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三章 絡まり始めた糸

3.

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 扉の前で深呼吸したあと、「失礼します」と部屋に入る。テーブルについていた理事長が、ジロリと値踏みするような視線を寄越した。

「座りたまえ」

 高齢者特有のしゃがれた声で促され、会釈を返すと向かいに座る。
 理事長は八十を超えているらしいが、かくしゃくとした人だ。聞くところによると、この園は地域から頼まれ仕方なく開園しただけで、子どもに興味があるわけではないらしい。たいていの保育士はこの人を苦手としていた。

「瀬奈先生、だったかな」

 はい、と小さく返事をする。理事長は笑顔を浮かべるわけでもなく淡々と尋ねた。

「子どもができたらしいが、間違いないか?」
「……はい」
「そうか。それで、結婚の予定はないと聞いたが、それは何故だ」

 理事長に厳しい表情を向けられ、由依は肩を揺らした。

「相手に事情がありまして。結婚までは……」

 言葉を濁すように答えると、理事長の眉がピクリと動いた。

「まさか、相手は既婚者じゃないだろうね?」
「ち、違います。既婚者では……」
「だが、結婚の予定はないのだろう? 君は未婚のまま出産するつもりらしいが、それを周りにどう説明するつもりだ」
「それは……」

 由依は声を詰まらせる。
 理事長の言うことはもっともで、これから先同じことを何度も聞かれるだろう。その度に、結婚の予定はないと言い続けなければならないのだ。

「それに、体調もあまり良くないらしな。これから悪化しないとも限らない。早めに考えたほうがいいだろう」
「あの。それはどういう……」

 理事長は凍りつくよう冷たい表情をしている。由依はその真意を掴めず尋ねた。

「今なら噂になる前に退職できるだろう。そうだな、病気の治療に専念するためとでもしておこう。心配しなくてもひと月分の給与は支払う」

 突然ハンマーで頭を殴られたような衝撃。目を開いたまま、しばらく呆然としていた。

「ま……待ってください! 私、辞めるつもりなんてありません」

 ようやく我に返り、叫ぶように訴える。だが理事長は、それに不快感を露わにして言った。

「未婚のまま出産するような保育士に、大事な子どもを預けられない。そう保護者に言われたら、君は責任が取れるのか?」

 それがないとは言い切れない。そしてその責任など、自分に取ることなんてできない。
 なんの反論もできず、由依はグッと唇を噛んだ。

「私は次がある。あとの手続きは園長に任せておく」

 立ち上がった理事長はそれだけ言うと、由依を置いて出て行った。

 部屋に戻り、すでに給食を食べていた他の保育士にどうしたのか尋ねられても、曖昧に答えて誤魔化した。
 どこか遠くに意識が飛んでしまったような、足元がグラグラと崩れてしまったような感覚。それでも子どもたちの姿を、この目に焼き付けておきたいと思った。
 今日のシフトは十七時で上がりだ。まだ保護者が迎えに来るには少し早い時間で、この時間に帰るのは由依だけだった。
 いつもと同じように挨拶をしに職員室に寄ると、目が合った園長はすぐさま駆け寄ってきた。

「私の力がないばっかりに、こんなことになってごめんなさい」

 涙を流しながら自分に謝罪する園長を、他人事のように眺めた。
 あまりにもショッキングな出来事に、涙さえ出なかった。無表情で「今までありがとうございました」と淡々と述べると、園長は「ごめんなさい……」とまた言って泣いていた。

 園を出て家まで、どうやって帰ったのか記憶に残っていない。今まで長い間通勤していたのだから、帰巣本能のようなものなのかも知れない。

 家に着き、鍵を開けて中に入る。その鍵を内側からガチャリと閉めると、ズルズルとその場に座り込んだ。

「……ふっっ」

 次々と涙が溢れてくる。熱い雫が頰を伝い、ポタポタとこぼれ落ちた。
 こんな形で園を去ることになるなんて思わなかった。不満が一つもないわけではないけれど、それでも居心地は良かった。
 短大を卒業する直前に両親を失い、とても就職する気持ちになれず、決まっていた就職先は辞退した。その後働こうと思えるまで二年近くかかり、新卒と同じ状態の自分を受け入れてくれたのが今の園だった。
 それから三年と半年。最初に担当したクラスの子どもたちは次の春、卒園を迎える。その晴れ姿をこの目で見たかった。送り出したかった。
 けれど自分の願いと引き換えに、それを失ってしまった。

 何かを手に入れると、何かを失う運命なのだろうか。

 そんなことが頭を巡り、涙が止められずにいた。

 玄関に座り込んだまま泣き続け、体がすっかり冷えきっていた。

(冷やしちゃだめだ……)

 まだ実感はないが、たしかに自分のお腹には大切な生命が宿っている。何かあってはいけない。そう思い直すと、ヨロヨロと立ち上がる。

「ごめんね。弱いお母さんで。今日だけ、許してね」

 お腹に手を当て、聞こえるはずもない言葉を投げかける。
 この子のために、泣いてなんていられない。強くなるんだ。由依はそう自分に言い聞かせた。
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