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七月・夏の生活

7/25(金) 夏休みが始まっていた(あと吸血鬼の初恋の話)

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 冷房が効いた室内で本を読みつつスマートフォンを弄る狩人に、ふと疑問を持った吸血鬼が聞いた。
「今週平日に昼に家にいる率高くね?」
「八月終わりまでは夏休みだからね」
「マジ? いつから?」
「十九日の土曜日から」
「じゃあ二十一日にどっか行ってたのは何なの?」
「誕生日の奴がいたから。その集まりだよ」
「なんでえ」
「なんでって。クラスメイトの誕生日くらい祝っていいだろ。それに二十一日以外も、昼も夜もずっといた訳じゃないだろ。アルバイトとか……」
「それはお前、ちゃんとアルバイトだって出てっただろ。二十一日は学校だって言って出た。違うか」
「嘘は言ってない。よく覚えてるね」
「皮肉で言ってんなら俺はキレるぞ」
「皮肉じゃない。僕は覚えてなかった」
「己の記憶力の無さを自慢げに言ってんじゃねえ」
 僕の仕事は基本夜だし、昼には家にいるよと狩人は言う。普段はあまり錬金術師からも頼まれごとはされないが、夏休みならば普通の学生のアルバイト感覚で仕事を頼んでくる。具体的には、週三から四くらいで。これが多いのか少ないのか、吸血鬼にはわからない。
 あいつああ見えてけっこう交友関係広いんだな、と吸血鬼は思う。結婚式には来ないのに。俺に身体を構わせてる暇なんてないんじゃないか。あんな血の気の薄そうな身体からさらに血を抜いたら、死ぬんじゃないか。
「俺には来てないの? そ~ゆ~仕事。噂出回ってない?」
「あの人に直接聞いたらいいじゃないか。君にも仕事を持ってきてくれるかもしれない」
「なんでお前そんな喧嘩腰なんだよ」
「喧嘩腰じゃない」
 狩人が昼間家にいると、自分一人でいるときのように三食まともに食わないわけにはいかない。ここ最近はまともに毎日三食分の食事を作っていたから、何だか妙だなと思っていたのだ。一日で疑問を持てよ、という話ではあるが。
「長い休みならさぁ、どっか旅行行かない?」
「……例えば?」
「あー……」
 吸血鬼は長い沈黙の後、返答を決めあぐねて携帯電話を弄りはじめる。日本の観光地には詳しくなかったらしい、テキストボックスに[夏 観光地 日本]と入れて調べている。理人は本にスマートフォンを挟んでちゃぶ台に置き、顔を寄せて画面を覗き見た。
「沖縄とかど~お? 海が綺麗らしいが……」
「君、海は入れるの?」
「入れる。日本にだって徒歩で来たんだ。モーセなんかお呼びじゃないぜ」
「違う。浸かって、ちゃぷちゃぷ遊べるのかって聞いたの」
「そんなことをしたら俺は母なる海と一体化しちまうよ。死ぬかこの海を俺が支配するか、地球との勝負だな」
「そんなことはさせない。僕の宿敵が大怪獣になるのはごめんだ」
「しねーよ、そんな分の悪い賭け。もうちょっと大きくなって、邪魔者がいなくなってからやる。それまで大怪獣はおあずけな」
 それから吸血鬼は狩人の頬に口付けする。動揺した狩人は無様に部屋の壁にぶつかるまで後ずさりした。
「……何? 僕に何をした?」
「すまん、流れで」
「どうして流れでキスなんてする?」
 吸血鬼にも、自分でもどうして宿敵なんかに口付けしたのかわからなかった。身体に染み付いた、他人を宥めるときの癖だった。誤魔化し、解きほぐし、機嫌を取る。今はそんな必要一切なかったはずなのに。どうして。
 戦うことが睦み合うことだとでもいうように。吸血鬼には自分のしたことが思っていたよりも衝撃で、拒否されたことがなお自分の行動に対して動揺する羽目になった。
「そんなに嫌がるとは思わなかった。二度としない」
「……違う。驚いただけ。してもいい。どうしてしたのか聞きたい。それを、していた関係の人がいたの?」
「いたよ。もうお前にはしない」
 違う。僕の知らない君と親しい誰か。彼が口付けた誰か。狩人には胸を焦がすほど知りたかった。癖になるほどに口付けた誰か。自分の知り得ない大切な誰か。
 狩人は再び吸血鬼に歩み寄る。畳の上を四肢で這い、携帯電話の画面でなく自分の目を凝視する瑪瑙の赤に、今度は自分から口付けんばかりに近付く。
「僕は君の全てを知りたいと思っている。教えて。君はどんな人と一緒にいたの?」
「……怖ッ」
 吸血鬼には何の衒いも無いすみれ色の目が却って恐ろしかった。あの怪物とは違う、魔性でもなんでもない、ただ己を追い詰める薄紫。素直に恐怖を、しかしあえて軽薄に口にし、吸血鬼は自分の中に満ちる緊張した空気を解く。
「俺の初恋の人。俺の血を吸って不老不死を手に入れたんだけど、人里に降りたら化け物として殺された。どこにでもいるだろ、そんな奴」
 もともと化け物みたいな人だったから、いつかはそうなると思っていた。大切な怪物の死。自分もいつか人間たちにああされて死ぬ。一年に満たない期間、その化け物と過ごした時間。恐怖ばかりだった時間。だけど、俺が形作られたそれを、今になって否定したくはない。彼女のことを考えるとき吸血鬼は、感傷的にならざるを得なかった。
「……どんな人だった?」
「すごい怖かった。俺を恐怖と情欲で支配していた。けど、今の俺を作ってくれた。好きだった」
「それ本当に初恋?」
「そうだ。なんで疑う」
 狩人には、シャンジュが繰り返し自分に言い聞かせているように見えた。
 今の自分も彼の初恋の人と同じだ、と狩人は気付いた。恐怖で怯える彼を支配しようとしている。情欲は無理だ。経験が無いし、どうしたらいいのかわからない。
「キスなんて、君がしたくなったらすればいい。僕はいちいちびっくりするだけだ。その人みたいに誤魔化されたりなんてしないけど」
「宿敵にしろってーの? 宿敵に?」
「さっきはしたでしょ。もう忘れたの?」
「お前、人が忘れようとしてたことをな……」
 瞼に口付けて、狩人は吸血鬼の隣に座る。それから携帯電話の画面に映る、沖縄のエメラルドグリーンの海を見る。
「沖縄、行ったことないな」
「……海が綺麗らしいな。見ての通り」
「沖縄遠いからさ、本州のどこかにしよう。新幹線乗ってさ、温泉とか行こうよ」
「俺溶けちゃうわ。沖縄にキジムナーナンパしに行こうぜ」
「もしかして君の初恋の人ってさ。赤毛だったりする?」
「よくわかったな。赤毛で、俺が見てきた人間の中では一番美人だった。外見だけはな。今変身して見せようか? やったことないけど」
「……やってみたら?」
 ふらふらと携帯電話を預けて立ち上がり、洗面所のほうへ行く。それから数秒も経たないうちに、戻ってきた。ショウガ色の長い髪のみで肌を隠した、肉感的な人間の女だった。
「こんな感じの、ヴィーナスの誕生みたいな女だったんだよ。服は着てたけど」
「服は着てよ」
 声が違う。しゃがれた低い女性の声で、ああこんな声だったな、と艶っぽく言う。それからバレエダンサーのように、爪先でくるっと一回転して、身体全体を見せた。ふわっ、と彼自身のにおいが広がった。
「そういえば最後に風呂入ったのいつ?」
「あ~~、そういえばあの人めっちゃいい匂いしたんだよな。あれなんの臭いだったんだろ。たぶんなんかの植物だったと思うんだけど」
「聞いて」
「聞いてるよぉ」
 吸血鬼は狩人の上に跨り、首に腕を絡めた。
 さっきとは立場が逆だ。蜂蜜色の笑った目がまばたきすることなく狩人を見つめている。
「え~~っと、どうやってたっけな。こうやって俺に圧掛けてたんだけど。お前デカいな。腕の中にぜんぜん収まんないや。こうやって腕の中に俺を納めてさ、ファンファン、って呼ぶんだわ。だいたいベッドの上だったな。たまに台所だった。そんで……そう。
 ……理人。お願いだから、わたしの言うことを聞いてくれるね。理人はいい子だろう?」
 自分でもあの人の姿で彼をどうしたいのか、吸血鬼は狩人の反応を見るまで、わからなくなってきていた。
 それをどうしたらいいのかわからない、ただ突然全裸の女に変身した同居人の存在に戸惑っている様子の狩人を見て、吸血鬼は彼自身の声でげらげら笑った。彼は初恋の女に化けるのを止め、狩人から携帯電話を取り返して隣に座り直した。
「ああ、面白かった。もう二度とやらん」
「君はその、彼女とは……」
「恋人だったよ。あれの股で精通したんだ」
「そうか……」
「また化けてほしいか? やりたかないけど」
「君は君のままでいてくれ」
「いいこと言うねぇ、理人くんは」
「君の頭がおかしくなったのかと思った……」
 吸血鬼はまたげらげら笑った。明るく爽快な笑顔だった。
「あっははは、そうだな。あの人のことを考えると頭がおかしくなる。恐怖と愛情でさぁ~あ?」
「旅行の話。しよう。怖い話じゃなくって。温泉でもなく海でもないなら、都会で観光とかさ、どう?」
 暗い話題を打ち破るように、狩人は軽く畳を叩いた。吸血鬼は笑う。
「吸血鬼を都会に放ったら大変なことになるぜ? 何のために探偵がいるのか知らないのか?」
「知ってる。だから君には僕が付いていく。今は一緒に旅行する話をしてるんだろ?」
 狩人の笑い声が吸血鬼の頬に生えた桃のような髭をくすぐる。吸血鬼は顔に熱が溜まるのを感じて、こいつと旅行するくらいなら一人がいいと思った。
「やっぱ沖縄にしない?」
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