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第八章 執着する呪いの話
第36話 もう一体の娶リ神
しおりを挟む碧真は息を呑む。
白目を剥いて立っている好下の口の中には、拳大の眼球が埋め込まれていた。
好下の口が瞬きするように開閉した後、口の中の一つ目が笑うように三日月型に細められる。
『ここまで辿り着けたことは褒めてやろう。間男』
しわがれた声と口調は、好下のものではなかった。
「娶リ神!?」
何故、好下の体の中にいるのか。天翔慈家の二人は、目取り神の体はどうしたのか。
疑問を口にする前に、碧真の右側頭部に痛みが走る。娶リ神が好下の体を操って一瞬で間合いをつめた後、碧真の頭を蹴り飛ばした。
うつ伏せに倒れた碧真は、痛みに顔を顰めながらも、攻撃に移ろうと銀柱を取り出す。銀柱を掴んだ右手の甲を、娶リ神が踏みつけた。痛みで落としてしまった銀柱が床の上を転がっていく。
『残念だったな。お前の力では、ワシには敵わん。少し大人しくしていろ。ワシも次の契約者を殺したくはない』
左袖の中に隠している銀柱を取り出そうとすると、ダンと音を立てて床が揺れた。碧真の左手にジワジワと痛みが広がる。娶リ神が床に転がっていた銀柱を拾い上げ、碧真の左手の甲に突き刺していた。
『大人しくしていろと言ったのが聞こえなかったのか?』
反抗的な目で睨みつける碧真が気に食わないのか、娶リ神はスッと目を細めた。
娶リ神は庭へ手を翳す。蝶を倒す為に地面に刺していた銀柱が浮き上がり、碧真の両脹脛と右手に一気に突き刺さる。碧真の喉の奥から、か細い呻き声が漏れた。
『お前の武器だから、しっかり返しておかなくてはな。手足を貫かれるなど、今まで味わったことがない痛みだろう? 新しい経験が出来てよかったな』
娶リ神は右手で碧真の髪の毛を鷲掴みにして、上を向かせる。底意地の悪い目が、碧真を見下ろしていた。
『神に祈ってみるか? そうすれば、救ってやらないこともないぞ?』
許しを乞う言葉を待つ娶リ神に向かって、碧真は口を開く。
「『藤蔓』」
碧真の左手に突き刺さった銀柱が光を放ち、回廊の床が大きく揺れる。
娶リ神が危険を察知する前に、銀柱から出現した緑色の蔓によって、好下の体は回廊の屋根裏まで押し上げられた。
『チィッ!!』
逃げようとする娶リ神に、蔓が容赦無く絡みついていく。抵抗したことで、全身を覆われるのは防げたが、好下の胴の下半分と右手と左足は蔓の中に飲み込まれていた。
『クソ!! 小癪な真似を!!』
娶リ神が暴れるが、簡単には逃げ出せないようだ。
碧真は床の上から左手を持ち上げる。藤蔓を発動した際の振動によって傷口が広がったことで、幸いにも術を邪魔することなく、刺さっていた銀柱から手を外せた。
自由になった左手で、右手や脹脛に刺さった銀柱を引き抜く。痛みはあるものの、問題なく手足は動いた。
碧真は立ち上がり、コートの内ポケットから銀柱を取り出して両手に四本ずつ構える。
「生憎だが、銀柱で体を刺された経験なんて腐る程あるんだよ」
叔父からは虐待の道具として。同じ学校だった一族の人間達からは、いじめの道具として。碧真の体には、銀柱が刺さった傷が数多く刻まれている。
「何処に刺されば酷く痛むか、身をもって知っている」
碧真は右手に構えていた銀柱四本を投げる。藤蔓に捕らえられていた娶リ神は、なんとか体を動かしてギリギリで避けた。
『グギィッ!?』
娶リ神がみっともない悲鳴を漏らす。碧真は娶リ神が避ける事を見越して、左手に構えていた銀柱を続けて投げていた。
好下の体の両肩と左手と右足に、銀柱が深く突き刺さった。娶リ神と好下の体が痛覚を共有していると分かり、碧真は黒い笑みを浮かべる。
「刺されるだけなら、まだ耐えられる。だが、爆発術式を使われたら」
碧真は指を鳴らす。青い光が煌めき、銀柱に仕込んだ爆発術式が発動する。爆発音と肉が焼ける匂いが広がり、娶リ神の絶叫が響いた。
「内側から何かに皮膚を突き破られたと思うよなあ? 意識が一瞬飛んで、戻った後には痛みで頭がおかしくなりそうで。痛みを抑えたくて手で触ったら、グチャグチャの皮膚が剥がれ落ちて血が噴き出す。処置をしても、ジクジクとした痛みが長く続いて苦しむんだ」
碧真も過去に味わったことがある痛みだ。
中学生の頃。同じ学校にいた一族の人間が、銀柱を投げる練習の的として碧真を使った。うまく刺さらない腹いせに数人掛かりで地面に押さえつけられ、背中に銀柱を突き立てられた。その上、爆発術式まで受けた。
咄嗟に顕現した加護の巳が銀柱に巻きついて爆発の威力を抑えたが、火傷は酷く、完治まで時間が掛かった。
あいつらは肉が焼ける匂いに顔を顰めても、自分のやった事を何一つ省みはしなかった。
碧真は銀柱を地面に突き刺し、もう一度、藤蔓を発動させる。娶リ神は球体状の蔓の檻に完全に閉じ込められた。
爆発術式を発動させて壊してやりたいが、娶リ神に通用するのか分からない。娶リ神に効かずに、藤蔓の術だけ壊れる可能性もある。それに、万が一娶リ神に有効だとしたら、縁が繋がっている日和が道連れにされる可能性もあった。
碧真が今やるべきことは、日和を連れて娶リ神から離れ、天翔慈家の二人と合流することだ。
碧真は日和に近づき、体を抱き起こす。
「日和」
名前を呼んでも、日和は下を向いたまま反応しない。頬に手を添え、上を向かせる。鳶色の瞳は何も捉えず、ガラス玉のような空虚さだった。
「日和」
無駄だと分かっていても、名前を口にする。惨めな程に声が震えた。
神によって壊された精神を戻すことが出来るのか。一生壊れたままかもしれないと、最悪の考えが心をジワジワと蝕む。
(天翔慈なら、何か方法を知っている筈だ。きっと、まだ取り戻せる)
僅かな希望に縋り、碧真は日和を抱え上げて歩き出す。
碧真の頭上で、獣の咆哮に似た声が上がる。
顔を上げると、隙間なく覆われていた筈の球体状の蔓が裂けているのが見えた。裂け目から覗く一つ目が、憎悪の目で碧真を見下ろす。
『次の契約者だからと殺さないでやっていたが、もういい。お前は死ね』
視界に鈍色の光が現れ、碧真は咄嗟に後ろへ下がる。右太腿の皮膚が掠り、ジワリと血が滲んだ。
藤蔓の中から、黒い物体がズルリと落ちてくる。
拳大の大きな目玉に大きく裂けた口、上半身が赤ん坊の形で下半身は蜘蛛の脚をつけた化け物。その目に映る碧真への憎悪で、娶リ神の本体なのだと分かった。
娶リ神が、日和へ向けて手を翳す。娶リ神の体から伸びた黒い手が、日和の体を乱暴に掴んだ。碧真は日和を抱き込んで守ろうとするが、黒い手の力の方が強く、二人の体は娶リ神の元へ一気に引っ張られた。
娶リ神の本体が、小さな拳で碧真の頭を殴りつける。岩に頭を打ち付けたような強い痛みに、意識が飛びそうになるのを何とか堪えた。
床の上に倒れた碧真の腕の中から、娶リ神が日和を奪い取ろうとする。碧真は日和を更に強く抱きしめて、奪われないように抵抗した。
『女を離せ』
娶リ神は再び碧真の頭を殴る。反撃しようにも、碧真が手を離してしまえば日和が奪われてしまう。
娶リ神は苛立ったように何度も碧真の体を殴った。一方的に殴る事に気分が良くなったのか、娶リ神の口から笑い声が漏れた。数回殴った後、娶リ神は溜め息を吐く。
『飽きたな。さっさと終わりにして、契約者に女を捧げるとするか』
空中に巨大な包丁が出現し、碧真の頭部を目がけて振り下ろされた。
金属が弾き合う甲高い音が辺りに響き、ドンと大きな音を立てて床が揺れる。
目を開けると、弾き飛ばされて折れた包丁が、床に深々と突き刺さっていた。
「撃ち抜け。十蔵」
金色の線が宙を走り、娶リ神の体を貫く。娶リ神は吹き飛ばされて、回廊から落ちて中庭の方へ倒れた。
「ツンデレ君! 無事か!?」
碧真が日和を抱えたまま上体を起こすと、篤那が駆け寄ってくるのが見えた。
庭から柵を飛び越えて回廊の床の上に立った篤那は、碧真の腕の中にいる日和を見て眉を寄せた。
「神気を無理やり送り込んだのか」
「天翔慈。日和を元に戻せないか!?」
篤那は険しい表情を浮かべたまま屈み、手に持っていた短刀を鞘から引き抜いた。
「俐都が縁切刀を取り返してくれた。使ってみよう」
篤那が縁切刀を振るう。刃が何かに止められたように空中でピタリと止まり、篤那の顔が歪んだ。
『ガハハハ』
娶リ神が耳障りな笑い声を響かせながら、柵を乗り越えて再び回廊へと戻って来た。
『残念だったなあ。婚礼の儀式が終わった今、その女は完全に我が契約者の所有物だ。お前達がどう足掻いても無意味なんだよ。婚姻の儀式は、神であるワシの力で行われた誓約で、魂同士が結ばれる儀式。ワシの許可なく、二つの魂が分たれることは未来永劫ない!!』
碧真は歯軋りをして、娶リ神を睨みつける。娶リ神は優越感に酔いながら目を細めた。
『女を現へ無理やり連れ出して契約者と引き離せば、魂ごと消滅するぞ? 女を諦め、縁切刀を置いて、ワシの神界から去れ。ああ。女は数週間か数ヶ月したら、お前にくれてやろう。使い古されてボロボロになった女でもよければな』
「貴様っ!」
『喚くな、間男。壊れた程度で済ますか、女を永久に失うか。どちらがいい?』
碧真の顔が歪む。
愉快そうに笑う娶リ神の頭上で、藤蔓の檻が僅かに揺れた。
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