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22.婚約者
しおりを挟む「佐山」
職場で仕事をしていると、夏木に呼びかけられた。
「この仕事、お願いしていいか?」
「はい」
夏木との関わりもぐんと減った。
なぜか夏木の方からプライベートなことを話しかけてくることが減ったから。
「主任」
今日は咲良の方から話しかけてみた。
「今日、咲凪のお迎え、一緒に行きませんか?」
「……いいのか?」
「はい。咲凪も久しぶりに会いたいと思うので」
咲凪が小さな頃から、咲良がこの会社で働き始めた頃からずっと、お世話になっている人。
咲凪にはその存在を忘れてほしくない。
「わかった。俺も咲凪ちゃんに会いたいし」
夏木が頷くのを見て、咲良はなぜかホッとした。
「最近会ってないけど、咲凪ちゃん、元気?」
帰り道、久しぶりに2人で並んで歩きながら、
「はい。この前は動物園で大はしゃぎしてました」
とそんな他愛ない話をする。
しかし、前ほど話が盛り上がることはなく、静かに時間が過ぎていく。
こども園に着くと、
「おかえりなさい!」
保育士のその明るい声に、咲良は息を吐いた。
知らずの内に息が詰まっていたらしい。
「おいちゃ」
「よぉ、咲凪ちゃん、元気か?」
「ん、でんき」
ごく自然に頷き、靴を履くと、
「らっこ」
と甘える。
よかった、と思った。
「動物園行ったんだって?」
園を出て、家までの道を歩きながら、咲凪は夏木と話す。
「ん」
「ママと2人で行ったのか?」
「んーん。ぱぱも」
「パパか」
しまった。夏木の前で彼の話を出すのはまずい。
とっさに咲良が
「さ、咲凪、お腹空いたね」
「お、ご飯行くか?」
夏木がそう言った時だった。
目の前からゆっくりと歩み寄ってくる影。
それは、見たことのない女性だった。
上品な黒髪に、上品は服装。
見るからにいいところのお嬢様だとわかる。
彼女は咲良の前に立つと、にっこり笑った。
「神川拓海の婚約者の、森永単語紗都子単語です」
ハッとした。
彼の、婚約者?
忘れていたわけではない。
彼の母親が言っていた。
彼には婚約者がいると。
覚えていないわけではない、ただ考えないようにしていた。
「咲凪ちゃん、ちょっとそこで遊ぼうか」
ちょうど近くに公園があったため、夏木が咲凪を連れていった。
「長話する気はないので、簡潔に言います」
「……」
言われなくても、彼女が言わんとしていることはわかる。
「拓海くんと別れてください」
ズキンと胸が悲鳴を上げた。
「……交際してません」
「そうですか?」
昔は付き合っていた。
でも今は違う。
「では、彼に近づかないでください」
鋭い言葉が、咲良の胸を突き刺していく。
近づいているのは自分じゃない。
そう言い返したいのに、口が動かない。
「彼は私と結婚するんです。あなたは彼にふさわしくないと思います」
ふさわしくない。
その言葉は、心の奥深くに突き刺さった。
誰よりもわかっているのに。
「……わかっています」
咲良は彼女から逃げるように、横を通り過ぎて立ち去ろうとする。
森永と名乗った彼女は、邪魔をしようともせず、黙っていた。
「大丈夫か?」
公園で待つ夏木に近づくと、心配そうな顔で尋ねられた。
「大丈夫です」
そう答えた声は、冷たかった。
夏木の隣で絵本を開いていた咲凪の顔も強張っている。
「咲凪、帰ろうか」
娘を怖がらせたくはない。
その一心で作った笑顔は、悲しく染まっていた。
彼からの連絡を無視することもできず、ただ会いたいというお誘いは断るようにした。
婚約者もいる男性だと、自分に言い聞かせる。
たとえ娘の実の父親だとしても、そんな男性と親しくするのは間違っている。
咲凪にも、そんなことを教えたくはない。
だから、彼を避ける日々が続く。
その間咲良は、咲凪に彼のことを忘れてほしくて、夏木とともに過ごす時間が増えた。
夏木は何も言わずにそれに付き合ってくれて、咲凪もいつも通り夏木を受け入れる。
ずっとこんな平穏な日々が続けばいいのに。
このまま彼を忘れ、新しい家庭が築ければ。
そう願わない日はなかった。
「咲良」
こども園からの帰り道。
後ろから声をかけられた。
「ぱぱ」
咲凪が嬉しそうに駆け寄っていく。
やっぱり会いたかったのだろう。
その姿に胸を痛めながら、でもそれを表情には出せずに、まっすぐに彼を見つめる。
彼も、駆け寄ってきた咲凪の頭を撫でながら、咲良を見据える。
「……わかったよ」
何も言わないのに、彼は静かにそう言った。
「誰かが咲良を脅したんだね」
「……違う」
なんでそんなことがわかるの?
たすけて。
その言葉を飲み込んだ。
「言わなくてもわかるよ。そうじゃないと、咲良が僕を避ける理由がない」
「そんなの自意識過剰だよ」
彼を傷つける言葉は、咲良をも傷つける。
彼は微塵も傷ついた顔を見せずに微笑みかける。
「ごめんね。僕のせいだね」
なんでそんなことを言うんだろう。
いっそ咲良を責めてくれればいいのに。
そうすれば、嫌いになれるのに。
「ちゃんと終わらせてくるよ」
そう言って、彼は背を向けた。
「ぱぱ」
咲凪が慌てたように呼ぶ。
しかし、その声に彼が答えることはなかった。
「まま、ぱぱ……」
咲凪の瞳に映ったのは、彼の背中を見詰めながら涙を流す、母の姿だった。
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