以来のことだ。それまでは朝になればそういうものだと思って開けていたが、戸袋の入り口に突っかえさせて壊して以来気分が乗らなくなってしまった。狩人も吸血鬼の気分屋と生物的性質を良く知っていたから特段咎めはしなかった。壊した戸袋も元通り戻した。もちろん、狩人が。
義兄は吸血鬼と違い器用にやった。おんぼろ雨戸の癖を見抜き、上手く戸袋に仕舞い今いる部屋の前だけ明るくした。
雨戸のほうは心配無さそうだと、冷えた野菜を浅漬けやサラダにしに行く。
「そろそろ起きるか? リヒトのやつ」
「夜早かったしな。そろそろ起きるだろ。机拭いてきて」
吸血鬼が義兄と会うのはこれで三回目であるし、二度目は最悪だった。そうとは思えないほど気が知れている。血を吸ったからか。
案の定、外の眩しさに狩人は起きた。ガラガラと雨戸が開く音がする。二人いる分普段の倍以上ごそごそしていたからやかましくて起きたのかもしれない。吸血鬼は朝飯の仕上げをしようと、座布団から立った。
「おはよう、今日はご飯炊いたんだ?」
「火ィ使ってんだから抱き着くな」
「ごめん」
いつになく自分にくっついてくる狩人を鼻で笑いながら、吸血鬼は温まった味噌汁を器に注ぐ。顔を洗い選択の必要がある物を洗濯機に任せたら、配膳のために戻ってくきた。自分の利となることはとことん手伝う男だ。吸血鬼は飯のために働くが己が宿敵に、我慢できずに噴き出した。
「どうしたの」
「いんや、なにも」
音も立てずに喉の奥で笑っていた。訳を知らない人が見れば、気味が悪いと思うだろう。どう思われたって構うまい、構わない。吸血鬼は自分の縄張りの中、静かに笑った。
食事の用意はつつがなく終わった。義兄上は客人ゆえの戸惑いをしても、それなりの協力をしてくれた。
「納豆ある?」
「あるならあるだろ」
義兄上は準備の途中、冷蔵庫を覗き込んだ。
吸血鬼は納豆を食べない。味はともかく、ねばねばした食感が嫌いだからだ。狩人は食べるので買ってくるようだが、吸血鬼は冷蔵庫にあるかどうかは存じない。どちらも納豆を食う食わないの強制はしないし、狩人が食べたいときは勝手に食べる。
「お義兄様、納豆好きなの?」
「前日本に来たときにね。最後の一パックだ」
「理人と喧嘩すんなよ」
「欲しがったら分け合うよ」
そうして義兄上は一人分の納豆パックを朝食を運ぶ盆の上に足した。
大根おろしが添えられた玉子焼き、茄子の味噌汁、トマトのサラダ、キュウリの浅漬け、いつもより多めのご飯。精進料理みたいだ。卵は精進料理には使わないらしいが。
「美味しい」
「そりゃ何より」
予想通り、義兄上はお櫃が空になるまでお代わりをした。
皿も多いというのに客人に皿洗いを任せ、洗濯物を外に干しに向かう。洗濯は狩人の仕事だ。吸血鬼はテレビを点けてゴロゴロしながら二人がクーラーの利いた部屋に戻るのを待った。
「君まだ寝てないだろ? どうする?」
「寝るより楽しいことがあるなら起きてるさ。どうしよっかなぁ。もう寝よっかなぁ」
「一人なら昼食は下の街でとろうかな」
「俺もついてく」
狩人は照り付ける日差しの中、あたたまってしまった良い頃合いの野菜を収穫して戻ってきた。
吸血鬼はクーラーの利いた部屋の隅に座布団を畳んで枕にした。ちょっと眠るならどこでもいいらしい。義兄は吸血鬼が点けたテレビを切ろうかとリモコンを手の中で遊ばせながら、弟に聞いた。
「この吸血鬼はどこでも寝れるんだな」
「可愛いでしょう」
「可愛いってそんなペットじゃないんだから……寝るところは棺桶じゃなくてもいいんだな。うたた寝……呼吸は、してるっぽいな。胸は上下している。心音も……」
「やかましい! 寝れないだろ!」
吸血鬼は胸に置かれた義兄上の手を叩いて除けた。鼻の近くに生温かいものが来た時点で叩いておくべきだったとぶつくさ言って、座布団をもう一枚取った。ついでに義兄上の頭を叩き、顔の上に置いて感覚器に触れる光を減らした。
「窒息するぞ!」
「吸血鬼は呼吸なんてしないの!」
「お前、さっきはしてたのに……!」
「うるさい! ねる!」
「何回か寝てるところを確認しましたけど、呼吸は寝る直前と起きる直前にしかしてませんでしたよ。ほっといてやってください」
「ごめんな~。吸血鬼が寝るところ見たこと無いから。おしゃべりはするよ」
義兄上はテレビのリモコンを机に置いた。狩人はリモコンを動かさなかった。地方ローカル番組のニュースが終わり、グルメ情報が流れていた。
吸血鬼が彼らの種族本来の性質で眠るのに三分も掛からなかった。隅っこで眠る吸血鬼を見て、狩人は眉を顰めて話し始めた。
「あんまり他人のいるところでだらける奴じゃないと思ったんですが」
「じゃあ僕のことを信頼してるんだ」
「そんな」
「なんでそんな残念そうなんだ」
「嫉妬です」
「素直だなぁ」
義兄上は手持ち無沙汰に、厚いテーブルの天板をコツコツ叩き、指を踊らせた。
「本当に大事なんだな」
「はい」
「でも逃げられてる。気安くいられるけど怖がられてて、くっついてきても心は身体と同様に風船のように軽い」
「……はい」
「あんまり貞操観念しっかりしてる奴じゃないぞ。年に一度は殺し合わなきゃならないみたいだし、伴侶には向いてない。それに寂しさを埋められるなら誰でもいいみたいだ」
「血を吸わせたんですか」
「仕事だからな」
狩人は身開いたすみれ色の目で義兄を凝視した。義兄上の表情は変わらず、空調の利いた部屋の中で退屈そうだった。それから奥歯を噛み締めているのに気付いて、意識して口を開けた。
「僕の……宿敵ですよ」
「なんで宿敵の許可を取らなきゃならないんだよ」
冗談めかして義兄上は言う。
「お前があの吸血鬼を好いてるのは、よく知ってる。でもこっちも新しい脅威になるかもしれないものを放ってはおけない。お前の宿敵が世界の宿敵になるのは、嫌だろ?」
「嫌ですよ」
「でも殺したくもない。わがままさんだな」
「僕の……」
「それにあいつの自由意志はあいつのものだ。お前のじゃない」
「義兄さんは色仕掛けで落としてるくせに……」
「セクシーで悪かったなハハハ。そんなによその犬に腰振るのが嫌なら去勢しとくんだな」
自分の知る義兄はこのように品の無い物言いをする人だったか。狩人は隙あらばギリギリ歯ぎしりする顎を、意識して開き続けていた。
「一代限りの危ないやり方だ、許してくれ」
「子供は作らないんですか」
「……まーな。それは相手がいないことにはどうにもならないし」
義兄上は首を掻いた。昨日の夜吸血鬼に噛まれた場所とは逆側だ。ただ居所が悪いから掻いた。それだけだ。
「僕にはこれしかやりようがないんだよ。お前もそうだろ」
「それは……」
「そういえばこれ、起こして大丈夫なのか? そもそもちゃんと起きる?」
誤魔化すようにしか見えない挙動だった。義兄上は吸血鬼を指した。
「普通に肩とか叩けば起きますよ」
「へえ」
「やめて。むやみに起こすな。僕たちの生活を実験にしないでください」
「ごめん」
「大人しくテレビでも見ててください」
「見てろって言ったってねぇ」
「チャンネルは好きに変えてください」
悪気があるわけではないから性質が悪い。ただ好奇心に負け続けて自制が無いから。狩人は珍しく怒っていた。身近な者に見せる気安さでもあった。
太陽はまだ登り切らないが洗濯物は既に乾いて、夏の陽光の恐ろしさを万人に十分に知らしめた。
「もう起こしていいですよ。これ畳み終わったら出発するので」
義兄上は指先で吸血鬼の肩をつついた。ああやってどの程度の刺激で吸血鬼が目を覚ますか実験しているのだろう。その程度なら許容しよう、と狩人は洗濯物を畳む。義兄上は今度は指三本で肩に触れる。
「あんた普通に起こせないわけ? いつもそういうふうにしてるの?」
「僕はいつも人のことを起こしたりしない」
「人を起こす時は常に実験みたいに徐々に刺激を強くしていってるの?」
「状況による。早く起きる必要があればさっさと起こし、ゆっくりでいいなら優しく起こす」
「俺は実験していいんだって? えーん、お義兄様に弄ばれたぁ」
「かわいこぶったって僕は助けてやれないからな」
「嘘泣きでも泣くなよォ」
狩人が洗濯物を畳み終え、じゃれていた二人はようやく出掛ける準備をし始める。義兄上はバックパックを背負った。
「忘れ物無い?」
「無い! OK!」
たいして確認しなかった。
さて、軽トラは二人乗りである。三人で乗るなら誰かが荷台に荷物を置き、その監視のために一人が荷台に乗らなければならない。しかしながら外は灼熱地獄である。誰も荷台で何十分も蒸し焼きになりたくはない。
「シャンジュが小さい生き物に変身すればいい。出来るよね?」
「おう」
これは特殊なパターンである。吸血鬼は鴉に変身し、助手席に座った義兄上の膝の上に乗った。
「重い。しかも温い」
「それが最小みたいです。我慢してやってください」
黒くフカフカした首筋に手を突っ込んだ義兄上に、鴉はガァと鳴いてバサバサ暴れた。
「触んなって言ってます」
「ごめん」
「二度とやらないでください。運転に支障が出ます」
義兄上の膝を温めつつ、鴉は立体駐車場まで大人しくしていた。
人がいないことを見てから、吸血鬼は他人の姿に戻った。
「便利だなそれ」
「なあ、お義兄様」
「なんだ」
「買い物する前にフードコート行こ。混むし」
この時間なら既に混んでいるだろうが、言わなくてもすぐわかることだ。狩人は黙って先に進んだ。
案の定既に人の多いフードコートの中、なんとか四人掛けの席をとる。
空いている店を見つけ、まとめて注文した。吸血鬼は義兄は量だけはあるメニューを頼んだらしい。食いしん坊だ。
「今晩は野菜のカレーにしようと思う」
「飯食いながら夕食の話か。人間らしい」
「ちょっと、続きも聞いて。お義兄様も食べるならうちのカレーはもっと多く作れる。その分具の種類も増やせるし。カツも買ってこうかな、ここの地下の揚げ物屋さん美味しいし。もしカレーが余ったら、明日の朝にチーズ乗っけてカレートーストにもできる」
「……それは、美味しそうだ」
「どう、食べたい?」
「えっ、いやだ」
「リヒトはこう言ってるけど? いいの?」
「大事なのはお義兄様の御意志だよ。カレー。どう? 日本の夏カレーは美味しいよ」
絶対何か企んでる。狩人は吸血鬼も義兄も睨んでいた。
「買い物終わってから決めよ。食べ終わったらサービスカウンター行ってくる」
義兄は誰よりたくさん食べているくせに、誰よりも早く食べ終わった。
「先行っててください。食べ終わったら合流します」
「わかった」
義兄上はトレイを持ち席を立った。残された二人は焦りもせず食事をとり、食事を終えてから吸血鬼はドーナツを買って帰ろうとごねた。
「なードーナツ買おうぜ。もちもちの丸いの。あっ今限定のあるって。お義兄様も喜ぶぜ」
「買わない。並んでるし。喜ばなくて結構」
「あのサクサクのやつなんかきっと冷蔵庫でのんびりしてるアイスと合うぜ」
「僕はドーナツは単品で食べたい。アイスのトッピングなら他にいい方法を探そう」
エスカレーターで一階に降り、サービスカウンターのほうを見ると、遠くに膨らんだ封筒を持つ義兄が見える。中身は綿棒が入ったプラスチックケースだ。国際便でどこかに送るつもりらしい。
「お義兄様、やっぱり帰っていいよ」
「現金なやつだな」
合流してからそのようなやりとりがあった。もとより仕事で次の目的地に向かうつもりだった義兄は予定通り空港行きの電車に乗り換えるため出発し、狩人と吸血鬼は改札前まで見送った。
「じゃあな、二度と来るな」
「また何かあったら連絡します」
「おう、元気で」
義兄がこの家を訪ねてから、まる一日か二日経ったある日。吸血鬼はトイレの中から同居人に聞こえるように、屋敷中に響く大声を上げた。
「理人! ちょっと来て!」
「トイレしたんなら流してよ」
「その前にさぁ、見てよ! ウンコが紫色!」
「見る」
思えば狩人が吸血鬼の排泄物を見るのはこれが初めてだった。他人に見せたいものではないだろうに。狩人は微笑んで、水洗便器に沈んだ半分くらい紫色に染まったバナナ型のそれを、個室の隅から遠巻きに眺めた。
「可愛いね」
「どういう意味だよ」
「眺め終わったら流しなよ」
「流しといて~ッ」
後ろでとてとてと遠ざかる音が聞こえる。あいつめ、と狩人は心の中で毒づく。
古い家ではあるが、この家のトイレは水洗式だ。タンクに付いたレバーをひねると、ジャーと音を立てて排泄物が流れていく。跡も残さず流れていった。
「アイスのフレーバー。何が食べたい?」
「いきなり何だ。心理テストか?」
狩人は吸血鬼に携帯端末の画面を見せた。アイスクリーム専門店のメニュー表が拡大されて映っている。
「義兄さんが買ってくれるんだって」
「来るの?」
「そう。今から」
「いくつまで選んでいい?」
「遠慮なくどうぞ、だって」
「えっへっへぇ、本当に遠慮しないぞ」
吸血鬼は十ぐらいのフレーバーを挙げた。狩人は義兄と連絡を取っている端末をとられたので、ふんふんと相槌を打ちながら吸血鬼が三つ目くらいから挙げた限定ものでないフレーバーを記憶の隅に書き留めて置いた。その記憶はひとまず打ちやって、吸血鬼から戻ってきた端末で義兄にメッセージを送る。
「全部買ってって言っとくね」
「お前遠慮って言葉の意味わかってる?」
「遠慮しなくていいって言ってるんだから。するほうが失礼だよ」
送信。連絡を終え端末から顔を上げた狩人を、吸血鬼が真ん丸な目で覗き込んでいた。
「お前さ、あのお義兄様相手だと結構ずけずけいくよな」
「……そうお?」
「そう見える。やっぱり、家族って遠慮が無いもんなの?」
そう見えるのか。吸血鬼に三年以上連続して暮らしたような家庭は、前半生に二つきりだ。遠い昔のことであまり覚えていないのだろう。狩人自身も、産みの母親のことはもう殆ど覚えていない。吸血鬼も同じようなものだろう。
しかし、そんなことよりも。狩人には引っかったことがあった。吸血鬼の顔を両手で挟んで問い詰めるように見つめる。
「僕と君は家族じゃなかったか?」
「……つまり?」
吸血鬼は首を傾げる。つまり。つまりなんて聞かれる予定は無かったし、狩人は答えを用意していなかった。ただの確認のつもりだった。何を聞くつもりだったんだ。狩人は挙動不審に答える。
「ええと。き、君も僕に遠慮なんてしないで」
「俺はしているつもりがないが」
「つまり……つまりなんてない。確認だ。君は僕を家族だと思っていないのか?」
「ひとつ屋根の下に暮らしてるんだから、たぶんそうじゃないのか? お前たまに面倒くさいよな」
たまにどころではない。吸血鬼はほとんど気付いていないかもしれないが、狩人は一日に一度以上の頻度で吸血鬼がここを出て行かないかの確認行為をしている。言葉であったり行動であったり、面倒な男である。
「義兄さん迎えに行くけど。一緒に行く?」
「行かない。お留守番してる。行ってらっしゃーい」
吸血鬼は冷房が効いた部屋から出たくなかった。狩人が運転する軽トラックがブロロンと音を立てて出て行ったのを聞いてから、しばらくだらだらした後、冷凍庫の空き容量を確認しに立ち上がった。
視点は切り替わり狩人を映す。義兄は駅前の量販店にいるらしかった。駐車場に車を停め、合流のためメッセージを確認しつつ、買い物を済ませ、待ち合わせ場所に向かう。
「久しぶり~。随分でかくなったな!」
義兄は相変わらずだった。半年分髪が伸び、服装が変わった程度の変化しかない。変わらず大きなバックパックを背負い、日除けのための長袖の上着を着て、空いていない方の手にはアイスクリームが入った箱を下げている。
人懐っこそうにぶんぶん手を振って、自分のそれより少し高いところにある頭を、開いた手で頭をぽんぽんと優しく叩いた。すぐに叩き落とされた。
「どうしたのその荷物」
「町に降りたので、ついでに買い物を。帰りにガソリンスタンドも寄っていいですか」
「おう、寄れ寄れ。お手並み拝見だな」
ガソリンの支払いを義兄に持ってもらい、集中を削がない程度にお喋りしながら山道を行く。
「思ってたより山だな。そんなに山に入る?」
「冬の家よりは道がマシだったかと」
「そうかなぁ?」
「慣れてないからでしょ。ここ来るの初めてでしたよね?」
「うん。ミカジロさんの実家だろ? 父さんも来たこと無いんじゃないかな」
義兄は辺りをきょろきょろと警戒するように見回していた。故郷の山と似たところがあるとはいえ、街の景色や山の植生は全く違うし、見慣れないものがたくさんあるだろう。
「こっちに来たのって、何かのついでですか? 僕たちに火急の用事が?」
「いんや、特に。義弟の顔見たくって悪いかよ」
「へえ」
「彼とは上手くやってる?」
「もちろん、ラブラブです」
「初めて聞いたなその表現。どういう意味だ?」
「上手くやってますよ」
「ふうん、なら、いいんだけど。そういやこのトラックどうしたの?」
「ミカジロに借りてます。普段使い用に」
「荷台なんか乗ってない?」
「何も乗ってないですよ」
そのようなやりとりをしながら家に戻る。軽トラックを自宅の前に停めた後、義兄は荷台を確認して、きょろきょろと辺りを見回していた。見知らぬ山中への物珍しさだけではなさそうな挙動だった。
「追われてたんですか?」
「追われてるっていうかつけられてるっていうかそういう気がするだけっていうか」
「撒いてから合流してくださいよ」
「言うようになったなぁ?」
吸血鬼は玄関に座って待ち構えていた。挨拶もそこそこに、土産代わりのアイスクリームがたくさん詰まった箱を義兄が押し付けると、急いで冷凍庫に持って行った。ついでに普段の荷物も持って行って欲しいと狩人は思ったが、こちらはアイスクリームほど急ぎではない。仕方なしに靴を脱ぎ、義兄が周りを警戒していた理由の続きを聞く。
「空港まで旅行好きの吸血鬼と一緒に居たんだが、ここまで追って来たかもしれなくてさ。あいつヤバいんだよ。もう今年半年ぐらいあいつと一緒にいる気がする。やんなっちゃう」
「考え過ぎじゃないですか?」
「警戒は怠らない方がいいだろ。不審なやつが来ても招くなよ。こんな山の中でも戸締まりはしっかりしろよ。日本家屋ってやつ、広いわりに廊下が丸出しじゃないか」
「わかってますって。日が陰ってきたら雨戸を閉めますから」
そういうわけで、狩人は客人を冷房の効いた居間に通した。重いバックパックを部屋の端に降ろし、上着を脱いで身震いを一つする。今日は無軌道な土産物は持っていないらしい、三人で方形のちゃぶ台を囲んで座る。
「改めて。久しぶり、シャンジュくん。最近の暮らしぶりはどう? リヒトにいじめられてないか?」
「それを僕がいる前で聞くんですか?」
「下ネタになるけどいい?」
「そうか。仲良しならいい。詳細は話さなくて結構。あっそういやあのアイス、結構量あったけど全部冷蔵庫に入った?」
「おう、入った入った。しばらく贅沢出来るわ」
「そんならよかった。あー、あとなあ。何聞くんだっけ。……ン、そうそう。こんな山ン中だし、飯とかいろいろ、不自由してないか?」
「してないけど。なんでそんな聞いてくる? 小舅? うちの子につまらんもん食わせてないかとか?」
「確かに小舅だけど。そんな意地悪言ってるつもりはないんだけど」
「じゃあ希少動物の保護官だ」
「そうだけど?」
「いやあんた吸血鬼狩人だろ? 保護なんてしていいのかよ」
吸血鬼は以前アパートでこの義兄に同じ質問をした気がした。答えを覚えていないから再びしたのだが。
「一応、共存が目的だからな。出来なさそうなら殺すしかないが。そうだな、どうだ? リヒト。シャンジュとは上手くやっているか?」
「やってます。物騒なことは僕の仕事ですから。あまり立ち入らないでください」
「それならいいんだ。仲良きことは美しきかな、って言うだろ」
ああ、とふと思い出したように、義兄はわりととんでもないプライベートなことを聞いた。
「そうだ。吸血鬼に対してする一番重要な質問なんだけど。血は足りているか? 下の街にいる人間を襲ったりしてないよな?」
「襲ってるわけないだろ」
狩人といるときは猪に変身して町まで駆け降りるようなことはしない。町に降りるときはだいたい狩人が運転する軽トラックを使っている。まったく無意味な質問だ。狩人は眉を顰めた。
「他の吸血鬼であんたに正直に言う奴っているの?」
「いないよ。でも嘘ついてるかはわかるから。飢えていないってことは、リヒトの血を吸ってるのか? それとも他の動物の血か?」
「ここいらの動物の血。理人のはたまに」
「他の人間の血を吸いたくなることはある?」
「……今は全然。理人がいるし。面倒ごとは起こしたくないし。狩られたくないし。ここいらまだ猟友会が元気なんだわ。山のこっちには来ないけど」
「へえ。銃が怖いのか」
「怖いよ。音でかいし、無粋じゃない?」
「うん。そうか。慣れたいものじゃないよな。怖れるべきものだ。その恐怖は正しいよ。僕も怖いし」
「あんたも撃たれたら死ぬんだな」
「撃たれ所が悪ければね。君もそうだろ」
「さあ、撃たれたことないからわかんないや」
「……そうだな。君は吸血鬼だし、特に君の系統は急所の統計が取れるほどデータが無い。喜ばしいことだ」
「なんか腹立つな。俺理人の子ども産もうかなぁ」
えっ! と天井から埃が落ちてくるほど義兄は声を響かせる。甥が出来るあてをまざまざと見せつけられて驚いたとみえる。吸血鬼はにっこり笑った。狩人は会話に口を挿まず真ん丸に目を見開いて吸血鬼を睨んだ。
「君、メスだったっけ? オスじゃなかった? クマノミみたく性転換した?」
「産まれて死ぬまでオスのつもりだよ。ただのよくある変身能力。形だけ変えられるやつ、他にいないの?」
「ああ、いるよ。変身能力な。でも子どもを産んだ例は無いな」
「俺も上手く産めなかったし」
「……あー、ええ? うーん、まあ、そうか」
かつてルチエが彼ら二人に渡した調査書には、吸血鬼の出産については書かれていなかった。生まれてから八歳まで、十二歳から十三歳、十六歳から十八歳まで、推定形が半数を占めたぶつ切りの人生が書かれていた。彼が牛として生活していたときのことだから、その間隙、完全に人間社会から切り離されて暮らしていたときのことは、人間である義兄にはわからなかったのだろう。
「ともかく、そうなりそうになったら、こっちに連絡してくれ。色々手続きが要るだろ、そのへん手伝ってやれるし。吸血鬼の出産ってあまり例がないから、こっちでも研究したいし」
現実的な問題を出されると嫌になるな、と吸血鬼は笑ったまま眉間にしわを寄せた。
「する予定は無いから安心して。冗談だよ。尻の穴でしかやってない」
今度は義兄が眉を顰める番だった。仲良しならばいいと言ったが、具体的なことは何一つとして聞きたくなかった。狩人は吸血鬼の頭を軽く引っ叩いた。
「なんだよ」
「喋り過ぎだ」
「お義兄様も俺に劣らずなかなかのお喋りじゃないの」
「君は余計なことを喋るから」
「子供が欲しいって言ったのは余計か?」
「そっ、それは、その、あの、えーっと、その」
「吸血鬼くん」
静かな声色で義兄は言う。狩人と吸血鬼はまさに声色の狙い通りに口論を止め、義兄のほうに注目した。声色の変化はすぐに終わる。
「最近は何かと物騒だからね。不審な吸血鬼が来ても、血を分けたりするなよ。ちゃんと戸締まりすること」
「……分けねえって。吸血鬼ったって全部不審だし、すぐわかるだろ」
「わからないかもしれないのが恐ろしいんだ。ほ~ら日が傾いてきたぞ。黄昏時だ。逢魔が時ともいうな。誰が来てもおかしくないぞ」
お喋りに夢中になっていたが、そろそろ夕食の準備を始めなければならない。今日は吸血鬼が起きているから彼が食事を作る予定であったが、この義兄がどう動くかが問題だった。帰るのは今か、明日以降か。きっと明日以降だろう。吸血鬼は溜め息を吐きながら立ち上がった。
「お義兄様、飯食ってく?」
「いいの?」
「この辺人間が飯食うとこないから」
吸血鬼は別だ。うまくありつけるかどうかは運次第であるが、人間は生肉を食うわけにはいかない。ぺたぺたと足音を立て、居間を出て台所へ向かう。
「今夜はまた野営する予定だったんでしょう?」
「そのつもりだった。庭借りていい?」
「……庭と言わずこの部屋をどうぞ。布団は無いですよ」
「やったぁ、ありがとな」
図々しいやつだ。きっと風呂も借りるつもりだったのだ。狩人は聞かせるように溜め息を吐いた。誰も反応しなかった。思えば冬の家にいたころにはあまり頻繁に風呂には入らなかった。気候の違いもあるかもしれない。日本は夏はとても湿っぽくて暑い。年の半分は寒く雪が降り積もっていた冬の家と比べれば、毎日風呂に入って汗を流したい欲求ははるかに勝る。
「風呂借りていい?」
二言目に予想通りの言葉が出た。狩人は断る理由も無いので頷いた。
「いいですよ。昨日から湯を落としてないので、汚いかもしれませんが」
「ありがと! ついでに洗濯してもいい?」
「やるんならお喋りする前にやってくださいよ」
「忘れてた」
そう言って義兄はバックパックの中身を居間に散らかす。思い付いたことを思い付いた時にやるのは忘れっぽいからだ。義兄はそういう人だった。義兄の行き当たりばったりな性質が好ましい時もあるし、憎たらしい時もある。今は切羽詰まっていないから、受け入れる余裕がある。
洗濯物を抱えつつ通りがかるとき、吸血鬼が廊下越しに台所から話しかけた。
「風呂上がったときには飯を食えるようにしておくよ」
「ありがとな~。ホントに。頼りないところばっかり見せてる。家に来たら……自分の家無いんだった」
具体的にどういう生活をしているのか想像できない。仕事上ひとところに留まらない性質なのは吸血鬼でも知っているが、定住する家がないとは、現代社会が生んだ悲しき戦士だ。
狩人はいつもの倍の量の米を洗った。吸血鬼は冷蔵庫にあるもの三人分の飯をでっち上げた。狩人がそれ用の買い物をしておいたおかげだった。メイン以外のおかずの準備も整っている。あとは味を付けた肉に火を通すだけとなった。
吸血鬼が義兄が風呂に入るところを見るのはこれで二度目だった。以前はこんなに長風呂ではなかったように思える。吸血鬼は風呂で沈んでいないかと思い、風呂の様子を見に行った。
「なあお義兄様」
「どうした吸血鬼」
風呂の戸のガラス越しにくぐもった声が返る。本当に長風呂なだけだった。杞憂だった。まだ風呂桶に沈んではいないようだ。よかった。
「吸血鬼じゃなくってシャンジュって呼んでよ~」
ここで吸血鬼は義兄上ともうちょっと話をしたくなった。洗面所の床に体操座りして、嫌味をちょっとだけ続ける。
「俺の全てを調べたくせに、名前は呼んでくれないんだな~?」
「お前には確固たる名前がなかったんだ。ちょっとややこしいからさ」
「今の俺にはシャンジュっていう、あんたの義弟が付けてくれた素敵な名前があるんだけど?」
「ああ悪かったなシャンジュくん、ところで何の用だ、今じゃなきゃダメか。風呂出てからでもいいだろ」
「大した用じゃない。本当に。……そういえばあんたの血、前に吸わせてくれるって言ったよな。あれ今でも大丈夫かな、って……」
少しの沈黙があった後、吸血鬼は狩人の静かな足音を聞いた。出来るだけ消していても靴下の衣擦れの音が嫌に耳に届く。早足でこちらに迫りくるのがわかる。おそらくルチエは気付いていない。まずい返答はしないかもしれないが、それでも吸血鬼は気まずい気分になった。
「いいけど、君の流儀には合わせてやらないぞ。こっちの言うやり方に従ってもらう」
「へえ。例えば?」
やってきた狩人が客用のタオルを数枚風呂の戸の側に置いて行った。義兄の洗濯物を乗せた洗濯機がごうんごうんと動いていた。
「何話してるのかなって思っただけ。あんまり風呂入る邪魔しないであげてね」
「そろそろ出るから。どっか行ってくれ」
「はーい」
あの髪の長さでは乾かすのにそれなりに時間がかかるだろう。今火を通せばあたたかいまま食べられる。吸血鬼は台所に向かい、最後の仕上げをした。
義兄は明日穿くパンツ一枚以外全ての服を洗濯してしまったので、狩人が貸したTシャツを一枚上に着ることになった。これで狩人は明日が雨であったなら、あるいは何らかの事情で今日着ている服が明日する洗濯の後乾かなかったら、明後日には上に着るものがなくなってしまうことになった。狩人はあまり多くの服を持っていなかった。
つつがなく食事を終え、ルチエが飯釜を空っぽにした後。今日は洗い物を客人に任せ、吸血鬼と狩人は手分けして脱水を終えた洗濯物を干した。昼の外に干しておけば一瞬で乾きそうな気候であるが、良い時間はもう過ぎてしまった。冷房を届かせていない空いた部屋に干しておくことにした。きっと一晩放っておけば室内でも乾くだろう、乾いてくれなければ困る、と二人で喋りながら。もうちょっと早い時間にやってくれれば確実に乾いたのだが。
洗濯物を干し終え、狩人は風呂に入った。吸血鬼は寝る気分ではないが何かする気分でもない。洗い物を終えた義兄は寝袋を引っ張り出していた。食べて早速寝るのか、と吸血鬼はテレビを点ける手を躊躇った。
「お義兄様もう寝るの?」
「いんや、まだ。準備だけ。歯磨いてから。シャンジュくんは? 風呂に入らないの?」
「あんたの知り合いの吸血鬼はお風呂好きか? 俺はそうじゃない」
「週一くらい?」
「よくわかったな」
「綺麗好きさんめ。そういえば昼間起きてたけど今はちゃんと眠い?」
「寝る気はしないな。これから夜だし。寝たくなったら寝る」
「不規則だなー。昼間はどこで寝てる? やっぱり押し入れ?」
「いや、台所横の部屋」
「どこ?」
「閉じてるからわかりづらいけど。探すなよ」
見せたくないわけではない。自分の寝床に他人を踏み入れさせたくないだけだ。
義兄上は寝袋を広げた上に座り、Tシャツを脱いでぽんぽん膝を叩いて指した。
「シャンジュくん、ほら、こっち来なさい」
「は? やだ、エッチ! 急に何!」
「どこがエッチなんだ。さっき血を吸うって言っただろ、……しないならしないほうがいいけど」
言うが早いか義兄上はいそいそとTシャツを着はじめた。寝袋を広げたところは冷房の風が直接当たって、上裸でいると寒かった。シャンジュはテレビのリモコンを放り出した。胡坐をかいた義兄上に縋りつき、頭の半分まで着かかっていたシャツを脱がせて背中近くの畳に追いやった。
「吸う。飲む飲む。あっ、お義兄様美味しそうなにおいするね」
「よく言われる」
吸血鬼は身体が惹かれるままに抱き着き、すんすん鼻を鳴らしながら長い髪に留まった首筋の香を嗅ぐ。明るい栗色の髪は細いが量が多くふわふわつやつや、さっき食べたばかりの豚肉の臭い、風呂に入ったばかりでまだシャンプーの残り香、髪を掻くたび匂いが広がり、しゃらしゃら柳の葉が靡くような音が聞こえる。夢中で抱き着き耳の後ろに鼻を寄せる吸血鬼の背を、ルチエは強めに叩いた。
「おまえな、いつまで嗅いでるんだよ」
「ねえお義兄様、キスしていい?」
「は? どこにだよ」
「全身、全部」
「駄目だ。さっさとガブっとしなよ。ここまで、ってところで言うから。止めなかったら殺すからな」
「浮気者。義弟に悪いとか思わないの?」
「あれも事情を知らずに殺しには来ないだろ。ほら」
吸血鬼がしているように、義兄も吸血鬼の背を抱き返す。
「エッチなんだ。ここまでしといて寸止めかよ」
「なんだよ。血はいらないのか?」
「裸で抱き着いて首筋に噛みつくのはいいけど、それからは? ってこと」
「それだけ。好きで裸なわけじゃない。普段は服を着てる」
「あのスケベ服な。でもこの状況、理人が見たら誤解しちゃうかもよ。俺も脱ごっかな」
「誤解はしない。さっさと済ませな。本当に殺すぞ」
吸血鬼の首筋に針のようなものが触れる。牙よりも鋭く冷たい。動けば背骨にぶすっと刺さる。死にかねない位置だ。
「え、何? 美人局かよ、怖ッ」
「安心しろ、僕も怖い。これが刺さるかは君の行動次第だ、シャンジュくん。君は血を吸うだけだ」
「……わかったよ」
満腹でも魅惑的な首筋に牙を立てる。傷口に繰り返し吸い付き、首筋に舌を這わせ、傷口を舌で抉り広げ、血を啜り、吸血鬼は相手の様子を窺う。
義兄上は身じろぎ一つしない。ただ吸血鬼の背中を一定の速さで撫でているだけだ。呼吸も脈動も血が抜けたせいで多少の揺らぎはあるが、驚くほど安定している。理人なんか抱き着いてキスまでしてくるのに。そりゃあいつだけか。吸血鬼は肩に口を這わせながら、吐息たっぷりに聞いた。
「お義兄様さぁ、誰にでもこういうふうに身体とか許しちゃってるの?」
「これ以上の接触をしたがるやつには警告。それでも踏み込んでくるなら殺した。君たちに人間の法は通用しないからな」
「よく命があるよな」
「鍛錬の賜物。あとは天が味方してる」
「ふーん」
吸血鬼は姿勢を変えるため、うっかりを装い下腹に触れる。何の熱も無い。ただの人間の体温が冷たい掌に返ってきた。
つまらない男だ。今まで食らってきた人間の誰より理性的と言い替えてもいい。こういうやつを堕落させるのが一番楽しいといういう見解もある。今はそうではない。狩人が風呂から出てくるまで、急を要する。
「左手を肩に乗せろ。膝でもいい」
「ごめんて」
小さな針の先が首に少しだけ刺さる。殺されてはたまらない。膝の上に突っ張って支えて、それらしく体重のかけ方を変える。
「今日は持ってるの? 朱色と白の縞々のやつ」
「持ってるよ。欲しいならあげる。後で自分で使いな」
「自分で使うことって無いの?」
「それを君に言う必要はない。寒いから飲むなら早くしろ」
「もうちょっと」
一口二口飲んだところで、「もうやめろ」という声とほぼ同時に、吸血鬼の首筋に再び銀の針が触れた。これで死んではたまらない。ちゅっ、とリップ音を立てて、吸血鬼はすぐさま義兄に付けた傷を治した。
「ねえお義兄様。これで離れんの嫌だな。もうちょっと抱き着いててもいい?」
「駄目。お仕舞い。離れろ。人肌恋しいなら後で理人に抱きつけ」
「ちぇーっ」
義兄上はさっさとバックパックの中のウエットティッシュで傷口の周りを拭いて絆創膏を張り、服を着て身震いをして「あー寒っ」と言った。どうやら寒かったのは本当らしい。先程まで抱き合っていた吸血鬼の体温は人間のよりずっと低いうえに、冷房の風も当たっている。これで寒くない方がおかしい。
先程の冗談を真に受けたのか義兄上は吸血鬼のほうに使い捨てのオナホールを投げて寄越し、自分は台所に行くようだった。吸血鬼は今はこれを使う気分ではなかったので珍しいものを見るように手の中のボトルを見下ろした。記憶が正しければ前とまったく同じ種類のものだった。これで自分たちに義兄がオナホールを寄越すのは二度目だった。
「なんかいただいてくる。食べちゃダメな物ある?」
「生肉、生米、生卵……」
「調理が必要なものはさすがに食べないよ」
これは後日狩人と刺激的な行為をするときに有効活用させてもらおう、と吸血鬼はオナホールを自分の部屋に放り込みに向かう。
道中ちらりと台所の様子を見ると、義兄は冷凍庫の戸を開け放ち、昼に買ってきたアイスクリームを漁っていた。寒い寒いと言っていたにも拘らず、庫内の温度を一定に保つための冷気を浴びながらどれにしようかなどと悩んでいる。吸血鬼が隣の部屋にオナホールを投げ込んだ後もまだ悩み続けている。冷凍庫の一秒は長い。吸血鬼は思わず怒鳴った。
「さっさと閉めろよ!」
「わかった。うーん、やっぱりチョコ!」
冷蔵庫にもびーびー文句を言われつつ、義兄は冷凍庫の戸を閉めた。
「味は三十二個、買ったのは三十六個。一応ダブってるやつ選んだから、あとは二人で仲良くな」
カップから直接アイスクリームの球を齧り、心底美味しそうににんまり笑う。
「スプーン使ったら」
「どこにある?」
「はい」
吸血鬼は戸棚からデザート用の小さな鉄製スプーンを出して渡した。義兄上は初めて見るもののようにくるくると手のひらで回した。
「ありがとう。シャンジュくんもどう? アイス」
「いや俺はいい。もうちょっと余韻を楽しみたい」
「そっか。後で一口欲しくなったら言ってね」
バタン、と風呂のドアが開く音が聞こえた。狩人が風呂から出て来たらしい。吸血鬼は廊下を覗き込んだ。風呂の湿気が少しばかり漂って来ただけで、特に変化はない。
義兄上はシンクに腰を預け、他のことに構わずアイスクリームを一口、スプーンで掬って口に入れた。にっこり笑ってご機嫌だった。さっきまで寒そうにしていたのに。
「うん、美味しい」
「あんた誰にでもそんな調子なわけ?」
「そんな調子とは?」
機嫌良さげにアイスクリームがくっついたスプーンを舐めて、義兄上は聞き返した。
「他の吸血鬼とか、人間とかにもかもしれないけど、関わるもの全てにお義兄様は思わせぶりな態度をとり続けてるの?」
「おも、思わせ? 何を思っているの?」
スプーンを咥えながら、戸惑っている声色だった。手の熱でアイスクリームを溶かさないようにカップの端を持ち、もう一口掬って食べる。さっきよりもあからさまに美味しそうな顔はしない。感動も薄れて来たのか、体が冷えてきたのか、頭が痛いか歯に沁みたのか。
「すぐくっついてくるし、誰にでも血を吸わせるし。かわいこぶっちゃって」
「ぶってない。君が僕を可愛いと認識してるだけ」
吸血鬼はやっぱりアイスクリームを食べることにした。冷凍庫の戸を開くのを止め、義兄にどの味が二つ入っているのか聞いた。
「赤と青のチョコミント味と、ハート型のチョコが入ったやつと、スイカのシャーベットと、これ」
「他には?」
「一通り。具体的には覚えてないよ」
冷凍庫を開けてちょっと悩んだ末、義兄が挙げたどの味でもない、紫とピンクのマーブル模様の何かを食べることにした。三×四個のアイスが入った箱の中には、プラスチック製の小さな使い捨てスプーンがカップの数だけ入っていた。まだ下には二段分のアイスクリームがあるらしい。しばらく贅沢できる実感が湧く。
「これって何味?」
「何だろ。一口ちょうだい」
「あんたなんでもそうやって一口ちょうだいって聞くのか」
「聞くぞ。だから君も聞いていい」
吸血鬼がしぶしぶカップを差し出すと、義兄は少々のチョコレートが付いたスプーンで控えめに一口を掬う。うーんと唸ってスプーンを味わい、綺麗に舐ってからさらに首を傾げる。
「何味だろう。果物じゃない気がする。甘いね」
「そりゃアイスなんだから甘かろうよ」
狩人が楽し気な話し声に台所を覗き込んできた。パンツだけ穿いて頭にはタオルを巻いていた。
「行儀悪いですよ。ちゃんと座って机の前で食べなさいよ」
「服着ろよ」
狩人はすぐに洗面所に戻った。ドライヤーの音が聞こえてくる。
「インスタントコーヒーある? お湯沸かしていい?」
「あんた体冷やしたいのか温めたいのかどっちなんだよ」
吸血鬼はヤカンに丁度一人分の湯を沸かす。マグカップを出し、インスタントコーヒーの粒をざらざら瓶を傾け入れる。吸血鬼は謎の味のアイスをまだ一口も食べていない。
「中和したいんだ」
マグカップ一つ分の湯はすぐに沸いた。吸血鬼はぼとぼと湯を落として、義兄上に熱いカップを差し出した。
「混ぜんのは自分でやりなよ」
「ありがとね。そろそろ座りたくなってきたから戻ろ」
吸血鬼は義兄の後について歩き出す前に一口アイスクリームを味わった。ただ砂糖のように甘いが、何の味かわからない。砂糖味かもしれない。金平糖とか。それにしては色が濃い。金平糖はもっとパステルカラーというか、色が薄くて紫ではない気がする。うーむ。
首をひねりつつ吸血鬼は座布団の上に座る。狩人が座っていた座布団はすっかり冷え切っていた。
義兄上は冷たいスプーンでコーヒーを掻き混ぜた後、食べかけのアイスクリームとマグカップを並べて、行き場をなくしたスプーンを口に咥え、写真を撮っていた。
「ちょっとぉ、こっち写さないでよ」
「写さないよ。写らないだろ?」
「写らないけどさ。なんで撮ってるの? どっか上げたりする?」
「しないしない。日記用。食べたもの記録しとくと後々便利だから」
「便利って?」
「人に聞かれた時に今日はどこに居たってわかると都合がいいんだ」
「誰に聞かれるの? 仕事仲間?」
「そう。仕事」
「ご家族は? 結婚とかしてらっしゃらないの?」
「うっわ。ヤなこと聞くね~ッ。実家のおじいちゃんみたいだ」
「へー。実家におじいちゃんいるんだ」
「いるよ。でも場所は教えてやんない」
「なんでー。俺もおじいちゃんにご挨拶したい」
「行かない方がいい。生粋の吸血鬼狩人なんだ。厳しいぞ」
「そりゃまずい。それよりなんだよ。自分の家あるんじゃん」
「血のつながりがある人が住んでるだけだよ。居て居たたまれない家をマイホームって呼べるかね?」
「呼ぶだろ」
ドライヤーの音が止んで、いくつかのスイッチを付けたり消したりする音が聞こえた後、狩人が居間にやってくる。義兄は早速夜中のアイスクリームを薦めた。
「リヒトもどう? アイス。食べる?」
「歯磨いたんでいいです」
本当に、この義兄は誰にでも一口どうぞと聞くやつなのだ。吸血鬼は口にも顔にも出さず呆れた。それから甘い味が何なのか一人でも多くの意見を聞きたくて、スプーンの先をちょっと振った。
「おい理人。これ何味だと思う?」
狩人の返答は極端に非情だった。
「調べたら? 公式サイトとか見てさ」
「名前当てゲームだよ。なんて名前の味だと思うって。ほら、あーん」
一口分が乗った使い捨てスプーンを差し出された狩人は、しぶしぶ吸血鬼の隣に腰を下ろした。
「君の予想は?」
「食ったら教えてやる。あーん」
狩人は口を開き、甘んじて吸血鬼のあーんを受け入れた。もぐもぐと舌の上に溶けたアイスクリームを広げ、やはり首を傾げて言った。
「甘いね」
「俺は金平糖味だと思う」
「金平糖ではないんじゃない、この店の系統だったら直接金平糖を入れると思うし」
「あっ思い出した!」
「お兄様! 答えは言わなくていい! おい理人、これ何味だと思う?」
「なんでそんな必死なの……綿あめとか?」
答え合わせをした後、自分の答えが外れたことに吸血鬼は唇を尖らせて、可愛らしく不機嫌になった。それでも変わらずアイスクリームは甘い。一口食べれば機嫌はすぐに直った。
「リヒトも何か出さない? せっかく食べたんだし。何でもあるぞ」
「いや、いいですって。食べ終わったら歯を磨きなさいよ」
「わかってる。後で洗面台借りるよ」
「こら、シャンジュも」
「む~っ」
吸血鬼は歯を磨きながら曖昧に答えた。狩人は歯を磨き直すらしい、さっさと立ち上がった。
「あいつ夜中は何も食べないって決めてるの?」
「いや。今日は腹の機嫌が悪いんじゃないのか」
勝手なことを言うものだ。義兄上はクッキーが混じったチョコレートアイスクリームを機嫌良く食べて、半分くらい食べたところに熱々のコーヒーをかけてアフォガートにしていた。コーヒーをかけた後はさらにご機嫌だった。アフォガートを一口貰った吸血鬼は、今度アイスを食べるときに真似しようと思った。
「熱々でなくてもいい。牛乳とか炭酸とか。アイスを溺れさせる必要はない」
歯を磨き終えて狩人が戻ってきた。
「義兄さん、これからの旅程は決まってますか」
「決まってないよ。のんびりだ。明日は何時起き?」
「のんびりです。予定は掃除と買い物に行くぐらいですから。午前中には送ってきますよ」
「助かるぅ。ところで掃除って山の奥?」
「いえ、普通の掃除です。その辺掃いたり、掃除機かけたり」
「家が広いと大変だな。ロボット掃除機買おうか?」
「いやぁ、見ての通り段差が多いので。いちいち助けてられないですよ。シャンジュが手伝ってくれると助かるんですが」
「やなこった」
吸血鬼は紫色に染まった舌をべーっと突き出した。アイスクリームには着色料が法に背かぬ程度の量使われていた。舌が染まらぬはずがない。
「なーお義兄様、吸血鬼のことをよく知ってるお義兄様に聞くけどさ、よその吸血鬼も散らかってる方が好きだろ? 俺みたいに」
「僕がよく知ってる吸血鬼はちゃんと掃除してるぞ。綺麗好きで整理整頓が得意だ」
「うそだぁ」
「嘘じゃない。毎週決まった時間に掃除してたり、物は多くてもちゃんと整頓したりしてる。だいたい吸血鬼ってのは几帳面で、豆を放ったらいちいち数えて拾うもんだろ」
「拾わねえよ。そんな几帳面じゃない」
「新時代だなぁ……」
脈絡なく、時が来れば眠気はやってくる。狩人は口を押さえ、一つ大きくあくびをした。とろんと気の抜けた目をしていて、そろそろ限界だという顔をしている。
「リヒトはもうおねむか」
「はい」
返事をした後もう一つあくびをする。目を擦りながらよろよろ這いつつ立ち上がる。
「山の中なので近所付き合いは無いですけど、あんまり遅くまで騒がないでくださいね。おやすみなさい」
「おやすみ」
眠気でよたよた歩きの狩人を見送り、吸血鬼は最後の一口を口に放った。もぐもぐと口を動かし甘い紫色を口腔全体に広げる。冷え切った口の中、溶け切らないアイスクリームが喉の奥に落ちる。吸血鬼の体温でもアイスクリームは溶けるらしい。腹の奥には温かいご飯もいるはずだ。一緒にぐずぐずに融けて体になっていく。
「いつもこれくらいに寝てる?」
「いんや。俺あいつがどれくらいに寝るか知らんし。夜更かしを強要することはある」
「そうか」
すっかりぬるくなったアフォガードもどきを飲み干し、義兄は席を立った。バックパックをごそごそ漁る。
「僕も寝ようかな。シャンジュくんはどうする? まだ起きてる?」
携帯用歯ブラシを探し出し、ポケットに突っ込む。台所に行くついでに歯を磨くらしい。
夜の空疎な時間一人でを潰すには、山奥では料理かテレビくらいしかあてがない。吸血鬼は自分も空のカップを片付けようと、義兄に着いて行く。
ゴミ箱にカップを重ねて捨てる。義兄は水を含ませたスポンジで以てスプーンを慎重に洗う。
「いや。でも客人が寝る邪魔をするとたぶん理人が怒る。理人のとこに行こうかな」
「僕はいいよ、君が飽きるまでお喋りに付き合っても。あいつあんまり寝れてないんじゃないの? そんな調子じゃあさ」
「……なんでそんなへっぴり腰なんだよ」
「運が悪いと辺り一面びしゃびしゃになるじゃない?」
「運じゃなくて当たる角度が悪いんだろ」
義兄はへっぴり腰ながら水流を最後まで御しきり、綺麗になったスプーンを乾燥棚に立てかける。
「これ朝まで放って置いていい?」
「いいよ」
「そりゃよかった。片付けよろしくな」
「はーい」
それから洗面所に移動し、予定通り歯を磨く。すりガラスの扉一つ隔てた向こうでは、風呂の換気のために窓が開き、換気扇がごうごう音を立てている。心なしか洗面所も蒸し暑い。吸血鬼は廊下に座り込み、歯磨き粉のミントの香りが消えるのを待っていた。
最低限の口腔ケアを終え、歯ブラシの水分を拭きながら、義兄は吸血鬼を横目に見下ろして聞いた。
「シャンジュくんは歯を磨かないのか」
「俺は吸血鬼なんだけど?」
「吸血鬼でも駄目だって。虫歯になったら保険も効かないんだろ。食べ終わったらすぐしたほうがいい。俺がやってやろうか?」
そろそろ歯ブラシを変えないとな、などとと考えながらケースに戻す。いやににやにや笑って吸血鬼は先の問いかけに答えた。
「……せっかくだし、お願いしよっかな」
「からかったつもりなんだけど。相当甘えんぼさんだな」
「なんだ、やってくれないのか」
「いんや。やると言った以上やってやるさ。君の歯ブラシはどっち?」
「赤いほう」
居間に戻り、広げた寝袋の上に胡坐をかいて座る。吸血鬼は仰向けに寝転がって股の間に頭を乗せる。
栗色の髪を耳にかける。かかりきらない髪を肩から後ろに流す。鋼色の目が吸血鬼を見降ろす。この目の色は父親似だ。吸血鬼は一度しか会ったことはないが、よく覚えている。
改めて、変な状況だ。
「じっとしてろよ」
「じたばたしてやろうか」
「歯ブラシが喉の奥を突いて苦しいのはお前だぞ。おとなしくしな」
吸血鬼はおとなしく義兄上の指示に従った。口を開けと言われれば開き、イの形にしろと言われればそうする。吸血鬼はちょっと後悔した。今己が口の中を任せている相手は、もう嫌だと言ってやめてくれる相手ではない。狩人とて歯磨きをねだれば途中でやめてはくれまいが、時を経て築き上げてきた一切の甘さがない。
口の中を不快な泡でいっぱいにしてようやく、「起きて口の中をすすげ」と義兄上が肩を叩いた。起き上がってさっさと口の中の泡を吐きに行く。
「そんな慌てなくても……」
「いいだろ。慌てるの好きなんだ」
一通りの泡は洗面台に吐いて捨て、歯茎や頬の間に詰まった泡は呑みこむ。口をすすぐのは勘弁してほしい。泡ごと呑みこむのでない限り、雨に体を流されるがごとく不愉快だ。
ついてきてくれた義兄上から自分の汚れが付いた歯ブラシを受け取ろうとして避けられた。むっとして吸血鬼は下唇を突き出す。
「なんでいじわるするんだよ」
「磨き残しがないか確認するから、口を開け」
「歯ブラシはさっさとすすいだ方がいいだろうがよ」
「確かに、そりゃそうだな」
むっとしたまま歯ブラシを奪い取り、吸血鬼が歯ブラシの先端を蛇口から出る水にさっとくぐらせる。歯ブラシを洗面台の所定の場所に戻したら、相変わらずむっとし続けたまま義兄上のほうを向く。
「よし。あーん」
開いた下顎を掴み、義兄上は不躾に口の中を覗く。ふんふんとひととおり歯の様子を見るようなふりをしたのち、どこからともなく取り出した綿棒で頬の内側を撫でる。吸血鬼が戸惑っているうちに、さっさと試験管に似た容器に綿棒を落とした。一体どこに仕舞っていたのか皆目見当もつかないが、パンツの中でないことは確かだ。
「えっ……どうして……なんで綿棒?」
「遺伝子調査。前会った時は出来なかったからな」
「なんでそんなことするの」
「口もすすだほうがいい」
「しない」
義兄上は小さな容器を手のひらの中に隠し、吸血鬼がどう動こうが構うまい、という様子で話し始める。ぺたぺたと足音を立て、板張りの廊下を行き冷房が効いた居間に戻ろうと歩く。
「君は自分の不死性がどこから来るか、知りたくないか?」
「いらないでしょそんなもの!」
吸血鬼は己が平和ボケしていたのだと気付くまでにあまり長い時間はかからなかった。人間にとっては己はどこまでも外様で、暴き立てるべき自然であるのだと再び自覚するまで、口に一瞬だけ突っ込まれた綿棒のせいで、歩数にして五歩ほどかかってしまった。
人間という生き物はとにかく理由を求めたがる。吸血鬼はこの、己の人生においては特に義兄が示している性質には常々疎ましいと思っていた。特に付き合いもない癖に、やたらと過去やらを探りたがる。あるがままをそのまま素直に受け入れてはくれないものか。
その点狩人は良い同居人だった。一年半共に過ごし、もういちいちうるさく聞いてこない。
義兄はあまり吸血鬼の威嚇を怖れていないようだった。頭を擦る鴨居のためにちょっと屈んだところで後ろの様子を振り返り、毛を逆立て怒る吸血鬼の眉間のしわを人差し指の腹で伸ばして、自分は頬を膨らせて言い分を述べる。
「いるんだよ。僕は噛まれたからな。こんな仕事でも僕は健康に生きたいから、君が何か病気を持っていないか調べる必要がある」
「やっぱ美人局かよ。汚ねえ真似しやがって」
「僕の血は吸ってもいい。僕の健康を損なわない範囲でね。しかし、これで君は納得してくれるのだな。素直でいいことだ。これに懲りたら、あまり人間を信用しないことだな」
人馴れし過ぎて己の特質を今更思い出した吸血鬼には、もはや負け惜しみくらいしか出すものは無かった。
「あんたが童貞なら一生かからない病気にもかけられたのに」
「おお、怖い。君の慈悲に感謝しなきゃな」
まったく堪えていないどころかからかわれている。負け惜しみはそうとわかっていれば倍にして返されるものだ。吸血鬼にはもう前歯をむき出しにし頬を膨らませることくらいしかできなかった。
「電気どうやって消す? この紐引っ張れば消える?」
「布団先に入りなよ。俺が消しといてやる。おやすみ」
「おやすみ。君はここにいる?」
「どうしようかね。夜じゅうお義兄様の寝顔でも眺めておこうかね」
「リヒトくんとこ行ってろよ」
ルチエは寝袋の中に入り、袋の入り口をぎゅっと絞った。呼吸のために口と鼻を出す。
「不用心だな、これじゃ誰がキスしたかわかんねえだろ」
「そんなことしたらこうだぞぉ」
空気穴の中からなまくらの拳骨が飛び出た。何にも当たらず空を切る。
「……俺は起きてるよ。台所にいるつもり。うるさくしたら悪いな。おやすみなさい」
おやすみ、と義兄は返す。馬の陰茎が萎びていくがごとく腕がしゅるしゅると寝袋に入っていくのを見届けてから、吸血鬼は電気を消した。
しばらくして、義兄上の寝息が聞こえてから立ち上がる。テレビが禁じられた今、ゲームをやりたい気分ではないし、狩人をいじくりまわして。せめて朝は豪勢にしよう、と吸血鬼は出来るだけ物音を殺して台所に向かう。明日は義兄上を下の街まで送りに行くだろう。ついでに買い物もするだろうから、冷蔵庫をひっくり返して朝を豪勢にしたところで、食べる物に困ることはない。金を出せば季節もあまり関係ない。まったくいい世の中だ。
もっぱら吸血鬼が考える豪華な朝食と言えば和食であった。朝も夜も無く食える時に食うような生活をする必要がなくなってから、つまり己が宿敵との同居を始めてから、得た技術が主に和食であるからだ。色々こまごまと献立を考える今の暮らしは、吸血鬼には贅沢過ぎた。その贅沢にはすぐ馴染んでいた。
米を炊き、味噌汁を作り、厚焼き卵を焼いてやろう。味噌汁には揚げ茄子を入れ、厚焼き玉子には大根おろしを添えてやる。今日の夜明けには丁度いいサイズになるだろうから、キュウリの浅漬けもいい。この家に来てから吸血鬼は家庭菜園を始めた。吸血鬼らしからぬ趣味だが、古い鉢植えの中で干からびていくばかりの世界を見るのはそれなりに楽しい。
食事の計画を組み立てたら早速手を動かす。冷蔵庫を漁り材料を揃え、直前にやった方がいい作業以外の全てを終える。時間配分が未だにわかっていない。夏の日は早く昇るが、その前に終わってしまった。
時間を持て余し、吸血鬼はすりガラス越しにぼんやり外を眺める。吸血鬼にはある程度の透視能力があるから、窓一枚くらいなら透かして見られる。そうして涼しい室内にありながら、未だ冷めやらず蒸し暑い外を眺めていた。
面白いものは何もない。手入れのされない藪の中、何やらわからない虫が耳鳴りのように泣いている。生き物が生きるにはこの夏が暑すぎる。
人は古くからの噂を信じここに来ない。夏休みのはじまり頃に、噂を中途半端に信じた者が度胸試しで来たことがある。吸血鬼はあのとき初めて警察を呼んだ。赤いランプは恐ろしかったが、ことは極めて丸く収まった。
ぼんやりしていると夜が明けた。外に出て、鉢植えの中の一日で最も冷えた土に水をやり、丁度いい塩梅のキュウリとプチトマトをいくつかむしる。茄子とピーマンもいい頃合いで、朝ごはんを食べ終わったら収穫しよう。今は手がいっぱいで、これ以上ものを持つと戸が明けられなくなる。
これらの新鮮な野菜どもは美味しく食べたいなら必ず食べ頃に食わなければならない。当たり前ゆえあほくさい言い方である。最近はこの小さな家庭菜園のおかげで野菜を買う量が減った。近くに冷蔵庫代わりのコンビニやスーパーはない。最寄りのスーパーまで数十分の山の上暮らしでは、野菜を買い溜めたいなら重さが馬鹿にならない。祈るような形で野菜を手のひらの中に、家の中に戻る。
居間の中で何かがごそごそ動いていた。狩人はまだ起きる時間ではない。昨日の昼来た客人が、寝袋を干していた。
「起こしちゃったか」
「お構いなく。起きるときも寝るときも不定なんだ」
「理人はまだ寝てるよ。朝早すぎるから」
「だろーな。夜は一日起きてたの?」
「起きてたよ。ご飯の用意してた」
「ありがとな。そのピーマンとかは?」
「キュウリとトマトだよ。目大丈夫か」
「暗くてよく見えてないんだ」
日は昇ったが、まだ雨戸を開けておらず屋敷の中は薄暗い。人間の目の何と脆弱なことだろう。吸血鬼は取れたての野菜を洗い、氷水を入れたボウルの中で冷やした。義兄は洗面所に歩いて行ったらしい、そういう足音がした。
「着替えってどこ干した?」
「廊下突き当り右の……あー、ついてきて」
野菜入りボウルを流しの中に置いておき、直接案内することにした。この屋敷の建物は広いが、多くは使われていない。開けてはいけない場所がかなりあるからだ。何かといたずら心が湧きがちな吸血鬼には詳細を知らされていないことであるが、呪いが詰まっていて、何やら入ると危ないらしいということは聞いていた。具体的にどこかは覚えていないが、一見してそうとわからない部屋があったのが恐ろしいところだ。
二人がかりで洗濯物を畳み、義兄上は着替えを済ませた。上は襟ぐりの開いた黒い半袖Tシャツに下はジーンズ。昨日よりは普通の人間らしい格好だ、と吸血鬼は思う。下はあまり変化がない。気に入ったものと似たようなものを何着も持っているらしい。
「あんた普通の服も着るんだな」
「僕のこと何だと思ってるんだ」
「誰にでも体を許すエッチなお義兄様」
「心外だな、仕事なんだよ」
好きでやっているわけではない、と舌打ちを一つ。お義兄様は洗濯物を抱えてバックパックに仕舞いに行く。居間は夏の間中は冷房を点けっぱなしにするつもりでおり、とてもよく冷えている。肌寒い部屋の中で、腹減ったなぁ、と溜め息を吐く。
「飯はまだだよ。準備はこれから。なんでこんな早起きしちゃったんだよ」
「……飯は後でいいんだ。リヒトが起きてからで。勝手に起きたこっちが悪いんだから」
「そうだそうだ」
屋敷はまだ暗い。吸血鬼は気分が乗らなければ雨戸は開けない。吸血鬼とは日の光に弱いものであるから、当然自分もそうなのだ。実はそんなことはなくただ怠惰を己の生物的性質に丸投げしているだけかもしれないが、まあ、その辺は、あまり重要な点ではないから、いいのだ。
「そこの雨戸っての、開けていい?」
「壊すなよ」
「壊れやすかったりするのか?」
「おんぼろだからな」
吸血鬼が雨戸を開けなくなったのは、雨戸を乱暴に扱って以来のことだ。それまでは朝になればそういうものだと思って開けていたが、戸袋の入り口に突っかえさせて壊して以来気分が乗らなくなってしまった。狩人も吸血鬼の気分屋と生物的性質を良く知っていたから特段咎めはしなかった。壊した戸袋も元通り戻した。もちろん、狩人が。
義兄は吸血鬼と違い器用にやった。おんぼろ雨戸の癖を見抜き、上手く戸袋に仕舞い今いる部屋の前だけ明るくした。
雨戸のほうは心配無さそうだと、冷えた野菜を浅漬けやサラダにしに行く。
「そろそろ起きるか? リヒトのやつ」
「夜早かったしな。そろそろ起きるだろ。机拭いてきて」
吸血鬼が義兄と会うのはこれで三回目であるし、二度目は最悪だった。そうとは思えないほど気が知れている。血を吸ったからか。
案の定、外の眩しさに狩人は起きた。ガラガラと雨戸が開く音がする。二人いる分普段の倍以上ごそごそしていたからやかましくて起きたのかもしれない。吸血鬼は朝飯の仕上げをしようと、座布団から立った。
「おはよう、今日はご飯炊いたんだ?」
「火ィ使ってんだから抱き着くな」
「ごめん」
いつになく自分にくっついてくる狩人を鼻で笑いながら、吸血鬼は温まった味噌汁を器に注ぐ。顔を洗い選択の必要がある物を洗濯機に任せたら、配膳のために戻ってくきた。自分の利となることはとことん手伝う男だ。吸血鬼は飯のために働くが己が宿敵に、我慢できずに噴き出した。
「どうしたの」
「いんや、なにも」
音も立てずに喉の奥で笑っていた。訳を知らない人が見れば、気味が悪いと思うだろう。どう思われたって構うまい、構わない。吸血鬼は自分の縄張りの中、静かに笑った。
食事の用意はつつがなく終わった。義兄上は客人ゆえの戸惑いをしても、それなりの協力をしてくれた。
「納豆ある?」
「あるならあるだろ」
義兄上は準備の途中、冷蔵庫を覗き込んだ。
吸血鬼は納豆を食べない。味はともかく、ねばねばした食感が嫌いだからだ。狩人は食べるので買ってくるようだが、吸血鬼は冷蔵庫にあるかどうかは存じない。どちらも納豆を食う食わないの強制はしないし、狩人が食べたいときは勝手に食べる。
「お義兄様、納豆好きなの?」
「前日本に来たときにね。最後の一パックだ」
「理人と喧嘩すんなよ」
「欲しがったら分け合うよ」
そうして義兄上は一人分の納豆パックを朝食を運ぶ盆の上に足した。
大根おろしが添えられた玉子焼き、茄子の味噌汁、トマトのサラダ、キュウリの浅漬け、いつもより多めのご飯。精進料理みたいだ。卵は精進料理には使わないらしいが。
「美味しい」
「そりゃ何より」
予想通り、義兄上はお櫃が空になるまでお代わりをした。
皿も多いというのに客人に皿洗いを任せ、洗濯物を外に干しに向かう。洗濯は狩人の仕事だ。吸血鬼はテレビを点けてゴロゴロしながら二人がクーラーの利いた部屋に戻るのを待った。
「君まだ寝てないだろ? どうする?」
「寝るより楽しいことがあるなら起きてるさ。どうしよっかなぁ。もう寝よっかなぁ」
「一人なら昼食は下の街でとろうかな」
「俺もついてく」
狩人は照り付ける日差しの中、あたたまってしまった良い頃合いの野菜を収穫して戻ってきた。
吸血鬼はクーラーの利いた部屋の隅に座布団を畳んで枕にした。ちょっと眠るならどこでもいいらしい。義兄は吸血鬼が点けたテレビを切ろうかとリモコンを手の中で遊ばせながら、弟に聞いた。
「この吸血鬼はどこでも寝れるんだな」
「可愛いでしょう」
「可愛いってそんなペットじゃないんだから……寝るところは棺桶じゃなくてもいいんだな。うたた寝……呼吸は、してるっぽいな。胸は上下している。心音も……」
「やかましい! 寝れないだろ!」
吸血鬼は胸に置かれた義兄上の手を叩いて除けた。鼻の近くに生温かいものが来た時点で叩いておくべきだったとぶつくさ言って、座布団をもう一枚取った。ついでに義兄上の頭を叩き、顔の上に置いて感覚器に触れる光を減らした。
「窒息するぞ!」
「吸血鬼は呼吸なんてしないの!」
「お前、さっきはしてたのに……!」
「うるさい! ねる!」
「何回か寝てるところを確認しましたけど、呼吸は寝る直前と起きる直前にしかしてませんでしたよ。ほっといてやってください」
「ごめんな~。吸血鬼が寝るところ見たこと無いから。おしゃべりはするよ」
義兄上はテレビのリモコンを机に置いた。狩人はリモコンを動かさなかった。地方ローカル番組のニュースが終わり、グルメ情報が流れていた。
吸血鬼が彼らの種族本来の性質で眠るのに三分も掛からなかった。隅っこで眠る吸血鬼を見て、狩人は眉を顰めて話し始めた。
「あんまり他人のいるところでだらける奴じゃないと思ったんですが」
「じゃあ僕のことを信頼してるんだ」
「そんな」
「なんでそんな残念そうなんだ」
「嫉妬です」
「素直だなぁ」
義兄上は手持ち無沙汰に、厚いテーブルの天板をコツコツ叩き、指を踊らせた。
「本当に大事なんだな」
「はい」
「でも逃げられてる。気安くいられるけど怖がられてて、くっついてきても心は身体と同様に風船のように軽い」
「……はい」
「あんまり貞操観念しっかりしてる奴じゃないぞ。年に一度は殺し合わなきゃならないみたいだし、伴侶には向いてない。それに寂しさを埋められるなら誰でもいいみたいだ」
「血を吸わせたんですか」
「仕事だからな」
狩人は身開いたすみれ色の目で義兄を凝視した。義兄上の表情は変わらず、空調の利いた部屋の中で退屈そうだった。それから奥歯を噛み締めているのに気付いて、意識して口を開けた。
「僕の……宿敵ですよ」
「なんで宿敵の許可を取らなきゃならないんだよ」
冗談めかして義兄上は言う。
「お前があの吸血鬼を好いてるのは、よく知ってる。でもこっちも新しい脅威になるかもしれないものを放ってはおけない。お前の宿敵が世界の宿敵になるのは、嫌だろ?」
「嫌ですよ」
「でも殺したくもない。わがままさんだな」
「僕の……」
「それにあいつの自由意志はあいつのものだ。お前のじゃない」
「義兄さんは色仕掛けで落としてるくせに……」
「セクシーで悪かったなハハハ。そんなによその犬に腰振るのが嫌なら去勢しとくんだな」
自分の知る義兄はこのように品の無い物言いをする人だったか。狩人は隙あらばギリギリ歯ぎしりする顎を、意識して開き続けていた。
「一代限りの危ないやり方だ、許してくれ」
「子供は作らないんですか」
「……まーな。それは相手がいないことにはどうにもならないし」
義兄上は首を掻いた。昨日の夜吸血鬼に噛まれた場所とは逆側だ。ただ居所が悪いから掻いた。それだけだ。
「僕にはこれしかやりようがないんだよ。お前もそうだろ」
「それは……」
「そういえばこれ、起こして大丈夫なのか? そもそもちゃんと起きる?」
誤魔化すようにしか見えない挙動だった。義兄上は吸血鬼を指した。
「普通に肩とか叩けば起きますよ」
「へえ」
「やめて。むやみに起こすな。僕たちの生活を実験にしないでください」
「ごめん」
「大人しくテレビでも見ててください」
「見てろって言ったってねぇ」
「チャンネルは好きに変えてください」
悪気があるわけではないから性質が悪い。ただ好奇心に負け続けて自制が無いから。狩人は珍しく怒っていた。身近な者に見せる気安さでもあった。
太陽はまだ登り切らないが洗濯物は既に乾いて、夏の陽光の恐ろしさを万人に十分に知らしめた。
「もう起こしていいですよ。これ畳み終わったら出発するので」
義兄上は指先で吸血鬼の肩をつついた。ああやってどの程度の刺激で吸血鬼が目を覚ますか実験しているのだろう。その程度なら許容しよう、と狩人は洗濯物を畳む。義兄上は今度は指三本で肩に触れる。
「あんた普通に起こせないわけ? いつもそういうふうにしてるの?」
「僕はいつも人のことを起こしたりしない」
「人を起こす時は常に実験みたいに徐々に刺激を強くしていってるの?」
「状況による。早く起きる必要があればさっさと起こし、ゆっくりでいいなら優しく起こす」
「俺は実験していいんだって? えーん、お義兄様に弄ばれたぁ」
「かわいこぶったって僕は助けてやれないからな」
「嘘泣きでも泣くなよォ」
狩人が洗濯物を畳み終え、じゃれていた二人はようやく出掛ける準備をし始める。義兄上はバックパックを背負った。
「忘れ物無い?」
「無い! OK!」
たいして確認しなかった。
さて、軽トラは二人乗りである。三人で乗るなら誰かが荷台に荷物を置き、その監視のために一人が荷台に乗らなければならない。しかしながら外は灼熱地獄である。誰も荷台で何十分も蒸し焼きになりたくはない。
「シャンジュが小さい生き物に変身すればいい。出来るよね?」
「おう」
これは特殊なパターンである。吸血鬼は鴉に変身し、助手席に座った義兄上の膝の上に乗った。
「重い。しかも温い」
「それが最小みたいです。我慢してやってください」
黒くフカフカした首筋に手を突っ込んだ義兄上に、鴉はガァと鳴いてバサバサ暴れた。
「触んなって言ってます」
「ごめん」
「二度とやらないでください。運転に支障が出ます」
義兄上の膝を温めつつ、鴉は立体駐車場まで大人しくしていた。
人がいないことを見てから、吸血鬼は他人の姿に戻った。
「便利だなそれ」
「なあ、お義兄様」
「なんだ」
「買い物する前にフードコート行こ。混むし」
この時間なら既に混んでいるだろうが、言わなくてもすぐわかることだ。狩人は黙って先に進んだ。
案の定既に人の多いフードコートの中、なんとか四人掛けの席をとる。
空いている店を見つけ、まとめて注文した。吸血鬼は義兄は量だけはあるメニューを頼んだらしい。食いしん坊だ。
「今晩は野菜のカレーにしようと思う」
「飯食いながら夕食の話か。人間らしい」
「ちょっと、続きも聞いて。お義兄様も食べるならうちのカレーはもっと多く作れる。その分具の種類も増やせるし。カツも買ってこうかな、ここの地下の揚げ物屋さん美味しいし。もしカレーが余ったら、明日の朝にチーズ乗っけてカレートーストにもできる」
「……それは、美味しそうだ」
「どう、食べたい?」
「えっ、いやだ」
「リヒトはこう言ってるけど? いいの?」
「大事なのはお義兄様の御意志だよ。カレー。どう? 日本の夏カレーは美味しいよ」
絶対何か企んでる。狩人は吸血鬼も義兄も睨んでいた。
「買い物終わってから決めよ。食べ終わったらサービスカウンター行ってくる」
義兄は誰よりたくさん食べているくせに、誰よりも早く食べ終わった。
「先行っててください。食べ終わったら合流します」
「わかった」
義兄上はトレイを持ち席を立った。残された二人は焦りもせず食事をとり、食事を終えてから吸血鬼はドーナツを買って帰ろうとごねた。
「なードーナツ買おうぜ。もちもちの丸いの。あっ今限定のあるって。お義兄様も喜ぶぜ」
「買わない。並んでるし。喜ばなくて結構」
「あのサクサクのやつなんかきっと冷蔵庫でのんびりしてるアイスと合うぜ」
「僕はドーナツは単品で食べたい。アイスのトッピングなら他にいい方法を探そう」
エスカレーターで一階に降り、サービスカウンターのほうを見ると、遠くに膨らんだ封筒を持つ義兄が見える。中身は綿棒が入ったプラスチックケースだ。国際便でどこかに送るつもりらしい。
「お義兄様、やっぱり帰っていいよ」
「現金なやつだな」
合流してからそのようなやりとりがあった。もとより仕事で次の目的地に向かうつもりだった義兄は予定通り空港行きの電車に乗り換えるため出発し、狩人と吸血鬼は改札前まで見送った。
「じゃあな、二度と来るな」
「また何かあったら連絡します」
「おう、元気で」
義兄がこの家を訪ねてから、まる一日か二日経ったある日。吸血鬼はトイレの中から同居人に聞こえるように、屋敷中に響く大声を上げた。
「理人! ちょっと来て!」
「トイレしたんなら流してよ」
「その前にさぁ、見てよ! ウンコが紫色!」
「見る」
思えば狩人が吸血鬼の排泄物を見るのはこれが初めてだった。他人に見せたいものではないだろうに。狩人は微笑んで、水洗便器に沈んだ半分くらい紫色に染まったバナナ型のそれを、個室の隅から遠巻きに眺めた。
「可愛いね」
「どういう意味だよ」
「眺め終わったら流しなよ」
「流しといて~ッ」
後ろでとてとてと遠ざかる音が聞こえる。あいつめ、と狩人は心の中で毒づく。
古い家ではあるが、この家のトイレは水洗式だ。タンクに付いたレバーをひねると、ジャーと音を立てて排泄物が流れていく。跡も残さず流れていった。
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