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1.始まりの春
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「遅くなってしまい、申し訳ありません」
家の玄関先で、彼は何もなかったように、いかにも親に受けそうなソフトな微笑みを浮かべていた。そしてそのまま、携えていた紙袋から箱を取り出した。
「気持ちだけですが、夕食で訪れた店の焼き菓子です。お口に合えばよろしいのですが……」
すでに寝巻き姿になっている母は、差し出された箱を受け取り、ニコニコと笑みを浮かべていた。きっと彼への好感度は爆上げ中だろう。早くも懐柔されている様子だ。
(この変わりよう……。なんなのよ)
家の玄関扉が開くと同時に、彼は見えない紳士の仮面を着けたようだ。私に見せていた態度との雲泥の差に、唖然としていた。
「まあ! お気遣いありがとうございます。……いいんですよ。もういい大人なんですから、時間なんて気にしなくても」
この場に父がいないのをいいことに、母はサラッととんでもないことを口にする。
確かに今は夜十時に届かない時間で、平日なら仕事をしていることだってある。けれど母は暗に、朝帰りでも構わないのに、と言いたいようだ。普段結婚をせっついてくることのない母だが、さすがに三十目前の娘が行き遅れることを心配しているのかも知れない。
「お母さん! もう竹篠さんも遅くなるから、そのへんにしておいて」
まだ話しを続けそうな母を止めると、彼に体を向ける。けれど顔など見られるはずもなく、その場で頭を下げたまま声を発した。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しい一日でした。では僕はこれで失礼します。おやすみなさい」
母の前では取り繕いたいのか、よそゆきの声色が頭上から聞こえてくる。下を向いたままでいると、母がそれに答えていた。
「今度はゆっくり、いらしてくださいね」
「ええ。ぜひ」
見送りに出る母の声もまた、いつもよりワントーン上だった。
彼を見送ることもせず、それどころか玄関扉が閉まるより早く、自分の部屋に飛び込む。ドアを閉めると、明かりも付けずズルズルとその場に座り込んだ。
「……なんで……」
胸に溜まった空気を、全部出しきるくらい大きく息を吐き出す。
本来なら負けた私が、家まで送られることはないはずだった。
なのに彼は『せめて駅まで送らせて』と言い出し、駅に着けば着いたで『駅まで送ったから、このあとは俺のしたいようにする』と、いったん停車した車をまた走らせ始めたのだった。本当は、その場で走って逃げたいくらいだったのに。
ここまで必死で平静を装っていたが、もう限界だった。
「ルークのこと、思い出さなかったなんて……」
この十年、そう多くはないけれど交際相手はいた。そして今まで、その人たちとキスを交わすたびに、無意識にルークと比べていることに気づき、自己嫌悪に陥っていた。
なのに……今日は違った。
まだ余韻を確かめるように、唇を指でなぞる。それだけであのキスを思い出し、体は熱を帯びた。
食べられるんじゃないかと思うほど激しいキス。ルークのことを思い出す暇も与えられず求められ、そして……応じていた。
(どうしよう……。私……)
また溜め息が溢れる。
好きになったわけじゃない。今日一日、楽しかった。でも、自分の心の中には、忘れられない人が今もまだ住み続けている。
なのに……キスされて、嫌じゃなかった。そんなことを思う自分が、嫌になった。
時間にして、おそらく数十分ほどそうしていただろうか。
ようやくゆるゆると立ち上がると部屋の明かりを付ける。それから着替えをして、バッグからスマホを取り出した。案の定そこには、メッセージの受信を告げる通知が届いていた。
「今日はありがとう。次は桜を見に行きたい。また案内して欲しい。都合の良い日を教えてくれ……か」
今度は日本語で書かれている。以前英語だったのは、スマホが日本語に対応できていなかっただけかも知れない。
「桜……。そりゃ、富士山見てあんなに喜ぶんだから、日本の桜だって見たいよね」
スマホに話しかけるように呟く。
祖母から日本のことを聞いて育ったのだろうか。その祖母に結婚相手を見せたいなんて、家族思いだとは思う。
けれどやはり、自分じゃなくても、と思ってしまう。
(英語が問題なく話せる日本人がいい、とか?)
祖母に、彼女と同じ日本人と結婚して喜ばせたい。それならなんとなく納得がいく。
どこでどう繋がったのかはわからないが、祖父に私のことを聞き、結婚相手にちょうどいいと思ったのかも知れない。
もう吐き出す息も、無くなるんじゃないかと思うくらい溜め息が続く。
とにかくゲームを了承してしまったのだから、最後までやり通さなければ彼も納得してくれないだろう。
今は彼が1ポイントで自分は0。10ポイントまで、まだまだ先は長そうだ。その上、会わなければポイントを増やすこともできない。
「とりあえず……。桜、見に行こうか……」
ニュースで、数日後には開花が予想されると耳にした。見るならやはり満開のほうがいいだろう。開花から一週間後くらいが見頃だ。
そして、自分のスケジュールを頭に浮かべながら、駆け引きなどお構いなしにメッセージの返事打ち始めた。
家の玄関先で、彼は何もなかったように、いかにも親に受けそうなソフトな微笑みを浮かべていた。そしてそのまま、携えていた紙袋から箱を取り出した。
「気持ちだけですが、夕食で訪れた店の焼き菓子です。お口に合えばよろしいのですが……」
すでに寝巻き姿になっている母は、差し出された箱を受け取り、ニコニコと笑みを浮かべていた。きっと彼への好感度は爆上げ中だろう。早くも懐柔されている様子だ。
(この変わりよう……。なんなのよ)
家の玄関扉が開くと同時に、彼は見えない紳士の仮面を着けたようだ。私に見せていた態度との雲泥の差に、唖然としていた。
「まあ! お気遣いありがとうございます。……いいんですよ。もういい大人なんですから、時間なんて気にしなくても」
この場に父がいないのをいいことに、母はサラッととんでもないことを口にする。
確かに今は夜十時に届かない時間で、平日なら仕事をしていることだってある。けれど母は暗に、朝帰りでも構わないのに、と言いたいようだ。普段結婚をせっついてくることのない母だが、さすがに三十目前の娘が行き遅れることを心配しているのかも知れない。
「お母さん! もう竹篠さんも遅くなるから、そのへんにしておいて」
まだ話しを続けそうな母を止めると、彼に体を向ける。けれど顔など見られるはずもなく、その場で頭を下げたまま声を発した。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しい一日でした。では僕はこれで失礼します。おやすみなさい」
母の前では取り繕いたいのか、よそゆきの声色が頭上から聞こえてくる。下を向いたままでいると、母がそれに答えていた。
「今度はゆっくり、いらしてくださいね」
「ええ。ぜひ」
見送りに出る母の声もまた、いつもよりワントーン上だった。
彼を見送ることもせず、それどころか玄関扉が閉まるより早く、自分の部屋に飛び込む。ドアを閉めると、明かりも付けずズルズルとその場に座り込んだ。
「……なんで……」
胸に溜まった空気を、全部出しきるくらい大きく息を吐き出す。
本来なら負けた私が、家まで送られることはないはずだった。
なのに彼は『せめて駅まで送らせて』と言い出し、駅に着けば着いたで『駅まで送ったから、このあとは俺のしたいようにする』と、いったん停車した車をまた走らせ始めたのだった。本当は、その場で走って逃げたいくらいだったのに。
ここまで必死で平静を装っていたが、もう限界だった。
「ルークのこと、思い出さなかったなんて……」
この十年、そう多くはないけれど交際相手はいた。そして今まで、その人たちとキスを交わすたびに、無意識にルークと比べていることに気づき、自己嫌悪に陥っていた。
なのに……今日は違った。
まだ余韻を確かめるように、唇を指でなぞる。それだけであのキスを思い出し、体は熱を帯びた。
食べられるんじゃないかと思うほど激しいキス。ルークのことを思い出す暇も与えられず求められ、そして……応じていた。
(どうしよう……。私……)
また溜め息が溢れる。
好きになったわけじゃない。今日一日、楽しかった。でも、自分の心の中には、忘れられない人が今もまだ住み続けている。
なのに……キスされて、嫌じゃなかった。そんなことを思う自分が、嫌になった。
時間にして、おそらく数十分ほどそうしていただろうか。
ようやくゆるゆると立ち上がると部屋の明かりを付ける。それから着替えをして、バッグからスマホを取り出した。案の定そこには、メッセージの受信を告げる通知が届いていた。
「今日はありがとう。次は桜を見に行きたい。また案内して欲しい。都合の良い日を教えてくれ……か」
今度は日本語で書かれている。以前英語だったのは、スマホが日本語に対応できていなかっただけかも知れない。
「桜……。そりゃ、富士山見てあんなに喜ぶんだから、日本の桜だって見たいよね」
スマホに話しかけるように呟く。
祖母から日本のことを聞いて育ったのだろうか。その祖母に結婚相手を見せたいなんて、家族思いだとは思う。
けれどやはり、自分じゃなくても、と思ってしまう。
(英語が問題なく話せる日本人がいい、とか?)
祖母に、彼女と同じ日本人と結婚して喜ばせたい。それならなんとなく納得がいく。
どこでどう繋がったのかはわからないが、祖父に私のことを聞き、結婚相手にちょうどいいと思ったのかも知れない。
もう吐き出す息も、無くなるんじゃないかと思うくらい溜め息が続く。
とにかくゲームを了承してしまったのだから、最後までやり通さなければ彼も納得してくれないだろう。
今は彼が1ポイントで自分は0。10ポイントまで、まだまだ先は長そうだ。その上、会わなければポイントを増やすこともできない。
「とりあえず……。桜、見に行こうか……」
ニュースで、数日後には開花が予想されると耳にした。見るならやはり満開のほうがいいだろう。開花から一週間後くらいが見頃だ。
そして、自分のスケジュールを頭に浮かべながら、駆け引きなどお構いなしにメッセージの返事打ち始めた。
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(執筆期間:2022/05/03〜05/24)
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます!
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
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○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。
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(Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21
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