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三章 絡まり始めた糸

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 夏を思わせる気温が続いても、日差しは柔らかくなっているのを感じる。そうしているうちに秋は深まり、気がつけば大智と別れてから一か月が過ぎていた。

 最初こそ思い出すたび心が痛んだ。彼はあのあと、あの番号に電話しただろうか。そして嘘を教えられたことをどう思っただろうか。いや、会ったばかりの自分に騙されたところでなんの痛手にもなっていないだろう。そうなってくれていたほうがいい。ほんの束の間を過ごした相手のことなど忘れて欲しい。そう自分に言い聞かせていた。

 あの日、もう会わないと決めたことは後悔していない。
 もし二度三度と会ってしまえば、彼自身に温もりを求めてしまいそうで怖かった。そして彼は、自分の願いを叶えてくれようとするだろう。けれど、いくら今は結婚できないにしても、この先はわからない。いざ誰かと結婚を考えたとき、もう子どもがいるなんて、許される話ではないのだから。


「あっ、瀬奈先生。珍しいね」

 一人ぼんやりと過ごしていた休憩室に、給食のトレーを持って現れたのは、二歳児クラス担当の先輩保育士だった。

「松永先生。お疲れ様です」

 会釈を返し卓上にあった自分のトレーを動かした。

 この園では職員も園児と同じ給食をとる。普段は自分の担当する零歳児の保育室で、他の保育士と一緒に食事をしている。子ども達が午睡ごすい、いわゆるお昼寝をしている間も、部屋には必ず誰かがいる必要がある。二歳までの乳児はとくに、寝ている間も決まった時間毎に呼吸のチェックをする必要があり、ゆっくり休憩を取ることができないのが現状だ。
 だが今日は風邪で休んでいる子が多く、人手は足りている。由依は少し熱っぽいからと言い訳をし、一人で休憩していたのだった。

 松永先生は由依の前に座ると、早速箸を持ち食べ始めた。

「瀬奈先生は食べないの?」

 由依の前には、かなり少なくしてもらった給食がまだ手付かずで置かれていた。この部屋に来て十五分ほどになるが食べる気が起こらず、ずっと放置していた。

「い、いただきます」

 手を合わせて由依も箸を持つ。ここのところ、味覚が変わってしまったように何を食べても美味しく感じない。それでも無理矢理、流し込むように食事を口に運んだ。

「そうだ。瀬奈先生。運動会のときはありがとね」

 箸を持つ手を止め松永先生は言う。
 つい数日前、園の大きな行事の一つである運動会が終わったばかりだった。

 一瞬何のことだろうと考えて、そういえばと思い出す。
 この園の運動会は、零歳児は自由参加で観に来るだけで、一歳児は親子競技と決まっている。そして、二歳児から演技の披露が始まる。
 由依はその二歳児の補助として練習に参加していた。練習では上手に踊っていた子も、当日はたくさんの観客に圧倒されて固まってしまう子もいる。

「あっくんが大泣きして、歩き出したときはどうしようかと思ったけど、瀬奈先生のおかげで落ち着いてくれて、ほんと助かった」

 勢いよく給食を食べながら松永先生は言う。

「そんな。無我夢中だっただけで。あっくんが持ち直してくれてよかったです」

 あっくんは練習ではとても上手にできていた。だが緊張したのだろう。泣き始めたと思ったらフラフラと歩き出してしまった。松永先生は正面で園児に見えるよう踊っていて、もう一人の補助の保育士は反対側にいた。由依が慌てて駆け寄ったのだ。

「もう、後ろの理事長の圧が凄くて。途中で一回転するじゃない? あのとき本部見たら、怖い顔してたわぁ」

 今では笑いながら話しているが、そのときはとても笑えなかっただろう。由依は引き攣りながら乾いた笑いを返していた。
 
 この園は社会福祉法人が経営している。園長はいるが、それとは別に、他の福祉施設も経営する理事長が存在する。普段滅多に園に来ることはないが、来ると保育士たちの間には緊張が走る。齢八十を超える男性で、かなり気難しい人だ。園長がいいと言ったことも、理事長がだめだと言えばひっくり返ることもあるくらいなのだ。

「次は発表会かぁ……。色々気は重いけど、理事長のためにやるわけじゃないし。零歳さんたちもデビューだし、瀬奈先生も頑張らなきゃね」
「そうですね。二月の発表会にはあの子たちももっと成長してるでしょうし。きっと頑張ってくれます」

 ゆっくりと給食を口に運びながら返す。

「だねぇ。子どもはあっという間に成長するしね」

 そうですね、と返しながら一口運んだご飯を飲み下した。胃につかえたような、そんな感覚が不安を煽った。

(……そんなわけ……ないよね)

 この体調の変化をいつまでも見て見ぬふりはできない。どこか風邪のような症状が続いているが、薬は飲まないようにしていた。元々生理不順で間隔もバラバラだったが、あれからきていない。

(確認……しなきゃ……)

 減っていかない給食をぼんやりと眺めながら、由依は考えていた。
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