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四章 運命の一夜 (side大智)
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幸せだと思った。永遠にこんな日が続けばいい。叶うはずもない淡い願いが心に浮かんだ。
由依にしてみれば、あったばかりの人間だ。けれど自分にとっては何年も忘れられなかった人。我を忘れそうになりながら彼女に溺れた。
「約束、して……。僕の前から消えないって……」
気がつけばそんな台詞を口にしていた。どんな関係になったっていい。いつか彼女に授かるかも知れない家族の父親。由依が自分を愛してくれなくても、切れない絆で繋がっていればそれでいいんだと自分自身に言い聞かせていた。
――夢を見た。
『大智……』
父だった。自分は小さな子どもの姿で、父を見上げていた。青色のスクラブを着ている父は、自分の記憶よりかなり若く見えた。父は薄ら微笑むと大きな手で自分の頭を撫でた。
こんなことをされたことがあっただろうか? それに父が笑う顔など見た記憶がない。
何か言っている。なのにこの世界に音は無く、自分の耳にはなんの言葉も届かなかった。それでも父はしばらく口を動かし続け、満足したように笑みを浮かべたあと自分に背中を向けた。
そのまま父の背中は遠ざかって行く。追いかけたいのに足が動かない。手を伸ばして「待って!」と叫ぶのに父の姿は小さくなっていた。
瞼を開くと明るい光が目に飛び込んできた。もう朝か、と思うのと同時に、腕に自分以外の温もりを感じ安堵した。まだ規則的に聞こえる寝息と上下する肩はまだ由依が眠っていることを伝えてきた。
(温かい……)
起こさないように、そっとその細い体を腕の中に閉じ込めると直に体温が伝わってきた。
愛おしい。そんな言葉が浮かぶ。彼女の負った傷を癒やしてやりたい、と思うのと反面、自分も癒されたいと思った。
(由依といられるなら、自分は変わることができるだろうか?)
何もかも投げ捨てて、由依といられたら……。そんな考えが湧き出すが、すぐに唯一の家族と言える人の顔が浮かんだ。
自分が祖母の反応を押し切って由依といる道を選んだとき、母にどんな仕打ちが待ち受けているのだろうと考えゾッとした。
母が一人なら何とかできただろう。けれど今母は、一人で抱えきれない大きなものを持っている。
目を瞑ると、心の中で天秤が大きく揺れ動いているような気持ちになった。ほんの少しのきっかけですぐ傾いてしまう天秤は、自分の優柔不断な性格を表しているようだ。
父はよくわかっていたのだ。
『優しすぎる』は、必ずしも褒められたことではないことを。
これまで祖母との約束を違えたことなどなく、従順に従ってきた。けれど今回ばかりは自分を優先した。
こじつけのような理由で由依を引き留めて時間を引き延ばすと、彼女は了承してくれた。
ホテルを出る前に家に電話を入れた。祖母が直接その電話を取ることなどない。出たのは叔母で、"急用ができたため、今日の昼食に同席できないと伝えて欲しい"と手短に言い電話を切った。
由依は最初こそ硬い表情をしていたが、時間が経つにつれその顔を綻ばせていた。こんな穏やかな時間を過ごしたのはどれくらいぶりだろうか。由依と一緒にいればいるほど、離れたくないと思う自分がいた。
なのに……。
スマートフォンに表示された、"阿佐永咲子"の文字を見て、眉を顰める。
もう時間は昼どきで、言付けが伝わっていなかったのかと思ったが、いや、今伝わったのだと思い直した。
電話に出ると、案の定祖母は凄い剣幕で捲し立て始めた。
『どういうことなの! お客様をお待たせしているのよ? わかっているんですか!』
「えぇ。わかっています。ですが所用が入ったとお伝えしたでしょう」
自分でも感じるくらい苛立つ。たった一度約束を守れなかっただけで、こんなことを言われる筋合いはない。
『私以上に大事な用事なんてあるわけないでしょう! 今すぐ帰ってらっしゃい!』
「今すぐ帰宅するのは無理です。まだ用は終わっておりません」
あくまで冷静に。そう思っていても怒りを抑えるような冷たい声が出る。
『そんな屁理屈など通用しません。いいですね! 今すぐ戻るのです』
ヒートアップする祖母に、気圧されないよう息を吸い、ゆっくりと切り出した。
「ですので、必ず顔を出します。それまで猶予を……」
だがそれが祖母には響くことはない。
『いいでしょう。貴方がそういう態度に出るのであれば、こちらにも考えがあります。貴方の母親の事業、峰永会の寄付がなければたちまち立ち行かなくなるのでしょう? 今すぐ打ち切ってもいいんですよ? よく考えなさい。では、お客様を待たせているから』
カァッと頭に血が昇るのを感じる。これが本当の怒りの感覚なんだと思い知る。
「それは関係ないはずです。待ってください! 咲子さん!」
我を忘れ呼びかけるが、電話の向こうには虚しく無機質な音が響いていた。
祖母は、孫に決して"お祖母様"と呼ばせないくらいプライドの高い人だ。世界は自分の意のままに操れると思っているのだろう。
そして自分は、それに翻弄され続けていた。
由依にしてみれば、あったばかりの人間だ。けれど自分にとっては何年も忘れられなかった人。我を忘れそうになりながら彼女に溺れた。
「約束、して……。僕の前から消えないって……」
気がつけばそんな台詞を口にしていた。どんな関係になったっていい。いつか彼女に授かるかも知れない家族の父親。由依が自分を愛してくれなくても、切れない絆で繋がっていればそれでいいんだと自分自身に言い聞かせていた。
――夢を見た。
『大智……』
父だった。自分は小さな子どもの姿で、父を見上げていた。青色のスクラブを着ている父は、自分の記憶よりかなり若く見えた。父は薄ら微笑むと大きな手で自分の頭を撫でた。
こんなことをされたことがあっただろうか? それに父が笑う顔など見た記憶がない。
何か言っている。なのにこの世界に音は無く、自分の耳にはなんの言葉も届かなかった。それでも父はしばらく口を動かし続け、満足したように笑みを浮かべたあと自分に背中を向けた。
そのまま父の背中は遠ざかって行く。追いかけたいのに足が動かない。手を伸ばして「待って!」と叫ぶのに父の姿は小さくなっていた。
瞼を開くと明るい光が目に飛び込んできた。もう朝か、と思うのと同時に、腕に自分以外の温もりを感じ安堵した。まだ規則的に聞こえる寝息と上下する肩はまだ由依が眠っていることを伝えてきた。
(温かい……)
起こさないように、そっとその細い体を腕の中に閉じ込めると直に体温が伝わってきた。
愛おしい。そんな言葉が浮かぶ。彼女の負った傷を癒やしてやりたい、と思うのと反面、自分も癒されたいと思った。
(由依といられるなら、自分は変わることができるだろうか?)
何もかも投げ捨てて、由依といられたら……。そんな考えが湧き出すが、すぐに唯一の家族と言える人の顔が浮かんだ。
自分が祖母の反応を押し切って由依といる道を選んだとき、母にどんな仕打ちが待ち受けているのだろうと考えゾッとした。
母が一人なら何とかできただろう。けれど今母は、一人で抱えきれない大きなものを持っている。
目を瞑ると、心の中で天秤が大きく揺れ動いているような気持ちになった。ほんの少しのきっかけですぐ傾いてしまう天秤は、自分の優柔不断な性格を表しているようだ。
父はよくわかっていたのだ。
『優しすぎる』は、必ずしも褒められたことではないことを。
これまで祖母との約束を違えたことなどなく、従順に従ってきた。けれど今回ばかりは自分を優先した。
こじつけのような理由で由依を引き留めて時間を引き延ばすと、彼女は了承してくれた。
ホテルを出る前に家に電話を入れた。祖母が直接その電話を取ることなどない。出たのは叔母で、"急用ができたため、今日の昼食に同席できないと伝えて欲しい"と手短に言い電話を切った。
由依は最初こそ硬い表情をしていたが、時間が経つにつれその顔を綻ばせていた。こんな穏やかな時間を過ごしたのはどれくらいぶりだろうか。由依と一緒にいればいるほど、離れたくないと思う自分がいた。
なのに……。
スマートフォンに表示された、"阿佐永咲子"の文字を見て、眉を顰める。
もう時間は昼どきで、言付けが伝わっていなかったのかと思ったが、いや、今伝わったのだと思い直した。
電話に出ると、案の定祖母は凄い剣幕で捲し立て始めた。
『どういうことなの! お客様をお待たせしているのよ? わかっているんですか!』
「えぇ。わかっています。ですが所用が入ったとお伝えしたでしょう」
自分でも感じるくらい苛立つ。たった一度約束を守れなかっただけで、こんなことを言われる筋合いはない。
『私以上に大事な用事なんてあるわけないでしょう! 今すぐ帰ってらっしゃい!』
「今すぐ帰宅するのは無理です。まだ用は終わっておりません」
あくまで冷静に。そう思っていても怒りを抑えるような冷たい声が出る。
『そんな屁理屈など通用しません。いいですね! 今すぐ戻るのです』
ヒートアップする祖母に、気圧されないよう息を吸い、ゆっくりと切り出した。
「ですので、必ず顔を出します。それまで猶予を……」
だがそれが祖母には響くことはない。
『いいでしょう。貴方がそういう態度に出るのであれば、こちらにも考えがあります。貴方の母親の事業、峰永会の寄付がなければたちまち立ち行かなくなるのでしょう? 今すぐ打ち切ってもいいんですよ? よく考えなさい。では、お客様を待たせているから』
カァッと頭に血が昇るのを感じる。これが本当の怒りの感覚なんだと思い知る。
「それは関係ないはずです。待ってください! 咲子さん!」
我を忘れ呼びかけるが、電話の向こうには虚しく無機質な音が響いていた。
祖母は、孫に決して"お祖母様"と呼ばせないくらいプライドの高い人だ。世界は自分の意のままに操れると思っているのだろう。
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