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第八章 執着する呪いの話
第29話 憲之烝と目取り神
しおりを挟む和葉と出会った時の心が震えた感覚を、今でも覚えている。
若く瑞々しい肌と美しさ。淑やかで、男を立ててくれそうな気立てのいい女。
今までの自分の冴えない人生も、和葉を手に入れる事が出来たのなら、全て報われると思った。
憲之烝にとって、和葉は自分の人生を一変させてくれる運命の相手だった。
当時は家同士の結婚が当たり前。
清隆が権力を使って和葉を奪ったのは腹立たしいが、どうしようもない。
真に愛し合う自分と和葉が結ばれない世を憎み、呪った。
憲之烝は生まれてから一度も、人より優れた幸せを手に入れたことは無い。
欲しいモノは、全て他の誰かの手に渡っていく。自分の元へ来るのは、幸運な奴らが食い散らかした残飯の如き粗末な物。
その残飯を地べたを這いつくばりながら舐め取って、不味くて重たい砂利を腹に抱えて「幸せです」と言える程、めでたい頭はしていない。
愛する女を清隆の魔の手から救い出す為に目取り神に縋ったが、願いが叶えられる事はなかった。
神にも裏切られたのだと、憲之烝は目取り神にも恨みを抱いた。
(だから、壊してやったんだ。目取り神を)
目取り神の神社を訪れた日。
願いを叶えない目取り神への怒りから、憲之烝は社を壊そうとした。人間の頭部程ある大きさの岩を持ち上げた時、近づいてくる足音が聞こえた。
目撃されては面倒な事になると、憲之烝は参道脇の木の影に隠れる。
神社を訪れたのは、上等な着物を身に纏った金持ちの年配の男と若い男。憲之烝も知っている裕福な酒屋の大旦那と奉公人だった。
奉公人の男が、大旦那を気遣いながら歩く。杖をついて歩く大旦那の右目には包帯が巻かれている。目の病に罹ったのかと不憫に思ったが、大旦那の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「目取り神様。ありがとうございました。おかげで、孫の命は助かりました。本当に、ありがとうございます」
目取り神に願いを叶えてもらったのか、大旦那は幸せそうに礼を伝えていた。
憲之烝は参拝を終えて帰る二人の後をつけた。
「大旦那様。しっかりと、私の腕を掴んでいて下さい」
奉公人は献身的に主人を支えようとする。
石段を降りる二人の背中を、憲之烝は背後から思い切り押した。
滑落音と骨が折れる音が、周囲に重く響く。
地面に赤い血が流れていく。何が起こったかわからないまま死んだ二人を、憲之烝は無表情で見下ろした。
憲之烝は石段を下りて、二人の懐を探る。
大旦那は、金目の物を多く持っていた。ほんの僅かな金だけを奪い、その場を後にする。
夕刻。帰りが遅い二人を探しに来た他の奉公人達によって、遺体が発見された。
高価な物が盗られていない事からも、二人は階段から足を滑らせて事故死したのだと片づけられた。
目取り神に贔屓された大旦那に対する恨みの感情がスッと晴れる。「ざまあみろ」と目取り神を嘲笑った。
それからも、憲之烝は目取り神の神社を訪れ、参拝から帰る者達を石段から突き落とし続けた。
次々に起こる人死によって、神社に悪い噂が立つ。
『目取り神の神社に行けば、帰り道で命を落とす』
『神が怒っている』
『近づいてはならない』
神の怒りを鎮める為の神事が行われたが、何もしていない目取り神には効果がない。神事の後も被害が後を絶たない事から、目取り神の神社を訪れる者はいなくなった。
寂れていく神社を見て、憲之烝は嘲笑う。
自分の願いを叶えない神など、このまま朽ち果てていけばいい。
目取り神への復讐はひとまずこれでいいだろうと踵を返した時、神社に参拝客が来るのが見えた。
久しぶりの獲物だと、憲之烝は木の影に身を隠してほそく笑む。
参拝客の老婆には見覚えがあった。痩せ細っているが、以前殺した酒屋の大旦那の妻だと分かる。
不気味な神社を見回した後、老婆は社に握り飯を供える。老婆は地面に座ると、両手を合わせて熱心に祈り始めた。
「目取り神様。人間に対して怒りがあるのなら、この婆の身を差し出します。だから、どうか元の優しい神様にお戻りください」
老婆は覚悟を決めて待つが、目取り神は応えない。自分の想いは届かなかったと、老婆の頬に涙が伝う。老婆は懐から取り出した手拭いで涙を拭いながら立ち上がり、踵を返した。
鳥居を出た老婆を、憲之烝が追う。
いつものように背中を押してしまおうと勢いをつけて手を伸ばした時、急に老婆が屈んだ。天地がひっくり返る。落としてしまった手拭いを拾い上げようとした老婆の驚いた顔がよく見えた。
憲之烝の視界がグルグル回る。何が起きているかわからないまま地面に倒れた。
憲之烝の目は何も映さない。真っ暗闇の中、痛みと重さで体がうまく動かない。老婆が近づき、何か叫びながら去っていく足音が聞こえた。
『マンマ』
『マンマ』
小さな童の声が迫り、憲之烝の左右の頬に鋭い痛みが走った。何かが、憲之烝に噛みついていた。喰われそうになっている事に気づいた憲之烝の心を支配したのは、恐怖ではなく、怒りだった。
体に残っている力を使って、憲之烝は自分に噛み付いている物に齧り付く。
何かを噛んだまま力を込めて首を反らせば、ブチリブチリと噛み千切れた。憲之烝を喰おうとしたモノが耳障りな絶叫を上げる。
何かの血が、憲之烝の喉に注がれる。
今まで味わった事のない程の甘露によって、体の痛みが消えていく。憲之烝は夢中で噛みちぎった物を咀嚼する。見えなかった目が見えるようになり、両手が動くようになった。
両手で掴んでいる物を見下ろす。上半身は赤ん坊の形で、下半身は虫の脚を持った黒くて不気味な化け物が、ビクビクと痙攣していた。
憲之烝は、残っていたそれを口へ運ぶ。
噛みつき、食い千切って咀嚼する。次第に体から力が湧き上がった。
『マンマ』
『マンマ』
憲之烝の口から、先程の化け物達の声が上がる。
今なら、神すらも食べてしまえそうな気がした。
憲之烝は折れた手足を曲げて、四つん這いで石段を登る。
鳥居を潜ろうとした時、憲之烝を阻む力が働く。体に痛みが走ったが、溢れる力のままに押し切った。
鳥居の中に、臓物に似た見た目の赤紫色の何かがいる。体の真ん中にある窪みには、人間の眼球が集められていた。
目の前にいる不気味な化け物が目取り神なのだと理解して、憲之烝はニタリと嗤った。
目取り神が威嚇するように、赤紫色の体を大きく動かす。
憲之烝は怯む事なく、口を大きく開けて目取り神に飛びかかった。
目取り神に噛みつき、ブヨリと柔らかな肉を食い破る。目取り神の体液の熱が喉を焼いた。
暴れる目取り神に体を振り回されながら、憲之烝は喰らい続ける。
目取り神の体液が喉や肌を焼いても痛みなど感じない程に、極上の神の味に夢中になっていた。
『マンマ、オイシイ』
『マンマ、モット』
憲之烝の口から、先程食べた黒い化け物達の悦びの声が上がる。
憲之烝は、目取り神の体を全て平らげた。
満足して腹を撫でていると、内側から押された腹の肉が前に突き出る。目取り神の触手によって、憲之烝の腹が引き裂かれた。
今度は目取り神が、憲之烝を喰らおうとしていた。
互いが互いを喰らい合う戦いが三日三晩行われた後、残ったのは目取り神の体だった。
しかし、意識で勝ったのは憲之烝だった。
体は目取り神。思考は憲之烝。目取り神は変質して、別の存在へと変わった。
神の力を手に入れた憲之烝は、声を上げて笑う。
身体中から溢れる神の力は、陶酔する程に心地よかった。
夜の闇の中、憲之烝は頭上に浮かぶ月を見上げる。
『待っていろ。和葉。必ず、お前を手に入れてみせる!!』
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