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八月・ここまできたらだいたい一日イチャイチャしてる
8/13(水) 信奉者
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狩人のいない夜。インターホンではなく、鉄の扉をノックする音が響く。
今日何がしかの荷物が届くという連絡は届いていない。狩人からもそのような特別な連絡は来ていない。そもそも通販とかほとんど使ってないし。このまま寝っ転がったまま本を読み続けて居留守を使うことも出来たが、暇だった吸血鬼は怪訝がりながらも推定客人に応対することにした。
「はいはいどちらさまで?」
チェーンをかけたまま、扉を開く。そのくらいの警戒心とか、常識的なものはあるつもりだった。
「黄昏様」
低く、か細い。その声には聞き覚えがあった。
ドアを叩いたのは、自分より背が高い、男だった。
見下ろす視線が気に入らなくて、自分の前に立つときは常に膝をつくように命令していた男。
一年ほど前、吸血鬼が右手の中指に傷を付けて血を分けた人間のうちの一人。名前は忘れたが、己を信仰する人間達のうち、幹部級の人間だったと記憶していた。
血の涙をひとひら流し、変わらず高い背で吸血鬼を見下ろしていた。顔色は悪くやつれていた。
「お久しぶりです」
「他の奴はどうした?」
「私以外の者で、貴方様の血を頂いた者は、全滅しました」
「OK、わかった。一旦外出るから、ちょっと待ってて」
吸血鬼はだらけきって下穿きに至っては半分尻を出したような部屋着から夏用の外着に替え、部屋の戸締りをした。吸血鬼とて泥棒は怖い。水曜日の夜なら確か喫茶ソロモンのバーが開いていたはずだ。
かつて吸血鬼が自分の信者の前に出るときの正装といえば、だいたい全裸だった。信者からは服を与えられていなかったし、他に必要があれば血の染みが付いたベッドのシーツとカーテンの紐か、ずっと着ているトレンチコートで体を覆っていた。
今は少々装飾夥多ではあるものの、かつてに比べれば余程人間らしい格好をしている。柔らかい印象の半袖のシャツに、レース製のスカーフのような首飾り、縁にラテン語で猥雑な文句を刺繡された現代的なキュロットスカート、脚には春に買ったふくらはぎを覆うレースの靴下。その上に夜でもクソ暑いがいつも通りトレンチコートを羽織る。彼の前でまともに人間らしい格好をしたのは、これが初めてかもしれない。
「お前たち、日の下に出たのか? あんだけやるなって言ったのに」
「貴方様の言付けを守らなかった者が、最初に。あとは皆、不注意でした。人間どもに狩られた者もおります。私は――運が良かったんです」
管理人に手を振って、これから喫茶店に行くよと言う。
「そろそろバーに切り替わる頃なんだけど。参ったなぁ」
「俺とお前の仲じゃあないか」
「邪視なら直接やってね、この体組み立てるの案外手間なんだから」
それ等のやり取りをしたあと、吸血鬼は信者の男にこれからはバーで話をすることを伝える。
「店主、あの人形の御主人様なんだが、どういう考えがあるのかはわからんが、害を与えるようなことはしてこないと思う。ただオタクなだけ。気にすることはない。お喋りだが今のところは無害だ」
「人形?」
「うん。よく出来てるだろ」
「それがどうして、吸血鬼狩人のアパートで管理人を?」
「因果関係が逆だ。あの人形がやってるアパートに、狩人が引っ越してきたの。運のいいオタクなんだろうな。持ってるってやつ」
どうやら名前も知らない信者の男は、狩人の存在を知っているらしい。当然同居していることも知っているというように、信者の男は言った。
「ねえ。ところでどこからそれ、聞いたの?」
「ある狩人が吸血鬼を飼っている、と噂で聞きました。それから狩人の家を調べ、周辺を捜査し、たどり着き、吸血鬼が貴方様だと突き止めたのは昨日のことです。件の狩人と外に出ているところを、見ました」
「マジで~~? お前近くいたの? 気付かなかったわ。それであいつがいないうちに来たわけね。なるほど、正解だわ。あいつ根っからのバンパイアハンターだからなぁ。殺されるかも」
わざとらしくイチャイチャしてるとこ見られたのか。ちょっと恥ずかしい。
「……貴方は変わられました」
「いぃ~や。俺はずっとこんな感じだよ。皆の前では良いカッコしなきゃならなかっただけ。たぶん女の子の前では、こんな感じだったよ」
実際どうだったか、吸血鬼は覚えていない。女にしろ男にしろ、セックスするときは絶対に一対一でやったから、威厳は保っていたかもしれないがいつもよりは饒舌――今のような感じで話していたかもしれない。もうあまり、覚えていない。自分にとってはいい思い出ではなかったのかもしれない。まずいことに、全部忘れていた。
「俺はずっとこうだよ。お前が知らなかっただけ」
「……そうでしょうとも」
バーが開店しているという表札がかかっている。ドアを開けると、カランコロンとカウベルが鳴る。
「やっほーマスター。お元気?」
「わかってる。君と僕の仲だから客にはするよ。ノンアルコールしか出せないけど」
「ミルクある?」
「あるよ。そちらのお客さんは?」
信者の男はメニュー表を受け取り、カウンターではなくテーブル席につく。吸血鬼は誰かに話を聞かせるためでなく、二人でお喋りをしたいだけだった。出来るだけ、誰にでも、安全な場所で。三〇六号室はもはや安全な場所ではない。
「日本語読めた? 俺もあんまり手持ち無いから、自分で払えよ」
「はい」
彼は曖昧な返事の後メニュー表を伏せ、吸血鬼を見た。
蜂蜜色の若い吸血鬼の目が、反抗的に、自らの主人を見ていた。
「なぜ貴方様は、私たちを置いて行ってしまったのですか」
「俺の宿敵と戦うためだ。悪いな、習慣でさ。自分じゃどうにもならないんだよ」
「なぜ私たちを置いて行ったのですか」
「巻き込んで殺すつもりは無かったからな」
「それでも」
「あの日のあいつ相手に数の有利は成立しない。皆して日本海を徒歩で渡るのも難しいだろうしな。普通に引きちぎられて仕舞いだ」
「我々は飛行機で移動をしました。徒歩での移動は考えておりません」
「マジで? 俺も乗っときゃよかったな。歩くの疲れるもん」
翼を動かさない鉄の鳥など怖くて仕方がないが、雑な虚言を言うことにかけては吸血鬼の右に出る者はいなかった。得体の知れぬ機構に怖がるそぶりを見せず、吸血鬼はふんぞり返って、テーブルの下で足を組む。
吸血鬼は背の高い円筒形のグラスに入った冷たいミルクが運ばれてくるのを見て、ああホットミルクって言っとくんだった、と後悔した。
「今度からはホットにしてくれる? 人肌ね」
「わかりました」
「それで。お前、これからどうすんの? うちで一緒に暮らす? 棺桶ないし、家主の狩人にお伺いを立てなきゃならないけど」
「いえ。貴方を連れて行きます。逃げましょう、一緒に。そして再興しましょう、我々の国を」
「そりゃ困るな」
「そもそも何故、貴方はあれと一緒に生活をしているのですか。天敵、なんでしょう」
「なんでって言われてもそりゃあいつに聞いてくれなきゃ。あいつが俺のこと好きになって、殺さないって約束してくれたら、俺もしばらくは――半世紀くらいは、死なずに済むからな」
これから吸血鬼が口に出したことは、己でも意外だと思った。
「あいつにはその価値があるから。一生かけて口説く価値がある」
「僕たちにはその価値は無かったと?」
「いいや、優先順位の違いだな。あるか、ないか、の二元的な思考じゃない。俺の人生であいつの優先順位が何よりも上だったってだけ」
――うーん、我ながら重いな。あいつにこんなこと言われたら「重っ!」って言ってた。俺も大概重いわ。あー、やだやだ。
吸血鬼は照れ隠しに冷たいミルクを飲んだ。今ばかりは温かくなくて良かったかもしれない。心なしか頬が熱い気がした。
「あれを処理することは、考えていないのですか?」
「今はね。向こうが俺を殺そうとしない限りは、俺もしない。少なくとも今年度中はそういうお約束だから。お前が勝手に挑んで勝手に死ぬ分には知らないがな、おすすめはしないぜ、あいつ強いから。命は大事にしろよ。せっかくここまで生き延びてきたんだろ」
薄い蜂蜜色の目、彼の語気から感じる熱量では、理人の顔を見たら今すぐ飛び出して挑みかかりそうだった。手下を目の前で失うのは、いくら人でなしの吸血鬼とはいえ少し心が痛む。忠告はした。あとは、彼が踏みとどまってくれるかどうかだけだ。吸血鬼は己の魔力で他人の意思を拘束するのを好まない。神と同じに、自由意志が好きなのだ。
「あー、後なんの話するんだっけ……」
冷たいミルクはグラスに三分の一ほど残っている。店長が隣の席に座り、こちらの話をじっと聞いていた。
「ご注文は?」
「ああそうだ。なんか頼めよ」
「余計なお金は持ち合わせておりません。申し訳ありませんが……」
「えぇ~? これからどうすんのさ」
「貴方の思った通りに」
「自爆特攻か? そういうことやるの日本人位だと思ってた。お前そうでもないだろ」
「宗教者なら、しますし、させます。民族性は関係ないかと」
「やめとけ」
「他に何も出来ません。私は。日光に触れれば死にますし、十字架も、教会も避けなければならない。聖なるもの全部。雨水も。ニンニクも。今更。他に居場所はありません」
「都会で暮らそうぜ。ニンニク使ってないラーメン屋だってあるし。都会の人間は隣人に関心が無いし、こぞって教会に行く習慣だって無い。ねえ店長さん、アパートの空き部屋無い? あとバイトの募集とかさ。してない?」
「いいけど。うち日没過ぎてからはあんまり仕事がなぁ……」
「そこをなんとか。頼むよォ」
信者の男は衝動的に席を立った。あまりに突然だったので、吸血鬼は呑気に見送る所だった。
「ちょっと。どこ行くんだよ」
「やっぱりあの男殺してきます」
「うちの店で物騒なワード大きい声で使わないでくれる!?」
「店長以外、だけどさ。ここにいる人であの言語わかる人いないんじゃないかな? 仲いい人同士でのお喋りでは一般的な言葉だし、悪い店長、支払い、ツケでお願いね。絶対払いに来るから。それか理人が来たら払わせといて」
「えーっ!?」
カランコロンとなるカウベルの音を追って、吸血鬼は夜に飛び出た信者の男を追う。さっさとどこにいるのかもわからない親の宿敵のところへ駆けて行こうとする彼に、吸血鬼は今日初めて命令する。
「待て!」
ぴた、と親が命令した通り、信者の男は動きを止めた。
「よおおぉぉぉぉし、よしよし、いい子だ。よし。いい子も何も俺が命令したんだから子であるお前は当然従わなきゃならないんだけどな。俺にその血の全てを寄越せと言われたって、お前は拒否できないもんな。吸血鬼になりたてのお前じゃあな、抵抗できない。そういうもんだろ。考え直せ。俺はこの街で平和に暮らしてる。少なくともあと半年はそうするつもりだし。成功したら一生以上に暮らしていける。な?」
そのまま跪かせ、吸血鬼は頭をわしゃわしゃ撫でる。一見すればバーの前で謎の言語で騒ぐ酔っ払いだろう。実際にはアルコールの類は体に入れてはいないのだが。人の――ああいやもう人じゃないけど、命がかかっているのだから、恥も外聞もない。吸血鬼は割と必死だった。この男を生き残らせるには、人間と共に生きるようにしなくてはならない。所詮弱い生き物の無駄な抵抗だ。
「望まぬ宿敵に一生縛られて生きて行くおつもりですか。……根を断てば」
「解決しない! 解決しないんだ。今度はあいつの兄貴に追われることになる。おっかないプリークネスの血族さ。それにあいつの友達の狩人とかさ。顔知られてるんだよ。頼むから言うこと聞いて。な?」
「なら命令すればいいでしょう。人間に紛れて平和に暮らせって」
「命令が切れたらお前何するかわからないだろ! だからこうやって説得しなきゃならないの! おわかり!? それにその命令、具体性も何も無いじゃあないの! すぐ切れて死んじゃうぜ!」
「私たちの神だったなら、やってみせてくださいよ」
――抵抗しようとしている。頑張ってるんだな。一緒に生きられたらよかったのに。
吸血鬼は己に出来ない無鉄砲な若さに反吐が出そうな気分だった。狩られる側に回るなんて嫌だ。常に捕食者でいたい。この己より年上の若い吸血鬼は、そう考えていた。
俺だってそうさ、と吸血鬼は喉の奥から声を出す。
「俺だってさ。俺だって死にたくないよ。死にたくないからやってるの。今年は死なないために生きてるけど、けっこう楽しいこともあるし。お前だってさ、きっと何十年も経てば日光の下にも出られるようになるよ。その時は一緒に生きようぜ、なあ――」
「嫌です」
吸血鬼の従僕はきっぱりと断った。既に心は決まっていた。死を望まず、縛られずに生きていたい。矛盾した願いを、命を懸けて叶えたがっていた。
「そんなに待てません。永遠の若さがあるにしたって。眠るにしたって、いつ棺桶が開かれるかもわからない。いつ死んだのか、いつ眠っているのか、わからないんです。私……私は、死にたくない……」
動きを止める命令は切れていたが、彼はすでに動く気力をなくしていた。吸血鬼は彼を抱きしめて、さらに説得を計る。
「吸血鬼ってそんなもんなんだけどな。なった時点でお前は死んでるんだよ。リビングデッドだ。それでも生きてかなきゃならない。わかるかこの矛盾が?」
「知らなかったんです。眠るのがこんなに恐ろしいなんて」
「人間だった頃もそうじゃなかったのか? 眠ることは、少しの間死ぬことだって。な?」
「人間だった頃は日光に脅える必要は無かったんです。狩人の杭に脅えることも。怪物に脅える人々に脅えることも。全部。貴方様から力を貰っておきながら、力を扱いきれない私が、生き残ってしまって」
「あー、いいんだよ。全部運だ、運。お前は何より得難いものに恵まれたから生き残ったんだ……」
腕の中でしゃくりあげ、涙を落とす彼に何と言ったらいいのか悩みながら、背中を撫で擦ってやる。
そこを、狩人が通りかかった。
アルバイト帰りの狩人は普通に立ち止まり、こちらを見ているだけだった。
ただすみれ色の目で、こちらを凝視しているだけだった。
それなのに吸血鬼には何よりも恐ろしい。殺されるかもしれない恐怖。生まれてこの方いつだって感じている恐怖が、いよいよ吸血鬼を支配している。抑えの利かない恐怖が、今すぐ死ね、と叫び出したい気分を抑えていた。狩人には吸血鬼をどうにでもできた。夜にあってもなお輝かしい、光の化身が。
そうやって狩人は吸血鬼を支配していた。
しかし若い吸血鬼の親は、日の下でも生きていかれる吸血鬼だ。子を安心させるように、そうして己の心を宥めるように、図体ばかり大きな背をふたたび撫でた。
「おお、お帰り。ちょっとさ、聞きたいことがあるんだけど」
「僕にもある。いま出来た」
恐怖はいつだって感じている。吸血鬼はいつもの調子で聞く。
「こいつといっしょに住まない?」
「そいつは誰?」
「俺の昔の仲間で、今会ったとこ。ほら、自己紹介してみ?」
「貴方の敵に名乗る名前なんてありません」
「こ~らぁ~、意地悪言わないの」
狩人のほうは彼が喋っていることはわかっていないが、言わんとしていることは語気でわかるらしい。歩み寄り、冷たい目で見下ろしている。
「こんなものに怯えながら生きてる必要はないでしょう! そうならないために吸血鬼になったのに!」
「人間だって怯えながら生きてるんだよな~……」
「人間は怯える対象が少なすぎるんです、そいつなんて特に。でかい面しやがって……」
「それはわかるぜ、わかる。でかいよな、白いし膨張色だ。でも命あっての物種だ、ここはとりあえず頭下げとこうぜ、俺が翻訳するからさ」
「いやです」
「ごめんなァ~理人、こいつ強情でさ。お前が俺のこと虐めてるからお前のこと嫌ってるみたい」
この腕の中の男どうしよう。理人の目はどんどん冷たくなっていって怖いし。本当に、喫茶ソロモンの店長様に任せてしまったほうが良いのではないか。
当の店長様はガラスに顔を引っ付けて、明かりの向こうからこちらを眺めている。店の前で居座られるのは迷惑だろうが、もうちょっとは我慢していただくつもりだ。
「僕が、君を。虐めてる?」
「そこそこ、そうやって威圧感掛けてるとこだぜ嫌われるの。お前自分を害そうとする吸血鬼と一緒に住む趣味は無いんだろ? 殺されるかもしれないからって怖がってんの。わかる? 俺の腕の中に居ないと殺されるかもしれないって思ってるの。わかったらどっか行った行った」
「そうだね」
「そうだねって。わかってないじゃん。動いてよ。あっち行って」
狩人は吸血鬼の腕の中に居る彼の様子を覗き見に、しゃがみ込んだ。
「僕は理人。君のご主人様と同居してる。それなりに、仲良くやってるつもり。僕が彼を殺そうとしない限りは、彼も僕を殺そうとしないって、約束したから。君もその約束を守ってくれるなら、一緒に暮らしていける、と思う。三人で暮らすには、あのアパートの部屋はちょっと狭いけど……」
狩人の話を出来るだけ忠実に翻訳しながら話すと、信者の男はようやく腕の中から出ようともがき、立ち上がった。顔を上着の裾で拭う。
「ありがとうございました。黄昏様。お手数おかけしました」
「よーし、未来の話をしに店に戻ろう。奢るぜ」
「なあ、僕ら未成年じゃあ……」
「俺と店長の仲だぜ、席はある」
「何十年も日の光と狩人に脅えて暮らすなどと気の遠い話、申し訳ありません、私には無理です」
信者の男は無数の黒いコウモリに変身する。吸血鬼の腕をすり抜け、狩人に襲い掛かる。
何も出来ない人間ならば、そのまま喉を圧されて死んでいたところだろう。
しかし狩人は生まれながらの聖者で、若い吸血鬼ならば血の一滴で眠りにつける。その他にも義父から伝えられた技術、吸血鬼を眠らせる心得はいくらでもある。名前もわからぬ彼の挑戦は死に自ら飛び込む行為だった。
「やめろ!」
吸血鬼の叫びは自己防衛の構えを取る狩人ではなく、信者の男に向けて放たれた。
人の姿を取り戻す前に、吸血鬼は己の信奉者に人には聞こえぬ超高音で命じ、その命を自らに取り込んだ。
末期の悲鳴が吸血鬼の体の中で響き渡る。彼は膝をつき、彼の母語で己の中で眠るように命じた。信奉者は沈黙し、吸血鬼の命の一部となった。
「俺の手下が失礼したな。店長に金払ってくるから、先帰ってろ」
「待ってる」
「……好きにしろ」
あーあ、と彼は大きな溜め息をついて、枯れた蔦が覆うフェンスの手を借りて立ち上がる。それなりに消耗した。肉体ではなく、精神が。腹は先程飲んだミルクと、既に尽きた一人分の生命で満ち満ちている。
――な~~んか、凹むんだよな~~。自分の子どもを殺すってこんな気分なんだろうな。やだやだ。
吐き気を堪えながら、彼は道沿いのフェンスを掴んで扉を開き、カウベルを鳴らす。
ありとあらゆる悪徳の王、サタンの息子を自称するにしては、吸血鬼の痩せた背中は真実頼りなさげに見えた。
狩人はその背を、冷たい目で追うだけだった。
今日何がしかの荷物が届くという連絡は届いていない。狩人からもそのような特別な連絡は来ていない。そもそも通販とかほとんど使ってないし。このまま寝っ転がったまま本を読み続けて居留守を使うことも出来たが、暇だった吸血鬼は怪訝がりながらも推定客人に応対することにした。
「はいはいどちらさまで?」
チェーンをかけたまま、扉を開く。そのくらいの警戒心とか、常識的なものはあるつもりだった。
「黄昏様」
低く、か細い。その声には聞き覚えがあった。
ドアを叩いたのは、自分より背が高い、男だった。
見下ろす視線が気に入らなくて、自分の前に立つときは常に膝をつくように命令していた男。
一年ほど前、吸血鬼が右手の中指に傷を付けて血を分けた人間のうちの一人。名前は忘れたが、己を信仰する人間達のうち、幹部級の人間だったと記憶していた。
血の涙をひとひら流し、変わらず高い背で吸血鬼を見下ろしていた。顔色は悪くやつれていた。
「お久しぶりです」
「他の奴はどうした?」
「私以外の者で、貴方様の血を頂いた者は、全滅しました」
「OK、わかった。一旦外出るから、ちょっと待ってて」
吸血鬼はだらけきって下穿きに至っては半分尻を出したような部屋着から夏用の外着に替え、部屋の戸締りをした。吸血鬼とて泥棒は怖い。水曜日の夜なら確か喫茶ソロモンのバーが開いていたはずだ。
かつて吸血鬼が自分の信者の前に出るときの正装といえば、だいたい全裸だった。信者からは服を与えられていなかったし、他に必要があれば血の染みが付いたベッドのシーツとカーテンの紐か、ずっと着ているトレンチコートで体を覆っていた。
今は少々装飾夥多ではあるものの、かつてに比べれば余程人間らしい格好をしている。柔らかい印象の半袖のシャツに、レース製のスカーフのような首飾り、縁にラテン語で猥雑な文句を刺繡された現代的なキュロットスカート、脚には春に買ったふくらはぎを覆うレースの靴下。その上に夜でもクソ暑いがいつも通りトレンチコートを羽織る。彼の前でまともに人間らしい格好をしたのは、これが初めてかもしれない。
「お前たち、日の下に出たのか? あんだけやるなって言ったのに」
「貴方様の言付けを守らなかった者が、最初に。あとは皆、不注意でした。人間どもに狩られた者もおります。私は――運が良かったんです」
管理人に手を振って、これから喫茶店に行くよと言う。
「そろそろバーに切り替わる頃なんだけど。参ったなぁ」
「俺とお前の仲じゃあないか」
「邪視なら直接やってね、この体組み立てるの案外手間なんだから」
それ等のやり取りをしたあと、吸血鬼は信者の男にこれからはバーで話をすることを伝える。
「店主、あの人形の御主人様なんだが、どういう考えがあるのかはわからんが、害を与えるようなことはしてこないと思う。ただオタクなだけ。気にすることはない。お喋りだが今のところは無害だ」
「人形?」
「うん。よく出来てるだろ」
「それがどうして、吸血鬼狩人のアパートで管理人を?」
「因果関係が逆だ。あの人形がやってるアパートに、狩人が引っ越してきたの。運のいいオタクなんだろうな。持ってるってやつ」
どうやら名前も知らない信者の男は、狩人の存在を知っているらしい。当然同居していることも知っているというように、信者の男は言った。
「ねえ。ところでどこからそれ、聞いたの?」
「ある狩人が吸血鬼を飼っている、と噂で聞きました。それから狩人の家を調べ、周辺を捜査し、たどり着き、吸血鬼が貴方様だと突き止めたのは昨日のことです。件の狩人と外に出ているところを、見ました」
「マジで~~? お前近くいたの? 気付かなかったわ。それであいつがいないうちに来たわけね。なるほど、正解だわ。あいつ根っからのバンパイアハンターだからなぁ。殺されるかも」
わざとらしくイチャイチャしてるとこ見られたのか。ちょっと恥ずかしい。
「……貴方は変わられました」
「いぃ~や。俺はずっとこんな感じだよ。皆の前では良いカッコしなきゃならなかっただけ。たぶん女の子の前では、こんな感じだったよ」
実際どうだったか、吸血鬼は覚えていない。女にしろ男にしろ、セックスするときは絶対に一対一でやったから、威厳は保っていたかもしれないがいつもよりは饒舌――今のような感じで話していたかもしれない。もうあまり、覚えていない。自分にとってはいい思い出ではなかったのかもしれない。まずいことに、全部忘れていた。
「俺はずっとこうだよ。お前が知らなかっただけ」
「……そうでしょうとも」
バーが開店しているという表札がかかっている。ドアを開けると、カランコロンとカウベルが鳴る。
「やっほーマスター。お元気?」
「わかってる。君と僕の仲だから客にはするよ。ノンアルコールしか出せないけど」
「ミルクある?」
「あるよ。そちらのお客さんは?」
信者の男はメニュー表を受け取り、カウンターではなくテーブル席につく。吸血鬼は誰かに話を聞かせるためでなく、二人でお喋りをしたいだけだった。出来るだけ、誰にでも、安全な場所で。三〇六号室はもはや安全な場所ではない。
「日本語読めた? 俺もあんまり手持ち無いから、自分で払えよ」
「はい」
彼は曖昧な返事の後メニュー表を伏せ、吸血鬼を見た。
蜂蜜色の若い吸血鬼の目が、反抗的に、自らの主人を見ていた。
「なぜ貴方様は、私たちを置いて行ってしまったのですか」
「俺の宿敵と戦うためだ。悪いな、習慣でさ。自分じゃどうにもならないんだよ」
「なぜ私たちを置いて行ったのですか」
「巻き込んで殺すつもりは無かったからな」
「それでも」
「あの日のあいつ相手に数の有利は成立しない。皆して日本海を徒歩で渡るのも難しいだろうしな。普通に引きちぎられて仕舞いだ」
「我々は飛行機で移動をしました。徒歩での移動は考えておりません」
「マジで? 俺も乗っときゃよかったな。歩くの疲れるもん」
翼を動かさない鉄の鳥など怖くて仕方がないが、雑な虚言を言うことにかけては吸血鬼の右に出る者はいなかった。得体の知れぬ機構に怖がるそぶりを見せず、吸血鬼はふんぞり返って、テーブルの下で足を組む。
吸血鬼は背の高い円筒形のグラスに入った冷たいミルクが運ばれてくるのを見て、ああホットミルクって言っとくんだった、と後悔した。
「今度からはホットにしてくれる? 人肌ね」
「わかりました」
「それで。お前、これからどうすんの? うちで一緒に暮らす? 棺桶ないし、家主の狩人にお伺いを立てなきゃならないけど」
「いえ。貴方を連れて行きます。逃げましょう、一緒に。そして再興しましょう、我々の国を」
「そりゃ困るな」
「そもそも何故、貴方はあれと一緒に生活をしているのですか。天敵、なんでしょう」
「なんでって言われてもそりゃあいつに聞いてくれなきゃ。あいつが俺のこと好きになって、殺さないって約束してくれたら、俺もしばらくは――半世紀くらいは、死なずに済むからな」
これから吸血鬼が口に出したことは、己でも意外だと思った。
「あいつにはその価値があるから。一生かけて口説く価値がある」
「僕たちにはその価値は無かったと?」
「いいや、優先順位の違いだな。あるか、ないか、の二元的な思考じゃない。俺の人生であいつの優先順位が何よりも上だったってだけ」
――うーん、我ながら重いな。あいつにこんなこと言われたら「重っ!」って言ってた。俺も大概重いわ。あー、やだやだ。
吸血鬼は照れ隠しに冷たいミルクを飲んだ。今ばかりは温かくなくて良かったかもしれない。心なしか頬が熱い気がした。
「あれを処理することは、考えていないのですか?」
「今はね。向こうが俺を殺そうとしない限りは、俺もしない。少なくとも今年度中はそういうお約束だから。お前が勝手に挑んで勝手に死ぬ分には知らないがな、おすすめはしないぜ、あいつ強いから。命は大事にしろよ。せっかくここまで生き延びてきたんだろ」
薄い蜂蜜色の目、彼の語気から感じる熱量では、理人の顔を見たら今すぐ飛び出して挑みかかりそうだった。手下を目の前で失うのは、いくら人でなしの吸血鬼とはいえ少し心が痛む。忠告はした。あとは、彼が踏みとどまってくれるかどうかだけだ。吸血鬼は己の魔力で他人の意思を拘束するのを好まない。神と同じに、自由意志が好きなのだ。
「あー、後なんの話するんだっけ……」
冷たいミルクはグラスに三分の一ほど残っている。店長が隣の席に座り、こちらの話をじっと聞いていた。
「ご注文は?」
「ああそうだ。なんか頼めよ」
「余計なお金は持ち合わせておりません。申し訳ありませんが……」
「えぇ~? これからどうすんのさ」
「貴方の思った通りに」
「自爆特攻か? そういうことやるの日本人位だと思ってた。お前そうでもないだろ」
「宗教者なら、しますし、させます。民族性は関係ないかと」
「やめとけ」
「他に何も出来ません。私は。日光に触れれば死にますし、十字架も、教会も避けなければならない。聖なるもの全部。雨水も。ニンニクも。今更。他に居場所はありません」
「都会で暮らそうぜ。ニンニク使ってないラーメン屋だってあるし。都会の人間は隣人に関心が無いし、こぞって教会に行く習慣だって無い。ねえ店長さん、アパートの空き部屋無い? あとバイトの募集とかさ。してない?」
「いいけど。うち日没過ぎてからはあんまり仕事がなぁ……」
「そこをなんとか。頼むよォ」
信者の男は衝動的に席を立った。あまりに突然だったので、吸血鬼は呑気に見送る所だった。
「ちょっと。どこ行くんだよ」
「やっぱりあの男殺してきます」
「うちの店で物騒なワード大きい声で使わないでくれる!?」
「店長以外、だけどさ。ここにいる人であの言語わかる人いないんじゃないかな? 仲いい人同士でのお喋りでは一般的な言葉だし、悪い店長、支払い、ツケでお願いね。絶対払いに来るから。それか理人が来たら払わせといて」
「えーっ!?」
カランコロンとなるカウベルの音を追って、吸血鬼は夜に飛び出た信者の男を追う。さっさとどこにいるのかもわからない親の宿敵のところへ駆けて行こうとする彼に、吸血鬼は今日初めて命令する。
「待て!」
ぴた、と親が命令した通り、信者の男は動きを止めた。
「よおおぉぉぉぉし、よしよし、いい子だ。よし。いい子も何も俺が命令したんだから子であるお前は当然従わなきゃならないんだけどな。俺にその血の全てを寄越せと言われたって、お前は拒否できないもんな。吸血鬼になりたてのお前じゃあな、抵抗できない。そういうもんだろ。考え直せ。俺はこの街で平和に暮らしてる。少なくともあと半年はそうするつもりだし。成功したら一生以上に暮らしていける。な?」
そのまま跪かせ、吸血鬼は頭をわしゃわしゃ撫でる。一見すればバーの前で謎の言語で騒ぐ酔っ払いだろう。実際にはアルコールの類は体に入れてはいないのだが。人の――ああいやもう人じゃないけど、命がかかっているのだから、恥も外聞もない。吸血鬼は割と必死だった。この男を生き残らせるには、人間と共に生きるようにしなくてはならない。所詮弱い生き物の無駄な抵抗だ。
「望まぬ宿敵に一生縛られて生きて行くおつもりですか。……根を断てば」
「解決しない! 解決しないんだ。今度はあいつの兄貴に追われることになる。おっかないプリークネスの血族さ。それにあいつの友達の狩人とかさ。顔知られてるんだよ。頼むから言うこと聞いて。な?」
「なら命令すればいいでしょう。人間に紛れて平和に暮らせって」
「命令が切れたらお前何するかわからないだろ! だからこうやって説得しなきゃならないの! おわかり!? それにその命令、具体性も何も無いじゃあないの! すぐ切れて死んじゃうぜ!」
「私たちの神だったなら、やってみせてくださいよ」
――抵抗しようとしている。頑張ってるんだな。一緒に生きられたらよかったのに。
吸血鬼は己に出来ない無鉄砲な若さに反吐が出そうな気分だった。狩られる側に回るなんて嫌だ。常に捕食者でいたい。この己より年上の若い吸血鬼は、そう考えていた。
俺だってそうさ、と吸血鬼は喉の奥から声を出す。
「俺だってさ。俺だって死にたくないよ。死にたくないからやってるの。今年は死なないために生きてるけど、けっこう楽しいこともあるし。お前だってさ、きっと何十年も経てば日光の下にも出られるようになるよ。その時は一緒に生きようぜ、なあ――」
「嫌です」
吸血鬼の従僕はきっぱりと断った。既に心は決まっていた。死を望まず、縛られずに生きていたい。矛盾した願いを、命を懸けて叶えたがっていた。
「そんなに待てません。永遠の若さがあるにしたって。眠るにしたって、いつ棺桶が開かれるかもわからない。いつ死んだのか、いつ眠っているのか、わからないんです。私……私は、死にたくない……」
動きを止める命令は切れていたが、彼はすでに動く気力をなくしていた。吸血鬼は彼を抱きしめて、さらに説得を計る。
「吸血鬼ってそんなもんなんだけどな。なった時点でお前は死んでるんだよ。リビングデッドだ。それでも生きてかなきゃならない。わかるかこの矛盾が?」
「知らなかったんです。眠るのがこんなに恐ろしいなんて」
「人間だった頃もそうじゃなかったのか? 眠ることは、少しの間死ぬことだって。な?」
「人間だった頃は日光に脅える必要は無かったんです。狩人の杭に脅えることも。怪物に脅える人々に脅えることも。全部。貴方様から力を貰っておきながら、力を扱いきれない私が、生き残ってしまって」
「あー、いいんだよ。全部運だ、運。お前は何より得難いものに恵まれたから生き残ったんだ……」
腕の中でしゃくりあげ、涙を落とす彼に何と言ったらいいのか悩みながら、背中を撫で擦ってやる。
そこを、狩人が通りかかった。
アルバイト帰りの狩人は普通に立ち止まり、こちらを見ているだけだった。
ただすみれ色の目で、こちらを凝視しているだけだった。
それなのに吸血鬼には何よりも恐ろしい。殺されるかもしれない恐怖。生まれてこの方いつだって感じている恐怖が、いよいよ吸血鬼を支配している。抑えの利かない恐怖が、今すぐ死ね、と叫び出したい気分を抑えていた。狩人には吸血鬼をどうにでもできた。夜にあってもなお輝かしい、光の化身が。
そうやって狩人は吸血鬼を支配していた。
しかし若い吸血鬼の親は、日の下でも生きていかれる吸血鬼だ。子を安心させるように、そうして己の心を宥めるように、図体ばかり大きな背をふたたび撫でた。
「おお、お帰り。ちょっとさ、聞きたいことがあるんだけど」
「僕にもある。いま出来た」
恐怖はいつだって感じている。吸血鬼はいつもの調子で聞く。
「こいつといっしょに住まない?」
「そいつは誰?」
「俺の昔の仲間で、今会ったとこ。ほら、自己紹介してみ?」
「貴方の敵に名乗る名前なんてありません」
「こ~らぁ~、意地悪言わないの」
狩人のほうは彼が喋っていることはわかっていないが、言わんとしていることは語気でわかるらしい。歩み寄り、冷たい目で見下ろしている。
「こんなものに怯えながら生きてる必要はないでしょう! そうならないために吸血鬼になったのに!」
「人間だって怯えながら生きてるんだよな~……」
「人間は怯える対象が少なすぎるんです、そいつなんて特に。でかい面しやがって……」
「それはわかるぜ、わかる。でかいよな、白いし膨張色だ。でも命あっての物種だ、ここはとりあえず頭下げとこうぜ、俺が翻訳するからさ」
「いやです」
「ごめんなァ~理人、こいつ強情でさ。お前が俺のこと虐めてるからお前のこと嫌ってるみたい」
この腕の中の男どうしよう。理人の目はどんどん冷たくなっていって怖いし。本当に、喫茶ソロモンの店長様に任せてしまったほうが良いのではないか。
当の店長様はガラスに顔を引っ付けて、明かりの向こうからこちらを眺めている。店の前で居座られるのは迷惑だろうが、もうちょっとは我慢していただくつもりだ。
「僕が、君を。虐めてる?」
「そこそこ、そうやって威圧感掛けてるとこだぜ嫌われるの。お前自分を害そうとする吸血鬼と一緒に住む趣味は無いんだろ? 殺されるかもしれないからって怖がってんの。わかる? 俺の腕の中に居ないと殺されるかもしれないって思ってるの。わかったらどっか行った行った」
「そうだね」
「そうだねって。わかってないじゃん。動いてよ。あっち行って」
狩人は吸血鬼の腕の中に居る彼の様子を覗き見に、しゃがみ込んだ。
「僕は理人。君のご主人様と同居してる。それなりに、仲良くやってるつもり。僕が彼を殺そうとしない限りは、彼も僕を殺そうとしないって、約束したから。君もその約束を守ってくれるなら、一緒に暮らしていける、と思う。三人で暮らすには、あのアパートの部屋はちょっと狭いけど……」
狩人の話を出来るだけ忠実に翻訳しながら話すと、信者の男はようやく腕の中から出ようともがき、立ち上がった。顔を上着の裾で拭う。
「ありがとうございました。黄昏様。お手数おかけしました」
「よーし、未来の話をしに店に戻ろう。奢るぜ」
「なあ、僕ら未成年じゃあ……」
「俺と店長の仲だぜ、席はある」
「何十年も日の光と狩人に脅えて暮らすなどと気の遠い話、申し訳ありません、私には無理です」
信者の男は無数の黒いコウモリに変身する。吸血鬼の腕をすり抜け、狩人に襲い掛かる。
何も出来ない人間ならば、そのまま喉を圧されて死んでいたところだろう。
しかし狩人は生まれながらの聖者で、若い吸血鬼ならば血の一滴で眠りにつける。その他にも義父から伝えられた技術、吸血鬼を眠らせる心得はいくらでもある。名前もわからぬ彼の挑戦は死に自ら飛び込む行為だった。
「やめろ!」
吸血鬼の叫びは自己防衛の構えを取る狩人ではなく、信者の男に向けて放たれた。
人の姿を取り戻す前に、吸血鬼は己の信奉者に人には聞こえぬ超高音で命じ、その命を自らに取り込んだ。
末期の悲鳴が吸血鬼の体の中で響き渡る。彼は膝をつき、彼の母語で己の中で眠るように命じた。信奉者は沈黙し、吸血鬼の命の一部となった。
「俺の手下が失礼したな。店長に金払ってくるから、先帰ってろ」
「待ってる」
「……好きにしろ」
あーあ、と彼は大きな溜め息をついて、枯れた蔦が覆うフェンスの手を借りて立ち上がる。それなりに消耗した。肉体ではなく、精神が。腹は先程飲んだミルクと、既に尽きた一人分の生命で満ち満ちている。
――な~~んか、凹むんだよな~~。自分の子どもを殺すってこんな気分なんだろうな。やだやだ。
吐き気を堪えながら、彼は道沿いのフェンスを掴んで扉を開き、カウベルを鳴らす。
ありとあらゆる悪徳の王、サタンの息子を自称するにしては、吸血鬼の痩せた背中は真実頼りなさげに見えた。
狩人はその背を、冷たい目で追うだけだった。
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